僕たちは、何かの条件を付けて人間の優劣を意識的にも、無意識的にも決める。
しかし、そのモノサシは、世間が勝手に決めたものだ。
なぜなら、そこには必ず他者との比較、優劣、強弱という相対概念が入るから。
だから、世俗から離れる時間がとても大切になってくる。
それは、自分にとっての読書であったり、お茶の稽古であったりする。
人間によってつくられたもっともらしい基準ではなく、宇宙という観念も交えた絶対的な何かが伝わってくる。
天上天下唯我独尊。
人間が勝手に決めた基準のインチキ臭さに気づければ、この文字の意味がなんとなく伝わってくる。
飾りではなく本質が少しずつわかっていく。
善悪、優劣といった相対概念でなく、自分自身が誇らしい。
そう思えるような日常や仕事のあり様が、とても大切に思える。
天下を統一した豊臣秀吉も、名もなき農民も、会社の社長もそこで働く社員も、存在というものが形を変えた物質的な姿。
私というものが主体ではないということ。
私が存在をしているのではなく、存在が私や花や動物をしている。
絶対の世界は限りなく広い。