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日本の教育は、一体何を望んでいるんだろう?

 

偏差値からは何を望んでいるのか見えてこない。

 

答えは、教科書に載っている範囲内で、現状維持で、全ては終了していて、それ以上のものは望んでもいない。

 

教科書を超えるものを望んでいないのが、イノベーションが生れてこない原因かも知れない。

 

生成AIは過去の資料に過ぎない。

 

そして生成AIは平気で嘘を言うと言われて、正しく答える方向に進化している。

 

生成AIは未来には無力と思われているけど。

しかし!

過去の知恵を再発見していくのが人の学習能力で、そして[成功例]は重要なキーワードで、過去の成功例は、まだまだ発見される可能性がある宝島の地図かも知れない。

 

もしかして!

学者の個人的な事情を知れば、まだまだ話を膨らませることはできるので、古い知識の[二次利用]ができるのかも知れない。

「赤色と青色を混ぜたら何色になりますか?」と生成AIに尋ねたら紫色になります。とのこと。

 

Aを膨らませて、Bも膨らませていると重なってCという科学反応を起こしている。

 

違う知識と関連付ける気はなくても。

 

成功例は話を盛って、膨らませることができるので、違う知識と重なり合っていく。

 

それだけでも良いのに。

一本足打法は未完成なので理解できない。

とりあえず!

話を完成させれば良い。

理解力は、その先を空想する空想力で創作力かもしれない。

 

小津安二郎の映画のように、映画を見てる人に、何を、どれだけ連想させることができるかが重要で、スピルバークの映画のように表現力は優れているけど完結して、終了していて、何度も見たいとは思はない。

 

日本の教育は、一体何を望んでいるんだろう?

 

東大にいけば成功なのか?

 

偏差値からは何を望んでいるのか見えてこない。

 

答えは、教科書に載っている範囲内で、現状維持で、全ては終了していて、それ以上のものは望んでいない。

 

教科書を超えるもの。

というか!

その先の未来は、話を盛っていれば良い。

連想ゲームでも良いのかも知れない。

 

一人伝言ゲームをしてると、発想の転換を意識しなくても、まったく!別のものになってしまう。

 

感想文を書かせると「この子は面白い!」という子は見つかって。

 

イノベーションは、テストではなく記述式に変えれば良いだけかも知れない。

他人は鏡で自分が映っている。

 

Aという人間には、自分は、こういう人間と映って。

Bという人間には、違う自分が映っている。

 

人によって違う自分が映っている。

 

Aという人間の鏡に映る自分を感じて「ここが限界点だと思っているな。」

 

自分は、Aという人間から、どう評価されているのか、その限界点を感じる。

 

それは能力というよりも偏見に近いもので。

しかし!

それで良いのかも知れない。

 

王貞治は日本刀を振っている。

変な練習をしていると、偶然!考えたこともないものが生れている。

そして!

それをヒントに話を膨らませると、面白い話が、いくつも出来上がっていく。

 

正しく見てると・・・。

何も気付かないけど。

だけど!

成功例は過大評価することで、いろんんなものが見えてくる。

 

限界点を上げることができる。

 

成功例からは、話を盛ってると、いろんな発見や気付きがあって、元々価値のないものからでも、新しく価値は生れている。

 

それは!

元々自分自身の中にあった価値観が引っ張り出されてくる。

 

成功例には「もしかして・・・。」という予感を伴っているので・・・感じる。

 

ありふれた知識も、ヒントに思えてくる。

 

成功例は「なにかあるのか?」と、どうしても過大評価してしまうので。

話を盛ってしまうので。

話を盛っているうちに、いろんな気付きが生れてくる。

 

日本刀と田淵幸一の言う「インサイドアウト」は、話しを膨らましているうちに、両者は重なり合って科学反応を起こしている。

 

価値は、もともと大した意味のないものからも生れて「捨てるものは、ないなぁ。」と感じる。

 

偏見は、勝手な見方をしたり、結果や現象だけで人を評価している。

 

偏見は、もともと評価する気もなく、評価の限界点が低いので、何も気付かないけど・・・。

 

成功例は違う

 

人を先入観で見ているから、そんな風に見える。

 

それなら違う色眼鏡で見れば良い。

 

同情心のある人は、他人の欠点でも好意的に解釈してくれるけど。

同情心のない人は、他人の欠点ばかり見て批判している。

 

欠点は、同情心の有る無いで、随分違った見方をされてしまう。

というか!

変なことをしていて、偶然!考えたこともないものが生れている。

 

欠点からもイノベーションは生れて、やはり「捨てるものは、ないなぁ。」と思う

 

日本の教育には、それが無い。

 

正しく評価できるかどうかではなく。

 

同情心という感情が理解力やイノベーション能力の有る無しを測る“ものさし”に思えてくる。

 

それなら同情心の有る無しで解力を判断すれば良い。

 

能力というよりも同情心という感情なら。

そんな人は、いくらでもいる。

 

日本の教育は教科書が成長の限界点になっている。

 

欠点からもイノベーションは生れてくるのに。

 

同情心で限界点を超えていくことはできるのかも知れない。

 

同情心は、他人が悲しんでいると悲しくなって共鳴してしまう。

 

それは群れる動物のDNAかも知れない。

 

一匹が警戒音を発すると群れは、アッという間に巣穴に逃げ込んでしまう。

しかし!

単独行動をする動物はテリトリーを作って、同じ種でも争いになってしまう。

 

侵入者が強いと、恐怖心が強く逃げ出してしまうけど、逆に「コイツは弱い。」と感じると逃げ出すまで攻撃をしてくる。

 

弱者をいじめる同情心の無さは、B型の様な単独行動をする動物のDNAに起因している。

 

日本人にはA型が多く創造力に欠けるけど。

A型の集団志向性は同情心に、つながって、そんな人は大勢いるので、それだけ欠点からもイノベーションが生れる可能性はあるのかも知れない。

 

そのためにも「教科書は個人の仮説だ。」と教えて、変化を予感させれば、日本人は慌てて、ついていくので。

「教科書は正しい。」と限界点を感じさせない方が良いのかも知れない。

高校生の頃、すぐにギターが弾けるようになる子もいれば、投げ出してしまう子もいて、一つの原因は母親にもあって、母親から「この子は何もできない子だ。」と落胆した表情で見られると、母親の、そんな表情が刷り込まれてしまう。

ダメな自分が思い浮かんで、イヤになって投げ出してしまう。

 

木村拓哉は器用な役者とは思えないけど、癖のある言い方で押し通している。

 

個性的な役者は、むしろ不器用なのかも知れない。ダメな自分が思い浮かばないので押し通している。

 

母親から期待されたことのない子は、人と目が合うと、どうしても見下されているように感じて、そんな低い立ち位置からの物言いは緊張して、余計に“力んで”しまう。

 

セリフは要点を強調すれば、セリフの前後は想像できる。

それでも!

役者は漏れなく伝えようとして一本調子な物言いになってしまう。

というか!

次に発する言葉が予測できるような言い方をすれば良いのかも知れない。

 

小津安二郎の『東京物語』での役者の明るい表情は、話し相手への期待感を想像させる。

自分のことを好ましく思ってくれる人とは話しやすく、言葉は、よどみなく出てくる。

 

それとは反対に『不思議の国』には、他人には知られたくない秘密があるのかも知れない。

 

アランチューリングは親友との手紙を暗号で、やり取りしている。

 

彼は同性愛者で、そこは秘密にしなければいけない。

 

暗号化は隠すためだけど、しかし気持ちを伝えることの方が重要で。

友人には気持ちを伝えたいけど、しかし!他人には知られたくないという気持ちで文章を書いている。

 

彼は同性愛者として、どうすれば良いのか。

永遠に見つからない[答え]を探している。

 

小津安二郎の『東京物語』は言葉数が少なく、想像を誘っている。

というか!

映画を見てる人が、俳優の次に発する言葉を想像するための「   」空欄が効果的なのかも知れない。

 

水谷豊は器用な役者ではなく癖のある話し方をしている。

 

全てを表現することよりも、なんとなく、話の前後を想像させることでドラマに誘い込んでいる。

 

セリフは余韻を残して会話に誘い込んでいる。

 

想像が膨らむと「   」空欄ができると、それを言葉で埋めないといけない。

 

高校生の頃、すぐにギターが弾けるようになる子もいれば、投げ出してしまう子もいて、一つの原因は母親にもあって。

母親から否定されると。

「ダメな自分」というイメージが思い浮かんで、イヤになって投げ出してしまう。

 

偏差値で低い評価をされて「頭の悪い子。」というイメージが刷り込まれると、イヤになって投げ出してしまって、思考が続かない子になってしまう。

 

俳優は器用に表現することよりも、話の前後を想像させることでドラマに誘い込んでいる。

 

余韻を残して会話に誘い込んでいる。

 

想像が膨らむと「   」余白ができて。

 

「古池」や「蛙」には、それ以上の意味なんかないのに空想させる。

 

芭蕉は「きっと分かってくれる。」と読者を疑ってはいない。「信じてる。」という思いで読者の自尊心を、くすぐると。

その通り!

この句に最高の評価を与えて芭蕉の期待に答えている。

 

空想すると「   」空欄が現れて、それをピッタリと埋めてくれる言葉がみつかると、それが[ひらめき]かも知れない。

 

そんな言葉は類語で検索すれば全ての言葉を閲覧できる。

生成AIの進化で、求める記事が記載されている書物までピンポイントで探すこともできる。

 

川端康成や太宰治のように東大出で、語彙が豊かでないと書けなかった文章も、AIの普及で最高の言語学者を助手として使える。

 

空想することで「   」余白が現れて、それをピッタリと埋めてくれる言葉も、知識も、生成AIが見せてくれるので、空想力だけでも[ひらめき]は得られるのかも知れない。

 

必要なのはアランチューリングやベートーヴェンのような「   」空欄かも知れない。