他人は鏡で自分が映っている。
Aという人間には、自分は、こういう人間と映って。
Bという人間には、違う自分が映っている。
人によって違う自分が映っている。
Aという人間の鏡に映る自分を感じて「ここが限界点だと思っているな。」
自分は、Aという人間から、どう評価されているのか、その限界点を感じる。
それは能力というよりも偏見に近いもので。
しかし!
それで良いのかも知れない。
王貞治は日本刀を振っている。
変な練習をしていると、偶然!考えたこともないものが生れている。
そして!
それをヒントに話を膨らませると、面白い話が、いくつも出来上がっていく。
正しく見てると・・・。
何も気付かないけど。
だけど!
成功例は過大評価することで、いろんんなものが見えてくる。
限界点を上げることができる。
成功例からは、話を盛ってると、いろんな発見や気付きがあって、元々価値のないものからでも、新しく価値は生れている。
それは!
元々自分自身の中にあった価値観が引っ張り出されてくる。
成功例には「もしかして・・・。」という予感を伴っているので・・・感じる。
ありふれた知識も、ヒントに思えてくる。
成功例は「なにかあるのか?」と、どうしても過大評価してしまうので。
話を盛ってしまうので。
話を盛っているうちに、いろんな気付きが生れてくる。
日本刀と田淵幸一の言う「インサイドアウト」は、話しを膨らましているうちに、両者は重なり合って科学反応を起こしている。
価値は、もともと大した意味のないものからも生れて「捨てるものは、ないなぁ。」と感じる。
偏見は、勝手な見方をしたり、結果や現象だけで人を評価している。
偏見は、もともと評価する気もなく、評価の限界点が低いので、何も気付かないけど・・・。
成功例は違う⁉
人を先入観で見ているから、そんな風に見える。
それなら違う色眼鏡で見れば良い。
同情心のある人は、他人の欠点でも好意的に解釈してくれるけど。
同情心のない人は、他人の欠点ばかり見て批判している。
欠点は、同情心の有る無いで、随分違った見方をされてしまう。
というか!
変なことをしていて、偶然!考えたこともないものが生れている。
欠点からもイノベーションは生れて、やはり「捨てるものは、ないなぁ。」と思う
日本の教育には、それが無い。
正しく評価できるかどうかではなく。
同情心という感情が理解力やイノベーション能力の有る無しを測る“ものさし”に思えてくる。
それなら同情心の有る無しで解力を判断すれば良い。
能力というよりも同情心という感情なら。
そんな人は、いくらでもいる。
日本の教育は教科書が成長の限界点になっている。
欠点からもイノベーションは生れてくるのに。
同情心で限界点を超えていくことはできるのかも知れない。
同情心は、他人が悲しんでいると悲しくなって共鳴してしまう。
それは群れる動物のDNAかも知れない。
一匹が警戒音を発すると群れは、アッという間に巣穴に逃げ込んでしまう。
しかし!
単独行動をする動物はテリトリーを作って、同じ種でも争いになってしまう。
侵入者が強いと、恐怖心が強く逃げ出してしまうけど、逆に「コイツは弱い。」と感じると逃げ出すまで攻撃をしてくる。
弱者をいじめる同情心の無さは、B型の様な単独行動をする動物のDNAに起因している。
日本人にはA型が多く創造力に欠けるけど。
A型の集団志向性は同情心に、つながって、そんな人は大勢いるので、それだけ欠点からもイノベーションが生れる可能性はあるのかも知れない。
そのためにも「教科書は個人の仮説だ。」と教えて、変化を予感させれば、日本人は慌てて、ついていくので。
「教科書は正しい。」と限界点を感じさせない方が良いのかも知れない。