鬼の説法集(悟りへの道) -20ページ目

鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

226 :避難民のマジレスさん:2009/11/10(火) 18:47:33 ID:6kCzei8Q0
駄目だ。酒がやめられない。
酒飲むと、朝の瞑想が出来ない。
でもやめられない。

鬼和尚、良い方法無いですか?

228 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/10(火) 20:16:12 ID:j1X./fWM0
>>226 ちょうど良い機会じゃ。
 酒を飲みたいと想う心を観察するのじゃ。
 酒を欲するのはそれを好む感情があるからじゃ。
 それを好むのは不安や悩みを忘れさせてくれるからじゃ。
 不安や悩みが無ければ好む事も無く、欲することも無くなる。
 このような関連していく心を順逆に細かく観察すれば、心に変化が訪れるじゃろう。
 これも観察の一例に過ぎないものじゃ。
 おぬし自身が酒を欲する心を観察した時は、全く違う関連が観られるかもしれん。
 それは良い経験になるじゃろう。

231 :避難民のマジレスさん:2009/11/11(水) 17:56:46 ID:VwWD5Khc0
>>228
ご教示有難うございます。

まだまだ、数息観をしていても雑念で集中して息を見る事も出来ないのですが、
そんなレベルでも心の観察が出来るのでしょうか?
一応試みてはみましたが、全然浮かんで来ませんでした。

232 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/11(水) 20:21:13 ID:9uh.4PFs0
>>231 そうじゃったか。
 観察と集中は平行してやっていいのじゃ。
 初めは難しくてもだんだん上達してくるじゃろう。
 大事なのは続ける事じゃ。
 最初は体や心の表面に起きた感情などを観察する方がいいかもしれん。
 酒を飲むならば、酒を飲む前に期待する心を期待する心があると観察する。
 酒を飲んでいる時も、飲んで喜んでいる心があると観察する。
 飲んだ後で後悔するなら後悔している心があると観察する。
 それらが観察できれば、少しずつ上達してくるじゃろう。

236 :避難民のマジレスさん:2009/11/12(木) 19:21:37 ID:hN0p/lS.0
>>232
鬼和尚さん、有難う御座います。

例えば数息観を行っている最中に雑念が起こった場合、
息を観るのをやめて、その雑念が起こった原因について
観察しても構わないのですか?

それとも数息観を行ってる時は、あくまでも息を観る事に
集中すべきなのでしょうか?

237 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/12(木) 20:23:28 ID:7R3AhnC20
>>236 数息観をしているときは息を観る事に集中するべきじゃな。
 数息観は集中力を養うための主義じゃから、途中で観察をしたりすると、集中力が散漫になってしまうじゃろう。
 修行は心の操作をしなければならんから、強い集中力が必要なのじゃ。
 観察にも心の片方で感じたり考えたりしながら、それを他の方で観察するという操作を行うじゃろう。
 修行が高度になり、心の奥の素早い反応を観察するには、より強い集中力が必要になる。
 その為に、散漫にならないように集中力を養うのが大事なのじゃ。

238 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/12(木) 20:24:47 ID:7R3AhnC20
間違いじゃ。
「数息観は集中力を養うための修行じゃから」じゃな。

243 :避難民のマジレスさん:2009/11/13(金) 19:03:22 ID:2TCyMbGQ0
>>238
鬼和尚さん、有難う御座います。

ブログに三つの丹田を意識するとの記載があったのですが、
数息観で息を観るときに、お腹の膨らみや縮みは
意識しなくても良いのですか?
また下丹田を意識して、丹田呼吸を同時に行うようにする
必要なども特にありませんか?

244 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/13(金) 20:18:05 ID:0n94DKzs0
>>243 最初に姿勢を整える時にだけ、丹田を意識して真っ直ぐに揃えるのじゃ。
 一旦、整った後には呼吸に集中するのじゃ。
 姿勢が正しければ力を抜いて意識しなくとも、無理なく丹田が整ったままで坐れるじゃろう。

 丹田呼吸をしようと意識しなくても良いのじゃ。
 胸だけの呼吸になっても、構わずに居る。
 姿勢が正しく、肩の力が抜けていれば体は自然に丹田からの呼吸になるものじゃ。
 数息観をする時は呼吸に集中するがいいのじゃ。

251 :避難民のマジレスさん:2009/11/14(土) 19:05:33 ID:zmUm5M/E0
>>244
鬼和尚さん、有難う御座います。

ブログを拝見いたしました所、歩く瞑想についてのご指導が無かったように
思うのですが、歩く瞑想についてもご指導頂ければ有り難く思います。

252 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/14(土) 20:26:19 ID:4y8osQdk0
>>251 例えばおぬしが毎日何キロも歩いているとか、歩くのが趣味でいつも歩いているとか、そのような環境や性格なら歩く瞑想をして進歩するじゃろう。
 そうでなければ数を増やすより、一つの瞑想を深めていくがいいのじゃ。 
 一つの瞑想を極めれば、日常の全てが自然に瞑想になる。
 歩けば歩く瞑想、走れば走る瞑想になる。
 殊更に習わなくとも、行住坐臥の全てが瞑想になるじゃろう。

267 :避難民のマジレスさん:2009/11/15(日) 19:53:04 ID:gaIaOA8g0
>>252
鬼和尚さん、有難うございます。

数息観を行ってるいる時に、足が痺れたり、腰が痛くなった時は
どうすれば良いですか?
その他にも、姿勢が途中から定まらなくなる事がよく有るのですが
その時の対処方も教えていただけると、有り難く存じます。

268 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/15(日) 20:24:23 ID:8U1ubpqU0
>>267 そのような時は少し休んだら良かろう。
 経行をするのもよい。
 経行は固まった体をほぐし、眠気を覚ます等の効果がある。
 その後にあらためて瞑想を行えば、新鮮な気持ちで行えるじゃろう。
 瞑想中の凝り固まった頭と体より、そのように気を安んじた時にこそ、今まで気付が無かった事に気付く事もあるものじゃ。

277 :避難民のマジレスさん:2009/11/16(月) 19:05:05 ID:rPJLZolo0
>>268
鬼和尚さん、有難う御座います。

私は腰が悪いので同じ体勢をキープするのが大変で、
どうしてもモゾモゾしてしまいます。
瞑想も椅子に座ってやっています。

経行の意味を調べた所、歩く瞑想の事だという事が分りました。
先日質問した時は一つに絞れとおっしゃっていたので、少し意外でした。
やり方が良く分からないので、適当にやってみます。

あと、「観察」のやり方が良く分かりません。
自分の心を観る時に、ある感情が起きた事の原因を「分析」するのなら少しは
出来るのですが、その感情を連想せずにただ単に「観察」するというのが良く
理解出来ないのと、「深く観察」と成ると何をして良いのかすら分りません。

何かを見て怒りを感じた時に「私は今怒った」の後が続かないのです。
「観察」と「分析」の違いをご教示いただけると幸いです。

279 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/16(月) 20:56:56 ID:GjCsUd7g0
>>277 経行は瞑想とは違うものじゃ。
 むしろ心と体を醒ます運動じゃ。
 形に囚われずただ心と体がほぐれるまで歩くだけでいいのじゃ。

 迷った時は基本に戻るのじゃ。
 例えば手を観察した時、手の平が皺皺だとか、爪が生えているとか、観る所を変えたりしていたじゃろう。
 心も目の前にあるもののように、観察してみるのじゃ。
 目の前にあるものを観る時、分析をしてはいなかったじゃろう。
 思考によってそれを分類し、定義づけをしては観察ではなくなる。
 怒りが起こるなら、それが何が起こる時に起きたのか、何が無くなると消えたのか、そこに起きている事だけを観るのじゃ。
 それによって体にはどんな反応が起きたのか、心には何が起きたのか、ただ観るのじゃ。

287 :避難民のマジレスさん:2009/11/18(水) 12:09:04 ID:PtDF3NrA0
>>279
鬼和尚さん、有難うございます。

今一ピンと来ませんが、進めていくうちに分ってくるのかとも思います。

288 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2009/11/18(水) 20:18:35 ID:MGNqdvVw0
>>287 最後には己で掴むしか無いのじゃ。実践あるのみじゃ。
 ダンマパダにはこのような句がある。

 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。
 それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
 修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

 出離の楽しみとは悟りそのものの事じゃ。
 それは戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないと書いておる。
 戒律や誓い、知識を多く知ること、瞑想、孤独によっても得られない。

 それらはただ悟りを得る助けになるもの、手段に過ぎないものじゃ。
 それをどんなに上手く、また長期間にやったと言っても、それだけでは悟りは得られないのじゃ。

 戒律は日常生活を正しくすることで、自らを追及する環境を作り出すものじゃ。
 誓いは道を歩む意志を確立させる。
 それらは助けにはなるが、それだけでは悟りを得る事にはならない。

 博学、知識を学び、多く知る事もまた悟りを得る事にはならない。
 良くある誤解が、世にある科学と言うものが法則を知る事を目的にしている故に、仏教も法を知るという事が悟りではないかと思われておる。
 しかし、なにものかについて知識を得たとしても、苦は無くならず、智恵が生じる事も無い。
 それ故にそのような知識や思想、ものの考え方などは悟りを得るものとはならないのじゃ。
 多く知ることによって、修行する上で助けになり、不安が無くなるという事はあるじゃろう。
 しかし、知識を悟りだと思い、それに囚われれば悟りは遠ざかる。

 瞑想もまた手段であり、それで悟りを得るということはない。
 瞑想の中で己を無くすサマーディなどの深い瞑想も、悟りではない。
 瞑想は心を観る手段として有効であるから、行うものに過ぎないのじゃ。

 孤独であることも、修行の役には立つ。
 独りでいれば他人からの反応で生きる事無く、自らを偽る必要も無い。
 己の心を観るには良い環境となるものじゃ。
 しかし、ただ独りでいるだけで、悟りが得られるものではない。

 それらの環境や方法は、全て助けにはなっても、直接悟りを得るためのものではないのじゃ。
 悟りは人が何の方法も無く、ただ己の本心を真摯に観た時に起こる。
 己と言うものが起こる時、完全に注意して見守れば、それが実は己ではなかった事が判る。
 心の中の習慣として己が起こる。
 観るべきものはそれのみなのじゃ。
 そして己が無くなり、認識をも実体が無いものと観る時、完全な悟りはやってくる。

 言葉にすればこのようになるが、言葉を超越した悟りが実際にこのように起こるわけではない。
 そのような悟りによって煩悩の汚れは全て消え去る。
 その時まで、油断無く精進するべきであると経典は語っている。
 
 この句によって、悟りを得るためには、戒律や誓いや知識や瞑想や孤独などに囚われ、時間をとられるのは間違いと判るじゃろう。
 手段や知識や環境はは、己の本心を観るためでなければ、却って回り道となるものなのじゃ。
 手段や知識を捨て、己の本心が観られたならば、出離の楽しみを味わうじゃろう。
 その時にはすでに必要としない楽しみを、自ら味わうのじゃ。
常に死を想うのじゃ。
死を想えば修行も進むのじゃ。

昔、インドにラマナ・マハリシという覚者が居った。
彼は常に自ら死を想い、それから逃げるより、むしろ死を味わうことで悟りを得た。

偽りの導師、偽者の修行者は死を恐れ、それから逃げ、隠そうとする。
死を語る者を非難し、そうすれば死が遠ざかると思うかのように、己を守ろうとする。
そのような者は悟りをもたらす真の教えから遠ざかる。

死は真の修行者にとっては修行の糧となり、導師となり、試金石となるものじゃ。
死から逃れたいと思う事で修行を志し、励みとなるのが修行の糧じゃ。
修行が正しく進んでいるならば、やがて死の恐れは消え、死そのものも無いと知れるのが導師じゃ。
迷った時には今自分が死を恐れていないか、死を超えた境地にいるか確かめる事が試金石じゃ。

人が恐れる死によって真の修行者は糧を得て、導かれ、試されて目覚めに至る。
死は勇気のある真の修行者にとって、恩寵と言えるものなのじゃ。

誰にでもあてはまる普遍的な真理があるとすれば、それは死に他ならない。
誰もが避けられず、やがて死に行くこの真理に眼をそむければ、やがて絶望が訪れる。
愛する家族も、友人も、自分も、やがて全ての者が死ななければならない。
それは自我を守る者にとっては絶望であるが、真の修行者には越えて大きく羽ばたくことが出来る、踏み台となるものじゃ。ることが出来る

真の修行者が自らを偽らず、死を観たならば、大きな恩恵を受けるじゃろう。
死に行くものと、滅することの無い不死の意識を知る事が出来る故に。
マハリシが観たものは、正にそれじゃった。
死の中に入り、死に行く己を観る、死亡観とでも呼ぶ観察じゃのう。

肉体が死を迎える時、手足が動かなくなるじゃろう。
今まで自分の意のままに動いていた手足が、永久に動かない。
そして体も動かなくなり、硬直する。
腰や胸や腹が動かなくなる。

呼吸が止まり、心臓も止まる。
眼は見えなくなり、耳も聞こえなくなる。
触感も無くなり、その他の感覚も消えていく。

思考も無くなり、感情も消えていく。
認識さえも無くなってしまう。

言葉もイメージも無い絶対的な無。
全てが消え去り、己さえも無い。
そしてまだそれを意識するものがある。

それさえも消えた時、それは露になる。

死すべきものが全て死に絶えた時、死なないものが露になる。
不死の意識が今ここにあるじゃろう。
死に行くものに囚われて観えなかったものが、死に行くものが消えた時、露になるのじゃ。

それは時を知らない。
それは唯一の実在。
それは変化しながら変わることが無い。

常に今ここにあり、消えることは無い。
到達するのではなく、得るものでもなく、ただ死によって消えるものに囚われていなければ、直ぐにも観られる。
永遠の意識であり、唯一の実在であり、滅する事が無い。
それだけが実在であり、それを知れば今まで非実在のものを実在である見なしていたと知る。
非実在の夢から覚めた者が、目覚めた者と呼ばれる。

死から眼を逸らさず、己を誤魔化さず、勇気をもって進む者は速やかに目覚めるじゃろう。
千の方法も、万の知識も、ただ一つの死を恐れぬ勇気が無ければ、何の役にも立たない。
真の修行者は勇気をもって、常に死を想い、それによって不死の意識を知る事が出来るじゃろう。
540 :神も仏も名無しさん:2008/06/30(月) 23:38:22 ID:sxSbojM4
どなたか
生きる意味を
教えてください
いろんなことが
僕を締め付けます
もう逃げたい
生きることを
今すぐ辞めたい
もう膝なんか見たくない

544 :ボム:2008/06/30(月) 23:54:54 ID:aX+wLiS/
>>540
明日の晩に、覗いてみれば
誰かが、良いほうに導いてくれるよ!
大丈夫だよ!
俺は、まだまだ修行中。

548 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:10:31 ID:vh2Egv9w
>>544
ありがとうございます。
こんな僕のために
明日があるのでしょうか
こんな僕ではありませんでしたが
明日の晩まで踏ん張れるでしょうか
妻や子供のことを考える気持ちより
今の気持ちが勝ってしまいました
泣きながら心経を唱え
心を平らにし
阿弥陀様が迎えにきてくださるまでに絶つつもりです

546 :龍賢 ◆0AQsI3ED.A :2008/07/01(火) 00:02:48 ID:XkyR7l+R
>>540
とりあえず逃げてみなよ。
わりと何とかなるもんだよ。

549 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:13:49 ID:vh2Egv9w
>>546
龍賢様ありがとうございます。
逃げたい
逃げたい
みんなごめんなさい
逃げたい

550 :龍賢 ◆0AQsI3ED.A :2008/07/01(火) 00:20:14 ID:XkyR7l+R
>>548
とりあえず一週間だけでいいから、毎日トイレをピカピカに磨き上げてみなよ。
それでも何も変わらなかったら、好きにすればいいからさ。
それだけやってみない?

552 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:23:08 ID:q2onJBFf
何もかも捨ててもいいんだよ。
命さえあれば。
お釈迦様でも家族を捨てた。
仏法はいつでもあなたを守っています。

553 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:29:17 ID:MdOueJBK
>>540
締め付けてるのは、実は自分で自分を締め付けてるんだな。多分今は分からないだろうけど。
正しく仏教を身に着ければ、それが分かって苦しくなくなるよ。

554 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:31:06 ID:MdOueJBK
>>540
書き忘れたけど、膝を見たくないとはどういう意味?

555 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:31:35 ID:q2onJBFf
今は生んでくれた母を思いなさい。父の背中を思いなさい。
この世に無償の愛があることを思いだしなさい。

556 :エッチでリッチな なめなめおじさん:2008/07/01(火) 00:31:47 ID:XIPTHUW1
早起きして日の出の太陽の光を素っ裸で(周りの状況によってはパンツ着用)
浴びてくれ!

558 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:40:33 ID:4psDsxmb
>>549
とりあえず持って行けるだけの金持って失踪してみな。なるべく遠くにな。
時間があまるから安い切符買って全部各駅停車で移動。ボケーっと車窓から
風景を眺める。これからの季節は北海道なんかは特に良い。窓の外はだいたい
畑か牛か大自然だ。楽しいぞ。

561 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 00:48:37 ID:0cfUoPpY
>540
生きる意味なんて何でもいいんだよ
どんなくだらない事でもいいんだよ

毎日バナナ食べたいでも、納豆食べたいからとか
りっぱじゃなくてもいいんだよ
何にも見つからなかったらでっちあげればいいんだよ

自分ばかだからなんにもいいこと言えないけれど

564 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:02:10 ID:vh2Egv9w
沢山話したいけど
涙が止まらず
妻と子供の寝顔を見に行きました
僕が弱いのは知ってます
正直者は馬鹿を見る
子供にお菓子を買ってやりたい

笑いたい

全速力で走りたい

僕が死んだら二千万

二千万あれば

あの時ああすれば

頭の中には砂がぎっしり詰まった感じ

ぎざ⑩しか持ってない

THE ENDなのかな

みなさんこんな俺にありがとう

ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうございましたさよなら

565 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:09:56 ID:q2onJBFf
自殺は家族の心を地獄へ落とします。

566 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:12:32 ID:5Tefco/m
>>564
金なんかなんとでもなる。
所詮金だ。
道具だ。
そんなもので命を落とすな!
健気な奥さんとかわいいお子さんと、一緒に雑草のごとく生きてゆくんだ!

567 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:13:45 ID:0cfUoPpY
誰かに相談できないの?
死んだ気になれば恥かいてもいいじゃない!

死ぬのはいつでもできるよ!
誰でもいいから相談してみて

568 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:14:13 ID:q2onJBFf
保険かけはじめて1~2年は保険金降りない。
自殺では降りないとこもある。

569 :神も仏も名無しさん:2008/07/01(火) 01:15:16 ID:vh2Egv9w
家族が、友達が悲しむ
わかってます

でももういいでしょうか

827 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2008/07/01(火) 21:17:39 ID:2krhgsvw
>>540 生きる意味を見つける為に生きるのじゃ。
 その為に多く学び、人々を観察し、自分の道を見つけるのじゃ。
 とりあえず姿勢を良くするのじゃ。

>>548>>549>>564>>569 今のおぬしはもはや考え方がネガティブな方に行っておるのう。
もはや考えるのを止めるのじゃ。

 ただ一つのイメージを思い浮かべるのじゃ。 
 おぬしと家族が居間に座って、みんなで笑っている。
 大きな家に、お金もたくさんあり、何の心配もいらない。
 おぬしを含めた家族全員の、幸福で安心しきったイメージを頭の中に何度も思い浮かべるのじゃ。
 そして、そのイメージの中のおぬしは、思い出している。
 昔は絶望して、変な掲示板に書きこんだ時もあったと。
 それは未来のイメージじゃ。

 頭の中で何度もイメージを作れば、それはよほど無理なもので無い限り、現実になるじゃろう。
 今のおぬしには考えられないかもしれないが、いずれそのイメージが現実になり、本当に家族で笑える日が来る。
 少し変わった形で実現するかもしれないが、それは本当になるじゃろう。
 人間の想念は肉体を形作り、世界を変化させる力があるのじゃ。
 何も考えず、ただそのイメージだけを一日何度も思い浮かべるのじゃ。

 子供にとっては親が側にいてくれる事が、一番の幸福じゃ。
 金などは何の意味も無い。
 おぬしも親がそばに居てくれた方が嬉しかったじゃろう。
 おかしな事は考えず、子供の為に生きるのじゃ。 
 泣きたいならここで、弱音を吐きつくすが良かろう。
 お釈迦様はこのように言っておる。

 153 、わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
  家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。
  あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

 154 、 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
  汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
  心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

 これはお釈迦様が何度も個我の観念を持って生まれ変わり、その元となったのが分別の作用であることを著しているのじゃ。
 
 家屋とは自我であり、個我の観念なのじゃ。
 それを作るのは作り手があり、それが観られればもはや家屋である自我は作られる事もないというのじゃ。

 その家屋の作り手は五蘊では色受想行識の行であり、唯識では末那識にあたるものなのじゃ。
 物事を分別する心の働きであり、りんごとかみかんとかの見分けをする認識の一部なのじゃ。

 この物事を分別し、見分ける働きがある限り自我は生成されつづけ、輪廻も止まることなく続くのじゃ。
 元々輪廻とは個我の観念のある者が、その個我が生死を越えてありつづけると思う故に起こるものなのじゃ。

 個我の観念の無い者には輪廻もまた無くなるのじゃ。
 誤った観念が無ければ個我は消え、真実である意識に回帰して不死の境地にもなるのじゃ。

 個我の観念を成り立たせ、認識させるものが分別と言う心の働きなのじゃ。
 我と他を分け、他と我の間に好悪の感情をもって順列をつける分別が自我の原因なのじゃ。

 分別は肉体があるからそれが我であり、感覚や思考も我のものであるとか我であると認識させるのじゃ。
 そして自分ではないものは他であり、その他の物も自分との好悪とか遠近によって分別されて個人の世界を形作るのじゃ。
 
 それが人の心の作る世界なのじゃ。 

 禅宗三祖僧璨禅師も信心銘に書いておる。

 「至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」

 「至上の道は難しいものではない、ただ分別を嫌い、愛するものとか憎むものとかの分別がなければ明白である。
 ほんの僅かでも分別を用いれば、天地も別れるほどの差になる」
 
 このように分別の心を用いればそこに我が起こり、世界もまた生じる事を表しているのじゃ。

 その分別する心を止めるには、ただそれを観察するだけで良いのじゃ。
 「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。」
 
 と、お釈迦様も言うとおり、その作用はただ観られるだけで、もはや二度とは起こらなくなるのじゃ。
 自己同一化が観察によって消えるからなのじゃ。
 目覚めた者本人が仮に使用する場合は使う事も可能であるがのう。

 その作用は素早く観難い故に、一切は空であるとして分別の作用を止める方法も存在するのじゃ。
 一切を空として僅かでもその作用が止まるか、動きが鈍くなれば観察も多少は容易になるのじゃ。

 素早く観難い分別の働きも、日々の修行によって滅する事もできるじゃろう。
 修行者は分別をも観るために日々精進し、実践に励むのじゃ。
773 :避難民のマジレスさん:2014/02/03(月) 18:08:02 ID:jfWCoXjM0
悟ってる人
ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、パパジ、OSHO、クリシュナムルティ、グルジェフ
シュリ・バガヴァン(存命中!)、鬼和尚(存命中!)、白隠、道元、鈴木大拙、一休、釈尊、荘子

悟ってない人
ガンガジ、ムージ、ラメッシ・バルセカール、アジズ・クリストフ(現アナディ)、アジャシャンティ、
ヨガナンダ、ガンジー、アルボムッレ・スマナサーナ、ラーマクリシュナ、イエス・キリスト、EO、
ダンテス・ダイジ、麻原彰晃、法然、親鸞、エル・カンターレ、孔子、中村天風、谷口雅春、
瀬戸内寂聴、阿部敏郎、やまがみてるお、賢者テラ、雲黒斎、無空、バシャール、
エックハルト・トール、マイスター・エックハルト、ニール・ドナルド・ウォルシュ…その他多数。

こんな感じでしょうか?

774 :避難民のマジレスさん:2014/02/03(月) 18:12:18 ID:jfWCoXjM0
http://www.youtube.com/watch?v=fXOvMQO3sTE

↑ボブ・アダムソンさんの動画です。この方は悟ってますか?

775 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/02/03(月) 20:28:57 ID:kaXJvxhM0
>>773 そんな感じなのじゃ。
 おぬし良く知っておるのう。
 
>>774 無我までで止まっているのじゃ。
 小悟じゃな。

953 :避難民のマジレスさん:2014/03/03(月) 14:07:24 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、パパジ、OSHO、クリシュナムルティ、グルジェフ
シュリ・バガヴァン、鬼和尚、白隠、道元、鈴木大拙、一休、釈尊、荘子、ミラレパ、アシュターヴァクラ

↑の仏陀たちについて、何か一言ずつお願いします!

954 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/03/03(月) 20:39:25 ID:kaXJvxhM0
>>953 マハリシは正直なのじゃ。しかし無知だったのじゃ。
 マハラジは自分で商売をしていたのがえらいのじゃ。寄付を貰わなくて済むからのう。
 パパジは何もするなとか無理を言っているのじゃ。普通の人間には出来ない事じゃ。
 オショーは博学だったのじゃ。正に如来と言えるのじゃ。
 クリシュナムルティもとにかく観察すればよいと、普通の人間には出来ない事を言っていたのじゃ。
 グルジェフも自分で商売をしていたのじゃ。感心なのじゃ。
 バガヴァンは無我にまで人を導けるがそれが悟りと思っているようじゃのう。
 鬼和尚は正に鬼じゃ。自我も認識も破壊されるじゃろう。
 百隠は名僧であるがやはりお釈迦様には叶わないのじゃ。
 道元は政治嫌いじゃな。弟子たちは政治を受け入れて檀家制度を受け入れてしまったがのう。
 大拙はたださえわかり難い悟りをさらに判り難く解説したのじゃ。オショーぐらいにしかわからなかったのじゃ。
 一休は悟りをさらに破壊し続けたのじゃ。しかしやはり残っていたのじゃ。
 お釈迦様はやはり偉いのじゃ。間違いもあったが深い智慧があったのじゃ。
 荘子は残っている文はかなり禅仏教から拝借しているのじゃ。中国人らしくはあるがのう。
 ミラレパはチベットで最後の目覚めた者だったのじゃ。法は残ってもやる気が無ければいかんという例じゃな。
 アシュターヴァクラはまだ智慧に執着しているのじゃ。智慧もまた仮設されたものでしかないと気づかなければ真の悟りへは辿り着けないのじゃ。
1 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:50:32 ID:0JKQhE49
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   \ミ三三三三/三三三三三三三彡/ \
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前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ 9 【鬼和尚】
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2 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:52:32 ID:0JKQhE49
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
 
 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

3 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:52:54 ID:0JKQhE49
更にコピペじゃ。

 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

4 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:53:33 ID:0JKQhE49
更にコピペじゃ。

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。

5 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:56:37 ID:0JKQhE49
人の心は縁起によって起こるのじゃ。

 例えばものを見るという縁によって、それをあれこれと分別する心が起こる。
 分別する心に縁として、それを好む、好まぬという感情が起こる。
 好む、好まぬという心を縁として、執着と嫌悪が起こる。
 執着するものを得られない、又は嫌悪するものから逃れられないという事を縁として、苦が起こる。

 このように縁起によって自らの心を何度も何度も観察するのじゃ。
 すると自らの心を観照する事が出来る。
 自らの心を観照することによって厭離が起きる。
 これが縁起の法じゃ。

6 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:57:01 ID:0JKQhE49
わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こったと前に書いたのう。

 観照によってわしの自我は消え去った。そして静寂と安心が起こった。もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
 そして、智慧が湧いた。
 自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
 わしはその智慧に問うた。
 (ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
 この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
 この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
 そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
 自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。

 空であると観じていると、認識するものが消えた。
 そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
 そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
 言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
 全てが無かった。
 そして無でさえも無かった。

 今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
 わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
 そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。

7 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:57:25 ID:0JKQhE49
 わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
 この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
 この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。

 そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
 無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
 わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
 わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
 死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
 わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
 世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。 

 わしは長らく坐っていたようじゃ。
 永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。 
 わしは菩薩の誓いを思い出した。
 悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
 わしは定を解き、ここに帰ってきた。
 自我は無くなっていた。 
 人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。
 この辺で良かろう。


 ここにはもはや為すべき事も無く、為す者も無い、最上の境地である事が判った。
 もはや為すべき事も、成すべき者も無い故に、最上であると理解し得たのじゃ。

8 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:59:33 ID:0JKQhE49
 今日はちょっと早いが、ある程度修行をした者に与える教えじゃ。
 長く修行しているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
 未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。

 さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなとのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
 ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。

 真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
 長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
 観察するのに必要なのは、技ではない。

 勇気なのじゃ。

 己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
 それが出来なければ永遠に悟りは得られん。

 人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れ様とさえする。
 それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
 それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
 その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。

 この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
 このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
 自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
 もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
 悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
 そうような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。

 続くのじゃ。

9 :神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 21:59:57 ID:0JKQhE49
 Ⅱ
 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に現れるものを全て逃げずに観察する」
 と、自分自身に強く誓うのじゃ。

 そして坐るがいい。
 もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
 そなような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

 この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
 泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
 苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
 そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。

 修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
 何もかも観察するのじゃ。
 いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
 もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
 何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。

 そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
 そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
 何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
 その時が来るまで観察を続けるのじゃ。
737 :鬼和尚:2008/02/10(日) 21:13:23 ID:Tn0kqTIi
 さて、今日は選択の事について話をしておこうかのう。

 多くの人間には、自ら考えて己の道を意志選択する能力がついておる。
 これは昆虫や動物には殆ど無い、人間だけが持っている能力じゃ。 
 昆虫は己の意志などは無く、ただ本能の命じるままに動き、それが死に繋がろうとも本能のままに行動する。
 動物には多少の学習と思考能力があるが、やはり本能に任せて動く他は無いものじゃ。

 人間だけが己の置かれた状況を観察し、考えて、自ら選択し、決めた道を歩むことが出来るのじゃ。
 この偉大な能力によって、人間は他の動物には無い、多くの実りを手にする事も出来るようになったのじゃ。
 その一方で、悲惨な状況を招く事もあったのも事実じゃ。

 人は自らの選択によって幸福になり、不幸にもなり得る。
 他を慈しみ、憐れむ事を選択した者は幸福になり、他人と争い、傷つける事を選択した者は不幸を選択した事になろう。
 みんなが今、この場、状況に居るのは選択によって居ると言えよう。
 それ故に今、自分を不幸であると感じる者は、自分が何を選択したのか、何の選択が間違っていたのか、考えてみる必要があるじゃろう。

 良い事を選択する事によって人は自らを幸福にし、逆に幸福に選ばれた者となる。
 自らが幸福の道を選ばなければ、幸福はみんなを選んではくれないじゃろう。
 選ぶ事によって、選ばれた者となるのじゃ。
 故に真の悟りを得ようと選択した者は、真の悟りに選ばれた者ともなるのじゃ。
 みんなも、真の悟りを選び、選ばれた者となるがいい。
 真の悟りを選び、選ばれた者に真の悟りは訪れるじゃろう。

751 :神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:24:51 ID:WuEXynxU
ん~、真の悟りってなんだ! 幸福の選択とか 無理がないかな
教師になろうとして、どこぞの教団の教祖みたいになるのに、意味があるのか

754 :神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 07:20:19 ID:bnJcKNjI
>>737
あなたの言うことは正しいが、これが解脱技法しか伝えていない
仏教の限界ですかね。
喩えば
>>逆に幸福に選ばれた者となる。
これは因果法則のことですね。つまり選んだのは自分。
話の内容が根源に触れていないんですよ、殆どの宗教がそう。
分かっているようで十分には分からない。何か物足りない。
何故輪廻が始まって苦しむことになったのか、その理由が分かれば
解脱への動機になるでしょう。とは言え危険も孕むが。
その辺を待機説法で持って的確に教えることが出来るのが涅槃に
到達した者じゃないんですか?
今回は幸福に選ばるという表現が待機説法なんですか。

858 :鬼和尚:2008/02/11(月) 20:44:34 ID:CVGjmata
>>751 真の悟りとは何か、おぬし自身が修行によって知る以外に無い。
 人々の幸福と真の悟りへの道を示すのが、目覚めた者の役目じや。
 心配しなくともわしはカルトの教祖にはならん。
 わしは金を要求する事も、権力に近づく事も無い。

>>754 それは一般的説法とでも言うべきものじゃ。
 待機説法は一人一人に与えるもの。
 おぬしには別の教えが与えられる。

 輪廻というものは始ってはおらず、終わりも無いものじゃ。
 それは言うなれば、幻の上に立てられた幻のようなものなのじゃ。
 我在りと言う錯覚から、我が経てきた時間というものが想定される。
 普遍の我を想定する故に、輪廻と言う概念が生じる。
 生まれ変わり、変化してもなにものか、変わらない核を想定し、真我とか、魂と名づける言葉とイメージが生じた。
 
 それらを知覚するには、我とは何か、何がある時に我が起こるのか、自ら修行して確かめる以外に無い。
 自ら修行し、自ら証明するのが仏の道じゃ。

863 :神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:35:41 ID:qg/M0Ab+
>>858
>  輪廻というものは始ってはおらず、終わりも無いものじゃ。
>  それは言うなれば、幻の上に立てられた幻のようなものなのじゃ。
>  我在りと言う錯覚から、我が経てきた時間というものが想定される。
>  普遍の我を想定する故に、輪廻と言う概念が生じる。
また大きく広げたぼかした話し方するなぁ。
神も輪廻を繰り返すで良いじゃん。
輪廻に始まりはあるよ。終わりはいつになるか解らんけど。
これかな、とある優秀な女性が仏教にはまだ確信が無いと言った意味は。

>  生まれ変わり、変化してもなにものか、変わらない核を想定し、真我とか、
>  魂と名づける言葉とイメージが生じた。それらを知覚するには、我とは何か、
>  何がある時に我が起こるのか、自ら修行して確かめる以外に無い。
> 自ら修行し、自ら証明するのが仏の道じゃ。
これは念頭に置いておきましょう。。。
まぁ単純に「意識投射」を難しく説明してるだけかも知れんがw

873 :神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 23:06:24 ID:Na722Ojx
俺たちが人間として生活している過去現在未来は、霊界から見ると、時間的には無ということですね。神和尚さん。

950 :鬼和尚:2008/02/12(火) 21:13:11 ID:5FbbBetL
>>863>>873 輪廻は概念に過ぎないが、概念はその中に居るものにとっては決して無力とは言えないものなのじゃ。
 例えば社会常識は概念であるが、社会の中に暮らす者は、最近の芸能人のようにその枠をはみ出た言動をすれば、社会から制裁を受けるように、輪廻と言う概念も生在りという誤認のもとに生きる人間には、決して無視できないものなのじゃ。
315 :神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 20:26:17 ID:xiD+MAa2
鬼さん
32歳職歴なしどうしたらいい?
今まで生きてきて何もしてきませんでした。
これから地獄がずっと続くなら死ぬのもありかなと思います。

362 :鬼和尚:2008/02/07(木) 22:01:04 ID:9SQbrr54
>>315 それでいい。
 先ずそんな自分を認め、受け入れるのじゃ。
 そして集中力を身につけて、心と体を観察するのじゃ。
 自らの置かれている状況も、観察するのじゃ。
 観察する事が出来れば、囚われから離れられるじゃろう。
 それが全てじゃ。
 社会の成功も不成功も、輪廻する生死の大海に迷う命には何も関係は無い。
 ただ人には更なる自由への道があり、どこまで行けるかに挑戦するのみじゃ。
801 :ととろ:2008/04/14(月) 19:23:35 ID:J26nEa3+
私は誰からも愛されたい
常に一番でいたい
人のものは全て私のもの
異常なくらいの執着心
異常なくらいの嫉妬心
キレイな女は全て敵私に対する批判は理解できなあい
だって私いい女だし
煩悩の塊とも言われた
モテると思ったのは勘違い
権力のせいでした
恥ずかしすぎる
寂しすぎる
欲望を抑えられないコントロール出来ない
誰か助けて
更生して

809 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2008/04/14(月) 21:12:31 ID:+iscmxp+
>>801 おぬしは自分が沢山のものを欲しがっていると思っている。
 実は沢山のものを欲しがってはいない。
 本当に欲しいのは孤独からの解放じゃ。

 孤独から逃げる為に、人々の注目と称賛と愛情を追いかける。
 しかし、それが手に入っても孤独は消えない。
 それ故に次から次へと注目と称賛と愛情をさらに追い続ける。

 孤独は常にそこにあり、観察すれば消えていくだけのものと知るが良かろう。
 自分が個人であり、個体であると言う認識から、孤独は起こる。
 孤独から恐怖が起こる。恐怖から逃避が起こる。逃避から注目と称賛と愛情への執着が起こる。注目と称賛と愛情への執着から、それらを求める行いが起こる。求めても得られぬから苦しみが起こる。 

 これは観察の一例に過ぎない。
 このように自分自身の心を観察し、苦しみが生まれ、起こってくるプロセスの全体を観察するがいい。
 自分が全体を離れた個人であり、個体であるという認識が消えれば孤独が消える。孤独が消えれば逃避が消える。
 逃避が消えれば注目と称賛と愛情への執着が消える。注目と称賛と愛情への執着が消えれば、それらを求める行いが消える。
 求める行いが消えれば、求めても得られぬ苦しみが消えるじゃろう。