鬼の説法集(悟りへの道) -19ページ目

鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

775 :龍昇:2010/10/04(月) 19:08:43 ID:PzMUprMI0
>鬼和尚

一つ説いていただきたい。
ただ見守る観察者、認識主体。
それを滅するとは、一体どういうことなのか。

777 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/10/04(月) 19:52:56 ID:hMlmt1ok0
>>775 実は人が通常行っている認識、阿頼耶識と呼ぶがそれは言わばニセモノの認識なのじゃ。
 本来のものから離れた偽りの認識、うその認識なのじゃ。
 それは記憶に依存し、本来の認識を邪魔しておる。
 それ故に、人は在りのままの世界を見る事が出来ず、記憶から出た思考や感情や行動を繰り返しておるのじゃ。
 阿頼耶識によって認識する世界を持っている人間は、進歩する事無く、同じ過ちを繰り返し、本来の世界を認識する事無く、苦を繰り返し受けるのじゃ。

 この偽りの認識が滅すれば、本来の認識が現れるのじゃ。
 それによって生死の認識も改まり、不死の境地に到達し、全ての苦を滅し、再び繰り返すことが無くなる。
 苦であった一切の世界が転じて全て楽となり、その楽さえも執着したり、必要としたりしなくなる。
 一切が在りのままの菅として認識され、全てが己の肉体も含めて平等の意識を持ち、沈黙の声を放っていると知覚される。
 求めずして五智が生じ、目覚めた者と呼ばれるようになるのじゃ。

779 :龍昇:2010/10/04(月) 20:19:07 ID:PzMUprMI0
>>777
こりゃ自ら往かねば。
ありがとうございました。

804 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/10/05(火) 19:28:48 ID:hMlmt1ok0
>>779 どういたしまして、またおいでなさい。
393 :避難民のマジレスさん:2010/09/22(水) 07:57:15 ID:vw3hcs3QO
無我って?

認識まで、無くすことなのかな?

そんなことしたら、ハクチだ。

無我って、
悟りなのか?

何を悟ったって言うのだろう?

無我にして悟る
とは?

396 :すもも:2010/09/22(水) 11:03:55 ID:xH8cWPQc0
鬼和尚

無我っていうのは、本当に自己(の意識)がないことではないですよね?
いや、実体がない、というのは理解しているのだけど、
現に和尚は今、この世で生きて話している。
それは、自我・・の働きではないのですか?
「仮設された自我」とおっしゃってはいたけど。。

肉体には、免疫システムがあります、よね。
これは、マナ識とか、アラヤ識とかが関与しているのか知りませんが、自己が意
識しなくても眠っていても、働いているシステムです。
自己と他者を分別して、自己を守っている。
何も人間のあの人と自分を分けるだけでなく、自分以外の空気や水や細菌や動物
等々、環境すべてと、自分を分けて、働いてる。

自我もそういうものなんではないですか?

和尚の言われる無我ってどういう状態なのでしょうか。

へんな文章ですみません。

399 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/22(水) 20:27:32 ID:hMlmt1ok0
>>393>>396 無我とは本来、真我が無によって定義されると言う事じゃのう。
 それが本当の意味じゃッた。
 禅の者が誤解して自我が無い事だと思い込んでしまったのじゃ。
 それで無我が悟りとか、誤解が広まってしまったのじゃ。

 一応、自我が無い事として言えば、それは己であると言う言葉とイメージが無いことじゃのう。
 自分とは意識とか、自他をわけるものであると認識するという事は、そのような言葉とイメージを持ち、それに対して己であると誤解している状態なのじゃ。
 本当に意識とか、自他をわけるものだけであれば、言葉で罵倒されても、何の意味も無い。
 罵倒されて傷つくのは、言葉とイメージが自分であり、それが傷つくと思うからなのじゃ。

 そのような己と言う言葉とイメージが無い状態が、無我と言えば言えるじゃろう。
 しかし、言葉とイメージによる認識が残っていれば、再び自我は思い出したり、作られたりするのじゃ。
 それ故に無我とはまだ途中であり、真の悟り、大悟徹底したとは言えないのじゃ。

493 :すもも:2010/09/23(木) 09:44:08 ID:GwHybZa60
>>399
自我、自己、自分、意識・・全部ごちゃごちゃにしてるのがそのまま出てますね、私のレスww

無我については、諸法無我、無自性空。
真我については、有無の決着をつけない、というスタンスもありのようだな。
という風に、一応なんとなく「理解」してるのですが。。

なんというか・・悟った人の「実感」に興味がある、ということです。

鬼和尚は運送業?だとしたら、今日はお客さんにこんなことを言う人がいたが自分はこんな風に感じた、みた、というような話を具体的にお聞きしたい。という。

その気になったら是非書いてください。
レスありがとうございました。

508 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/23(木) 20:14:14 ID:hMlmt1ok0
>>493 わしはもう勧請が動く事も少ないのじゃ。
 仮設された人の言葉とイメージが見え、ただ一つであるものも感じる。
 やがて人の世と別れていくのじゃ。
 またおいでなさい。

523 :すもも:2010/09/23(木) 21:32:22 ID:2/sl0/As0
>>508
なんかすごく寂しい感じ。寂静というより、寂寥に近い感じ?がしてしまう。
和尚のもともとの性質のせいかもしれないけど。
私の夢から覚めていない自我満開の受信機では、理解できないかも。。ふーむ。。

でも、ありがとうございました。

540 :話にならん:2010/09/24(金) 00:49:36 ID:WnQoifBo0
>わしはもう勧請(感性?)が動く事も少ないのじゃ。
 仮設された人の言葉とイメージが見え、ただ一つであるものも感じる。
 やがて人の世と別れていくのじゃ。

鬼オショさん、お釈迦様は80歳まで生き、多くの人に法を説き、多くの人に勇気を与えた。
福岡正信も還暦を過ぎてから、何冊かの本を書き、新しい農業の道を切り開き、95歳まで生きた。
鈴木大拙も全世界に禅を紹介し、「Zen」が共通語となり、オショーにも影響を与え、96歳まで生きた。

にもかかわらず、覚者である鬼オショさんが「やがて人の世と別れていくのじゃ」と当たり前のことを
弱気がちに言うのは、何事か? 喝なのじゃ!!!

559 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/24(金) 19:51:54 ID:hMlmt1ok0
>>523 本当はそこにこそ安らぎがあるのじゃがのう。
 またおいでなさい。

>>540 大丈夫じゃ。
 わしも長く生きるじゃろう。
 みんながびっくりする位にのう。わっはっは。
146 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/13(月) 19:52:01 ID:hMlmt1ok0
 今日もダンマパダより学ぶのじゃ。
 このような言葉がある。

185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短く
て苦痛である」としるのが賢者である。

186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅
を楽しむ。

岩波書店「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より。

 良い言葉じゃ。
 欲望に執りつかれた者は、どんなに金や名声や権力があっても、決して満足はしないものじゃ。
 すでに生活には困らないほどの金があっても、さらに金を求めて不正なことまでする者もおる。
 そして、目的のものが手に入ったとしても、実には満足も出来ないものなのじゃ。

 多くの世間では成功されたと言われる者達も、それで満足したとか、心が満たされたとか言う者は居ない。
 わずかに貧困の不安を逃れ、目的を達成したのはいいが、これからどうしていいか判らない者ばかりじゃ。
 人によっては酒や薬などにおぼれ、ついには身を滅ぼす者も居る。

 何故そのような事になるのかと言えば、人は実は欲する物を追いかけているのではなく、不安や恐怖、苦などから追われているからなのじゃ。
 それらから追われ、少しの間、忘れるために欲する物を作り上げているのじゃ。
 それ故に目的を達成しても満足せず、次々にまた欲望が現れたり、酒や薬などに頼ってしまうのじゃ。
 貨幣の雨がふっても、心の中の不安は消えないものじゃ。
 しかし、そのような不安や恐怖、苦などが観察によって消えれば、それらに依存していた妄執も消え、本当の安らぎと満足が得られるのじゃ。

 例えば誰かが草原で、でかい虎などに追いかけられていたとしよう。
 トラから逃げるために、人はもっと良い靴が欲しいとか、車が欲しいとか思うじゃろう。
 車が手に入れば、もっと頑丈な車が欲しいとか、早い車が欲しいとか、考えるじゃろう。
 しかし、それらを手に入れても虎はやっぱり追ってくる。
 勇気を出して虎を見てみれば、実は己の影に過ぎなかったと知る。
 そしてもう安心して、車も何もいらなくなる。

 これと同じように人は不安や恐怖、苦に追われて、金や権力や名声を欲しがる。
 それらがあれば不安や恐怖、苦などが癒されると信じておる。
 しかし、それらを得ても依然として不安や恐怖、苦などは追ってくる。
 それ故に満足する事が無く、次々に欲しい物を作り出し、別の逃避を作り出す。

 しかし、ここにある者が自らの心を観て、不安や恐怖、苦などが己の心に在ると知り、それを滅する事が出来れば、自然にそれらの妄執も滅して行くのが判るじゃろう。
 それら恐るべきものが、実は己の心の中に在るものであり、それを滅する事が出来ると判れば、妄執もまた消せるものと知るじゃろう。
 無理に満足するのではなく、己の心から苦が無くなる事で、妄執は消え去り、自然に満足する。
 それが真の足るを知る事と言えるじゃろう。

 そのように妄執の消滅によって、二つの楽しみがある。
 一つは苦が滅した事であり、もう一つは妄執が滅した事で、欲するものが得られないという苦も滅する事じゃ。
 もはや欲する物を、無理に追いかけなくて良い、とする安心は真に深いものじゃ。
 それこそ本当の満足するという事だと気づくじゃろう。

 真に修行の道には楽しみが多いものじゃ。
 不安や恐怖、苦に追われ、欲しい物を得られず苦しみ、さらにそれを得ても満足できず、次々に欲しい物を作り出す人の心より、そのように苦を滅して安心し、満足する修行者の心は遠くかけ離れて行くものじゃ。
 みんなもそのように貨幣の雨でも満たされない妄執を捨て、真の楽しみの多い道を進むのじゃ。

171 :避難民のマジレスさん:2010/09/14(火) 12:44:39 ID:yYkxj3/E0
>>146 鬼和尚さま

もはや欲するものを無理に追いかけなくても良いとする安心は、真に深いものじゃ。
それこそ本当の満足するという事だと気づくじゃろう。

これは、悟りにおいても然り、と悟ることでしょうか。

172 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/14(火) 19:41:33 ID:hMlmt1ok0
>>171 そう考えても良い。
 自ら確かめるのじゃ。

209 :避難民のマジレスさん:2010/09/15(水) 19:07:25 ID:nBCr2DdU0
>>172 鬼和尚さま
>>171 です

質問に答えて頂き有難うございます。
私は鬼和尚の教えに従い、観察により己の苦の原因が
己の理想を追い求めすぎる事による妄想であると自覚できました。
求めても得られぬものに執着し、嘆き苦しみ己の境遇を呪い
生まれてきた事を、それでも生きて行かねばならない不条理を呪いながらの人生でした。
しかし、それでも私は不思議に神の存在を信じて疑わなかった。
今のこの苦しみは自分が成長するための試練であると。
生まれる前に自分で自分に課した課題に違いないと、信じていたのです。
真実のほどは未だはっきり分かってはいませんが、鬼和尚の教えとの出会いは
私にとっては神さまの計らい意外の何者でもないと信じています。

そして苦が妄想であると知ったことにより初めて、この世に見放された存在はなく
全てが真理に裏打ちされた尊き存在であったのだと気がついたのです。
私は依然個我から抜け出せてはおりませんが、それでもこの気づきを与えてくれた
今回の人生を無駄にせず、今後に生かしながら生きていきたいと思っています。
勿論悟りをけして諦めたのではなく、それだけに執着するのでもなく
せっかくの今世での人生をしっかり見極めたいと思っているからです。
それは両立できるはずですよね鬼和尚。
そうでなければあまりにも悟りが意味を成さないものになってしまう。

そうは言ってもやはり鬼和尚のブログは私にとってかけがえのない教えであります。
これからも、どうか一日でも長く私たちを導いて下さいますように、ご自愛下さい。

210 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/09/15(水) 20:07:17 ID:hMlmt1ok0
>>209 いい事じゃ。それは両立できるじゃろう。
 いずれ悟りが得られれば全ての理想が実現したと知れる。
 その時まで苦を滅しながら楽しく進むのじゃ。
160 :避難民のマジレスさん:2013/07/05(金) 10:54:11 ID:doF0gNBI0
鬼和尚にご質問です。

A・スマナサーラ長老という人の書いたもの(講義録も)は参考になりますか?
基本的に仏陀の教え、鬼和尚の教えと同じでしょうか?

173 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/05(金) 20:37:54 ID:kaXJvxhM0
>>160 参考にならんのじゃ。
 お釈迦様の教えからは離れてしまっているのじゃ。
 わしの教えとも違うのじゃ。
 何故ならば観察というものがわかっていないのじゃ。
 クリシュナムルティ等の言うように、観察とは習慣になってしまつてはいかんのじゃ。
 観察は毎日機械的な習慣になってしまっては、気づく事が無くなるのじゃ。
 気づきが起こり厭離を起こすために観察は在るのじゃ。
 それには今ここに強く集中して、観察しなければならないのじゃ。
 集中力の無い人間にはそれが難しいのじゃ。
 それ故にお釈迦様は集中の行、心を止める止の行を観察と共に教え、止観を正しい修行として教えたのじゃ。
 わしも止観を教えているのじゃ。

 そして縁起を観察する事もお釈迦様の正しい教えなのじゃ。
 人の心は連想的に働く故に、縁によって心は起こるのじゃ。
 それを観察することで苦は滅し、無明も滅するのじゃ。
 上座部仏教にはその縁起を観察する法が全て抜けておる。
 それではお釈迦様の教えそのままとは言えないのじゃ。

174 :避難民のマジレスさん:2013/07/05(金) 21:30:53 ID:doF0gNBI0
>>173
なるほど、ありがとうございます。

では、「Who am I?」を問い続けろとおっしゃったラマナ・マハルシはいかがでしょうか?
和尚も何度もお話に出していらっしゃいますが。
これは、お釈迦様や鬼和尚と通じているのですか?
よろしくお願いいたします。

175 :避難民のマジレスさん:2013/07/05(金) 21:33:20 ID:WL2yRwjAO
何故、釈迦からの直説相伝をうたう上座部仏教の方が釈迦から離れ、必ずしも釈迦本人が宗祖ではない大乗仏教の方が釈迦以来の正しい教えが伝承されているのでしょうか

195 :避難民のマジレスさん:2013/07/06(土) 10:54:31 ID:Mkx8m48k0
>>173
確かにスマナサーラさんの本は「なんでみんなそんな事で怒ってるんですか?怒る必要ないでしょう。だって~」みたいな話ばかりで、
読めば確かに納得が行くのですが、
誰でも毎日、一生実践できるような方法論では無いというのが私の感想です。
スマナサーラさん自身は確かに無意識に高度な思考を実践しているのでしょうが、
本に書いてあるのは彼の深い思考から導かれた最後の部分といいますか、
とても表面的な解説に過ぎないような気がいたします。
悟りを開いたからと言って、悟りを体系化・文章化・方法論化できるわけでは無い、そんなイメージが当てはまります。

213 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/06(土) 20:03:09 ID:kaXJvxhM0
>>174 そうじゃ、そもそも観察によって何を気づかせるのかと言えば、己ではない言葉やイメージを己であると想っている事に気づかせるものなのじゃ。
 それに気づくだけで言葉とイメージによる観念でしかない自我との自己同一化が厭離されるのじゃ。

 肉体や心をひたすら観察することはそのような己を探すためなのじゃ。
 己とは何かを追求し突き詰める事が出来れば方法もいらないのじゃ。
 その方が難しい故に、観察や集中の法があるのじゃ。

>>175 大乗仏教も見失っているのじゃ。
 禅にも集中の法ばかり伝わっているのじゃ。
 禅と上座部仏教の観察を合わせれば丁度一人前なのじゃ。

>>195 自分に出来ない事を他人にさせるのは導師とはいえないのじゃ。

241 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/06(土) 21:25:40 ID:kaXJvxhM0
お釈迦様の教えとは本来、世の中の常識とは外れた道なのじゃ。
 それ故に出世間の法とも呼ばれるのじゃ。

 世の中の常識が金や名声や権力を求め、それらを積み重ねる道であるならば、お釈迦様の教えとはそのようなものを悉く捨て去る道なのじゃ。
 富貴や栄達を捨て去り、乞食となって人家に食を乞うのが出家と呼ばれるのじゃ。

 お釈迦様自身も他人の家に食を乞う手歩いたのじゃ。
 一切の栄楽を捨て無一文の身になる事が安らぎへの道なのじゃ。

 一切の財貨や名誉や権力は死に対しては何の役にも立たないのじゃ。
 それらに執着する者は現実に行動しているように見えて、本当は死という現実には対処していないのじゃ。

 一切の栄誉と財産を捨て、心を整える事こそ真の現実に対処する道なのじゃ。
 死と言う現実に対処し、それを超えて人は目覚めた者と呼ばれるのじゃ。

 そのようであってこそ肉体を持った意味もあった言えるのじゃ。
 滅びていくしかない肉体で不死の境地に到達する事が出来たのであるからのう。
 修行者は虚仮でしかない栄誉や財貨を捨てて、そのような永楽の境地を目指すのじゃ。
651 :!ninja:2011/07/11(月) 20:08:10 ID:kl1CR23s0
鬼和尚
jクリシュナムルティは悟っていたとのことですが、
彼の年とった時代の写真を見ると「ガッカリ」とか「後悔」とか「幸せじゃない」「嫌々」
みたいな表情ばかりしている気がします。
悟っている方は「どうでもいいよ」「楽しいよ」的な表情をされている気がするので
彼は悟っていたようには見えません・・・
未熟な私の思い込みでしょうか?

659 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/11(月) 22:52:06 ID:hMlmt1ok0
>>651 人間の顔は年をとるとサルに似てくるからのう。
 さらに自分を飾る気もないと不気味に見えるものじゃ。
 彼は悟っておった。

682 :グルジェフファン:2011/07/12(火) 18:23:48 ID:kKhhLAiI0
鬼和尚さま
人間は、自由意志があると思ってるだけで実は無い気がします。
意志のエネルギーが起こって、それに反応してるだけではありませんか?
グルジェフの「全てはただ起こるのだ」はそういう意味ですか?
クリシュナムルティは、グルジェフが知ってたのは「少しです」と言ってたらしいです。か
グルジェフは悟ってないって事ですか?

685 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/12(火) 20:38:32 ID:hMlmt1ok0
>>682 そうじゃ、そのような意味じゃ。
 人間はただ同じ刺激に同じ反応をしているだけなのじゃ。

 グルジェフも東洋の修行法としてヨーガなどをやっていたようじゃが、インド人で子供の頃から習っていたクリシュナムルティには僅かな知識でしか無かったじゃろう。
 グルジェフは悟っていたが、東洋の叡知については余り知らなかったのじゃ。

689 :グルジェフファン:2011/07/12(火) 22:11:09 ID:kKhhLAiI0
>>685
ありがとうございます。
さらに質問させていただきます。

意志のエネルギーが起こった後の反応として、その刺激に対する各肉体を通したオリジナルの思考が発生(個人の脳が作成)するのでしょうか?

それとも、その思考すら各肉体に関係なく、決まった思考エネルギーとして発生(個人の脳が受信)するのでしょうか?

上記2点は私的には違うイメージですが、同じことなのでしょうか?

695 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/13(水) 20:28:47 ID:hMlmt1ok0
>>689 個体の経験になどによる幾つかの違いを、オリジナルというものとすれば、思考は肉体それぞれにとってオリジナルというものになるじゃろう。
 思考内容に関わり無く、思考エネルギーだけならば、全ての者に共通のものになるじゃろう。
 それらは観察する者が何を基準にするかで変わって来るものじゃ。
 自らの観察をもって確かめるのじゃ。

696 :グルジェフファン:2011/07/13(水) 21:04:57 ID:kKhhLAiI0
>>695

ありがとうございました。
思考が個々のオリジナルとなると、事が起こり、思考が発生し、その思考を元にまた事が起こりの繰り返しで、思考によって次に起こることが決まってくるように思います。そうなると、グルジェフの「全てはただ起こるのだ」と矛盾するように思います。
これが思考の限界でしょうか?

733 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/14(木) 20:15:53 ID:hMlmt1ok0
>>696 オリジナルな思考と言うものも、実は記憶の中から起こっているだけなのじゃ。
 刺激に反応した認識が記憶の中にある様々な対象の言葉やイメージを組み合わせて、思考として意識されるのじゃ。
 記憶から起こる機械的な反応である故に、実は自分の考えとか、自由な考えなどは無いのじゃ。

734 :グルジェフファン:2011/07/14(木) 20:41:27 ID:kKhhLAiI0
>>733

自由な考えはないのに、自分が考えてると錯覚してるわけですね。
その記憶から来るパターンの数だけ人格があり、それをグルジェフは偽りの人格と呼び、またその機械的な反応から「人間は機械だ」と言っていたであってますでしょうか?

735 :グルジェフファン:2011/07/14(木) 21:01:44 ID:kKhhLAiI0
>>733

鬼和尚さまの >>733 の回答が来る3時間ほど前に、小学生の頃の記憶で、ある出来事が起きたときに「私は何でこの考えになるのかわからない」とゆう記憶が浮かんできました。

その回答が >>733 だと思います。

この小学生の頃の記憶の問いが急に浮かんだのと鬼和尚さまの回答が一致したのは、偶然or必然でしょうか?

771 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/15(金) 20:25:54 ID:hMlmt1ok0
>>734 そのようなものじゃ。
 思考も感情も認識さえも機械的な反応をしている事を観察するのじゃ。  

>>735 しんくろにしていじゃな。
 全ては必然による偶然なのじゃ。

772 :グルジェフファン:2011/07/15(金) 20:52:45 ID:kKhhLAiI0
>>771

ありがとうございます。
全て必然による偶然と言われてしまうと、「起こることは決まってるけど気づけない」と解釈してしまいます。
この解釈も記憶から来るパターンだと思うとむなしいです。

809 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/16(土) 21:32:44 ID:hMlmt1ok0
>>772 それが思考の限界というものじゃ。
 全ては決められていると知れば虚しい。
 何もかもただ己の認識があるだけと知ればまた虚しいものじゃ。

 観察はそのような限界を超える事が出来るのじゃ。
 観察して自らが機械的な反応しかしていないと気づけばそこから厭離が起こる。
 観察によって認識の反応が機械的に起こると気づけば、それも滅する。
 それ故にグルジェフも他の目覚めた者達も観察を勧めるのじや。

825 :グルジェフファン:2011/07/17(日) 19:30:31 ID:kKhhLAiI0
>>809

ありがとうございました。

826 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2011/07/17(日) 20:12:50 ID:hMlmt1ok0
↑どういたしまして、またおいでなさい。
 今日もダンマパダより学ぶのじゃ。
 このような言葉がある。

185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短く
て苦痛である」としるのが賢者である。

186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅
を楽しむ。

岩波書店「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より。

 良い言葉じゃ。
 欲望に執りつかれた者は、どんなに金や名声や権力があっても、決して満足はしないものじゃ。
 すでに生活には困らないほどの金があっても、さらに金を求めて不正なことまでする者もおる。
 そして、目的のものが手に入ったとしても、実には満足も出来ないものなのじゃ。

 多くの世間では成功されたと言われる者達も、それで満足したとか、心が満たされたとか言う者は居ない。
 わずかに貧困の不安を逃れ、目的を達成したのはいいが、これからどうしていいか判らない者ばかりじゃ。
 人によっては酒や薬などにおぼれ、ついには身を滅ぼす者も居る。

 何故そのような事になるのかと言えば、人は実は欲する物を追いかけているのではなく、不安や恐怖、苦などから追われているからなのじゃ。
 それらから追われ、少しの間、忘れるために欲する物を作り上げているのじゃ。
 それ故に目的を達成しても満足せず、次々にまた欲望が現れたり、酒や薬などに頼ってしまうのじゃ。
 貨幣の雨がふっても、心の中の不安は消えないものじゃ。
 しかし、そのような不安や恐怖、苦などが観察によって消えれば、それらに依存していた妄執も消え、本当の安らぎと満足が得られるのじゃ。

 例えば誰かが草原で、でかい虎などに追いかけられていたとしよう。
 トラから逃げるために、人はもっと良い靴が欲しいとか、車が欲しいとか思うじゃろう。
 車が手に入れば、もっと頑丈な車が欲しいとか、早い車が欲しいとか、考えるじゃろう。
 しかし、それらを手に入れても虎はやっぱり追ってくる。
 勇気を出して虎を見てみれば、実は己の影に過ぎなかったと知る。
 そしてもう安心して、車も何もいらなくなる。

 これと同じように人は不安や恐怖、苦に追われて、金や権力や名声を欲しがる。
 それらがあれば不安や恐怖、苦などが癒されると信じておる。
 しかし、それらを得ても依然として不安や恐怖、苦などは追ってくる。
 それ故に満足する事が無く、次々に欲しい物を作り出し、別の逃避を作り出す。

 しかし、ここにある者が自らの心を観て、不安や恐怖、苦などが己の心に在ると知り、それを滅する事が出来れば、自然にそれらの妄執も滅して行くのが判るじゃろう。
 それら恐るべきものが、実は己の心の中に在るものであり、それを滅する事が出来ると判れば、妄執もまた消せるものと知るじゃろう。
 無理に満足するのではなく、己の心から苦が無くなる事で、妄執は消え去り、自然に満足する。
 それが真の足るを知る事と言えるじゃろう。

 そのように妄執の消滅によって、二つの楽しみがある。
 一つは苦が滅した事であり、もう一つは妄執が滅した事で、欲するものが得られないという苦も滅する事じゃ。
 もはや欲する物を、無理に追いかけなくて良い、とする安心は真に深いものじゃ。
 それこそ本当の満足するという事だと気づくじゃろう。

 真に修行の道には楽しみが多いものじゃ。
 不安や恐怖、苦に追われ、欲しい物を得られず苦しみ、さらにそれを得ても満足できず、次々に欲しい物を作り出す人の心より、そのように苦を滅して安心し、満足する修行者の心は遠くかけ離れて行くものじゃ。
 みんなもそのように貨幣の雨でも満たされない妄執を捨て、真の楽しみの多い道を進むのじゃ。
 お釈迦様はこの世界を皆苦であると言われた。
 その通り多くの人はこの世において、苦を受けるものじゃ。
 人によっては、苦によって自暴自棄になり、もはや立ち直れないものも居る。
 しかし、どのような激しい苦にも気落ちせず、却って真の幸福への道を求める者が居れば、そのような者こそ真の賢者と呼べる。
 苦によって肉体の限界を知り、皆苦である世界を知るならば、金や権力や名声を求める者より、はるかに優れた智恵を持つものと言える。

 何故ならばこの世において、金や権力や名声を求め、得たとしてもやはりそれは苦の原因になるばかりなのじゃ。
 金や権力や名声を得るために苦労を重ね、そして得れば今度はそれを失ったりしないかと不安を抱える。
 外に行くにも護衛がつき、他人に害されないかと怯えておる。
 そして最後には死によって一切が無くなる。

 もしそのように金や権力や名声を求める者に智恵があり、先を見通せたとしたら、決して免れることの出来ない死によって全ては無になると知り、それほどそれほど必死になって求める事も無いじゃろう。
 不安や恐怖を誤魔化すためにそれらを求め、何も判らぬままに貴重な時間を失ってしまう。
 それが欲に囚われた多くの者の辿る道と言えよう。

 そのような多くの物を持ちながら苦に付き纏わられ、死によって自ら赴く道を知らず、全てを無くす者より、苦にあってもそれを契機として正しい道を知り、実践する事の出来た者は幸運じゃ。
 何故ならば正しい教えは実践すれば苦を滅し、安心をもたらし、遂には死によっても消える事の無い境地に行けるからじゃ。

 金や権力や名声などがどれほどあっても得られない、苦を滅する道が正しい教えにはある。
 金や権力や名声では得られない、死を超える法が正しい教えには存在する。
 それは自らの心身によって実践する事で、確実に得られるものじゃ。
 この世の全ての金や権力や名声を使っても得られない、真の安楽への道が、ここにはあるのじゃ。
 苦によってそれを知り、自ら実践する事が出来たならば、やがて苦を滅した安楽を字わい、却って苦によってこの安らぎを得ることが出来たと、感謝する時が来るじゃろう。
362 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/08/12(木) 20:34:41 ID:hMlmt1ok0
 昔、お釈迦様と同じ時代に六師外道という六人の導師がおったそうじゃ。
 その中の一人が善も悪もないという者が居ったのじゃ。
 善い事をしても善い報いはなく、悪い事をしても悪い報いはないという。
 お釈迦様はそのような者に対して、そのように説くべきではないと言われたのじゃ。
 世には善い事と悪い事があり、善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがある。
 そのように説く事こそ正しい教えと言われたのじゃ。

 一説によれば六人の導師も悟りを得ていたという。
 全てを否定するのも真我の法の一部と言えるじゃろう。
 それでも悟りを得た者の間にも優劣があり、教えにも正否があるものじゃ。
 善悪の基準も仮設された人の世の中にあるものであり、本来は無いとさえ言えようが、それでも善悪はあり、善悪の報いもあると教えるのが、お釈迦様の教えなのじゃ。

 善悪が無く、その報いもないと言えば、戒が浅く、軽率な者は悪事に走る事もあるじゃろう。
 人々は善い事をしなくなり、獣のように争い合って暮らすじゃろう。
 自らの欲にのみ従い、他から奪う事だけを考えるようになる。
 そして実際に個我の観念を持つ者には、やはり悪事には悪い報いがある。
 そのような教えを真に受けて悪事をした者は、この世で苦しみ、死んでからも苦しむのじゃ。 

 それ故に人を教え導く者は、そのように説くべきではないと、お釈迦様は言われたのじゃ。
 そのような説は人を過ちに導くものであり、愚かな教えであり、外道の説なのじゃ。
 悟りを得れば世を超脱し、善悪の基準も無くなるが、それでもあえてそう説くべきではないのじゃ。

 例えば学校に入っている者には校則というものがある。
 すでに学校を卒業した者が、そんなものは無いといって、生徒に校則を破らせれば良い先輩ではないじゃろう。
 校則を守って学問に励むのじゃと、教えるのが正しい教え方といえるじゃろう。

 そのように悟りを得ればもはや善悪の基準も無くなるが、未だ個我の観念を脱していない者には善悪がある。
 そんなものは無いと教えれば、ただ害だけがあって良い事は1つも無く、良い導師とは言えないのじゃ。
 世にいる内には善悪があり、それを守って修行するように教えるのが、正しい教えといえるのじゃ。

 悟りを得て善悪の基準を脱していながら、あえて人には善悪があり、その報いがあると教えるのが、お釈迦様の深い智恵による教えなのじゃ。
 実際に悪いことばかりしていれば多くの悪しき事が起こり、心は乱れ修行どころではなくなる。
 善い事をすれば善い報いがあり、心が静まり、落ち着いて修行ができる。
 それ故にお釈迦様の教えは有用なものであり、正しく、善く説かれたものとして修行者も、目覚めた者も尊ぶのじゃ。
 みんなも善い事をして、心穏やかに修行に励むのじゃ。、

393 :避難民のマジレスさん:2010/08/13(金) 09:35:12 ID:S28fAWe60
>>362 鬼和尚さま

宗教は本当に人を救えるのでしょうか。
例えばキリスト教の神は、人は生まれながらの罪人であり、ただひたすら神の教えに従い
許しを請い、どのように清く正しく生きようとけして己が己を許すことはなく、罪人の誹りを免れない。
それは、どのような善行も神の目から見ればけして完璧では有り得ないから、苦しみ苛むことになる。
かくして人間は、神の許しを求めて永遠にさ迷うことになる。

そして、お釈迦様の教えは、その人間の過去の行いが現在の己の環境を決め、善行をすれば善いことが訪れ悪行には報いがある。
しかしどんなに善行を積んでも救われないものはどうすればよいのでしょうか。
生まれながらに、罪や負い目や劣等感を植え付けられる環境に育つものは、自分ははじめから神仏に見捨てられたかのごとく信じているのです。
人には生まれながらに優劣が存在し、生きる資格がないと信じ込まされた人間はどのようにすれば救われるのでしょうか。
ただひたすら、そのように生まれる定めを造った自分自身への拭えぬ寂寥感を抱えて、人のために尽す事しか許されないのか。
その心根に酬いるものはないのでしょうか、神仏はそれでも耐えて生きよと言われるのでしょうか。

それも己が創った定めと言われればそれまでなのでしょう。
真の己を知るには、観察をするしかないのでしょう。

448 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/08/13(金) 20:59:20 ID:hMlmt1ok0
>>393 そうじゃ、観察によってそれらも滅する事ができる。
 どのようなものでも心にある障害は全て滅する事ができるのじゃ。
 他人に信じ込まされた罪や負い目や劣等感、寂寥感など観察によって全て滅する。
 
 観察は今、ここにあるものを観るものじゃ。
 それは時に難しいものじゃ。
 植えつけられた劣等感があると観ても、それを観まいとする抵抗にあう事もある。
 そのような時は自分はそれを観ないようにしていると、その反応を観察するのじゃ。
 劣等感などの強い感情には、そのような反応がつきものなのじゃ。
 そのような記憶を観ないようにしたり、直ぐに他の事を思い浮かべるようにしたり、その他さまざまな逃避の反応がある。
 劣等感などを観るにはそのような反応を共に観る事が肝心なのじゃ。

 過去の記憶から劣等感などの感情がある。
 その感情を観ない様にする反応があると、順に観る。
 過去の記憶が無ければ劣等感は無く、観ないようにしようとする反応もないと、逆に観るのじゃ。

 そのように観察を続けていればやがて一切の苦は滅し、自分はなぜあんな事で悩んでいたのかと、不思議に思える時がくるじゃろう。

449 :ダボ(>o<;))ハゼ(>o<;)) ゴホゴホ ◆Anjer/Nz5Q:2010/08/13(金) 21:27:18 ID:td9wJACk0
>>448  鬼 さん

それって、心理学に道徳を紛れ(まぎれ)込ませたもの?

仏教徒は、違うよね。

と、お尋ねします。

457 :避難民のマジレスさん:2010/08/14(土) 07:07:46 ID:rjrCqQY20
>>448 鬼和尚さま

正に自分はその観察によって全ての劣等感、そして苦しみから解放されていました。
生まれてから半世紀以上過ぎた今、やっと安らぎの毎日を送っています。
かつて地獄と思えた己の環境は何一つ変わっておらず、ただ己の心だけが囚われから解放されたのです。
天国も地獄も己の心の中に在ったのだと、気づきました。

しかし、既存の宗教では自分は救われなかったのです。
いくら外側の神仏におすがりしても、己の劣等感は益すばかりで救われることはなかったのです。
天国も地獄も神仏が下す罰や御褒美ではなく、己の心の在り方が決めていたのだと分かったのです。

己の心は己にしか変えられない、喩え神であっても。
しかし今、この気づきを与えて下さった神様がいらっしゃるなら心から感謝したいと思います。
鬼和尚さんの御蔭です、有難うございました。

539 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/08/14(土) 21:01:23 ID:hMlmt1ok0
>>449 これこそが本当のお釈迦様の教えなのじゃ。
 お釈迦様はこのようにして苦は滅せると説き、実践すれば確かに苦は滅する。
 知識として四聖諦を説きながら、実際にはどのように実践するのか教えられないものが、どうして仏教と言えるじゃろうか。
 今、ここで初めて本当の仏教が伝わってきたのじゃ。

>>457 そうじゃ、天国も地獄も全て心の中にある。
 良かったのう。またおいでなさい。

541 :避難民のマジレスさん:2010/08/15(日) 04:24:44 ID:9FL5VuI20
>>539 「天国も地獄も全て心の中にある・・・」

●まともな人間↓
 ・・・だから清らかな心をもって生きよう

○オウム信者や集団ストーカー犯罪に協力してしまう大衆↓
 ・・・だから捕まらない方法で遣り放題やって
   人を苦しめても殺しても、「誰もそんなことやってない」と嘘をついても
  それでも報いは無いと妄想して逝こう!

566 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2010/08/15(日) 20:19:26 ID:hMlmt1ok0
>>541 困ったことじゃ。
 今、多くの者が苦しめられている劣等感と言うものがあるのう。
 背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、あるいは特に理由も無く他人よりも劣っていると、思い込んで苦しんでおる。
 そのような劣等感も実は心の作用であり、心の中にあるものであり、観察によって滅する事が出来るのじゃ。

 人は自分は背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、そのような事で悩むが、実は背が高い者は背が高いことに悩み、鼻が高いものはそれに悩み、学歴が高い者もそれについて悩んだりしているのじゃ。
 日本の美容整形では低い鼻を高くしてくれという客が来るが、西洋の美容外科には高い鼻を低くしてくれという者が来たりするという。
 背が高い者も、低く見られるようにわざと、わざわざ肩を落としてあるいたりするという。

 このように背が低かったり、鼻が低かったりするのも、相対的なことであり、それが他人と比べて、絶対に劣っているという訳でもない。
 ただ人の心の中にのみ、自らの外見や条件を以って、他人よりも劣っていると言う観念があるのじゃ。

 劣等感が心の中にあると、他人の言葉が全て自分を批判するように思えたり、自分の観念に固執して離れられず、真実が見えなくなったりするものじゃ。
 それも己の弱さを隠そうと防御する反応から来るものじゃ。
 そして自らを弱いと思う事も認めず、強く見せかけるために、他人への攻撃をえんえんと繰り返したりする。
 実際は弱いと言う感覚さえも、謬見ではあるが。
 偽りでしかない弱さを隠すために観念にしがみつき、観念を守るためにさらに攻撃を繰り返す。

 このように心に劣等感があれば、攻撃的になり、自らの心の中を観察するのが困難になり、誤った観念に囚われ、真実を追究するのも、修行するのも困難になってしまうものじゃ。
 弱さを隠すために行動し、今まで生きてきた人間が、己の弱さをあらわにする心の観察をするには、よほどの決意と努力が必要になるじゃろう。
 しかし、一度、それを決意して自らの弱さを認め、それをあらわにしようとすれば、もはや劣等感もやがて滅する。

 自らを劣っているとする思いがどこから来るのか、過去の記憶からか、他人の言葉からか、あるいは何らかの体験から来るのか、先ずは原因を見つけ出すのじゃ。
 そして、その原因から自らを劣っていると言う思いが起こり、自らが劣っていると言う思いから、弱さを隠す防御反応が起こると、観察するのじゃ。
 その原因が無ければ、自らを劣っていると言う思いが無くなり、自らが劣っていると言う思いが無ければ、弱が無く、防御反応も起こらないと観察する。
 そのように順逆に正しく観察すれば、劣等感が消え去る。

 それが無くなった時、劣等感は心の中にのみあり、外見などは関係が無かったと、気づく事が出来るじゃろう。
 献身の道とは大体神仏の観想を行いそれと一体化する修行じゃ。
 神と仏は本来違うものじゃが、ここではイメージとして同等に扱う故に一緒にしていうのじゃ。
 浄土宗や密教などが主に行っているものじゃ。
 神仏を観想するのは極楽へ行くためとか、その力を借りるために行われると思われているが、ちゃんとやればそれもまた悟りへの道になるものじゃ。
 神仏を心底敬愛している者には呼吸を数えるよりも早くサマーディにまで至れるものじゃ。
 呼吸を愛する者はおらんが、神仏を敬愛する者は多い故に。
 そのような者が神仏と一体化すると観想すれば、無念夢想の境地が速やかに現れるのじゃ。

 観想をするにはイメージが大事じゃ。
 神仏がイメージ出来るように修行が必要じゃ。
 観無量寿経にはイメージを訓練する過程が載せられておる。
 最初は夕日とかイメージしやすいものを思い浮かべる。
 それが心の中にありありと見えるようになったら、川とか大地とか木などをイメージする。
 それも見えるようになったら、神仏の降りる座席をイメージするのじゃ。
 阿弥陀如来や観世音菩薩なら巨大な蓮の座席とかを最初に思い浮かべる。
 そして、神仏の本体をイメージするのじゃ。

 イメージする神仏の姿は、自分の最高の理想とするものでなければならんのじゃ。
 観無量寿経では何キロも身長のある巨大な阿弥陀如来や、観音菩薩が説かれておる。
 必ずしも巨大である必要はないが、そのように想像を絶するほどの神仏のイメージを心に浮かべる必要がある。
 理想的な神仏の姿は人によって違うじゃろう。
 それはある者には両親の姿に似ていたり、あるいは現世の敬愛する者の姿に似ているかもしれん。
 そのような神仏のイメージは極めて個人的な物であり、他人に告げるものではない故に、心置きなく己の理想をイメージを作り出すのじゃ。

 神仏のイメージが出来たら一体化をするのじゃ。
 一体化にはさまざまな方法がある。

 自分が小さくなって神仏の胸に入り、神仏が小さくなって自分の胸に入るというイメージをする。
 
 神仏の眉間から光が出て自分の眉間に入り、その光が自分の胸に回って胸から出て神仏の胸に入る。
 その光が神仏の眉間に回ってまた自分に入り、ぐるぐる回る。
 光がどんどん大きくなって光の中で一つになる。

 自分が大きな神仏の中に入り、同時に小さな神仏が自分の中に入る。
 大きなものは小さくなり、小さいものは大きくなって自分と同じ大きさになる。

 ただ単に神仏のイメージを強く思い浮かべて集中する。
 なと゜の方法がある。
 どれがいいという事はなく、自分に合った方法を見つけるのが大事じゃ。

 神仏との合一が果たされたならば、思考や認識の働きは緩くなり、忘我の状態になるじゃろう。
 一度でならなくとも修行を続けていけば、その時はくる。
 我という物の認識が一時的に止まった状態、それがサマーディなのじゃ。
 その状態ならば自我の生起を、自己同一化せずに観る事ができる。
 
 思考や感覚などの同じ繰り返しによっていつも感じる自分というもの。
 いつもと同じように感じ、反応する同じ自分という偽りの自己認識。

 そのようなものが合一した神仏の視点から、無になった心から観る事ができる。
 それらを残す事無くくまなく観察し、滅し尽くさなくてはならない。

 我というものが完全に滅すれば神仏もまた生じる事がなくなる。
 為す者と為される物が消えたそこにおいても、未だそれを認識するものがあると気づくじゃろう。
 その認識をも滅した時、悟りは完全に徹底されるのじゃ。
 そこにおいてはもはや語るものも、語られるものもない。

 どのような行も最後には我を滅し、それを認識するものをも滅さなければ完全とは言えない。
 我という者に執着すればそこへは辿り着けない。
 この献身の道によっても我に執着する者は、神仏に執着し、捨てられないじゃろう。
 それは神仏に囚われるのではなく、神仏に認められる我に執着する故なのじゃ。

 神仏を敬愛する者には献身の道は速やかにサマーディまで導くじゃろう。
 しかし、悟るためには我も神仏も捨てて行かねばならん。
 修行者達よ、全てを捨てて完全なる不死の境地に行くのじゃ。