サラダボウル | 今日ボクが見た風景Ⅲ  物置部屋

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高校生殺人罪で18歳男を起訴 浜名湖の遺体事件、実名を公表

 

静岡県湖西市の浜名湖で男子高校生(17)の遺体が見つかった事件で、静岡地検浜松支部は2日、殺人と傷害、監禁の罪でフィリピン国籍の無職男(18)を起訴した。改正少年法で起訴後の実名報道が可能な「特定少年」に当たり、氏名を公表した。

 起訴されたのは、グアルディアノ・マット・ジンロ被告。地検支部は氏名の公表理由を「改正少年法の趣旨および付帯決議の内容などを踏まえ、本件は重大事案であることなどから諸般の事情を考慮し公表することとした」と説明した。今後は公判前整理手続きを経て、裁判員裁判で審理される見通し。

 静岡家裁浜松支部は4月、刑事処分が相当と判断し、検察官送致(逆送)していた。

 

 

今回は被害者の名前は出さないのね

 

 

被害者は中国籍の 斉藤宇川 こと 宋宇川 さんです

 

外国籍の不良少年は増加しまくりです

 

 

 

 

 

「代々木公園のイラン人」はなぜ激減したか ビザ免除停止の陰に入管幹部の英断 「移民」と日本人の平成史②

 

平成初頭、不法滞在と犯罪という不名誉な行為ばかりが注目された人々がいた。中東から来たイラン人だ。東京の代々木公園や上野公園は彼らの姿で埋まり、変造テレホンカードや薬物の密売が横行した。彼らは日本政府の政策転換の結果、数年後には激減した。

「ジパング」を目指して

イラン人が日曜ごとに代々木公園に集まり始めたのは1990(平成2)年。92年には一日に約6千人が詰めかける日もあり、若い男ばかりがたむろする様子は当局から「蝟集(いしゅう)」と呼ばれた。「蝟」はハリネズミを意味し、その毛のように多く寄り集まる状態を表す。

日雇い仕事などの情報交換のほか、磁気情報を不正に改ざんした変造テレカが1枚数百円~千円程度で売られ、ハシシと呼ばれる大麻など薬物の密売、盗品の貴金属の転売など悪質なものもあった。

当時のイランは79年のイラン革命、翌80年から88年まで続いたイラン・イラク戦争で社会が混乱。ちまたに失業者があふれ多くの若者が国を出た。向かった先は欧米などのほか、当時、空前のバブル景気を謳歌し、黄金の国「ジパング」とさえ呼ばれた日本だった。

 

 

日本とイランの間では74年から、現在のトルコと同様、観光目的など短期滞在の査証(ビザ)免除措置が行われていた。航空券代さえ負担できれば、パスポート一つで来日。ピークの92年には、イランのスタジアムで日本行き航空券の抽選会が行われた。

そのころは難民認定申請ではなく、オーバーステイで不法滞在を続けるケースが多かった。日本人の側も「3K(きつい・汚い・危険)」職場を中心に、人手不足の中で現れた「外国人労働者」を、不法就労と知りながらも重宝がった。

水害後に「観光客」急増

イラン人が急増する少し前の80年代、南アジアの国バングラデシュでは、ガンジス川などの大河の氾濫や洪水が多発。成田空港の入国審査官は当時、水害の1週間ほど後から同国の「観光客」が急増することに気づいた。

イランと同様、バングラデシュとパキスタンも当時、わが国と短期滞在のビザ免除措置をとっていた。彼らは入国後に入管を訪れ、短期滞在の延長許可を求めたが、申請者は男ばかりで、ボストンバッグの中身は作業服。両手を見るとつめの間に土がたまっていた。「浅草やディズニーランドを観光した。これから沖縄や札幌を観光したい」と、判で押したように同じ申請理由を口にした。

 

 

入管OBは「バングラデシュ人とパキスタン人は、入管で何時間も居座るようなことが続いていた。ただ、イラン人の場合は申請すら来ず、オーバーステイで不法滞在していた。同じイスラム教徒でも国によって違いがあると思った」と振り返る。

「一時停止」が30年

イラン人の不法滞在者は1990年の764人から翌91年は約14倍の1万人超。ピークの92年は4万人を超えた。

この年は不法滞在の外国人が国内全体で約28万人を記録し、翌93年は約30万人で最多を更新。現在の約7万人などと比べても過去最も多い不法滞在者数だ。

一方で、政府は89年1月、バングラデシュとパキスタンとのビザ免除措置を一時的に停止した。イランについても91年、来日イラン人による刑法犯や不法就労の急増を受け、警察庁が外務省にビザ免除措置の一時停止を要請した。

 

翌92年4月には、イランとの友好関係を重視する政治的立場から懸念の声も出る中、一時停止が決定し、ビザの取得が義務づけられた。

この結果、イラン人の不法滞在者は92年の約4万人から翌年は約2万8千人に激減。2001年には約4千人と、ピークの10分の1まで減った。

代々木公園と並んでイラン人が「蝟集」した上野公園。上野動物園に近い地下駐車場の入り口に、「立入禁止」と書かれた古びた看板が残る。

看板の下半分は、何かを封印するように別のプレートで覆われており、そこにはイランの言葉、ペルシャ語で「立入禁止」と書かれている。

現在、わが国は世界71カ国・地域に対して短期滞在のビザ免除措置を行っているが、一時停止が行われたのは、これら3国のみ。激変する国際情勢の中でも、3国との関係が特に悪化してはいない。

一時停止は、いずれも30年後の現在も続いている。これらの政策転換が行われた陰には、外務省から入管幹部となり、友好関係を重視する外務省との調整に尽力したある人物の英断があったという。

 

 

 

同盟国に対して結構なコメント

長きに渡ってアメリカに根付いている本心と捉えました。

ペドの痴呆爺さんには見えない現実

移民増えて国民こんなんなってんねんけど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが 人種のサラダボウル アメリカ

 

移民なんてまっぴらお断りだね。

 

 

 

デーブ・スペクター氏、バイデン大統領の

「日本は外国人嫌い」発言に私見「リップサービスをしてるんですよ」

 

テレビプロデューサーのデーブ・スペクター氏が3日放送のTOKYO MX「バラいろダンディ」(月~金・午後9時)に生出演。バイデン米大統領が「日本は外国人嫌いで移民を望んでいない」などと発言したことについて、コメントした。

 「これには誤解もあって、日本は昔は確かに排他的だったけど、今は整理して入れる人を入れているんですけど。入国しやすくなってるし、永住権も取りやすくなってる」とまず話したデーブ氏。

 「しかも、今、マンパワー的に(外国人が)必要なんですね。ただ、この支援者の集まったこの集まりにアジア系の人も多いから、リップサービスを言っているんですよ。つまり、あなたたちアジア人のおかげでアメリカはこんなに良くなってるよって、リップサービスをしているんですよ」と説明すると、「他の国だったら、チャンスを与えてくれないのに、アメリカに来て良かったねってことを言おうとしたんですよ。それが誤解されるような大きな発言になってしまった。それはちょっと残念ですけどね」と続けていた。

 バイデン大統領は1日、「我々の経済が成長している理由の一つは移民を受け入れているからだ」とした上で、中国やロシアとともに日本やインドを名指しに。経済成長を阻害する要因として「外国人嫌い(xenophobic)だからだ。移民を望んでいない」などと発言した。

 

 

 

流石 アメリカの代弁者

 

 

 

毎日のようにテレビに登場し、ツイッタ―のタイムラインには彼一流のユニークなダジャレが次々に流れてくる。このように、私たち日本人にとって、最も身近なアメリカ人とも言えるデーブ・スペクター氏だが、その人物像については意外と知られていない。デーブ氏は「CIAのスパイ」だという噂がしばしば囁かれるが、こんな話が多少なりともリアリティを持つのも、彼がどれほど謎に包まれているかの証左と言えるだろう。一体、彼はどんな人物で、アメリカのメディアは彼をどのように伝えているのだろうか。

【ジョークの達人としてのデーブ・スペクター氏】
 このほど、ニューヨーク・タイムズ紙が掲載した記事は、デーブ氏は30年にわたり日本の騒々しいトークショーの世界に居座ってきた人物であると描写し、彼は「おそらく日本に住むアメリカ人で最も認識されている」と紹介している。

 同紙は、ワイドショーやCMへの出演、ハリウッドのセレブへのインタビューのほか、主に50万人のフォロワーを持つツイッタ―で披露される、おなじみのジョークもデーブ氏の多忙な生活の一部だとする。

 デーブ氏を特徴づける、この「ジョーク」については、早くも1980年代の終わり頃には彼の得意分野だと認知されている。来日の6年後の、1989年にロサンゼルス・タイムズ紙に掲載された記事には、「昼でも夜でも、どんなチャンネルに合わせても、そこにはデーブ氏がいる。流暢な日本語でジョークを飛ばして」という記述が見られる。

 2011年にニュースサイト”kotaku”に掲載された記事でも、一例として「個人情報が漏れる失礼なゲーム機→無礼ステーション」というデーブ氏のジョークを挙げ、日本語の音韻的観点からダジャレを解説している。

 母語ではない日本語で巧みにジョークを飛ばすデーブ氏のイメージは、アメリカでも強調されているようだ。

 また、この点に関して、”kotaku”が伝える日本人が持つアメリカ人のイメージについての記述も興味深い。記事は、日本では多くの人が英語とアメリカ文化を理解せず、そのため一般にアメリカ人は面白くないと思われていると指摘する。そして「アメリカン・ジョーク」というフレーズも、単に面白くないものとして使われると説明している。

【1984年当時の日本の外国人タレント事情】
 デーブ氏が最初に来日したのは1983年。米放送局のABCは若い脚本家だったデーブ氏をある番組のコーナーのプロデューサーとして東京に送った。ニューヨークタイムズ紙によると、はじめは数週間の滞在の予定だったというが、彼は期間を延長して「日本で見つけたクレイジーなTV番組から」面白いものを伝え続けさせるようABCを説得したそうだ。

 1984年に最初のテレビ出演を果たすと、すぐにオファーが相次いで届いた。当時、日本の外国人タレントといえば、英語教師かモルモン教の宣教師がほとんどで、デーブ氏の立ち回りは際立っていたそうだ。

 ロサンゼルス・タイムズは当時の状況をより詳しく伝えている。その頃、日本のテレビに出るアメリカ人はケント・デリカット氏、ケント・ギルバート氏、チャック・ウィルソン氏の3人しかおらず、デーブ氏は「日本人が理解できるのは私だけだった」と同紙に答えている。

 そうして外国人タレントとして一躍スターになったデーブ氏だが、1989年の時点では、アメリカに帰りたいと心境を明かしている。しかし、この時に帰国しなかったのは、日本で稼ぐことができる多額の収入が理由だったそうだ。

【デーブ氏の変化、日本で成功できた理由】
 同紙のインタビューでは、デーブ氏は個人的なレクチャーからも多額の収入を得ていたと明かしている。「極端に限られた教育しか与えられず、レクチャーする資格はなかった。でも誰が不満を言うんだ?」と悪びれる様子はない。もっともこの発言が国への郷愁から引き起こされた強がりなのか、当時の日米関係から意図的に強調されたコメントなのかは、現在からは知る由もないが、非常に興味深い記述ではないだろうか。

 日本の国際的な立ち位置の移り変わりを冷静に押さえた、最新のニューヨーク・タイムズ紙の記事では、多国籍のタレントが登場している日本で、デーブ氏は過ぎ去った過去の遺産のように見えるが、他方で他のタレントにはなし得ないステータスを打ち立てていると伝えている。

 「私は人生90%を日本で生きてきた」と語るデーブ氏は1989年当時とはだいぶ印象も異なっているように感じられる。同紙は日本で成功した彼の持つ力について、日本や、日本の持つ繊細さに対しリスペクトを持とうとする意欲から説明している。

 デーブ氏は記事の最後で、自分がどのように良い道筋を歩くかを知っており、だから日本人は自分にあらゆること、時には敏感な国内問題さえも話すことを許す、という認識を示した。曰く、「それは私の本物の業績だよ」ということだ。

 

 

 

 

募集してるんだねw

 

 

 

「独立」は慎重にやらないとダメなんだと思いますが、

アメリカの没落ぶりを見ると、案外その時期は近いかもしれない