母親の価値観が息子の成長の限界点になっている。
そして、その限界点は突破することはできない。
他人は鏡で自分が映っている。
Aという人間には、自分は、こういう人間と映って。
Bという人間には、違う自分が映っている。
人によって違う自分が映っている。
母親の価値観が息子の成長の限界点になって、そして、その限界点を突破することはできない。
小学生も、大学生でも能力は、まだ現実化していないので、可能性に過ぎず、これから開花する花が、どんな花なのか予測は難しい。
日本では既存の知識を覚えたかどうかテストしているけど、イノベーションは教科書を書き換えることになるという認識に欠けている。
むしろ人の能力は、いつもの畑から、見たこともない花を咲かせることができる。
それがイノベーションかも知れない。
そして日本の教育に欠けている点は、テストで、限界点を認識させる鏡ではなく、子供達から見たこともない花を咲かせようという意志も期待もないことかも知れない。
野球でも、古い成功例からも、新しいヒントは見つかっている。
教科書は成功例で、まだまだ新しい発見はあるのかも知れない。
他人は鏡で自分が映っている。
Aという人間には、自分は、こういう人間と映って。
Bという人間には、違う自分が映っている。
人によって違う自分が映っている。
それは能力というよりも偏見に近いもので。
しかし!
それで良いのかも知れない。
勝手な見方をしたり、現象だけで人を評価している。
同情心のある人は、他人の欠点でも好意的に解釈してくれるけど。
同情心のない人は、他人の欠点ばかり見て批判している。
同情心という感情こそが理解力を測る“ものさし”に思えてくる。
日本の教育は教科書が成長の限界点になっている。
生成AIは過去の資料に過ぎず、未来には無力と思われているけど、過去の成功例から知恵を再発見していくのが人の学習能力で。
そして[成功例]は重要なキーワードで、過去の成功例は、まだまだ発見される可能性がある宝島の地図かも知れない。
もしかして[成功例]から、学者の個人的な事情を知れば、まだまだ話を膨らませることはできるので、古い知識の[二次利用]もキーワードかも知れない。
学者の個人的な事情を知ることで、どうして、そんな[答え]は必要なのか、どうして、そんな[答え]で満足するのか理解できるのに。
日本ではテストをして答えを隠すので二次利用が難しくなってしまう。
過去の知識は暗記したり、過去の学者の発言を、そのまま受け入れるのではなく、ジグソーパズルのように、探している答えを思い描いていると、都合良くヒントに思えてくる。ブレイクスルーしていくというよりも[プランB]として組み立て直していると。
結果的に古い知識が都合良く変化している。
古い知識も、ヒントという付加価値がついたり、学者の発言も都合良く解釈されて役に立っている。
偏差値大学は「教科書は正しい。」「暗記しなさい。」と教えて、答えが一つしかないテストを繰り返して、限界点を作っている。
「教科書は正しい。」と教えて、それを超えられなくなっている。
「教科書は仮説だ。」と教えればヒントを見つけ出すことはできるのかも知れない。