■2025(令和7)年11月15日(土) 晴

 中野の渡し(愛知県営西中野渡船場)は、愛知県一宮市西中野と岐阜県羽島市を結ぶ木曽川の渡し船です。愛知県が運航主体ですが、岐阜県も経費を負担しているそうです。県道扱いのため運賃は無料です。
 中野の渡しは、1586年に木曽川の大洪水によって分断された葉栗郡中野村を行き来するために船が使われるようになったことに始まります。江戸時代から続く唯一現存する木曽川の渡し船で、400年以上の歴史があります。
 しかし、本年5月24日に新濃尾大橋(全長759m)が開通したことにより、2026年3月末をもって中野の渡しは役割を終えることとなりました。
 なお、存続を願う声もあり、一宮市が渡船を引き取り、期間限定での渡船運航や、木曽川の各所を巡る遊覧船といった利活用の方法を探っているとのことです。
 そこで、運航廃止となる前に乗船体験しておこうと思い、今回の探訪あいちを企画した次第です。

 熱田神宮公園を5人で出発。
 佐屋街道経由で名古屋市水道局の大治浄水場まで行きます。
 ここで、本田さんからクランクの調子が悪いと申し出があり、家に戻って自転車を取り替えてくるとのこと。後から追いついて落ち合うことになりました。
 2006年まで「尾張サイクリングロード」だった尾張水道みちを走ります。水道送水管の上に造られた道なので、木曽川朝日取水場までほぼ一直線です。
 名古屋市水道局なので「名水」と刻まれた車止めがあります。
 サイクリングロードとして廃止されてからは、特に整備されていないので路面は荒れ気味です。幹線道路を横断する個所が多く、信号まで遠回りさせられるところもあるので、快適な走行はできません。もう一度サイクリングロードとして整備し直して欲しいですね。

 尾張水道みちでは、何人かのサイクリストと出会いました。
 祖父江ぎんなんパークで本田さんが合流しました。
 名鉄尾西線山崎駅の踏切を越え、再び尾張水道みちへ。
 県道135号羽島稲沢線、県道129号一宮津島線を横断し、県道513号一宮中野線で左折。西進すると木曽川堤防道路に突き当たります。ここが一宮市側の「愛知県営西中野渡船場」です。
 船頭さんの詰め所をのぞくと、誰もいません。もしかしたら、運行中かも。
 堤防道路から木曽川を見ると、ちょうど船がこちらに戻ってくるのが見えました。
 「5人と自転車5台、お願いします!」
 船を下りた船頭さんに声をかけると、下に降りてくるよう指示がありました。
 自転車と一緒に「第五中野丸」に乗船します。ライフジャケットを着用します。私たちの他にお父さんと男の子の親子連れが一緒です。
 「第五中野丸」は静かなエンジン音を立て、木曽川を滑るように進みます。快晴、風もなく川は穏やか。最高のクルージング!
 川上には「新濃尾大橋」が見えます。
 7分ほどで羽島市側に着岸。
 親子連れのお父さんに写真を撮ってもらいました。
 羽島市側には、「愛知県営西中野渡船場」と書かれたステンレス製の標識があります。一宮市側よりも立派です。

 右岸の堤防道路を北上し、真新しい新濃尾大橋へ。
 2012年(平成24年)10月に着工してから完成までに13年の歳月を要しました。
 片道一車線で、歩道は川上側にしかありませんが、3m以上の幅員があって走行しやすいです。「しんのうびおおはし」の銘板の前で記念撮影しました。

 この後はランチにしましょう。
 飲食店が少ない地域なので、候補は限られます。事前にグーグルマップで探したのは、農家レストランか、チャーハンとラーメンの店か、です。
 熟年おじさんばかりでしたので、「おのの」にしました。
 この店、元は喫茶店かカフェだったのでしょうか? 外観も店内も喫茶店のような造りです。
 レジの横に
「2023.9.30 大盛のり子さん ご来店 YouTube見てね!」
と書かれていて、彼女の写真と色紙が飾ってありました。
 『大盛のり子』さんは岐阜の大食い女王です。私は中京テレビの『PSゴールド』で彼女のことを知りました。
 3人が「味噌ラーメン」、2人が「おののチャーハン」を注文しました。どちらもボリュームがあります。
 私が頼んだチャーハンは、見た目にインパクトがありました。大盛かと見間違うようなご飯の量と、ラーメンにトッピングされているような大きさのチャーシューが5枚か6枚載っていました。他店ではせいぜい細切れの肉がご飯に紛れ込んでいるだけだと思います。ご飯の味はごく普通でしたが、このチャーシューは焼肉のような味付けで香ばしい感じが美味しかったです。

 帰路も尾張水道みち、そして佐屋街道を走ります。
 本田さんは大治町で、白のトレックさんは万場大橋を渡ったところで、帰宅の途へ。
 3人で佐屋街道を走っていると、長良町3丁目交差点で黄色のJRバスが通過するのが見えました。
 2025年1月に引退したJR東海の「ドクターイエロー(T4編成)」にちなみ、JR東海バスでは高速バス1台をドクターイエローと同じカラーでラッピングした「幸せの黄色い高速バス」を来年3月まで運行しているのです。
 これはラッキー!

 津島街道一里塚跡の向かい側、新幹線高架下の手前に「みたらし半額の店」があります。
 名古屋ではスーパーのテナントなどで売っているみたらしの相場は100円前後だと思いますが、この店では、なんと、みたらし1本30円! 五平餅も1本60円!
 みたらし半額どころか、3分の1以下という破格です。
 包装してくれるのは3本以上購入する場合です。
 私は4本購入。つくさんは20本も購入していました。五平餅も欲しかったのですが、売り切れでした。みたらしは、冷めても柔らかくて美味しいです。
 実はこの店、白のトレックさんの親戚の方が経営しているお店です。土日のみの営業です。

 つくさんと稲葉さんはみたらしの店にて、それぞれ解散。熱田神宮公園には幹事一人でゴールしました。自由に解散できるところが探訪あいちの良いところ。
 天気も良く、気温もちょうど良く、最高のサイクリング日和でした。参加してくださった皆さん、ありがとうございました。

【サイクリングコース】
熱田神宮公園(午前8時20分)⇒ 佐屋街道 ⇒ 万場大橋 ⇒ 大治浄水場 ⇒ 尾張水道みち ⇒ 名鉄山崎駅 ⇒ 西中野渡船場 ⇒ 中野の渡し〔乗船〕⇒ 新濃尾大橋 ⇒ 〔昼食〕 ⇒ 尾張水道みち ⇒ <往路と同じ> ⇒ 熱田神宮公園・解散(午後2時15分)
距離:60km
所要時間:5時間55分

【参加者】
本田智久さん、つくさん、白のトレックさん、稲葉栄二さん、幹事(まつぼっクリ) 計5人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「11月15日(土) 木曽川中野の渡しと新濃尾大橋」を御覧ください。

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■2025(令和7)年11月1日(土) 曇のち晴

 長篠・設楽原の戦いは、1575(天正3)年5月21日、三河国の長篠城をめぐって織田信長・徳川家康の連合軍と武田信玄の息子武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。
 戦場となったのは、長篠城と設楽原で、日本で初めて鉄砲(火縄銃)が使われたことで知られています。
 長篠の戦いが起こった原因は、徳川家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。
 織田徳川連合軍が武田軍を迎え撃った結果、織田・徳川連合軍が大勝し、武田勝頼は権勢を失いました。この戦いは、織田信長と徳川家康の勢力を強め、武田勝頼の権勢を失わせる大きな契機となりました。
 今年はその合戦から450年の節目になります。
 新城市では令和7年8月1日(金)から11月30日(日)まで「戦国への道デジタルスタンプラリー」を実施しています。
 今回の探訪あいちでは、織田・徳川連合軍コース(信長・家康 覇道への躍進の道)をめぐり、デジタルスタンプを集めます。規定のスタンプ数を取得すると、オリジナル武将缶バッチがもらえます。

 名鉄で豊川稲荷駅へ。JR豊川駅から飯田線の2両編成の列車に乗車。
 新城駅舎を出ると、黒い雲が広がっています。晴れの予報だったのに、外れです。
 県道439号線を東北に進みます。国道151号に比べると交通量が少ないので快適です。
 川路光正寺交差点を左折し、JR三河東郷駅西の踏切を渡ると、信玄塚の案内矢印があります。従って進むと、首洗池です。

○首洗池
 国道151号竹広交差点の角にあります。
 合戦の際、戦死者の首や武具の血を洗った池と伝わります。
 名称からして恐ろしいですが、今は蓮があって静かな池となっています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「首洗い 池は血色に 水濁る」

 「設楽原古戦場いろはかるた」は、織田・徳川連合軍と武田軍との戦いをしのび、戦跡や伝承を残していくため、48句(あとで2句追加されて今は50句)のカルタで詠み表したものです。

○信玄塚
 首洗池から北に緩い坂を上って行くと、信玄塚です。
 設楽原の戦いで主戦場となった竹広村の住民達は合戦の後帰村し、知名武将をそれぞれの地に埋葬しました。残った多くの屍体を丘陵の1カ所に運び、大きな穴を2つ掘り、そこに両軍の戦没者16,000人を埋めて塚を築きました。戦死者の多かった武田軍の武将を大塚に、戦死者の少なかった織田・徳川連合軍の武将を小塚に葬りました。
 それにしても、こんなに多くの屍体をどのように処理したのでしょうか?
 合戦で村を追われた村民は、大変な思いをしたに違いありません。

①設楽原歴史資料館
 信玄塚のすぐ後ろ側が設楽原歴史資料館です。
 資料館の受付窓口にてスタンプラリーに参加したい旨を申し出ると、女性職員の方がQRコードを出してくれました。スマホで読み取ります。
 10か所の史跡スポットへ行き、スタンプエリア内(GPS判定)へ入るとデジタルスタンプが押せる仕組みです。
 まずは設楽原歴史資料館で最初のスタンプを押してスタート。

 資料館からの急坂を下りると、連吾川。
 武田軍と織田・徳川連合軍の最前線の間に流れていた川です。
 そこに架かっている橋のところが柳田前激戦地でした。生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所でもあります。

  設楽原古戦場いろはかるた 「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」

②馬防柵(ばぼうさく)再現地
 連吾川のすぐ先に馬防柵があります。
 馬防柵は戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために、信長が考えだした作戦とされています。信長が連吾川のすぐ手前に馬防柵を築いたことは、設楽原に一つの巨大なお城を築いたと同じ意味がありました。織田・徳川連合軍は攻めてくる武田軍の騎馬隊を鉄砲(火縄銃)で迎え撃ったのです。

  設楽原古戦場いろはかるた 「えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる」

 この馬防柵の丸太は、織田信長が岐阜から設楽原へ行く兵士に一本ずつ持たせたものだといわれています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」

 武田軍の土屋昌次は、三重に廻らされた馬防柵の第二柵まで突破しましたが、第三柵に辿り着くところで一斉射撃により戦死しました。

 馬防柵のすぐ前にある田んぼでは、子供達も参加して稲刈りが行われていました。田んぼアートで「450」の文字があったようです。

③徳川家康本陣地〔八剱神社〕
 馬防柵の次は、息を切らしながら峠越えをして、徳川家康本陣跡に至ります。今は八剱神社となっています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「家康が 本陣ここに 八剱山」

④一筆啓上の地
 徳川家康本陣跡に隣接して東郷中学校があります。ここの校庭は馬防柵を模した柵で囲まれています。「平成の馬防柵」と言われます。
 そして、この辺りから、日本一短い手紙と知られる「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」を、徳川家康の家臣・本多重次(作左衛門)が設楽原の陣中から妻に送ったといわれています。

 中学校の西側に大宮川流れていて、そこに家康が一重柵を建設しました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「井戸がわり 大宮川で 渇いやす」

⑤岡崎信康陣地
 田んぼ道を西進して右折。道路沿い左手の小山に「岡崎信康本陣地」の看板がありました。その左に松尾神社があります。
 岡崎信康は徳川家康の嫡男(ちゃくなん、正妻が産んだ最初の男子)で、17歳で設楽原の戦いに参戦し、松尾神社に布陣しました。
 家康が遠江・浜松城に居城を移したため、それまでの居城だった岡崎城を、まだ11歳の信康に譲りました。これを契機に、信康は「岡崎三郎信康」となりました。
 合戦の時、家康は34歳だったので、計算すると16歳の時の長男でした。今の高校生の歳で父親になっていたのです。

⑥織田信忠陣地
 野辺神社が織田信忠陣地でした。信長が本陣を置いた茶臼山の南側に位置します。
 織田信忠(当時19歳)は織田信長の嫡男です。

⑦織田信雄(のぶかつ)陣地
 今は特別養護老人ホームが建っている北側の高台に本陣を置いたのが織田信雄です。
 織田信長の二男で、伊勢北畠家の養嗣子となって継いだため北畠信雄と称するようにになりました。当時18歳でした。現在この場所は八幡神社になっています。

⑧織田信長戦地本陣地
 今回のコースで最も高い場所にあります。本来なら当時の雰囲気が味わえる山道を自転車を押して上るところでしたが、昨日の雨でぬかるんでいるため、新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリア(PA)から上るルートに変更しました。PAへは舗装道路が整備されているものの、勾配はきついです。4速しかないブロンプトンなので、貧脚の私では押して上るしかありません。
 PAから「織田信長戦地本陣跡」の大きな看板が見えます。
 階段を上って、140mの茶臼山山頂へ。
 織田信長は設楽原の決戦に備えて、上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った後、ここ茶臼山に本陣を移し指揮をとりました。全国でも珍しい信長が心境を詠んだ歌碑があります。
 「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
 間もなく雨もあがり、松の梢を渡って来るすがすがしい風の中を、きつねの鳴き声が聞こえる。その情景をとらえて、信長は(火縄銃が使え)「うれしき」と心境を詠みました。
 この場所なら、武田軍の動きがよく見えたのではないかと想像します。

  設楽原古戦場いろはかるた 「信長の陣 茶臼山に 歌碑もあり」

 行きは難儀して上った道も、帰りは一気の下りです。

⑨織田信長旗本陣
 茶臼山の南、平井神社へ。
 この辺りが信長が旗本陣として「信長ここにあり」と幟旗や旗指物を林立させた場所です。清め水の奥に「織田信長旗本陣跡」の石碑があります。

⑩織田信長本陣極楽寺跡
 同じく平井神社の付近にかつては「極楽寺」がありました。信長が最初の本陣とした場所です。合戦でお宮もお寺も焼失してしまいました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺」

 これで、10か所のチェックポイントをコンプリートできました。

 ところで、合戦のとき、武士たちは小便や大便をどうしていたのでしょうか?
 陣地での便所はどうなっていたのでしょうか?
  尿意や便意は生理現象で、武将であろうが一兵であろうが、絶対に避けられません。
 調べてみると、垂れ流し状態だったようです。

 戦国時代、トイレは「厠(かわや)」と呼ばれていました。
 陣地では仮設の穴掘りトイレが設置されていたようです。地面に穴を掘り、その上に簡素な木製の座を設置するだけの構造でした。モノがたまったら土で埋めて、別の場所に新たにつくったのではないでしょうか。
 戦場や移動中では、排泄物を適切に処理することは難しく、道端や田畑などで用を足すしかなかったでしょう。そのため、清潔さや衛生面で問題が生じたり、疫病の原因になったり、周囲の環境への影響があったと考えられます。武士の中には、戦ではなく、病気で死ぬ者もいたに違いありません。
 なお、武士たちが合戦の時に履く袴は又の部分が切れていて、素早く小用を足すことが可能で、しゃがむと左右に開くようになっていたといわれます。
 しかし、合戦の最中にのんびりとしゃがんで用を足せば、その間に敵に首を取られてしまうかもしれないので、実際は、戦いながら用を足していたのでしょう。なので、戦場の跡には屍体とともに糞尿が散らかっていたと想像します。もしかしたら、農民たちが肥料に使ったかもしれません。

 正午が近づきました。昼食にしましょう。
 国道上平井交差点にほど近い『里味』にて。
 寿司、うどん、かつ丼などを提供する和食の店です。周辺に飲食店が少ないので、結構賑わっています。
 カウンター席に座ると、中では大将が寿司を握っていました。寿司ネタは余り大きくありません。一番残念なのは、だし巻き卵が既製品であること。これを見て寿司を頼むのはやめました。
 かつ丼、うどん、サラダがついたミニ定食セット(1,200円)にしました。ただ、これも不味くはないものの、豚肉が貧弱でした。

 国道151号を東へ。設楽原歴史資料館への坂の手前角に石碑がありました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」

 甘利郷左衛門尉信康は、武田軍の左翼隊に属し、徳川軍に対しました。中央隊とも力を合せて馬防柵の第三の柵をも破る勢いで奮戦しましたが、武田軍が総崩れになると、信康は天王山までじりじりと押し戻され、この辻辺りで立ったまま無念の切腹をしたといわれます。

 午後1時前に設楽原歴史資料館にゴール。
 受付窓口でスマホの画面を見せ、オリジナル武将缶バッチ(2個)と交換してもらいました。織田信長、徳川家康、武田勝頼、山県昌景、奥平信昌、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の6種類あります。

 資料館の前に立つ銅像は、郷土の偉人・岩瀬忠震(ただなり)という方です。幕末の日米修好通商条約調印の立役者となったそうです。

○長篠役設楽原決戦場
 帰路、東郷中学校の裏を通ってみると、「長篠役設楽原決戦場」の碑がありました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「日は悲し 一五七五ぞと 武田七九」
(「一五七五」は1575年、「七九」は7月9日(旧暦で5月21日)、設楽原決戦の日を表わしています。)

○新城消防署
 国道に面して建つ新城消防署に「一筆啓上 火の用心」の石碑があります。
 「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」の「火の用心」の部分をアピールしたモニュメントです。「火の用心」が赤色で書かれているのが、消防署らしいです。

 帰りは国道151号を進みます。東名高速道路豊川インター手前の上野町交差点を右折して道なりに進むと、豊川稲荷駅に到着しました。

 今までぼんやりとしか知らなかった歴史を学習できた探訪でした。

【サイクリングコース】
JR新城駅(午前9時10分) ⇒ 設楽原歴史資料館 ⇒ 馬防柵 ⇒ 徳川家康本陣地 ⇒ 一筆啓上の地 ⇒ 岡崎信康陣地 ⇒ 織田信忠陣地 ⇒ 織田信雄陣地 ⇒ 織田信長戦地本陣地 ⇒ 織田信長本陣極楽寺跡 ⇒ 織田信長旗本陣 ⇒ 〔昼食〕 ⇒ 設楽原歴史資料館 ⇒ 名鉄豊川稲荷駅(午後2時45分)
距離:37km
所要時間:5時間35分

【参加者】
幹事(まつぼっクリ) 計1人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「11月1日(土) 長篠・設楽原の戦いから450年の古戦場を訪ねて」を御覧ください。

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■2025(令和7)年10月18日(土) 曇一時小雨

 へぇ~
 なるほど
 すごいですね
 参加された皆さんから、感嘆の声が絶え間なく出ました。

 ここ、名古屋郷土二輪館は、館主である冨成一也さんが、メイド・イン名古屋・愛知を中心としたオートバイと自転車の現物、それらに関連する写真、設計図、ポスター、ホーロー看板等の資料を展示している私設博物館です。
 冨成さんは30歳の頃から、40年以上に渡って全国各地を巡ってコレクションされました。なかには、10年、20年かかって、所有者から、所有者が亡くなったあとはその家族から、譲ってもらったものもあるそうです。そして、定年退職を機に2015年(平成27年)6月6日に、自宅のガレージを改装して名古屋郷土二輪館をオープンしました。

 1階はオートバイ。
 みづほ自動車製作所の「キャブトン」やトヨモータースの「トヨモーター」など、バイクメーカーの車両が18台ほどが展示されています。さらに、トライアンフやBSAなど、古い英国車のパンフレットや名古屋TTレース、津島で行われていたレース資料や写真も壁一面にありました。
 ホダカ(株式会社穂高工業所)はアメリカに輸出していて、特にトレールバイクが人気でした。会社がなくなった今でも、アメリカではホダカの熱心なファンがいるそうです。
 日本のバイクメーカーといったら、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4メーカーだと思っていたので、愛知・名古屋にバイクメーカーが80社もあったことは大変な驚きです。ただ、それらは皆中小企業で、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風により壊滅的打撃を受け、大手メーカーの台頭とともにすべてが消えてしまいました。

 2階は自転車。
 実用車が中心で、名古屋の岡本自転車のノーリツ号やグランパス号、三菱重工津工場の三菱十字号など、23台ほどが展示されています。
 紳士用と婦人用ではフレームの形状が異なり、ハンドルの幅にも違いがありました。
 シートチューブには自転車を持ち上げるための折りたたみ式の取っ手が付いていました。重たい自転車を土間に運び入れるための仕組みだったそうです。当時はスチール製のため30kgくらいありました。今の電動アシスト自転車並みの重量でした。軽いアルミ製の自転車をつくったのは、岡本自転車だったそうです。

 自転車本体だけでなく、パーツも充実しています。
 クランクには、ブランドを象徴するロゴが形になっています。グランパス自転車(岡本自転車)は鯱、日米富士自転車は富士山、ツバメ自転車(新家工業)はツバメ、宮田自転車はギヤエム、が施されています。当時の自転車はチェーンカバーが付いているのが一般的でしたが、クランク部分だけ透明のセルロイドになっていて、ロゴが見えるようになっています。

 ランプ(前照灯)は当初はロウソクでした。提灯のような形です。実際、自転車から外してランタンとして使用していました。その後、ガスや軽油が使われるようになり、電池式になりました。単一とか単三のように電池の規格がなかった時代、ナショナル(松下電器)は大型の電池を開発し、30時間使用可能なランプを作りました。欧米製のランプは装飾が施され、芸術品のようです。

 大正、昭和初期の実用自転車は、風切り(フェンダーマスコット)やヘッドマークなど飾りが多く、豪華でした。当時の自転車は、富裕層しか所有することができない贅沢品でした。現代なら、ベンツやレクサスを買うようなものです。自転車店では月に4台売れれば、店の家族が生活できたそうです。
 初耳だったのは、初期の自転車は、時計屋が販売していたとのこと。

 風切りは、自転車の前輪泥除けの先端に装着されていたアイテムです。これが付いているからといって、自転車の速度が速くなるわけではありません。いわば自転車のステイタスシンボルです。
 現在、高級車のベンツやジャガーのボンネットにまだ見かけますが、自転車の場合は昭和40年代にフロントカゴの取り付けやコスト削減、機能性の追求で消えてしまいました。

 ヘッドマーク(ヘッドバッチ)は、フレームの頭管(ヘッドチューブ)の前方に付ける金属製の飾りです。
 昔の特急列車や急行列車の先頭部に取り付けられていた、列車の愛称を文字やイラストで示したものや、自動車のフロントグリルにあるエンブレムと似ています。
 昔の自転車は同じメーカーでもブランドや車種などによって異なっており、非常に手の込んだ装飾が施されていて、ランプや風切りと同様、美術品のようです。

 「自轉車鑑札」は、自動車のナンバープレートのようなものです。明治時代から自転車や荷車には税金がかけられ、自転車荷車税を納めた際に発行されました。ハンドルバーやサドルに取り付けられていました。泥よけに付ける縦型タイプもありました。昭和33年(1958年)にこの税は廃止され、自轉車鑑札も消えていきました。

 珍しいのは、「扇子差」。扇子を着物の袖に入れていたり、腰に差していたりすると自転車を漕ぐ際に邪魔になるので、ハンドルに扇子を刺しておくアタッチメントです。昔の人は自転車に乗るときも粋だったのですね。

 ほかにも、ベルやペダル、ホイールなど紹介できないほどの様々なパーツのコレクションがありました。

 自転車は今も昔もアッセンブル製品です。愛知・名古屋にはオートバイ同様、パーツメーカーも含め130社も自転車関連企業があったそうです。しかし、この地域では岡本自転車もツノダ自転車もなくなり、産業としては衰退してしまいました。

 冨成さんは10年前の開館の際の挨拶で
「企業でも行政でも失われた二輪メーカーの製品の系統的な収集、保存を考えてはいないと思います。しかし、私が見てほしいのは昭和の時代を中心に、自転車やオートバイに夢を乗せ作り続けた人々のヒストリーです。1台のオートバイ、一枚の写真を通してエピソードやどんな物語があったのか感じとっていただきたいのです」
「30数年に渡って一つ一つ集めたのは、オートバイや自転車、その関連資料ばかりでなく、むしろ出会ってきた人々の証言こそが一番貴重であり、そのことを一つ一つ紡ぎ、名古屋二輪物語として語り伝えていきたいのです」
と言われています。

 当館は大変狭いところなので、見学者が4人もいると窮屈な状態です。さっと見れば見学は10分とかからないでしょう。
 館長さんがエピソードを交えながら展示物を熱心に説明してくれ、私たちも時間を忘れて聞き入り、500点を超えるコレクションに魅了されました。明治、大正、昭和と過去の二輪の世界にタイムスリップしたかのような気分を味いました。

 一つ心配がありました。コレクションの中には、シマノ自転車博物館にもない物もあるでしょう。これらを継ぐ人がいるのでしょうか。
 館長さんに聞くと、息子さんはまったく関心がないとのこと。館長さんが亡くなったあと、現物や資料はどうなってしまうのでしょうか。
 このようなものは一か所に集まって、見比べてこそ、その価値が増すものです。散在してしまうと、多くの人の目に触れられなくなります。また、語り部も必要です。一つの物に秘められた故事来歴を知る人がいなくなると、価値が半減してしまいます。
 市町村の歴史民俗資料館のような施設が引き継いでくれれば、と念願します。

 9時50分に到着して二輪館を出たのは午後1時20分。見学予定時間を1時間半以上オーバーしてしまいました。

 ランチは館長さんに教えて頂いた「一番亭阿久比店」にて。皆さん、タンタン麺や味噌ラーメン、天津飯などで空腹を満たしました。私が食べたタンタン麺はマイルドな辛さで美味しかったです。

 なお、往路のトイレ休憩で立ち寄った「水の生活館」では、『あいちの水』とダムカードを頂き、ちょっと得した気持ちになりました。

【サイクリングコース】
日本ガイシホール(午前8時) → 天白川堤防道路 → 千鳥橋 → 東海市しあわせ村 → 大池公園 → 東海市役所 → 長曽橋西 → 佐布里パークロード → 水の生活館前 → 深田脇交差点 → 草木交差点 → 名古屋郷土二輪館 →〔昼食〕→ <折り返し・往路と同ルート> → 日本ガイシホール・解散(午後3時30分)
距離:44km
所要時間:7時間30分

【参加者】
大安の西川さん、kuwanaさん、つくさん、幹事(まつぼっクリ) 計4人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「10月18日(土) 名古屋郷土二輪館」を御覧ください。

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■2025(令和7)年10月12日(日) 曇

 テレビ塔は誰でも知っているでしょう。
 では、ラジオ塔はご存じでしょうか。

 今年は日本でラジオ放送が始まって100年の節目になります。
 1925(大正14)年3月に東京で放送開始。同年6月から大阪で、7月には名古屋で放送が始まりました。

 ラジオ塔は、ラジオの電波を出す塔ではなく、「街頭ラジオ」のことです。
 ラジオが一般家庭に普及してなかった時代に、誰でもラジオ放送を聴取できるように全国の公園や広場などの公共空間に設置された、ラジオ受信機とスピーカーを内部に収めた塔です。
 名古屋市内には志賀公園、中村公園、松葉公園の3基が現存し、道徳公園には台座のみが残されており、戦前の市民の生活文化を今に伝える貴重な遺構となっています。東海三県でも現存するラジオ塔は名古屋市内の4か所だけです。

 今回の探訪あいちは、道徳公園を発着地とし、志賀公園、中村公園、松葉公園を巡ります。
 道徳公園に残るラジオ塔の台座は、バスケットボールコートと広場の間にあります。4つの四角い穴がある、四角いコンクリートの塊にしか見えません。説明板もないので、ここにかつてラジオ塔が立っていたとは誰も気づかないでしょう。

 出発しましょう。
 堀川沿いの道を北上します。
 宮の渡し公園を過ぎたところで、ブロンプトンの集団とすれ違いました。6~7台いたでしょうか。お互いに挨拶しました。
 景雲橋北の外堀にある堀川駅跡に立ち寄ります。
 ここには昔、瀬戸電気鉄道の終着駅がありました。瀬戸から運ばれてくる陶磁器などの貨物を受け入れ、堀川を使って船で運んでいたのです。1976(昭和51)年に堀川駅は廃止され、起点は名鉄栄町駅へと引き継がれました。

 さらに北に進むと、お城のような巨大な建物が現れます。
 今月オープンしたばかりの「エスパシオナゴヤキャッスル」。かつての名古屋キャッスルホテルが、名古屋城の景観を望むラグジュアリーホテルに生まれ変わりました。料金は1泊20万円から。スイートルームは1泊300万円と、自動車が買える値段です。国内外の超富裕層をターゲットにした超高級ホテルですから、庶民には縁がないですね。

 名城公園内の「IGアリーナ」前でも記念撮影。こちらも今年7月にオープンしたばかりの愛知国際アリーナです。隈研吾氏が外装と一部内装の意匠デザインを担当したそうです。外側を取り囲む樹形アーチは名城公園の樹木と調和するデザインを目指したとのことですが、素人には余分な飾りにしか見えず、後々のメンテナンスが大変だろうな、と思ってしまいます。

 大津通を北上して、志賀公園に到着。公園の中央付近に、ラジオ塔はひっそりと立っています。
 4柱のタワー型、コンクリート造で神社の灯篭に似た形をしています。高さは2.5m~3mくらいでしょうか。
 説明板には次のとおり書かれています。

「ラジオ塔
 ラジオ塔は昭和5年以降、ラジオ放送を市民が自由に聞けるようにと日本各地に設置されるようになりました。
 志賀公園には、昭和17年に名古屋市西志賀土地区画整理組合の寄附により設置されました。
 塔の上部に受信機やスピーカーが置かれ、塔の周りで市民が放送を聞いていました。
 市内には10か所ほど設置されていましたが、現在は志賀公園の他に中村公園、松葉公園に当時のラジオ塔が残されています。             名古屋市 」

 塔上部に設置されていたスピーカーなどの機械は今はありませんが、戦前の市民の生活文化を今に伝える貴重な遺構となっています。
 北條さんから「ラジオのスイッチは誰がやってたんだろう?」と訊かれました。
 「わかりません」
 後で調べてみると、現代のように24時間放送ではなかった時代ですから、電源を入れっぱなしにしていたとは考えにくいので、担当者の手でON/OFFされていたのではないかと思われます。一部には、自動スイッチで一定の時刻だけ放送が流れるもの、電波を受信するとスイッチが入り、電波が切れるとスイッチが切れるようにするものがあったそうです。

 ラジオ塔の西横には、織田信秀と信長の2代に仕えた武将、平手政秀宅跡があります。
「平手政秀宅跡
 ここ志賀の地を領した平手政秀は、織田信秀の子、信長の補佐役をつとめた。信長はかねてから行状が悪く、政秀は日ごろからこれをいさめていたが、父信秀の死後も一向に改まらなかった。天文二十二年(1553)正月十三日、信長の将来を絶望した政秀は、この地で自害した。信長はその死を哀惜し、一寺を建て、秀政寺と号して厚く菩提を弔った。                   名古屋市教育委員会 」
 志賀公園は、平手政秀宅跡に造成された公園であることがわかりました。

 次は枇杷島公園を経由して、中村公園へ。
 公園に隣接する名古屋競輪場にはBMXレースコースが新設されていました。来年のアジア大会の会場にもなる予定です。
 中村公園には、江戸時代初期の歌舞伎役者、初代中村勘三郎生誕記念碑があります。中村勘三郎が名古屋中村出身という説があることから設置されたものです。
 さらに、来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送を契機に、「豊臣兄弟! 名古屋中村大河ドラマ館」を始めとする複合施設「豊臣ミュージアム」が建設中でした。豊臣秀吉・秀長兄弟生誕の地である名古屋中村の魅力を全国に発信し、観光を推進しようという目論見のようです。

 中村公園のラジオ塔は豊國神社と瓢箪池(ひょうたんいけ)の間にあります。
 こちらは茶色っぽく、上部の機械類が置かれていたところのカバーが残っています。説明板には昭和17年に名古屋市東宿・日比津土地区画整理組合の寄附により設置とあります。

 中井筋(惣兵衛川)遊歩道を通って南下し、松葉公園へ。
 ここに残るラジオ塔は、野球場の脇にあります。説明板には昭和18年に名古屋市篠原・四女子土地区画整理組合の寄附により設置されたとあります。志賀公園や中村公園と異なり、4柱ではなく、太い四角形の土台です。
 3か所のラジオ塔を比べてみると、中村公園のものが一番状態がよく、松葉公園のものが一番劣化が進んでいるように思いました。

 戦後、昭和20年代、ラジオの小型化と普及により、ラジオ塔はほとんどが撤去されました。
 ラジオ塔は過去のものとなり、忘れられていきました。私自身、その存在を知ったのは昨年の2月のことです。
 テレビの普及に役立った「街頭テレビ」も、アイデアのもとはラジオ塔であったと考えられるでしょう。現在、スポーツ中継などのパブリックビューイングや繁華街のビルの壁面に付けられた大型ディスプレイなどに、かつてのラジオ塔の在り方を引き継いだ姿が見られます。
 テレビ放送もアナログ放送からデジタル放送に移行し、東京タワーや名古屋テレビ塔など、アナログ放送のテレビ塔が役目を終えたのも時代の流れといえます。

 ランチは松葉公園近くの『鯱ひげカフェ』にて。あんかけスパゲッティや鉄板ナポリタンの店です。混雑する前でしたので6人がちょうど座れました。
 ホリデーランチメニューは、Aスパゲティランチ、Bナポリタンランチ。C〜Dは、ミックスフライ、ピカタ、田舎風カラアゲから選べて、パンかライスを選択できます。私はナポリタンランチ(1,287円)を注文。名古屋風の鉄板ナポリタンにサラダが付いています。味はごく普通でした。

 八熊通で白のトレックさんは途中解散。5人が道徳公園にゴール。
 前日の天気情報では雨の予報サイトもあったので、レインウェアを準備していましたが、使うことがなくてよかったです。

【サイクリングコース】
道徳公園(午前8時30分) ⇒ 名城公園(北区)⇒ 志賀公園(北区)⇒ 枇杷島公園(西区)⇒ 中村公園(中村区)⇒ 松葉公園(中川区)⇒ 道徳公園・解散(午後12時45分)
距離:34km
所要時間:4時間15分

【参加者】
稲葉栄二さん、本田智久さん、白のトレックさん、北條さん、所さん、幹事(まつぼっクリ) 計6人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「10月12日(日) 名古屋のラジオ塔めぐり」を御覧ください。

https://hasirenai.com/photo-index2025.html

https://x.gd/IgSSK


 

■2025(令和7)年9月15日(月・敬老の日) 晴

 万博(万国博覧会)は、1851年のロンドン万博から始まりました。現在、大阪関西万博が開催中です。
 愛知県では、2005年日本国際博覧会(「愛知万博」、愛称「愛・地球博」)が、2005年3月25日から同年9月25日まで、当時の青少年公園を中心に開催されました。
 開催から20周年を迎え、愛・地球博記念公園(モリコロパーク)では「愛・地球博20祭」が9月25日まで行われています。今日の探訪あいちは、「愛・地球博記念館特別展示」を見学し、園内のサイクリングコースを走ります。

 天白川沿いの車の往来が少ない道を通り、岩崎交差点に出ます。県道57号線は交通量が多く、気を付けながら走らなければなりません。
 猿投グリーンロードは自転車通行帯のある歩道を進みます。
 愛・地球博記念公園の入口では駐車場に入る車の列ができていました。

 9月半ば、暦の上では秋だというのに、日差しも強く強烈な暑さです。このため、予定を変更して、先にサイクリングコースを走ることにします。
 サイクリングステーション受付にて各自名前を記入。
 アップダウンのある全長5.1kmの自転車走行専用コースを各自、自分のペースで走ってもらいます。
 時計回りの一方通行で、逆走や歩行者の進入が禁止されており、カーブや注意喚起のペイントが施されているため、安心してサイクリングを楽しめます。
 アップダウンと多彩なカーブが連続しており、登り最大5%、下り7%の高低差があります。前半部分は森の中を走る細かなカーブが続き、後半には長いストレートや最も急な上り坂が設置されています。この変化に富んだ、走りごたえがあるコースと言えるでしょう。
 ただ、路面のところどころで舗装が浮き上がっていて、危ないと思いました。フラットに整備してもらいたいものです。
 コース沿いには全国47都道府県の樹木が植えられています。「日本一周旅行気分」を楽しめるのも魅力の一つです。私は各県の木を確認しながらスローペースで走りました。
 途中には休憩場所もあり、『となりのトトロ』に登場する「サツキとメイの家」をコースから眺めることができます。

 休憩スペースで一服後、歩いて「愛・地球博記念館」へ。
 9月25日まで、特別展示が開催されています。
 「自然の叡智」をテーマに掲げた愛知万博の様々な取組や各パビリオンなどについて解説するパネル展示のほか、万博会場で活躍したロボットたちと一緒に撮影できるフォトスポットなど、20年前の写真や映像を中心に、当時の愛知万博を思い出させてくれる展示を観ることができます。
 「文化の多様性」を感じ、「世界一周旅行気分」を楽しめるのが万博だと思います。
 私は、ボランティアとしても愛知万博に関わりました。そのときの黄色いベストや白いハットなどは今でも保管しています。
 今はジブリパークの一つになっている「サツキとメイの家」を紹介するたコーナーでは、昔の調度品や生活が話題になりました。「サツキとメイの家」は昭和30年代、宮崎駿監督が実際に生活していた家をモデルに建設された家屋です。汲み取り式便所、吊り下げられた手洗い用の水タンク、土やレンガで造られたかまど、タイル張りの風呂場など、当時の生活を知る世代には懐かしいものです。
 前庭にある「モリゾーとキッコロ」のモニュメントの前で集合写真を撮りました。

 昼食は、リニモ公園西駅前の「安江 長久手店」にて。
 メインは蕎麦で、私は「そば三昧」を注文。
 「二八と十割がありますが、どちらにされますか」
 十割はそば粉100%でつくられるので、蕎麦の風味と香りが豊かです。二八は小麦粉が加わることでコシが強くなり、つるりとしたのど越しが楽しめるとのこと。
 十割にしました。そば粉のコロッケやプリンも付いて美味しかったです。

 店から出ると、頭が沸騰しそうなくらいの暑さです。
 午後からさらに暑くなります。名古屋北部から自走の参加者の方には、ここで解散としてもらいました。

 県道57号線沿いの「道の駅マチテラス日進」で休憩。1か月前、8月8日にオープンしたばかりで、とても賑わっていました。ソフトクリームやクリームソーダなど冷たいスイーツで涼を摂りました。

 午後2時前、瑞穂公園に6人が到着。
 皆さん、暑い中、参加していただきありがとうございました。お疲れ様でした。

【サイクリングコース】
瑞穂公園(午前8時15分) → 天白川 → 平針 → 岩崎 → 猿投グリーンロード → モリコロパークサイクリングステーション → 愛・地球博記念館〔見学〕 → <折り返し・往路と同じ> →〔安江にて昼食〕→  道の駅マチテラス日進 → 瑞穂公園・解散(午後1時57分)
距離:46km
所要時間:5時間42分

【参加者】
稲葉栄二さん、本田智久さん、白のトレックさん、k-oguraさん、ノノガキさん、大安の西川さん、岩田弘一さん、鉄のGIOSさん、幹事(まつぼっクリ) 計9人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「9月15日(月・祝日) 愛・地球博20祭サイクリング」を御覧ください。

https://hasirenai.com/photo-index2025.html
 

https://x.gd/bsHno