こんにちは。
GOLDEN KIDです。
今年も早いもので3月ですね。気づいたら前回の更新からだいぶ経ってしまいました(汗)
ひさしぶりの今回は、デカルトが提唱した有名な命題「我思う、ゆえに我在り」について私なりに見ていきたいと思います。
「我思う、ゆえに我在り」は、言い換えると「私は思考する、だからこそ、私は存在する」と言うことかと思いますが、結論から言うと、ここでいう<思考>と<私>は、<他者>と<自己>の関係と等価と言えます。
何のこっちゃと思われるかも知れませんが、自己は他者がいればこそ存在し、他者もまた自己がいればこそ存在します。これは何となくでも理解できるかと思います。
ただ、<思考>と<私>の関係では普通、<思考>と<私>の間には明確なライン(境界線)がありません。このような状態を中和と言います。<私>が<思考>の渦におぼれ、差異が見えていない状態です。
しかし、思考の渦から脱却し、客観視できる位置に<私>が昇華すると、<思考>と<私>との間には明確な差異が生まれます。そしてこの時、<思考>と<私>は<他者>と<自己>の関係と等価という意味も分かるようになるかと思います
そしてこの時<思考>に全く影響を受けない<私>が現れるのです。このような状態を「悟り」などと呼んだりもします。
では、<他者>と<自己>の関係を見ていくと、実は<思考>と<私>の関係と同様、私たちは普通、両者の差異は見えていません。
肉体的には他者と自己のラインは明確なのでしょうが、精神的にはそのラインが全く見えてなく中和しているのです。
私たちの思考は、大部分が受動的なものです。意識せずとも勝手に浮かび上がってくるのです。そしてこの思考を、私たちは普通自分と考えています。もしかしたらこのような意味が「我思う、ゆえに我在り」に含まれているのかも知れませんが。
しかし、先ほどの通り、(受動的)思考の渦から脱却し、客観視できる位置に私が昇華すると、<思考>と<私>の差異が生まれ、かつ(受動的)思考は他者側から送られてくるものという認識に至ります。この時、<他者>と<自己>の差異も明確になるのです。
結局、「我思う、ゆえに我在り」は、思考するから私が存在するというより、思考と私の差異が明確になればこそ、<私>の存在が明確になると捉えることが、サイポロジー的に正解といえるかも知れません。本当の意味で<私>の存在が明確にならなければ、「我在り」とも言えないからですね。
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