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鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 快とは丹田が真っ直ぐに揃った時に、上丹田より生じるこころよい感覚じゃ。 
 それは例えば、良い景色などを見た時の感激にも似ておる。 
 背骨を伸ばし、上下の丹田が完全に重なれば、体の中心を気が自然に上昇し、上丹田に達する。 
 すると背中に電気が走ったように感じ、全身に心地よさが広がる。 
 鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つような者もおる。 

 この感覚と快を得るための上中下の丹田の統一は、言葉で伝えるのは難しい。 
 身体の微妙な感覚であり、それを真に身に付けるには、自ら研究する他は無い物じゃ。 
  初心の者は取り合えず背中を真っ直ぐにして、頭の中心と下丹田にゴルフボールくらいのボールがあり、それを上から垂直に合わせるようにイメージするのじゃ。 
 ボールが重なれば自然に快が生じる故に、そこが正しい姿勢の位置であると判るであろう。 

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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世の多くの学者達はお釈迦様の教えを、哲学や思想として捉えておる。
 しかし、それは誤りなのじゃ。
 縁起も、無常も、無我も、空も悟りを得るための心理的なテクニックに過ぎないのじゃ。 
 思想や一般論として捉えては、仏教というものを理解していない事になる。 

 お釈迦様は洗濯屋には心の汚れを取れと説き、楽人には楽器の弦がゆる過ぎず、張り過ぎないように心を調節せよと説いた。 
 お釈迦様が教えられたのは思想でも、一般論でもなく、悟りに導く手法であり、心理的なテクニックなのじゃ。 

 もし縁起が無いとして人を導けるなら、そのように説いたじゃろう。 
 目覚めた者の智恵は、目覚めた者にしか判らないものじゃ。 
 おぬしらもお釈迦様の教えの真の意味が知りたかったら、遠くへ行って他人の教えを聞く必要は無い。 
 今から数息観を初め、己の心を観よ。

 

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 ダンマパダ(法句経)の一句じゃ。 

【 第十七章 怒 り 】 


221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 

 ここに名称と形態と書いてあるのが判るじゃろう。 
 まさにこれが悟りを得なければ見過ごしてしまうような言葉じゃ。 

 人間は名前と形とで全てを認識しておる。 
 今風に言えば言葉とイメージとでも言おうか。 
 人が何かを認識したというのは、この 言葉とイメージを記憶し、内外に当てはめることが出来るということなのじゃ。 

 それは当然、自我を認識する時も同様。 
 人は言葉とイメージによって自分を認識し、この体や心の作用に当てはめているのじゃ。 
 この言葉に自我からの反発を覚える者も居るだろう。 
 結局、お釈迦様の言葉は悟りを得たものにしか判らないものじゃ。 

 2000年前に、既に認識のメカニズムを看破していたお釈迦様の真の偉大さは、言葉に尽くせぬものがあると言えよう。 

 お釈迦様は悟りを得る前には漠然と偉い人と思っていただけだが、その言葉が理解出来る程、ますます偉大さが判って来たものじゃ。

 

 

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 自己否定は否定する自己を肥大させる自己満足に過ぎない。 
 自分を否定してみせる人格を肯定する遊戯であり、却って自我を肥大させるものじゃ。 

 真の自我の解体とは、あくまで自己観察と、その延長にある観照によってのみなされるものじゃ。 

 例えば日常において、道を歩いていると女子が下着などを晒していたのを見て、欲情したとしよう。 
 そんな時に己をすけべいだなどと批判したり、これからは欲情しないようにと思うのは自己否定じゃ。 
 自己観察は己の行為や感情を批判も肯定もせず、ただ見つめるのじゃ。 

 女子の下着を見て欲情したのなら、今、自分は欲情した、もっと見たいと思っている、などと観察し、それを認め、一切の批判も否定もしない。 
 ただ心の動きを黙々と観察するのみじゃ。 

 或いは仕事で嘘を付かねばならなくなった時も、自分は今、仕事の為に嘘をついている、嘘を付いて金を稼いでいる、と、観察し、認めて批判も否定もしない。 

 日常においてこのように己を、ただ黙々と観察するならば、瞑想に入ったとき、己の心が容易に観察出来るようになる。 

 真の自己観察には否定も、批判も、称賛も、肯定も不要なのじゃ。 
 ただ黙々と己の心を観察すると、自我の観照が起こる。 
 見るものである筈の自我を、見ることが観照と呼ばれる現象じゃ。 
 見られた自我は、認識による自己同一性を失い、解体する。 

 そして、認識をも解体した時、人は目覚めた者となるのじゃ。 
 その時まで精進するのじゃ。 

 

 

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 座禅の心得は焦らず、恐れず、拒まず。と言う所じゃ。 

 進歩がないなどと焦ることはない、続けていれば必ず不動心が身に付く。 
 それを待つのじゃ。 

 座禅中は色々と奇妙な感覚が起こったりするものだが、恐れる必要は無い。 
 そのような時こそ一切は縁起によって起こる、空なるものであると観想せよ。 

 そして、瞑想の中で何かが起こるのなら、それを拒まずに受け入れるのじゃ。 
 自分が変わっていくことを受け入れ、新しい己の誕生を見守るのじゃ。 

 

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 腰を据えて背筋を伸ばし、上中下の三つの丹田が垂直になっていたら、人は自然に無念無想になれるものじゃ。 
 道元禅師も禅とは只管打座、ただ真っ直ぐに座ることが肝心と言うておる。 

 足の組み方は、日本人には完全な結跏趺坐は、向かないものが多い。 
 片足を片腿に乗せる半跏座や、あぐらなどでも背骨が真っ直ぐになれば良いのじゃ。 

 そして、尻を据えて腰は伸ばす。胸を開き、肩の力を抜く。首で頭のバランスを取るようにするのじゃ。 
 全体が整ったら、頭のてっぺんから糸が出て吊られているようにイメージして伸び上がり、力を抜いてもとの姿勢に戻るのじゃ。 

 下半身の中心の下丹田、上半身の中心のみぞおちにある中丹田、頭の中心にある上丹田が完全に真っ直ぐになっておれば、快が生じ自然に三昧の境地に入るじゃろう。 
 自分で座りながら体を少しずつ動かしてみて、頭の中心に快が生じたら、それがおぬしの正しい姿勢なのじゃ。 
 そのコツを掴めれば、正しい姿勢が出来て、修行は速やかに進むじゃろう。 

 

 

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 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。 
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。 
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。 
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。 
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。 
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。 
  
 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。 
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。 
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。 
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。 

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。 
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。 
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。 
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。 

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。 
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 

 

 

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ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

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 悟りの道に限らず、どのような道を行く者も成功するためには一つの秘訣がある。 
 それは決してあきらめないということじゃ。 
 あきらめなければ成功する確率は常に50パーセントはある。 
 成功するか、しないかの50パーセントずつじゃ。 
 しかし、あきらめてしまえば可能性は0パーセントじゃ。 

 このはげちゃびんは何をあたりまえのことを言っているのかと、おぬしらもあきれているかも知れぬ。 
 しかし、このあきらめないということは、道の途中で本当に苦しくて、つらくてもう止めてしまいたくなった時にこそ判るのじゃ。 
 世の中には、本当に大事な願いが、簡単にかなうということは滅多にない。 
 大抵は苦労に苦労を重ねて、なおもうまく行かないということが多い。 

 自分の考えた事がうまくいかず、自分自身を否定され、打ちのめされ、叩きのめされたとしても、あきらめず、未だ可能性は50パーセントあると己に言うがいい。 
 そうすればどんなに否定され、打ちのめされ、叩きのめされても、もう一度、立ち向かう勇気が湧いてくる。 

そして、不可能を可能にし、勝利を手に入れるための最後の力を与えてくれるだろう。 

 

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 謙虚とは何か、或いは何に対して謙虚であらねばならぬかということになれば、それは真実に対して謙虚であらねばならないということになろう。 
 真実に対して謙虚であれば、真実の表れを見出すことが出来よう。 

 しかし、人に謙虚であることにより、認められようと思うのであればそれは揚棄に他ならない。 
 謙虚であると言うことだけで、人を判別しようとするものは、謙虚なる詐欺師にだまされ続けることにもなろう。 
 詐欺師というものは実に巧妙に謙虚な者を装うものじゃ。 

 謙虚であらねばならぬのは、真実を見出すためであり、それは心の在り様を顕わすものならば外に現れることもあるまい。 
 己の内にある真実を見出すことに勤める者こそ、真に謙虚な者と言えようか。