鬼の説法集(悟りへの道)

鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

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ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-24.html

 

 観察の行の本行じゃ。 

 花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。 
 観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。 
 人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。 

 まず手の平を観察してみるのじゃ。 
 花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。 
 何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。 
 自分の手が自分のものではないような感覚。 

 それは厭離という感覚じゃ。 
 厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。 
  
 普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。 
 しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。 

 この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。 
 肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。 

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。 
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。 

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。 

 その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。 
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。 

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。 

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。 
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。 
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 
 それは又、別に書くじゃろう。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-23.html

 

 わしは何故、鬼和尚なのか?
 わしは既に名声も、金も、権力も欲してはいないからじゃ。
 お釈迦様の教えを広め、出来る限り多くの者を悟りに導くのが、わしの唯一の望みなのじゃ。
 その過程でわしは名を広めたり、金や権力を得たりする事はしないのじゃ。

 例えば世界中の富を得た大金持ちが、道端に落ちている1円の金を拾おうとしないように、絶対幸福である悟りを得たわしは、もはや何一つ必要としてはいない。
 ただみんなに死を超えた最高の境地である悟りを得させる為だけに、生きているのじゃ。

 故にわしをカルト宗教の宣伝員ではないかとか、洗脳されるのではないかと、恐れる必要はない。
 このネットで教えを受ける者の多くは、最後までわしが誰かを知る事すら無い。
 わしは一銭の金も受けず、誰にも知られずに死ぬじゃろう。
 それで良いのじゃ。

 ただ全人類の宝であるお釈迦様の教えが、正しく伝わり、悟りを得たいと望む多くの人間が悟りを得られるようになる事が、わしの唯一の望みなのじゃ。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-22.html

 

 試練にあっても善いことを続けていれば、自然に運気は向上し、お金や欲しかったものが手に入るようになるじゃろう。 
 しかし、そういう時こそ気をつけねばならない。 

 お金などが入ってくるようになると、良いお金と共に、悪いお金も入ってくるようになる。 
 良いお金とは労働や他人に与えられたなどの、正当な理由で手に入ったもの。 
 悪いお金とは拾ったり、何かの間違いで手に入ったものじゃ。 

 要するに与えられた物が良いお金じゃ。 
 与えられていない物は悪いお金なのじゃ。 
 与えられていない物は、決して手にしてはいかん。 
 その途端に再び運気は下がり、再び試練からやり直しじゃ。 
 大抵の人間はこの試練と試しの間を上下しておる。 

 皆もこの試験と試しを知っていれば、繰り返す事はなくなり、次第に運気も向上していくじゃろう。 

 世には多くの開運法とか、運を良くする技などが宣伝されておるが、それらが効果があったりなかったりするのも、この善い事をする事で、善根が植えられ、やがて良い報いが来るということを知らないからじゃ。
 善い事をし続ければ善い因が重なり、善い事が起きる果を受ける事が出来るのじゃ。

 茄子の種を植えれば茄子の実が出来、カボチャの種を植えればカボチャの実が出来るように、善い事の因を積み重ねれば善い果を受け、悪い事の因を積めば悪い果がやってくる。
 これが因果の法則と呼ばれるものじゃ。

 もともと善い事をしている者は開運法などをしなくとも、善い事が起きるが、悪い事ばかりしているものは、どんな開運法をしようと善い事は起きないものじゃ。
 運気を必ず向上させようと思う者は、善い事をするのが一番良いのじゃ。

 みんなもこの因果の法則を使って、運気を向上して頂きたいものじゃ。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-21.html

 

 仏教に限らず、サタニストやオウムなどを除いて全ての宗教は善を為すことを薦め、悪を諌める。 

 善を行えば良い報いがあり、悪を為せば悪い報いがある。 
 仏教では10の悪を諌め、その反対の10の善を為すように薦める。 

 不殺生、生き物殺さず、傷つけず、助ける事。
 不偸盗、他人の物を盗まず、困っている者には与える事。 
 不邪婬、不倫や強姦、セクハラなどをせず、正しく交際する事。 
 不妄語、嘘をつかず、正しく伝える事。 
 不綺語、意味のない議論やおしゃべりをせず、意義のある言葉を言う事。 
 不悪口、罵詈雑言を止め、優しい言葉を使う事。 
 不両舌、他人に言った言葉と違う事をする二律背反や、詐欺を止める事。 
 不慳貪、欲を張らず、気前良くする事。 
 不瞋恚、怒らずに、いつもきげんよくしている事。 
 不邪見、誤った考えを止め、正しい考えをする事。 

 これらの善を為すことで、現世では良い報いがあり、死後には天人にもなれるじゃろう。 
  一言にまとめるなら、他の衆生、生き物を苦しめないで、喜ばすのが善であり、苦しめるのが悪じゃな。 
 例えば泥棒を助ければ、泥棒は喜んで有難がるだろうが、物を取られた者は苦しむじゃろう。 
 故にこのようなことが悪であると判る。 

 オウムの者もこのように考えれば、人を傷つけることが悪であり、善い事ではないと判ったじゃろうにのう。 

 食べ物を食べるなどのように、生存の上で必要な時には、あえて苦しめるのは仕方が無い。 
 しかし、組織の存続や、より多くの金の為に衆生を殺すのは、悪と言わねばならぬ。 
 皆はそのようなことがないようにして戴きたいものじゃ。 

 さて、善を行えば善い報いがあると書いたが、具体的にはまず罪の浄化が行われる。 
 わしの話を読んだりしてこれからは善を行おうという者は、罪の浄化として試練にさらされる。 
 他人に罵られたり、嫌な思いをしたりするが、それは罪を浄化するための試練なのじゃ。 
 それを恨まずに「この試練によって地獄に落ちるほどの罪も浄化出来た」と、喜ぶがいい。 

 かつてお釈迦様のもとで帰依したアングリマーラという殺人鬼は、僧になってからも肉親や知人を殺された街の人は、彼に石を投げ憎しみをぶつけたものじゃ。 
 お釈迦様は 
 「耐え忍ばなくてはならない。それがおまえの犯した罪の償いなのだから。」 と諭されたのじゃ。 

 改心した者には、このように罪の償いがなされるのじゃ。 
 それを耐え忍び善を行い続ければ、罪は浄化され、善き報いが来るのじゃ。 
 運気は向上し、次の試しがまっている。 

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。 
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。 
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。 
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。 
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。 

 例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」 
 などと観察していくのじゃ。 

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。 
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。 

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。 
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」 
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。 
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。 
 連想や記憶は雑念なのじゃ。 

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。 
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。 
 そうすれば雑念は自然に消えていく。 
 このような時に止の行は役立つのじゃ。 
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-19.html

 

 このブログを読む者の中には未だ疑いを離れてはいない者もおるじゃろう。 
 しかし、それでいいのじゃ。 

 お釈迦様は「なにものも信じるな、疑え」と、言われた。 
 お釈迦様の教えは信じることが全てというような、脆弱な教えではない。 
 わしの書く事も疑うがいい。 

 疑い、自ら試してみるがいいのじゃ。 
 信じようと信じまいと、数息観を行えば意識は集中し、不動の心を得られる。 
 それが本当かどうか、一つ一つ試して見るのじゃ。 
 試して、己の体で本当だと知ることが重要なのじゃ。 

 仏教は実践が全てじゃ。 
 実践によって真実と妄想を区別することが出来る。 
 知識だけを追うものは、疑いと妄想の網に落ち込み、なにものも得ることがない。 

 偽りの認識に囚われている人間は、真実を知ることすら出来ないのじゃ。
 認識の転換を果たして、漸く真実を知る事の出来る体質になるのじゃ。
 そのような者が目覚めた人、仏陀と呼ばれる。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 本物の悟りを得た者と、そうではないニセモノの見分け方はどうすればいいのか。

 一般の人でも簡単に判るのは、次の三つの違いによるものである。

 悟りを得た者は権力に執着しない。ニセモノはそうではない。

 悟りを得た者は金銭に執着しない。ニセモノはそうではない。

 悟りを得た者は名声に執着しない。ニセモノはそうではない。

 このような誰にでも判るような、明白な違いがある。
 お釈迦様は釈迦族の王子としての権力の座を捨て、金銭を身につけず乞食行をして、身を養っていた。バラモンの者が論争を仕掛けても沈黙を保ち、名声に傷がつくと弟子達が狼狽するのも気にかけなかった。
 そのような態度こそ真に悟った者の態度と言えるじゃろう。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-17.html

 

 従来の仏教の導師達は、悟りを得ても自分が悟りを得たとは言明しなかった。
 その理由は、悟りを一つの固定した観念として扱われる事を嫌った為であり、言葉では表現出来ない境地を、言葉にする事の無意味を避ける為でもあった。
 故に禅では悟りは文字を使わない不立文字であるとし、悟りなどはない、何もないのが悟りであると、告げてきた。

 しかし、近年になってオウムなどのカルト宗教が、インドに行って悟ったなどと称して若者達を騙し、テロを起こすという事件が起こってしまった。
 宗教を金儲けの道具としているカルト宗教は、未だにこのような、インドに行って悟ったなどと称する詐欺を行っている。

 このような詐欺が横行するのは、我々仏教徒が悟りというものが、どのようなものであるのか、明確にして来なかった事にも一因がある。
 我々悟りを得た導師は、自ら悟りを得たと宣言して、彼らカルトの詐欺師が明らかに悟っていないと言明し、喩え最後の境地は言葉に出来なかろうと、理解し得る限界までは、言葉を以って説明すべきであったのじゃ。
 それをしてこなかった為に、インドで悟りを得たと称するニセ導師が、金や権力を求めて純真な若者達を騙せる状況を作ってしまったのじゃ。
 そして今、オウムは未だ存続し、インドで悟りを得たと称するニセ導師達も、何人も居る。

 もはや伝統の上に胡座をかき、怠惰の言い訳として文字を使えない境地などと言っているべきではないのじゃ。
 悟りを得た者はそう宣言し、限界まで言葉による説明をしなければ、法慳貪の罪は逃れられぬ所じゃ。
 それ故にわしは悟りを得たと宣言し、悟りの境地を言葉にして説くのじゃ。  

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 わしがここで説教するのは、お釈迦様と同じように、悟りを求める者を導くためじゃ。 
 お釈迦様は自分の足でインド中を歩き回り、人々を教えて回った。 
 奴隷階級のものにも、バラモンにも分け隔てなく平等に教えを説いた。 

 もし、わしが紫の衣を着て、金の座布団に座り、セレブにしか教えを説かないとしたら、お釈迦様の弟子とは言えまい。 
 それ故にわしも悟りを求める者に平等に教えを説くのじゃ。 

 真面目な質問には、聞かれれば答える。 
 それがわしの仕事じゃ。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 座禅をしていると、集中しようとしても思考や連想が頭の中を流れ、それに囚われてしまうことがある。
 そのような思考や連想を雑念と呼ぶ。

 雑念を無理に止めようとすると、その思いが又雑念となり、再び雑念に流されてしまう。
 雑念を止めるには、一つ一つの思考を意識せず、流れるままにしておくことじゃ。 
 例えば心を川に、雑念をその川に浮かぶゴミのようなものとして喩えるなら、川の流れに浮かぶゴミを見ず、川全体を見るようにするのじゃ。

 流れていくゴミをそのままに、数息観であれば呼吸に集中し直す。
 そのようにすれば、雑念は自然に消えていく。