◆2026(令和8)年2月14日(土) 晴

 今回は、2011年4月23日(土)に実施した探訪あいちのリバイバルです。
 当時はリニア・鉄道館がオープンして1か月後でした。それから15年後、ドクターイエローT4編成が展示されたことを契機に、再び探訪あいちを企画しました。

 ミニベロ3台、ロードバイク2台、Eバイク1台が熱田神宮公園をスタート。
 堀川沿いを北上し、佐屋街道を西へ。この道は路側帯に自転車専用レーンがペイントされています。
 長良橋を渡って右折し、中川運河西線を進みます。

<バーミキュラ ビレッジ>
 バーミキュラは、愛知ドビー株式会社が製造する密閉性の高い鋳物ホーロー鍋やフライパンなどのブランドです。熱伝導が良く、食材の旨味を閉じ込める能力が高いことが特徴です。中川運河沿いにある「VERMICULAR VILLAGE」は、それらの製品を販売するショップとレストランやベーカリーカフェを併設した施設です。

<ナカガワ キャナル ドアーズ>
 ささしまライブ駅南のキャナルパークささしまに到着。中川運河堀止エリアです。
 この一帯は開発が進んでいます。中京テレビや愛知大学などのビルができ、さらに今年6月には、「NAKAGAWA CANAL DOORS(ナカガワ キャナル ドアーズ)」が開業します。運河前の開放感・眺望を活かしたホテルやベーカリー、レストランが新たにオープンし、ビーチバレーコートが整備されるなど、名古屋の都心の水辺が大きく生まれ変わる予定です。

<あおなみ線>
 ここからは、「あおなみ線」沿線を走ります。
 あおなみ線は正式には「名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線」といいます。2004年10月開業し、中村区の名古屋駅から港区の金城ふ頭駅までを結び、途中に9駅あります。この愛称は、イメージカラーの青から「あお」、名古屋から「な」、港から「み」をそれぞれ採ったものです。

<前田利家公初陣之像>
 荒子駅前には、馬上で槍をふるい出陣する若き前田利家の初陣の像と、それを見送る妻「まつ」の像が建っています。
 加賀百万石の藩祖といわれる前田利家は、天文6年(1537年)、利昌の四男として現在の中川区に生まれました。幼名は、犬千代といい、15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦の一つ萱津合戦(愛知県あま市)で初陣を飾りました。22歳のとき、10歳下のいとこ「まつ」と結婚しました。
 初陣の像の西側には、金沢の前田家から送られた梅が植えられています。
 なお、中川区内の利家ゆかりの地を巡る『犬千代ルート』が設定されています。

 あおなみ線の高架西側を南下します。晴れてはいるものの、高架の陰になって寒いです。今日は3月中旬並みの気温になる予報ですが、暖かくなるのは午後からのようです。

<荒子川公園>
 荒子川公園駅の東には、かつてイオン港店だった跡地にAmazonの西日本最大拠点施設が建っています。昨年8月にできたばかりで、真新しく、そして巨大です。
 公園内の川沿いの道を進みます。春には約千本の桜が、6月にはラベンダーが咲きます。
 公園の最南端はフェニックスアイランド。南国の雰囲気をイメージした人工島で、フェニックス、ワシントンヤシ、ソテツなど約170本の樹木が植えられています。

 稲永駅を過ぎ、港の工場や倉庫街を通り抜け、金城ふ頭線を南に走ります。
 名港トリトンを潜ると、終点の金城ふ頭駅です。

<リニア・鉄道館>
 JR東海リニア・鉄道館は、2011年3月14日(鉄道の日)に夢と思い出のミュージアムをコンセプトにオープンしました。東海道新幹線を中心に、蒸気機関車や在来線の特急用車両、電気機関車など、超電導リニアに至るまで39の鉄道車両の実物展示を通じて高速鉄道技術の進歩を紹介しています。

 新幹線は、0系、100系、300系、700系、N700系(屋外展示、Nはnew、nextなどの意味です)、そして、2025年6月14日から、その年1月に引退したドクターイエロー(T4編成)(正式名称は「新幹線電気軌道総合試験車」)が展示されています。
 新幹線の食堂車には初めて入りました。2階建てで、1階が厨房、2階がテーブル席になっています。メニューを見ると、カレーが900円。当時としてはとても高いです。
 1964年(昭和39年)の新幹線開業当初は東京~大阪間が4時間かかっていたのが、今は2時間半。ゆっくり食事をする時間がなくなり、食堂車も車内販売もなくなりました。

 在来線は、蒸気機関車、電気機関車、特急ひだ、特急しなの、ムーンライトながら、など東海地方ゆかりの車両が展示されています。若い頃、夜行列車で東京まで行ったことが懐かしく思い出されました。

 鉄道ジオラマは、大きなみどころの一つ。東京から大阪まで、東海道新幹線の沿線の風景が精巧に再現されています。その風景の中を新幹線、在来線の車両、またリニアが走っています。名古屋のJRセントラルタワーズをはじめ、東京のスカツリー、大阪の通天閣などがリアルに作られており、ついつい時間を忘れて見入ってしまうほど。子供だけでなく、世代を超えて楽しめます。

 N700系新幹線の実物大のシミュレータでは、シミュレータ体験をしない人でも後ろから巨大スクリーンで走行風景を楽しむことができるようになっています。
 超電導リニアの時速500km走行を模擬体験できるコーナーもあります。
 リニア中央新幹線ができれば、東京~名古屋間が40分で結ばれます。新幹線のぞみの半分以下の時間。でも、その開業は早くても2035年とされています。なんとかそれまで生き延びて、営業車両に乗りたい、と念願しています。

 2階には重要文化財の国鉄バス第1号車が展示されています。ボンネットバスです。
 他にも鉄道のしくみを紹介するコーナーやミュージアムショップなどがあり、限られた時間ではすべてを見学することはできません。
 私は今日で4回目ですが、参加メンバーの皆さんは初めての来館でした。鉄道好きでじっくり見学したい方は、再度訪れていただきたいと思います。

 余談ですが、リニア・鉄道館ができる前はJR飯田線中部天竜駅構内に「佐久間レールパーク」がありました。2009年11月1日(日)に閉園し、展示されていた車両の多くがリニア・鉄道館に移設されました。
 17年前、佐久間レールパークを見学する探訪あいちを実施したことも、懐かしい思い出です。

<昼食>
 昼食はリニア・鉄道館の向かいにあるファニチャー・ドーム内の「KEY’S CAFE」にしました。メイカーズピアより空いていると思ったからです。
 実際、席は空いていて、すぐに座れました。
 食事メニューはパスタとカレーです。私は欧風ビーフカレーを注文。カレー単品で税込み1,180円はちょっと高いなと思います。

 外に出ると、すっかり暖かくなり、ウインドブレーカーを脱ぎました。
 親子連れで賑わうレゴランドジャパンのエントランスで集合写真を撮りました。
 
 午後1時半を過ぎました。帰路に着きましょう。
 中川橋を渡って、中川運河東線を北上します。

<チェリーみなと店(Cherry)>
 みなとアクルスの一角にある、ベーカリーとカフェの『チェリーみなと店』にて、ティータイムです。
 自転車談義に花が咲きました。なかでも、大安の西川さんの自転車愛と話術が炸裂。Eバイクでのヒルクライムの様子や所有されている自転車のことを、面白おかしく話され、聞き入ってしまいました。

 白のトレックさんは購入されたばかりのGIANTの『Road E+』で参加されていました。私も、かつては欲しいなと思っていた1台です。
 ただ、日本のEバイクは時速24kmを超えるとアシストがなくなります。
 ヒルクライムやグランフォンドでは、威力抜群でその恩恵に浴しますが、平坦な道ではあまり効力がないのかな、と思います。貧脚の私でも24kmなら自力で走れます。フラットな道で本当にアシストが欲しいのは、25kmを越えてからです。
 Eバイクがクロスバイクやミニベロ、MTBタイプは多いのに、ロードバイクが少ないのは、こうした要因があるのではないでしょうか。

 コーヒーを飲みながら、楽しいおしゃべりタイムを過ごさせてもらいました。

 午後3時半過ぎ、予定どおりの時間に熱田神宮公園にゴール。
 短い距離のサイクリングでしたが、レストランやカフェでコミュニケーションが生まれ、心にも体にもよい一日でした。皆さん、ありがとうございました。

【サイクリングコース】
熱田神宮公園(午前8時30分) → 堀川沿い → 佐屋街道 → 長良橋 → ささしまライブ駅 → 小本駅 → 荒子駅・前田利家初陣の像 → 南荒子駅 → 中島駅 → 港北駅 → 荒子川公園駅 → 稲永駅 →  野跡駅 → 金城ふ頭駅 → リニア・鉄道館〔見学〕→ ランチ〔KEY’S CAFE ファニチャー・ドーム店〕→ 中川橋 →〔中川運河沿い北上〕→ ティータイム〔チェリーみなと店〕→ 国道1号 → 白鳥橋(堀川)→ 熱田神宮公園・解散(午後3時35分)
走行距離:36km
所要時間:7時間5分

【参加者】
白のトレックさん、稲葉栄二さん、大安の西川さん、Da-noさん、本田智久さん、幹事(まつぼっクリ) 計6人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2026」➔「2月14日(土) あおなみ線とリニア・鉄道館」を御覧ください。

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■2025(令和7)年12月7日(日) 曇のち晴

 Anjoyは、安城をエンジョイすること。安城市観光協会が使っていた言葉を拝借しました。
 安城というとデンパークや丈山苑などが有名ですが、今回は少しマイナーなスポットを巡ります。

 名鉄新安城駅南口を5人でスタート。JR三河安城駅まで走ります。

<ニチバン安城工場>
 ニチバン安城工場は三河安城駅近くの、新幹線とJR在来線が交差するところにあります。この立地を利用して、「セロテープ」の巨大な壁面看板(屋外広告)が建っています。
 「セロテープ」のパッケージとおそろいの赤・青・白のトリコロールカラーに、
 「無くしてわかる ありがたさ 親と健康と セロテープ」
のコピーを掲げています。新幹線の車窓からみえる広告の定番スポットです。
 工場敷地内には入れず、フェンス越しにのぞかなければいけないのが残念です。
 ところで、「セロテープ」は株式会社ニチバンが製造し、登録商標している商品名です。一般的な普通名詞は「セロハンテープ」となります。厳密には、ニチバン以外のメーカーが製造している「セロハンテープ」を「セロテープ」と呼ぶことは不適切なのです。

 県道を南下し、赤松交差点を右折。
 デンパーク西交差点を通過すると、左手に丈山苑が見えてきます。
 東端町東荒子交差点を右折し、道なりに進むと、特別養護老人ホームの建物が見えてきます。この敷地内に「燃弾庫」があります。

<明治航空基地>
 今年は戦後80年の節目の年です。
 旧日本海軍の明治航空基地は太平洋戦争中に建設され、6本の滑走路があり、最大時には217機の飛行機、4078人の隊員がいました。かなり大規模な飛行場が安城市にあったのです。
 燃弾庫はドラム缶入りの航空燃料や弾薬を、敵機の空襲から守るための保管庫です。分厚いコンクリート製のトンネルのような造りで、土や草木で覆われ、敵機に分かりにくいようになっています。
 「明治」というのは、明治時代のことではなく、当時この地域が「碧海郡明治村」だったことによります。

 老人ホームの燃弾庫から南西へ300mほど行くと、東端公園内に「明治航空基地之碑」があります。
 太平洋戦争終結50周年を記念して建てられました。
 その碑文には、
「配備航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に慣熟させるための錬成訓練を行うとともに、1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎撃や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した」
とあります。重要な基地であったことがうかがえます。

 東端公園のすぐ隣の畑の中に、先ほど同じ燃弾庫跡があります。こちらには何の表示も説明板もありません。中には朽ちた竹などが入れられており、燃弾庫だったことが分からない状態です。貴重な戦争遺構ですので、きちんと保存してほしいと思います。

<西蓮寺のイチョウ>
 東端公園の少し南、西蓮寺の境内にひときわ樹高の高い、黄金色に色づいたイチョウが立っています。安城市指定天然記念物で、樹齢は150~200年と推定されています。このイチョウは雄木(おぎ)なので銀杏は実りません。

 南東に進路を取り、名鉄西尾線の踏切を渡り、国道23号の高架下を潜ると、コスモス畑が見えてきます。

<三ツ川ふれあい花園>
 「コスモスまつり」の幟がなびいています。
 そして、法被を着た案山子、スーパーマリオ、アンパンマン、しょくぱんまん、ばいきんまんなどのキャラクターが出迎えてくれました。
 ここのコスモスや案山子たちは、作物の収穫が終わった畑を利用し、三ツ川環境向上委員会が管理しています。コスモス畑畑の中に通路もあり、自由に散策できます。
 コスモスの見頃は過ぎてかなり萎れていますが、12月になっても花がまだ残っているとは!
 赤やピンク、白色のコスモスが青空に映えて癒やされます。

<本證寺>
 本證寺は、鎌倉時代創建の真宗寺院。永禄6年(1563年)から翌年にかけて起こった松平(徳川)家康と三河本願寺教団の戦い(三河一向一揆)のときに、一揆方の拠点の一つとなった寺院です。岡崎市の上宮寺(じょうぐうじ)・勝鬘寺(しょうまんじ)とともに浄土真宗「三河三か寺」と呼ばれました。

 「一向」とは、浄土真宗のうち、特に本願寺を中心とした信徒のことです。
 「一揆」とは、目的を共有した人たちが協力して行動することを意味します。「一致団結」という意味に近い言葉です。特に中世の日本では、農民が団結して年貢の軽減や不正な領主の排除を求める行動として広まりました。

 家康は、寺院に対して課税や統制を強める政策を進めたため、一向宗の信者たちが反発して蜂起しました。当時の三河国は、一向宗が深く浸透していた土地です。三河三か寺が中心となり、多くの門徒が参加しました。
 当時、家康の家臣にも一向宗の信者がいたため、家康家臣団が分裂し、半年続いた戦いは混乱を極めました。最終的に家康は、一揆を力で鎮圧し、三河から一向宗の勢力を排除することに成功します。
 大河ドラマ『どうする家康』(2023年)でも、本證寺が登場し、三河一向一揆が描かれました。
 三河一向一揆は、家康の三大危機の一つとされています。

 本證寺は、二重の堀(内堀・外堀)や土塁が巡ることなどから「城郭寺院」とも呼ばれ、全国的にも珍しい造りとなっています。
 現在でも一部の水濠や土塁が残り、城郭伽藍としての面影を見ることができます。

<姫小川古墳>
 安城市には多くの古墳が残っています。
 桜井古墳群は、矢作川流域の古墳時代前期を代表する古墳群です。大小20基ほどの古墳が確認されています。
 そのうち国指定史跡の姫小川古墳と二子古墳を訪れます。

 姫小川古墳は、4世紀前半の前方後円墳です。全長約66mあり、桜井古墳群では2番目の大きさです。墳丘の上には浅間神社が鎮座していて、社殿に向かって石の階段が真っ直ぐ伸びています。

<二子古墳>
 二子古墳は、4世紀初頭、西三河地方で最古級の前方後円墳です。全長約68mあり、桜井古墳群では一番大きく、西三河地方で2番目に大規模なものです。こちらの墳丘には石碑が立っているだけなので、古墳であることを知らないと、ただの丘にしか見えないかもしれません。古墳の上に立つと、東海道新幹線が眼下に、遠くを見ると三河の山々が望めます。

 なお、古墳の最も多い県は兵庫県で1万8千基以上、愛知県は15位で約3,100基あります。

<昼食>
 11時を過ぎました。早めに昼食にした方がよいと思い、当初の予定を変更して二子古墳の近くにある「うどん圓山(まるやま)」へ。
 カフェと見間違うようなモダンでお洒落な外観で、入店すると、ほぼ席が埋まっていました。人気店のようです。
 全員が、かけうどんに野菜のかきあげ、天つゆ、煮豆、漬物、ご飯がついた「うどん定食」(税込み1,070円)を注文しました。
 麺は柔らかめでツルツル、とても食べやすく、出汁は甘めの優しい味わい。
 食事が美味しいと、お腹だけでなく、心も満たされます。

<安祥城址公園>
 ランチの後は、安祥城址公園へ。
 安祥城は徳川家康を輩出した安城松平家が4代にわたって居城した城でした。
 本丸跡には大乗寺が、二の丸跡には八幡社が建っています。周辺には歴史博物館や市民ギャラリー、埋蔵文化財センターなどがあり、市民公園として整備されています。
 公園に南端には、パイプオルガンのような筒が何本も並んだ、少し変わった塔が立っています。銘板には「笙(しょう)の塔」と書かれていました。雅楽器の「笙(しょう)」をデザインしたモニュメント展望台とのこと。
 「笙」は、初めて聞きました。調べてみると、17本の細長い竹が黒色のお椀(頭:「かしら」といいます)に刺さっている不思議な形の楽器だそう。
 螺旋階段を上ってみましたが、特別良い景色が見える訳ではありません。

 東海道本線の踏切で、深い青色の列車が通過していくのが見えました。オレンジラインの電車じゃない! あれっ? 
 東急とJR東海が共同で運行する観光列車「THE ROYAL EXPRESS」でした。

<南吉の下宿先>
 新田町(しんでんちょう)の住宅街の細い路地を進むと、道路に何やら点々とペイントが施されています。南吉の下宿先まで道案内のために描かれたキツネの足跡です。これを辿っていくと、下宿先として使用していた建物(門長屋)に導かれます。
 この建物は個人の所有物件ですが、自由に見学できます。

 童話「ごんぎつね」などで知られる新美南吉は、昭和13年(1938年)4月に安城高等女学校(現在の県立安城高等学校)に教師として赴任しました。翌年、昭和14年4月からここで下宿を始め、歩いて安城高等女学校(現在の安城市桜町)へ通いました。南吉は、この下宿先で暮らした3年半の間に、初の童話集「おぢいさんのランプ」を出版し、幼い頃から持ち続けた「童話作家になりたい」という夢をかなえました。下宿部屋の窓際に置かれている座卓の上には、その童話集が立てられています。
 昭和18年(1943年)、結核の症状が悪化して安城高等女学校を退職し、半田の実家に帰りましたが、3月に死去しました。29歳7か月の短い生涯でした。

 以上で今日の訪問先はおしまいです。
 高浜の石川さん、ノノガキさん、西尾の三浦さんは、途中解散。新安城駅には、白のトレックさんと幹事の2人がゴールしました。
 スタート時は寒かったものの、日中はウインドブレーカー脱ぐほどの暖かさ。晴天、微風のサイクリング日和でした。
 参加者の皆様の御協力で、順調に進行しました。ありがとうございました。

【サイクリングコース】
新安城駅(午前8時25分)⇒ ニチバン安城工場 ⇒ 燃弾庫跡 ⇒ 東端公園・明治航空基地跡 ⇒ 西蓮寺のイチョウ ⇒ 三ツ川ふれあい花園 ⇒ 本證寺 ⇒〔昼食〕⇒ 姫小川古墳 ⇒ 二子古墳 ⇒ 安祥城址公園 ⇒ 新美南吉の下宿先 ⇒ 新安城駅・解散(午後1時5分)
距離:35km
所要時間:4時間40分

【参加者】
白のトレックさん、ノノガキさん、高浜の石川です。さん、西尾の三浦さん、幹事(まつぼっクリ) 計5人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「12月7日(日) Anjoy Cycling」を御覧ください。

https://x.gd/Bj7h2

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■2025(令和7)年11月23日(日・勤労感謝の日) 晴

 桑名市は、ナガシマスパーランド、ジャズドリーム長島、なばなの里、多度大社、六華苑、東海道の七里の渡しなど豊富な観光資源に恵まれた三重県下屈指の観光都市です。また、機械工業や金属製品製造業、食料品製造業、さらにはIT産業まで、多様な業種が盛んな工業都市でもあります。特産品には、ハマグリやしぐれ煮、安永餅などがあり、なかでも蛤(はまぐり)料理は全国的にも有名です。
 江戸時代には東海道42番目の宿駅であり、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇っていました。また、桑名藩の城下町、港町として栄え、伊勢神宮の「一の鳥居」を擁する伊勢路の玄関口として賑わいをみせていました。
 そんな魅力ある桑名を楽しもうと企画したのが、今回の探訪あいちです。
 数ある観光名所の中で、六華苑と諸戸氏庭園をメインにしました。
 この2か所を桑名歴史案内人(観光ボランティア)の方にガイドしてもらいます。

 午前8時15分、集合場所のあおなみ線荒子川公園駅前を参加者8人でスタート。
 所さんの走行仲間の今長さんは、探訪あいち初参加。ありがとうございます。

 快晴ですが気温は8℃ぐらい。寒いです。ただ、お昼頃には17℃ぐらいになるとの予報ですので、暖かくなるでしょう。
 河合小橋までは「明治の東海道(前ヶ須街道)」を走り、県道70号名古屋十四山線経由で弥富市へ。ひので公園にて休憩。寒さと加齢でトイレが近くなります。
 尾張大橋(木曽川)と伊勢大橋(揖斐長良川)は、安全のため歩道を走ります。路面が凹凸なので、ゆっくりペダルを漕ぎます。
 午前10時前、六華苑に到着。
 ここからは桑名歴史案内人を始めて4年目の有竹さんにガイドしてもらいます。
 有竹さんは私と同い年で、勤務先が同じでした。現役時代は職場の陸上クラブに入っていた仲です。

 六華苑は、桑名の実業家だった諸戸清六(もろとせいろく)の邸宅として大正2年(1913年)に完成しました。設計したのはイギリス人建築家ジョサイア・コンドル氏。有名な鹿鳴館を設計された方です。
 およそ18,000㎡(約5,500坪)という広大な敷地の中に、洋館、和館、蔵、池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)などがあります。洋館と和館は国の重要文化財に指定されています。

 まずは洋館から案内してもらいました。
 4層の塔屋をもつ木造2階建てです。塔屋は、当初3層の予定でしたが、眺望を重視する諸戸清六の希望により、4層に変更になったそうです。
 1階は玄関・ホール、客間、食堂があります。
 驚いたのはトイレ。大正時代に建設された時から水洗トイレだったのです。この邸宅にはすでに水道が通っていたということです。一般庶民はぼっとん便所の時代でした。便器自体も今の洋式トイレとほとんど変わりない形です。ただし、水のタンクは天井近くの壁に着いていて、紐を引っ張って水を流す形です。そう、昭和時代の和式トイレの水洗と同じタイプです。(若い人には分からないと思いますが)
 床はタイルが敷き詰められ、今でも十分通用しそうなモダンなデザインにビックリしました。その横には電話室も設けられており、当時としては先進的な設備や機器に囲まれた邸宅だったことがうかがえます。
 2階には応接室、寝室、書斎、居間、女中部屋、サンルームがあります。なかでもサンルームは窓が大きく、十分な陽光が差し込み、開放的な雰囲気に包まれています。冬は暖かくて気持ちよいですが、温暖化が進んだ現在の夏だと暑くて耐えられないのではないでしょうか。
 見学できるのは2階まで。さらに上の階層に行けば、名古屋の高層ビル群も見えるとのこと。

 次は和館に向かいます。
 洋館と和館は壁一枚でつながっており、明治から大正時代は、併設されることがよくあったそうです。
 客間から障子越しに眺める内庭の光景は、額縁の中の絵のように見えます。
 注目したのは、長い廊下が2車線になっていること。畳敷きの廊下と板敷きの廊下が平行して造られています。主人や家族、訪問客が畳を、使用人は板敷きの廊下を歩いていたそうです。
 雨戸や戸袋は、現代の住宅では余り見られなくなりました。若い人は知らないかもしれません。
 巨大な蔵のような金庫もあり、耐火構造で財産をしっかり守っていたようです。
 全体的に過度に豪華な装飾などは用いられていませんが、良質で上質な造りになっている印象です。

 外に出て、広い芝生広場で邸宅を背景に集合写真を撮ってもらいました。
 芝生の緑と紅葉のコントラストが美しく、絵はがきを見ているかのようです。
 池泉回遊式庭園の園路を歩いていると、庭園の隅に鉄板を置いてあるところがありました。ガイドさんによると、鉄板の下には防空壕があるとのこと。今は崩落の危険があるので入れないそうです。

 個人の邸宅で、これだけのスケールの大きさには驚くばかりです。
 いったいどれぐらいの建築費がかかっていたのでしょうか。

 諸戸清六は、米の仲買人として成功を収め、三重県の大富豪・大地主でした。一方で、当時飲料水事情が悪かった桑名に私財を投じて上水道を引き、一般庶民にも開放して、まちづくりにも貢献しました。桑名は東海地方で最初に水道ができた町だそうです。
 財産を独り占めせず、社会のために提供したところが素晴らしいです。

 六華苑の長屋門を出て、七里の渡し公園の中を歩きます。木曽三川公園と同じく、国が整備した公園で、園内には諸戸水道の共用栓をモチーフにした湧水口が設置されています。趣のある煉瓦塀が目を引きます。

 諸戸氏庭園もおよそ26,450㎡(約8,000坪)の広さがあり、本邸、大門、御殿、玉突場が国の重要重要文化財に指定され、庭園が国の名勝に指定されています。
 元々は、江戸時代の豪商山田彦左衛門の隠居所として造園され、明治に初代諸戸清六が買い取り、増築を行って現在に至っています。六華苑は息子さんの家でこちらがお父さんの家とのこと。
 六華苑は四季を通じて入苑できますが、諸戸氏庭園の方は春と秋に期間を限って公開されています。今年の秋の一般公開期間は10月25日(土)~12月7日(日)で、今回の探訪あいちは、この期間に合わせて実施した次第です。

 「主屋の屋根瓦を見てください」とガイドさん。
 鬼瓦には「モロト」と、カタカナで刻まれていました。トヨタのマークのようにも見えました。
 藤茶屋の藤は樹齢300年といわれ、ゴールデンウィークにはきれいな藤棚が見られるそう。
 巨大な御殿広間は、沓脱石、床の高さ、襖絵等々、文字どおり江戸時代の大名の「御殿」そのものです。
 御殿に隣接した池泉庭園は琵琶湖を模していて、竹生島(ちくぶしま)に見立てた岩島を据えています。池泉庭園で使われている石は青石で、志摩や鳥羽から運ばれたとのこと。
 園内には60以上の石灯籠があり、米で財を成した諸戸氏を象徴して俵の形をしたものもありました。
 菖蒲池には切石による八ッ橋が架けられています。菖蒲が咲く6月に訪問したら、さぞかし綺麗でしょう。
 庭園の隅には玉突場までありました。黄色く塗られた西洋建築で、窓からのぞくと撞球台(どうきゅうだい)が見えます。当時のビリヤードは現在のゴルフのような、接待の遊びだったそうです。

 見どころはつきませんが、兎にも角にも、広大さと財力に圧倒された次第です。
 そして、桑名歴史案内人の方にガイドしていただき、歴史と文化をより深く感じて学ぶことができました。個人で見学していたら、気づかないことばかりでした。
 有竹さん、丁寧な説明、ありがとうございました。
 藤の花か、花菖蒲の花が咲く頃に、また訪れたいと思います。

 さて、正午を過ぎ、ランチタイム。
 旧東海道沿いの『歌行燈』に行ってみると、行列ができていました。さすが桑名の有名店です。これは時間がかかると思い、同じ通りにある『川市』に変更。少しの待ち時間で入店できました。
 店員さんに奥の座敷に案内されました。思ったより店内は縦長で外から見る印象よりも広いです。
 店頭看板には「手打ちうどん 味噌煮込」と書いてあります。メニューを見ると、うどん屋さんなのに餃子がトップに掲載されていました。
 ということで、全員が味噌煮込みうどんと餃子を注文。
 餃子は、皮はモチっとして、中身は野菜たっぷり、少し山椒の風味が効いて、他店とはちょっと変わった味付けです。アッサリしていて食べやすく、美味しかったです。
 味噌煮込みうどんも美味しかったですが、880円という値段のためか、かしわやネギなどの具は少なかったです。
 観光客もいたようでしたが、地元の人に愛される昔ながらのうどん屋さんといった感じです。

 お腹を満たした後は、同じ旧道沿いにある「歴史を語る公園」へ。
 江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたユニークな公園です。コンクリートでできた小さな富士山を始め、道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。もう少し東海道の見どころを模したモニュメントがあるといいなぁと思います。
 この公園からは、桑名城三之丸の堀を固めていた石垣の一部が臨めます。ほとんどが桑名城創建当時の石垣といわれており、徳川四天王の一人、本多忠勝が築いた時代から残っているということになります。

 九華公園の中をゆっくり走り、かつて桑名城の天守閣が建っていた場所に行きます。 現在は天守閣の姿はなく石組みだけが残っています。
 桑名城の天守閣は1701年の大火で焼失し、以降は再建されることなく明治時代の廃城令を迎えました。現在天守台跡の石組み階段前には「崩落の危険があるため立ち入り禁止」との注意書きが掲示されて、天守台跡に登ることはできなくなっています。

 桑名にはさらに見るべきスポットがありますが、日没が早くなった時期ですので、ここで帰路に着くことにします。
 気温も上がり、ウインドブレーカーを脱ぎました。
 名古屋に向かう道は、ややフォローの風。軽快にペダルが回ります。自然と一体になったような感覚になり、「生」を実感します。だから、自転車はやめられません。

 ゴールまで残り2キロ弱となった当知1丁目交差点でトラブル発生。
 大安の西川さんのスペシャライズドのe-bikeのフロント側でチェーンが外れてしまい、リアディレイラーも調子が悪くなってしまいました。残りわずかなので、一人、自転車を押して行くことに。
 それでも、私たちが荒子川公園にゴールしてから、10分ぐらい後に、大安の西川さんはやって来ました。ジョギングのスピードです。自転車だけでなく、走る方も軽快なのですね。

【サイクリングコース】
荒子川公園駅(午前8時15分)→ 旧東海道 → ひので公園 → 国道1号 → 六華苑&諸戸氏庭園(観光ボランティア桑名歴史案内人によるガイド付き)→〔昼食〕→ 歴史を語る公園 → 九華公園(桑名城址)→ <往路と同ルート> → 荒子川公園駅・解散(午後3時15分)
距離:44km
所要時間:7時間

【参加者】
本田智久さん、所さん、k-oguraさん、ノノガキさん、大安の西川さん、所さんの走行仲間の今長さん、稲葉栄二さん、幹事(まつぼっクリ) 計8人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「11月23日(日) 桑名観光サイクリング」を御覧ください。

https://hasirenai.com/photo-index2025.html

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■2025(令和7)年11月15日(土) 晴

 中野の渡し(愛知県営西中野渡船場)は、愛知県一宮市西中野と岐阜県羽島市を結ぶ木曽川の渡し船です。愛知県が運航主体ですが、岐阜県も経費を負担しているそうです。県道扱いのため運賃は無料です。
 中野の渡しは、1586年に木曽川の大洪水によって分断された葉栗郡中野村を行き来するために船が使われるようになったことに始まります。江戸時代から続く唯一現存する木曽川の渡し船で、400年以上の歴史があります。
 しかし、本年5月24日に新濃尾大橋(全長759m)が開通したことにより、2026年3月末をもって中野の渡しは役割を終えることとなりました。
 なお、存続を願う声もあり、一宮市が渡船を引き取り、期間限定での渡船運航や、木曽川の各所を巡る遊覧船といった利活用の方法を探っているとのことです。
 そこで、運航廃止となる前に乗船体験しておこうと思い、今回の探訪あいちを企画した次第です。

 熱田神宮公園を5人で出発。
 佐屋街道経由で名古屋市水道局の大治浄水場まで行きます。
 ここで、本田さんからクランクの調子が悪いと申し出があり、家に戻って自転車を取り替えてくるとのこと。後から追いついて落ち合うことになりました。
 2006年まで「尾張サイクリングロード」だった尾張水道みちを走ります。水道送水管の上に造られた道なので、木曽川朝日取水場までほぼ一直線です。
 名古屋市水道局なので「名水」と刻まれた車止めがあります。
 サイクリングロードとして廃止されてからは、特に整備されていないので路面は荒れ気味です。幹線道路を横断する個所が多く、信号まで遠回りさせられるところもあるので、快適な走行はできません。もう一度サイクリングロードとして整備し直して欲しいですね。

 尾張水道みちでは、何人かのサイクリストと出会いました。
 祖父江ぎんなんパークで本田さんが合流しました。
 名鉄尾西線山崎駅の踏切を越え、再び尾張水道みちへ。
 県道135号羽島稲沢線、県道129号一宮津島線を横断し、県道513号一宮中野線で左折。西進すると木曽川堤防道路に突き当たります。ここが一宮市側の「愛知県営西中野渡船場」です。
 船頭さんの詰め所をのぞくと、誰もいません。もしかしたら、運行中かも。
 堤防道路から木曽川を見ると、ちょうど船がこちらに戻ってくるのが見えました。
 「5人と自転車5台、お願いします!」
 船を下りた船頭さんに声をかけると、下に降りてくるよう指示がありました。
 自転車と一緒に「第五中野丸」に乗船します。ライフジャケットを着用します。私たちの他にお父さんと男の子の親子連れが一緒です。
 「第五中野丸」は静かなエンジン音を立て、木曽川を滑るように進みます。快晴、風もなく川は穏やか。最高のクルージング!
 川上には「新濃尾大橋」が見えます。
 7分ほどで羽島市側に着岸。
 親子連れのお父さんに写真を撮ってもらいました。
 羽島市側には、「愛知県営西中野渡船場」と書かれたステンレス製の標識があります。一宮市側よりも立派です。

 右岸の堤防道路を北上し、真新しい新濃尾大橋へ。
 2012年(平成24年)10月に着工してから完成までに13年の歳月を要しました。
 片道一車線で、歩道は川上側にしかありませんが、3m以上の幅員があって走行しやすいです。「しんのうびおおはし」の銘板の前で記念撮影しました。

 この後はランチにしましょう。
 飲食店が少ない地域なので、候補は限られます。事前にグーグルマップで探したのは、農家レストランか、チャーハンとラーメンの店か、です。
 熟年おじさんばかりでしたので、「おのの」にしました。
 この店、元は喫茶店かカフェだったのでしょうか? 外観も店内も喫茶店のような造りです。
 レジの横に
「2023.9.30 大盛のり子さん ご来店 YouTube見てね!」
と書かれていて、彼女の写真と色紙が飾ってありました。
 『大盛のり子』さんは岐阜の大食い女王です。私は中京テレビの『PSゴールド』で彼女のことを知りました。
 3人が「味噌ラーメン」、2人が「おののチャーハン」を注文しました。どちらもボリュームがあります。
 私が頼んだチャーハンは、見た目にインパクトがありました。大盛かと見間違うようなご飯の量と、ラーメンにトッピングされているような大きさのチャーシューが5枚か6枚載っていました。他店ではせいぜい細切れの肉がご飯に紛れ込んでいるだけだと思います。ご飯の味はごく普通でしたが、このチャーシューは焼肉のような味付けで香ばしい感じが美味しかったです。

 帰路も尾張水道みち、そして佐屋街道を走ります。
 本田さんは大治町で、白のトレックさんは万場大橋を渡ったところで、帰宅の途へ。
 3人で佐屋街道を走っていると、長良町3丁目交差点で黄色のJRバスが通過するのが見えました。
 2025年1月に引退したJR東海の「ドクターイエロー(T4編成)」にちなみ、JR東海バスでは高速バス1台をドクターイエローと同じカラーでラッピングした「幸せの黄色い高速バス」を来年3月まで運行しているのです。
 これはラッキー!

 津島街道一里塚跡の向かい側、新幹線高架下の手前に「みたらし半額の店」があります。
 名古屋ではスーパーのテナントなどで売っているみたらしの相場は100円前後だと思いますが、この店では、なんと、みたらし1本30円! 五平餅も1本60円!
 みたらし半額どころか、3分の1以下という破格です。
 包装してくれるのは3本以上購入する場合です。
 私は4本購入。つくさんは20本も購入していました。五平餅も欲しかったのですが、売り切れでした。みたらしは、冷めても柔らかくて美味しいです。
 実はこの店、白のトレックさんの親戚の方が経営しているお店です。土日のみの営業です。

 つくさんと稲葉さんはみたらしの店にて、それぞれ解散。熱田神宮公園には幹事一人でゴールしました。自由に解散できるところが探訪あいちの良いところ。
 天気も良く、気温もちょうど良く、最高のサイクリング日和でした。参加してくださった皆さん、ありがとうございました。

【サイクリングコース】
熱田神宮公園(午前8時20分)⇒ 佐屋街道 ⇒ 万場大橋 ⇒ 大治浄水場 ⇒ 尾張水道みち ⇒ 名鉄山崎駅 ⇒ 西中野渡船場 ⇒ 中野の渡し〔乗船〕⇒ 新濃尾大橋 ⇒ 〔昼食〕 ⇒ 尾張水道みち ⇒ <往路と同じ> ⇒ 熱田神宮公園・解散(午後2時15分)
距離:60km
所要時間:5時間55分

【参加者】
本田智久さん、つくさん、白のトレックさん、稲葉栄二さん、幹事(まつぼっクリ) 計5人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「11月15日(土) 木曽川中野の渡しと新濃尾大橋」を御覧ください。

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■2025(令和7)年11月1日(土) 曇のち晴

 長篠・設楽原の戦いは、1575(天正3)年5月21日、三河国の長篠城をめぐって織田信長・徳川家康の連合軍と武田信玄の息子武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。
 戦場となったのは、長篠城と設楽原で、日本で初めて鉄砲(火縄銃)が使われたことで知られています。
 長篠の戦いが起こった原因は、徳川家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。
 織田徳川連合軍が武田軍を迎え撃った結果、織田・徳川連合軍が大勝し、武田勝頼は権勢を失いました。この戦いは、織田信長と徳川家康の勢力を強め、武田勝頼の権勢を失わせる大きな契機となりました。
 今年はその合戦から450年の節目になります。
 新城市では令和7年8月1日(金)から11月30日(日)まで「戦国への道デジタルスタンプラリー」を実施しています。
 今回の探訪あいちでは、織田・徳川連合軍コース(信長・家康 覇道への躍進の道)をめぐり、デジタルスタンプを集めます。規定のスタンプ数を取得すると、オリジナル武将缶バッチがもらえます。

 名鉄で豊川稲荷駅へ。JR豊川駅から飯田線の2両編成の列車に乗車。
 新城駅舎を出ると、黒い雲が広がっています。晴れの予報だったのに、外れです。
 県道439号線を東北に進みます。国道151号に比べると交通量が少ないので快適です。
 川路光正寺交差点を左折し、JR三河東郷駅西の踏切を渡ると、信玄塚の案内矢印があります。従って進むと、首洗池です。

○首洗池
 国道151号竹広交差点の角にあります。
 合戦の際、戦死者の首や武具の血を洗った池と伝わります。
 名称からして恐ろしいですが、今は蓮があって静かな池となっています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「首洗い 池は血色に 水濁る」

 「設楽原古戦場いろはかるた」は、織田・徳川連合軍と武田軍との戦いをしのび、戦跡や伝承を残していくため、48句(あとで2句追加されて今は50句)のカルタで詠み表したものです。

○信玄塚
 首洗池から北に緩い坂を上って行くと、信玄塚です。
 設楽原の戦いで主戦場となった竹広村の住民達は合戦の後帰村し、知名武将をそれぞれの地に埋葬しました。残った多くの屍体を丘陵の1カ所に運び、大きな穴を2つ掘り、そこに両軍の戦没者16,000人を埋めて塚を築きました。戦死者の多かった武田軍の武将を大塚に、戦死者の少なかった織田・徳川連合軍の武将を小塚に葬りました。
 それにしても、こんなに多くの屍体をどのように処理したのでしょうか?
 合戦で村を追われた村民は、大変な思いをしたに違いありません。

①設楽原歴史資料館
 信玄塚のすぐ後ろ側が設楽原歴史資料館です。
 資料館の受付窓口にてスタンプラリーに参加したい旨を申し出ると、女性職員の方がQRコードを出してくれました。スマホで読み取ります。
 10か所の史跡スポットへ行き、スタンプエリア内(GPS判定)へ入るとデジタルスタンプが押せる仕組みです。
 まずは設楽原歴史資料館で最初のスタンプを押してスタート。

 資料館からの急坂を下りると、連吾川。
 武田軍と織田・徳川連合軍の最前線の間に流れていた川です。
 そこに架かっている橋のところが柳田前激戦地でした。生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所でもあります。

  設楽原古戦場いろはかるた 「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」

②馬防柵(ばぼうさく)再現地
 連吾川のすぐ先に馬防柵があります。
 馬防柵は戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために、信長が考えだした作戦とされています。信長が連吾川のすぐ手前に馬防柵を築いたことは、設楽原に一つの巨大なお城を築いたと同じ意味がありました。織田・徳川連合軍は攻めてくる武田軍の騎馬隊を鉄砲(火縄銃)で迎え撃ったのです。

  設楽原古戦場いろはかるた 「えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる」

 この馬防柵の丸太は、織田信長が岐阜から設楽原へ行く兵士に一本ずつ持たせたものだといわれています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」

 武田軍の土屋昌次は、三重に廻らされた馬防柵の第二柵まで突破しましたが、第三柵に辿り着くところで一斉射撃により戦死しました。

 馬防柵のすぐ前にある田んぼでは、子供達も参加して稲刈りが行われていました。田んぼアートで「450」の文字があったようです。

③徳川家康本陣地〔八剱神社〕
 馬防柵の次は、息を切らしながら峠越えをして、徳川家康本陣跡に至ります。今は八剱神社となっています。

  設楽原古戦場いろはかるた 「家康が 本陣ここに 八剱山」

④一筆啓上の地
 徳川家康本陣跡に隣接して東郷中学校があります。ここの校庭は馬防柵を模した柵で囲まれています。「平成の馬防柵」と言われます。
 そして、この辺りから、日本一短い手紙と知られる「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」を、徳川家康の家臣・本多重次(作左衛門)が設楽原の陣中から妻に送ったといわれています。

 中学校の西側に大宮川流れていて、そこに家康が一重柵を建設しました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「井戸がわり 大宮川で 渇いやす」

⑤岡崎信康陣地
 田んぼ道を西進して右折。道路沿い左手の小山に「岡崎信康本陣地」の看板がありました。その左に松尾神社があります。
 岡崎信康は徳川家康の嫡男(ちゃくなん、正妻が産んだ最初の男子)で、17歳で設楽原の戦いに参戦し、松尾神社に布陣しました。
 家康が遠江・浜松城に居城を移したため、それまでの居城だった岡崎城を、まだ11歳の信康に譲りました。これを契機に、信康は「岡崎三郎信康」となりました。
 合戦の時、家康は34歳だったので、計算すると16歳の時の長男でした。今の高校生の歳で父親になっていたのです。

⑥織田信忠陣地
 野辺神社が織田信忠陣地でした。信長が本陣を置いた茶臼山の南側に位置します。
 織田信忠(当時19歳)は織田信長の嫡男です。

⑦織田信雄(のぶかつ)陣地
 今は特別養護老人ホームが建っている北側の高台に本陣を置いたのが織田信雄です。
 織田信長の二男で、伊勢北畠家の養嗣子となって継いだため北畠信雄と称するようにになりました。当時18歳でした。現在この場所は八幡神社になっています。

⑧織田信長戦地本陣地
 今回のコースで最も高い場所にあります。本来なら当時の雰囲気が味わえる山道を自転車を押して上るところでしたが、昨日の雨でぬかるんでいるため、新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリア(PA)から上るルートに変更しました。PAへは舗装道路が整備されているものの、勾配はきついです。4速しかないブロンプトンなので、貧脚の私では押して上るしかありません。
 PAから「織田信長戦地本陣跡」の大きな看板が見えます。
 階段を上って、140mの茶臼山山頂へ。
 織田信長は設楽原の決戦に備えて、上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った後、ここ茶臼山に本陣を移し指揮をとりました。全国でも珍しい信長が心境を詠んだ歌碑があります。
 「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
 間もなく雨もあがり、松の梢を渡って来るすがすがしい風の中を、きつねの鳴き声が聞こえる。その情景をとらえて、信長は(火縄銃が使え)「うれしき」と心境を詠みました。
 この場所なら、武田軍の動きがよく見えたのではないかと想像します。

  設楽原古戦場いろはかるた 「信長の陣 茶臼山に 歌碑もあり」

 行きは難儀して上った道も、帰りは一気の下りです。

⑨織田信長旗本陣
 茶臼山の南、平井神社へ。
 この辺りが信長が旗本陣として「信長ここにあり」と幟旗や旗指物を林立させた場所です。清め水の奥に「織田信長旗本陣跡」の石碑があります。

⑩織田信長本陣極楽寺跡
 同じく平井神社の付近にかつては「極楽寺」がありました。信長が最初の本陣とした場所です。合戦でお宮もお寺も焼失してしまいました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺」

 これで、10か所のチェックポイントをコンプリートできました。

 ところで、合戦のとき、武士たちは小便や大便をどうしていたのでしょうか?
 陣地での便所はどうなっていたのでしょうか?
  尿意や便意は生理現象で、武将であろうが一兵であろうが、絶対に避けられません。
 調べてみると、垂れ流し状態だったようです。

 戦国時代、トイレは「厠(かわや)」と呼ばれていました。
 陣地では仮設の穴掘りトイレが設置されていたようです。地面に穴を掘り、その上に簡素な木製の座を設置するだけの構造でした。モノがたまったら土で埋めて、別の場所に新たにつくったのではないでしょうか。
 戦場や移動中では、排泄物を適切に処理することは難しく、道端や田畑などで用を足すしかなかったでしょう。そのため、清潔さや衛生面で問題が生じたり、疫病の原因になったり、周囲の環境への影響があったと考えられます。武士の中には、戦ではなく、病気で死ぬ者もいたに違いありません。
 なお、武士たちが合戦の時に履く袴は又の部分が切れていて、素早く小用を足すことが可能で、しゃがむと左右に開くようになっていたといわれます。
 しかし、合戦の最中にのんびりとしゃがんで用を足せば、その間に敵に首を取られてしまうかもしれないので、実際は、戦いながら用を足していたのでしょう。なので、戦場の跡には屍体とともに糞尿が散らかっていたと想像します。もしかしたら、農民たちが肥料に使ったかもしれません。

 正午が近づきました。昼食にしましょう。
 国道上平井交差点にほど近い『里味』にて。
 寿司、うどん、かつ丼などを提供する和食の店です。周辺に飲食店が少ないので、結構賑わっています。
 カウンター席に座ると、中では大将が寿司を握っていました。寿司ネタは余り大きくありません。一番残念なのは、だし巻き卵が既製品であること。これを見て寿司を頼むのはやめました。
 かつ丼、うどん、サラダがついたミニ定食セット(1,200円)にしました。ただ、これも不味くはないものの、豚肉が貧弱でした。

 国道151号を東へ。設楽原歴史資料館への坂の手前角に石碑がありました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」

 甘利郷左衛門尉信康は、武田軍の左翼隊に属し、徳川軍に対しました。中央隊とも力を合せて馬防柵の第三の柵をも破る勢いで奮戦しましたが、武田軍が総崩れになると、信康は天王山までじりじりと押し戻され、この辻辺りで立ったまま無念の切腹をしたといわれます。

 午後1時前に設楽原歴史資料館にゴール。
 受付窓口でスマホの画面を見せ、オリジナル武将缶バッチ(2個)と交換してもらいました。織田信長、徳川家康、武田勝頼、山県昌景、奥平信昌、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の6種類あります。

 資料館の前に立つ銅像は、郷土の偉人・岩瀬忠震(ただなり)という方です。幕末の日米修好通商条約調印の立役者となったそうです。

○長篠役設楽原決戦場
 帰路、東郷中学校の裏を通ってみると、「長篠役設楽原決戦場」の碑がありました。

  設楽原古戦場いろはかるた 「日は悲し 一五七五ぞと 武田七九」
(「一五七五」は1575年、「七九」は7月9日(旧暦で5月21日)、設楽原決戦の日を表わしています。)

○新城消防署
 国道に面して建つ新城消防署に「一筆啓上 火の用心」の石碑があります。
 「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」の「火の用心」の部分をアピールしたモニュメントです。「火の用心」が赤色で書かれているのが、消防署らしいです。

 帰りは国道151号を進みます。東名高速道路豊川インター手前の上野町交差点を右折して道なりに進むと、豊川稲荷駅に到着しました。

 今までぼんやりとしか知らなかった歴史を学習できた探訪でした。

【サイクリングコース】
JR新城駅(午前9時10分) ⇒ 設楽原歴史資料館 ⇒ 馬防柵 ⇒ 徳川家康本陣地 ⇒ 一筆啓上の地 ⇒ 岡崎信康陣地 ⇒ 織田信忠陣地 ⇒ 織田信雄陣地 ⇒ 織田信長戦地本陣地 ⇒ 織田信長本陣極楽寺跡 ⇒ 織田信長旗本陣 ⇒ 〔昼食〕 ⇒ 設楽原歴史資料館 ⇒ 名鉄豊川稲荷駅(午後2時45分)
距離:37km
所要時間:5時間35分

【参加者】
幹事(まつぼっクリ) 計1人

★当日の写真は、愛知県サイクリング協会のホームページ➔「フォトギャラリー」➔「探訪あいち2025」➔「11月1日(土) 長篠・設楽原の戦いから450年の古戦場を訪ねて」を御覧ください。

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