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『なんでも鑑定団』で絵画の鑑定家が「かつては写実的な絵が高く評価されていたけど、カメラが発明されて写実的な絵も画家も評価は低下した。」とのこと。

 

カメラが発明されて写実的な絵を描く能力に希少価値は無くなっている。

 

コンピューターや生成AIが進化し普及して、記憶力や計算力そして模範解答を即答する能力は、人を凌駕して、もう重要ではなくなっている。

 

日本の数学はマニュアル化して、生徒は、もう数式の意味が分からなくなっている。

数字に意味付けを、しなくなって、理解が浅くなっている。

 

エジソン少年は粘土をイメージしたために「1+1=1」という答えを導き出している。

エジソン少年は「1」は粘土と意味付けている。

迷うこともなく「1+1=2」と答える子は、マニュアルを覚えただけの子で、浅い理解で納得している。

 

1」が何なのか意味付けをしていない。

1」は何なのか気にもしていない。

 

1+1=1」と「1+1=2」と答える子の、どっちに可能性はあるんだろう?

 

どっちが、深い理解をしているんだろう?

 

一つ一つの数字に意味付けを求めた時、答えの見方や評価は変わるのかも知れない。

 

一本足打法は周辺にある知識を盛って、話を膨らましていると、いろんな気付きに、つながっている。

知識の、一つ一つに意味付けをしていると、思ってもみない気付きに繋がっている。

 

そして、それは[プランB]で、もう一本足打法ではなくなっている。

 

新しい発見は、古い知識の二次利用からも生れてくる。

 

コンピューターや生成AIが進化し普及して、AIは記憶力や計算力そして模範解答を即答する能力では、人を凌駕して、もう重要ではなくなっている。

むしろAIを使って、古い知識からヒントを見出して、未来を創造する子が求まられていくのかも知れない。

 

教室にタブレット端末があって、生成AIが使える環境は、そんな知識を二次利用する能力を求められ、それはカメラが発明されたので写実的な絵を描く子ではなく、[プランB]で「1+1=1」をイメージしている子で、そんな常識を書き換える子がヒーローになっていく。

今では写実画を描く画家よりも、ピカソの方が評価は高い。

もしかして!

もう、そんな時代に、なっているのかも知れない。

 

 

「イタリアのバス停には時刻表が無いのは本当ですか?」と生成AIに尋ねると。

 

イタリアのバス停には時刻表がないことが多いですが、その理由や対処法についてお話しましょう!

イタリアのバス停では、日本のようにバスの時刻表が貼っていることはあまりありません。バスの到着状況が分かる電子掲示板が設置されている場所も一部を除いて、10~15分ぐらい待てばバスが来るだろうという感覚で待つ辛抱強さが必要です1

 

やはり日本のように、バスが時刻表通り来るのを期待することは無理みたい。

 

日本の教育では模範解答しか評価されないけど、日本は、ちゃんと管理社会が機能しているから、決められた通りできることを求めるのかも知れない。

もちろん!

バスが時刻表通り来るのは、日本の優れた長所だけど。

 

しかし!

日本人は「空気を読みなさい。」と言って、歩調を合わせることを求めて「どうして団体行動がとれないんだ。」と指導の対象になってしまう。

 

日本人は曲がったキュウリを規格外として、はじいて、規格外を認めず、日本からイノベーションが生れなくなくなってしまった。

 

日本人は常識人が多く、それは間違いなく優れた長所だけど、長所で技術革新に出遅れてしまった。

 

日本の教室でも、生徒は模範解答の方しか向いていないので、イノベーションが生れてこなくなってしまった。

 

教科書を書き換える行為は、まったく評価されない。

 

正解は現状維持で。

むしろ変な行為から、偶然!考えもしないものが生れている。

 

むしろ、教科書は何度も何度も書き換えられた歴史で、非常識な考えは、

新しい常識に生れ変わっている。

 

そんな経緯に大きなヒントがあるのかも知れない。

 

非常識な考えが、なぜか常識に書き換えられていく経緯。

それは!

[✕]がひっくり返って[〇]になっている。

 

正解という、一つしかない価値は、[✕]を[〇]に変えて、[〇]の領域を増やしている。

 

新しい価値は、もともと変なものや非常識で、価値のないものからも生れている。

 

教科書で、そんな経緯を教えれば良いのかも知れない。

 

アメリカでは自閉症児から理数系で才能を発揮する生徒を育てた実績があるらしい。

むしろ!

イノベーションは空想や仮説のようなものから。

実体のないものから生れている。

 

自閉症児の99%は期待できないのかもしれないけど、アメリカの大学では1%を見つけ出す成功体験があって、1%の子を見つけ出すことができているけど、日本では、その1%の子は、そのまま落ちこぼれている。

 

価値のないものからも価値は生れて結果的に「捨てるものはないなぁ。」という印象かも知れないけど。

しかし!

そんな成功体験が、まだ無い時代に、どうして自閉症児を見て「もしかして!」と可能性を感じたんだろう?

 

自閉症は欠点にしか見えないだろうに、一体どこに可能性を感じたんだろう?

 

元々、欧米ではバスは定刻通り運行できないし、そんな規格外な子は、いくらでもいて、気にしても仕方ないのかも知れない。

規格外の子は、ふつうにいるのかも知れない。

 

日本人は常識人が多く、管理社会が機能するという長所で、規格外な子を育てる、教科書を書き換えるイノベーション能力を育てることができないのかも知れない。

やがて!

生成AIが進化して、正解を答える能力は、人を凌駕して、むしろ生成AIが苦手な、常識を書き換える能力が評価されると、日本人は、それに、ついていくので。

高度に進化した管理社会に適応できる日本人の長所が際立っていく。

 

管理社会が機能する長所は長所として、規格外を否定してしまうイノベーション能力の弱さは、生成AIの普及で、生成AIにはできない常識外れで変なものから価値を見出す能力を求められて、やがて問題点も解消していくのかも知れない。

ますます!

自閉症児のような欠点からも才能が生れる時代になって、生成AIで最も変わるのは日本の教育かも知れない。

 

 

日本では「1+1=1」は「間違っている。」と「✕」をつけられてゴミのように捨てられてしまう。

 

王貞治も変な練習をしている。

 

『不思議の国』というナンセンスなSFも「科学ではない。」と捨ててしまえば廃棄物でしかない。

 

アメリカには自閉症児で理数系で才能を発揮する子がいるらしいけど。

 

どれもこれも見捨てられてしまう。

 

たしかに変なものには価値はなくて。

捨てればゴミだけど

しかし!

価値を感じれば宝島の地図になっている。

 

江戸時代には欧米にも負けない高等数学があったらしい。

 

江戸時代の数学は問題も答えも自分で作っている。

 

江戸時代には入試もなければ、テストもない。

 

むしろ入試やテストをすることで「1+1=1」には[✕]がついてゴミのように捨てられてしまう。

 

模範解答しか認めない入試やテストがイノベーションが生れてこない原因かも知れない。

 

計算力や記憶力そして模範解答を速答する能力はAIに丸投げすれば良い。

しかし!

江戸時代には、そのコンピューターがない。

 

江戸時代に高等数学を趣味で解いていた旦那衆は、ソロバンの習得も必須で、マニュアル通り答えて、正解にしか価値のない数学を教え込まれて、旦那衆は計算能力も優れているはず。

 

ただ江戸時代には入試やテストはなく、むしろ問題も答えも自分で作っているので意味が分からないということはない。

 

むしろバランスがとれている。

 

ルイスキャロルは数学者で、やはり!彼は小児性愛者だったのかも知れない。

彼は、そんな現実を忘れたくて、空想の世界で長い時間を過ごしている。

 

彼の思考回路は、まず空想する脳で考えているのかも知れない。

 

彼には、間違った性癖があって。

 

ナンセンスな『不思議の国』は、現実を忘れるために必要だったのかも知れない。

 

現実逃避している。

 

AIは理系には強くても、実体の無い空想のような文系に弱い。

 

『不思議の国』は科学ではない。

ルイスキャロルには個人的な事情があって、SFのような空想の世界で長い時間を過ごしている。

 

『不思議の国』は、科学と非科学の境界線を超えている。

 

ルイスキャロルは間違った性癖で、境界線を超えている。

 

[1+1=1]は[プランB]で、科学の限界を超えている。

 

しかし、そんな子は空想力の優れた子かも知れない。

 

江戸時代にはテストなどないことで、空想で考えたのかも知れない。

 

江戸時代の趣味人は、現代の学生よりも優秀なのは、自由に解放された発想をしていたからかも知れない。

 

江戸時代の数学はSFのような、文系数学なのかも知れない。

 

旦那衆は、趣味で数学を空想している。

 

AIには非科学的な空想は無理で、すぐに限界点に達してまう。

 

日本人は科学者というよりもエッセイストで、理系というよりも文系で、数学を理解するのに向いているのかも知れない。

 

数学は、入試から外した方が良いのかも知れない。

 

日本人は、天才達の豊かな感情に感化されてしまう。

 

群れる動物は一匹が警戒音を発すると、群れは、次の一瞬、巣穴に逃げ込んでしまう。

 

感情は理性よりも、早く、伝わって、理性よりも影響されやすい。

 

やはり、入試からは数学を外した方が良い。

1+1=1」はゴミのように捨てられてしまう。

 

AIのような、計算だけの数学は、すぐに理解の限界点に達してしまう。

 

数学者には、まず個人的な事情から、空想があって、そんな『不思議の国』は理解ではなく、体験すれば良いのかも知れない。

 

文系の日本人には、もっと効果的な教え方があって。

 

江戸時代には入試もテストもなく、旦那衆が趣味で解いている高等数学には「1+1=1」も有り得て。

そんな様子を想像すれば良いのかも知れない。