エイジのブログ -19ページ目

エイジのブログ

ブログの説明を入力します。

映画の脚本家は不幸なら不幸な程、面白い本が書けるという。

 

チャップリンは不幸な人生から、笑わない・笑えない人間になってしまった。

喜劇役者は、不幸な体験から笑いを忘れてしまった人間が多い。

 

オードリーヘップバーンは戦時中の貧しい暮らしから生ごみを食べて、ひどい下痢を起こしたことがあるらしい。

彼女の喜怒哀楽の演技は、どこか冷めているのは、そんな負の体験からくるのかもしれない。

 

1+1=1」と、そんな間違った答えに「この子は自分が思うよりも賢い子かもしれない。」と思える。それは、どんな体験をすれば、そう思えるんだろう?

 

エジソン少年は「1+1=1」と答えている。

しかし!

そんな子からイノベーションは生まれている。

そして!

自閉症児のなかに理数系で才能を発揮する子がいるという。

 

驚くのは!

自閉症児が有名大学で教育を受けている。

 

自閉症児の入学を認めたアメリカの有名大学は、自閉症という学習障害を見て。

負の思考力を見て。

「どうして可能性を感じたんだろう?」

「どこに可能性を感じたんだろう?」

 

学習障害児を見て「この子は自分が思うよりも賢い子かもしれない。」

 

どうして、そんな風に思えるんだろう?

どんな体験をすれば、そう思えるんだろう?

 

それらは規格外で、今まで「無価値」と思われてスルーしていたもので。

「捨てるものはないなぁ。」という印象を受ける。

 

野球でも古い成功例からも、まだまだ新しい発見や気付きがあって。

そんな体験からも「捨てるものは無いなぁ。」と感じる。

 

そんな成功体験があって。

 

「イノベーションは、どれもこれも価値が無いと捨てていたものじゃない。」

 

偏差値大学はテストで失敗している。

 

既存の知識を暗記させて、それと違うと[×]をつけて切る捨ててしまう。

 

模範解答しか評価しない。

 

「模範解答なら教科書に書いてあるじゃない!」

 

東大からは才能が育たない。

 

東大には自閉症児がいない。

というよりも!

自閉症児という負の思考力を見て。

「この子は自分達が思うよりも賢い子かも知れない。」と感じる教授がいない。

 

自閉症児だった学者なら「うん?」と感じるのかも知れない。

小津安二郎の『東京物語』は、微笑みの多い会話から、もっと話したいという思いが伝わって、会話に誘い込まれていく。

『シェーン』で検索すると。

 

シェーンもまた脇腹を撃たれていた。彼が家に来てから彼を慕い、憧れていたジョーイは犬とともに酒場まで追いかけてきたのだった。傷ついた身体を心配して一緒に家に帰ろうと呼びかけるジョーイに、シェーンは「人を殺してしまえば、もう元には戻れない」と言って、馬に跨りワイオミングの山へと去っていった。必死に呼びかけるジョーイの声はやがて「シェーン!! カムバック!!」と山にこだまするのであった。そしてそのあと、別れを受け入れた少年の「グッバイ、シェーン!」が聞こえてくるのだった

 

ジョーイ少年の「シェーン!! カムバック!!」というセリフが山にこだますシーンで、観客の思いはセリフを超えていく。ジョーイ少年の「シェーン‼ 自分達を助けて。」という思いが伝わってくる。

 

『シェーン』にも小津安二郎の『東京物語』にも観客に感情移入させるものがあって。

「一体何が、そうさせるんだろう?」

 

映画を見終わって「えっ!」「シェーンは死んだの?」と、その先を思うと、想像は終われない。

 

『シェーン』や『東京物語』は、映画を見てる人に「   」大きな余韻を残している。

スピルバークの映画のように表現力は優れているけど完結して、終了していて、何度も見たいとは思はない。

一度見たら、もういい。

スピルバークの映画を批判する人は多い。

余韻を残さないからかも知れない。

 

[答]しか見ない、日本の教育は、一体何を望んでいるんだ?

 

東大にいけば成功なのか?

 

偏差値からは何を望んでいるのか見えてこない。

 

答えは、教科書に載っている範囲内で、現状維持で、全ては終了していて、それ以上のものは望んでいない。

 

連想ゲームでも良いのかも知れない。

 

一人伝言ゲームをしてると、発想の転換を意識しなくても、まったく!別のものになってしまう。

 

日本では「教科書は正しい。」と教えるけど、教科書は結論よりも、始まりにヒントがあって、価値もあるのかも知れない。

 

感想文を書かせると「この子は面白い!」という子は見つかって。

 

イノベーションは、テストではなく記述式に変えれば良いだけかも知れない。

 

「粘土と粘土は、くっつくのに、なんで1+1=2なの?」と言ったエジソン少年に「お前の頭は腐っている。」と、いらだちを隠せない教師も、問題も答えも生徒に作らせれば「この子は本当は賢い子なんだなぁ。」と感じる瞬間があったのかも知れない。

 

テストをすると「1+1=2」しか[〇]はつけられないけど、問題も答えも生徒に作らせれば[1]が何なのか意味付けることになって「1+1=1」と答えるエジソン少年に「この子は面白い。」と感じるはず。

 

こんな価値判断はコンピューターには、できない。

 

ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから有名な曲を作曲している。

ベートーヴェンは、もう耳が聞こえないんだ。と思って聴くと、ベートーヴェンの空想は楽器の音色を超えている様子を感じるはず。

 

もうテストは、やめた方が良い。

 

正常進化していく[プランA]は評価できても、突然!別のものに変化していく[プランB]に[✕]がついてしまう。

 

イノベーションは[プランB]なのでテストをやめれば良いだけかも知れない。

 

どうすれば「1+1=1」と答える子に対して「この子は、自分が思うよりも賢い子なんだなぁ。」と思えるのか、その方法を考えた方が良い。

 

日本人は龍安寺の石庭を見て[石]に権威主義など有り得ず、むしろ!日本人の権威主義をリセットするための場所かも知れない。

石庭を見た時のように、答えを求めない方が良い。

 

1+1=1」と答える子を見て「この子は、自分が思うよりも賢い子かも知れない。」と感じることのできる環境かも知れない。

 

テストをしない数学というのも、面白いのかも知れない。

コンピューターは記憶力や計算力で人を凌駕して、今日では生成AIが模範解答を即答する能力で人を凌駕しようとしている。

 

それらは正常進化で[プランA]で、未だに日本の入試は[プランA]のままで、それがアメリカにイノベーション能力で負ける原因かもしれない。

 

いまでは野球もタイミングの合わせ方ぬきでは考えられなくなっている。

Youtubeを見てると、間延びのあるリズム感に違和感はないみたいで、ドラッグレースのように静止状態から急発進すると、後輪はスリップして車体はブレてしまう。

間延びのあるリズム感で、構えた時に何処かが動いていることに違和感はないみたいで、その方が“力み”も、とれて、ブレも無くすことができるのかも知れない。。

 

間延びのあるリズム感で、ゆっくり感じたり、幅が広がる感覚からタイミングの合わせやすさが生れている。

 

それらはピッタリ感とは正反対な、錯覚だったり、間延びで、融通無碍に合わせることができる。

 

絞り込むと微調整が効かない。

 

一瞬では微調整ができない。

 

間延びのあるリズム感は、タイミングを合わせる環境作りに効果があって。

しかし!

そこまでで、具合の良い見方に気付けば、リズムは忘れても良いのかも知れない。

 

ゆっくりと広がっていく第一段階があって、そして!そこから、正反対に絞り込んでいく第二段階があって。

それは[プランB]に変化している。

 

一本足打法は結論ではなく始まりで、生れてきたところにヒントはあって、初めから組み立て直していくと、もう一本足打法ではなく。

正常進化していく[プランA]ではなく、一本足打法は[プランB]に変化している。

 

コンピューターは記憶力や計算力で人を凌駕して、今日では生成AIが模範解答を即答する能力で人を凌駕しようとしている。

 

コンピューターは正常進化した[プランA]で、未だに日本の入試は記憶力や計算力そして模範解答を即答する能力で[プランA]のままで、それがアメリカにイノベーション能力で負ける原因かもしれない。

 

イノベーションは技術革新で、新しく生まれ変わっている。

 

記憶力や計算力そして自動運転「レベル4」のように模範解答を即答する、正常進化していく[プランA]は必要だけど、しかし![プランA]はコンピューターの方が優秀で、コンピューターに丸投げすれば良い。

 

別のものに変化していくイノベーション能力はコンピューターには無理で、人にしかできない。

 

タイミングの合わせ方も正常進化していく[プランA]から、正反対なものに変化する[プランB]になっている。

 

生成AIが進化して普及していくと[プランA]はコンピューターの方が優秀で、しかもコンピューターは使用料さえ払えば誰でも使えて、やがて日本の入試は[プランA]から[プランB]に進化していくのかも知れない。

 

日本はデジタルで敗北したけど、コンピューターは、まだまだ[プランA] の段階で、勝負は、これからかも知れない。