小津安二郎の『東京物語』は、微笑みの多い会話から、もっと話したいという思いが伝わって、会話に誘い込まれていく。
『シェーン』で検索すると。
シェーンもまた脇腹を撃たれていた。彼が家に来てから彼を慕い、憧れていたジョーイは犬とともに酒場まで追いかけてきたのだった。傷ついた身体を心配して一緒に家に帰ろうと呼びかけるジョーイに、シェーンは「人を殺してしまえば、もう元には戻れない」と言って、馬に跨りワイオミングの山へと去っていった。必死に呼びかけるジョーイの声はやがて「シェーン!! カムバック!!」と山にこだまするのであった。そしてそのあと、別れを受け入れた少年の「グッバイ、シェーン!」が聞こえてくるのだった。
ジョーイ少年の「シェーン!! カムバック!!」というセリフが山にこだますシーンで、観客の思いはセリフを超えていく。ジョーイ少年の「シェーン‼ 自分達を助けて。」という思いが伝わってくる。
『シェーン』にも小津安二郎の『東京物語』にも観客に感情移入させるものがあって。
「一体何が、そうさせるんだろう?」
映画を見終わって「えっ!」「シェーンは死んだの?」と、その先を思うと、想像は終われない。
『シェーン』や『東京物語』は、映画を見てる人に「 」大きな余韻を残している。
スピルバークの映画のように表現力は優れているけど完結して、終了していて、何度も見たいとは思はない。
一度見たら、もういい。
スピルバークの映画を批判する人は多い。
余韻を残さないからかも知れない。
[答]しか見ない、日本の教育は、一体何を望んでいるんだ?
東大にいけば成功なのか?
偏差値からは何を望んでいるのか見えてこない。
答えは、教科書に載っている範囲内で、現状維持で、全ては終了していて、それ以上のものは望んでいない。
連想ゲームでも良いのかも知れない。
一人伝言ゲームをしてると、発想の転換を意識しなくても、まったく!別のものになってしまう。
日本では「教科書は正しい。」と教えるけど、教科書は結論よりも、始まりにヒントがあって、価値もあるのかも知れない。
感想文を書かせると「この子は面白い!」という子は見つかって。
イノベーションは、テストではなく記述式に変えれば良いだけかも知れない。
「粘土と粘土は、くっつくのに、なんで1+1=2なの?」と言ったエジソン少年に「お前の頭は腐っている。」と、いらだちを隠せない教師も、問題も答えも生徒に作らせれば「この子は本当は賢い子なんだなぁ。」と感じる瞬間があったのかも知れない。
テストをすると「1+1=2」しか[〇]はつけられないけど、問題も答えも生徒に作らせれば[1]が何なのか意味付けることになって「1+1=1」と答えるエジソン少年に「この子は面白い。」と感じるはず。
こんな価値判断はコンピューターには、できない。
ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから有名な曲を作曲している。
ベートーヴェンは、もう耳が聞こえないんだ。と思って聴くと、ベートーヴェンの空想は楽器の音色を超えている様子を感じるはず。
もうテストは、やめた方が良い。
正常進化していく[プランA]は評価できても、突然!別のものに変化していく[プランB]に[✕]がついてしまう。
イノベーションは[プランB]なのでテストをやめれば良いだけかも知れない。
どうすれば「1+1=1」と答える子に対して「この子は、自分が思うよりも賢い子なんだなぁ。」と思えるのか、その方法を考えた方が良い。
日本人は龍安寺の石庭を見て[石]に権威主義など有り得ず、むしろ!日本人の権威主義をリセットするための場所かも知れない。
石庭を見た時のように、答えを求めない方が良い。
「1+1=1」と答える子を見て「この子は、自分が思うよりも賢い子かも知れない。」と感じることのできる環境かも知れない。
テストをしない数学というのも、面白いのかも知れない。