ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より
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観察の行の本行じゃ。
花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。
まず手の平を観察してみるのじゃ。
花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
自分の手が自分のものではないような感覚。
それは厭離という感覚じゃ。
厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。
普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。
しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。
この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
それは又、別に書くじゃろう。
