車は、ブレーキがなければ走れない。
相反する要素がお互いに依存しながら成り立つ。
これは、すべての物事に通じるように思う。
幸福は不幸の経験無くしては味わえないし、豊かさは貧困の中でこそ悟れるようにも思う。
お釈迦さまは、生きることは苦とおっしゃっていたようだ。
ここで言う苦とは、僕らが観念するような苦よりもずっと深遠な意味を持つのだろう。
空腹のときにごちそうを食べれば幸福感を味わえる。
でも、お腹いっぱいのときにごちそうを出されても誰も喜ばない。
新車を購入し、待ちに待った納車。
納車当日は、胸が躍らんばかりだが、数年後に同じ気持ちでいられるだろうか?
理想の相手と結婚できた。
10年後、その理想の結婚とやらはどうなっている?
そう考えると、幸福だと思える事柄は、その場しのぎであり、ごまかしのようにも思えてくる。
苦よりも楽を選びたい。
大方の人はそう思うはずだ。
でも、苦から分離された楽なんてものは、堕落でしかないし、今度はそれそのものが苦の原因になりうる。
苦から逃げるほど苦に陥る。
逆に苦があれば、立ち向かう。
逃げずに立ち向かうから人間として鍛えられ、その本領が発揮される。
苦を経験するから人に手を差し伸べられるようになる。
僕はここに本当の幸福があるように思う。
世の中がインチキ臭く思えるのは、片面ばかりが喧伝されているところだ。
苦もなく便利で快適、不自由のない暮らしがあるかのような嘘を平気でついてくる。
人間に都合の良いような快ばかりが続くはずがない。
むしろ、逆に苦のほうが多いのが本当のところではないのか?
そして、苦に立ち向かうとは、どういうことか?
新車はいつまでも新車ではない。
でも、新車ではなくなっても大切に扱えば、そこにこそ豊かさを感じられ、愛着も芽生えてくるようにも思う。
理想の結婚が、それとはほど遠い現実に直面することだってある。
でも、そういう現実を受け入れ、自分のことは横において家庭を守ろうとするからこそ、夫や妻、父親や母親に育っていく。
仕事だって困難であればあるほど苦しいが、乗り越えた喜び、安堵感はたとえようもない。
やはり、苦であればこそ、人間として味わえる何かがあるように思う。
苦があればこそ、相反する歓喜をも味わえるようになっている。