鬼の説法集(悟りへの道) -3ページ目

鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-4.html

 

 悟りを得たものがいきなり筋肉モリモリになり、体力が倍になるということがあり得ないように、悟りを得たからといって神通力などは身につかない。 
 悟りを得た者が身につけるのは智恵なのじゃ。 
 正智、妙観察智などの智恵が身につくのじゃ。 
 それらの智恵も又、おぬし等の中に眠っておる。 

 人間はそれらの智恵の力で空を飛ぶことも出来、海にもぐり、宇宙にまで行く事が出来た。 
 神通力などは必要ないのじゃ。 
 智恵こそが人を偉大にするもの。 
 ただ妙な力があるだけで智恵がないなら、ゴリラやチンパンジーと変わりはあるまい。 

 おぬし等も智恵を磨いて偉大な者になるがよい。 
 わしが許す。

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-3.html
 

 昭和の中頃、東京に生まれるが如く生まれる。
 子供の頃、九死に一生を得て、死について考えるようになる。
 10代の頃から仏教の経典を読み、独学で修行する。
 20代の頃、悟りを得る。
 人々に教える為に、勉強と修行を続ける。

 2007年の春頃から2ちゃんねるで教える。
 最近、ブログで教え始める。

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-2.html

 もしおぬし等が100の力を持っているのに、自分には10の力しかないと思っているとしよう。 
 そうすると一生10の力しか出せないで終わってしまうだろう。 
 もしおぬし等が自分には100の力があると知っていれば100の力を出せる。 
 そして、1000の力があると思えば1000の力を出せる。 
 さらには自分には最高の力があると知れば、無限の力を出せるであろう。 

 無限。 

 無限の力がおぬし等の心に宿っている。 
 だからして己の力に限界を作ってはならん。 
 おぬしがもしも総理大臣であったとしても、自分にはさらにそれ以上の力があると知るのだ。 

 信じるのでも、考えるのでもない。 
 知るのだ。 
 自分には無限の力があると知る。 

 その事実を受け入れるのだ。 
 そして、無限の力をこの世界に叩きつけよ。
 世界はおぬしのものになるだろう。

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」より

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-1.html

 

 みんなは自分というものの価値をどのように考えておるかな?
 両親や兄弟、友人、社会から貼られたレッテルを真に受けて、自分はそこそこの奴だなどと思ってはいないかな。 

 そのような奴はわしの一喝を聞け。 

 おぬしは最高の存在なのだっ!。 

 おぬしにとって自分とは、常に最高の価値と、計り知れない重要性を持っているのじゃ。
 この地上にある全てのものを合わせたものより、おぬしにとって尊いのが、自分という存在なのじゃ。 
 それを事実として受けとめよ。 
 私は最高だと声に出して言ってみよ。 
 誰かに笑われたら、笑い返してやれ。 
 事実を知らない愚か者だと。 

 自分を無価値なものだとは、ただの一瞬も思ってはならん。 

 私は最高であると信じるのだ。 
 私は最高であると感じるのだ。 
 私は最高であると認めるのだ。 
 まず何よりも先に己が最高の価値があるという事実から、全てを始めるのだ。 

 最高の価値がある自分を生かす道は何か。 
 最高の価値がある自分を更に素晴らしくする方法はないか。 
 最高の価値がある自分をどのようにすればいいのか。 
 ただそれだけを考えよ。

偉大な仏陀・釈迦牟尼は「我が教えに師拳なし」と言われた。
 仏陀の全ての教えは金で購われることなく、全ての衆生に開放される。
 それはネットの上でも同じことである。

 まがい物の導師たちよ、我が教えを模倣するがいい。
 魔王に憑かれた者たちよ、我が教えをけなすがいい。
 それら全ての行いが、仏陀の真の法を広げる役に立つだろう。
 全ては仏陀の経綸の内に在る。
 目覚めた者の智恵は常人には計り知ることが出来ない。”


”おぬしも聞きたい事があれば聞くが良いのじゃ。
 わしのような真の目覚めた者の話を聞く事が出来るのは、2000年に一度のチャンスなのじゃ。
 2ちゃんねるだから嘘だろうとか想うと損なのじゃ。”

 

ブログ「鬼和尚の仏教勉強会」の記事のmp3とpdfです。皆さんよかったらどうぞ。
https://www.dropbox.com/sh/wvxgsogm88zb7tn/AABLmuK-Ebu-WIRf_zGMDC1wa?dl=0

 

Youtubeでも見れます

https://www.youtube.com/channel/UCYFeSCnPYRNpdcdb-JfAC-A?view_as=subscriber

 

進行中のスレ(ほぼ1日1回20~24時位の間に、鬼和尚がレスしてくれます)

 

【なんでも避難所】 - 鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/

【生活全般】 - 相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】42
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1513680120/

【人生相談】 - 悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】60
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1513819266/

 

【心と宗教】 - 【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】274 ←現在鬼和尚は書き込みできないようです。

http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1513404959/

 

【なんでも避難所】 - 【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所51【悟り】

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1511452829/

 

【自己啓発】 - 鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

http://fate.2ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1509160394/

鬼和尚のブログ(不定期に、ブログのコメント欄にて回答してくれます)


鬼和尚の仏教勉強会
http://onioshyou.blog122.fc2.com/

鬼和尚の人生相談室

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-category-4.html

592 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 20:37:54.49 ID:qQqHUCS4
鬼和尚さま、僧侶の前の前世は何でしたか?

 

596 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 22:06:22.65 ID:IZ6ifjev [2/2]
>>592 教師だったのじゃ。
 いろいろ教えていたのじゃ。

 

602 名前:592@無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 16:58:38.15 ID:LrISAs3G
>>596
鬼和尚さま、お返事ありがとうございました!

 

605 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 20:57:01.59 ID:S5Z/Cae+ [1/2]
>>602 どういたしまして、またおいでなさい。


720 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/09(日) 20:44:08.48 ID:jiXFoCA2 [1/2]
死ぬ→夢を見る→夢から覚める→生まれる

鬼和尚の3つ前の前世では何の教師だったんですか?
現在で言うとどこの国ですか?

721 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/09(日) 20:48:27.38 ID:jiXFoCA2 [2/2]
>>693
死ぬ→夢を見る→夢から覚める→生まれる
こんな感じでしょうか?
死んだ後に見る夢は、毎晩眠っているときに見る夢と同じものですか?

鬼和尚の3つ前の前世では何を教えていたんですか?
現在で言うとどこの国で教えていたんですか?

 

728 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 22:57:38.73 ID:YaHGBEqo [2/2]
>>720>>721 そのようなものじゃ。
 同じなのじゃ。

 医療とか靴の作り方とかなのじゃ。
 何でも教えたのじゃ。
 国などは知られんのじゃ。
 地図も無いからのう。 

 

747 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/10(月) 15:39:36.25 ID:dGAGpW2a [1/2]
>>728
2つ前の前世は2500年くらい前のインドで
お釈迦様の弟子だったんですよね?
そうでしたら3つ前の前世も検証していけば
国や年代も推測できるのではないでしょうか?

ということで3つ前の前世について回答お願いします
長くなるかもしれませんがよろしくお願いします
1男でしたか?女でしたか?
2姓名を教えてください
3幼少時の家族構成を教えてください
4両親は何を生業としていましたか?
5住居はどのような造りでしたか?
6衣服はどのようなものを着ていましたか?
7周りはどのような自然環境でしたか?
8季節の変化について教えてください
9人々の顔立ちは西洋風でしょうか東洋風でしょうか?
10主に何を食べていましたか?

 

760 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/10(月) 21:39:21.15 ID:votMngPZ [2/2]
>>747 お釈迦様が居たからわかったのじゃ。
 いなければわからなかったのじゃ。
 男なのじゃ。
 ファミリーネームは無いトバとかいっていたのう。
 たくさんいたのじゃ。
 たくさん死んだのじゃ。
 農業とか狩猟なのじゃ。
 草で出来ていたのじゃ。
 山とか川とか林とか森ばかりなのじゃ。
 冬に雪が降り夏は暑いのじゃ。
 アジアの顔なのじゃ。
 穀物と草と根茎と稀に肉なのじゃ。


766 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/10(月) 23:46:41.51 ID:dGAGpW2a [2/2]
>>760
お話を聞いていると特定は難しそうですね
地図が無いから国も知られないというのも納得です
でもたいへん興味深いので質問を続けさせてください

1トバという名前にはどのような意味があるのでしょうか?
2貨幣は用いられていましたか?物々交換ですか?
3どのような動物を家畜にしていましたか?
4何世帯で何人くらいの共同体だったのでしょうか?
5その共同体のトップはどのように選ばれますか?
6外部との交易や交流はありましたか?
7何か特定の宗教はありましたか?
8教育制度はどのようなものでしたか?
9教師という職についた理由を教えてください
10結婚はしましたか?

 

774 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 21:42:15.90 ID:1mam0gzJ [1/2]
>>766 1葉っぱとか切れ端みたいな意味のようじゃ。
2 物を交換してたのじや。
3 馬が居たのう。
 4 七百人ぐらいで百家族ぐらい居たようじゃ。
5 話し合いなのじゃ。
 6 あったようじゃ。
7 精霊信仰なのじゃ。
 8 個人で教えるだけなのじゃ。
 9 教えてくれと頼まれたのじゃ。
 10 していたようじゃ。

 

776 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/11(火) 23:30:25.13 ID:YlSMkF9T
>>774
回答ありがとうございました
またよろしくお願いします

1馬は当時の言葉で何と呼んでいましたか?
2その共同体の始祖はどこから来たどのような人たちだったと言われていましたか?
3精霊信仰ではどのような儀式が執り行われていましたか?
4トバさんは教師以外にも何か仕事はしていましたか?
5結婚したのは何歳くらいですか?
6結婚は親が決めたものでしょうか?それとも自由恋愛の末でしょうか?
7お相手の女性はどのような方でした?
8その女性は現在どこで何をしているのでしょうか?
9子供は何人ほど生まれましたか?
10トバさんの肉体面と精神面の特徴を教えてください

 

780 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 22:11:32.21 ID:OdW9x9r9
>>776 1 まーとかもーとか言っていたのじゃ。
2 空から来たとかいうのじゃ。
 3 踊って病を治すのじゃ。
 4 教えるだけだったのじゃ。
 5 年は数えないのじゃ。かなりじじいになってからなのじゃ。
 6 親が決めたのじゃ。
 7 でぶなのじゃ。
 8 寝ているのじゃ。
 9 いないのじや。
 10 丈夫な親父なのじゃ。
   精霊に囚われていたのじゃ。

 

782 名前:おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止[] 投稿日:2017/04/12(水) 23:49:59.49 ID:DCUqEv4f
>>780
回答ありがとうございました
またよろしくお願いいます

1文字は使われていましたか?
2トバさんの教えていた医療とはどのようなものですか?
3貧富や身分の差はありましたか?
4踊って病が治るのは精霊の力によるものでしょうか?
5精霊は何と呼ばれていましたか?
6精霊はどのような姿をしていましたか?
7トバさんは何故精霊に囚われていたのでしょうか?
8空から来たという人たちは何故その地に降り立ったと伝えられていましたか?
9トバさんの死因は何でしたか?
10死ぬときには何を思っていましたか?

 

791 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM @無断転載は禁止[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 21:49:34.78 ID:e6QWbe1N [1/2]

>>782 1 ないのじゃ。
 2 まじないなのじゃ。
 3 ないのじゃ。
 4 信じる力なのじゃ。
 5 ふーとかはーと呼ばれていたのじゃ。
 6 そう教わったからなのじや。
 7 清いところであるからとかいうのじゃ。
 8 じじいになって死んだのじゃ。
 10 精霊の世界に行くと思っていたのじゃ。

549 :神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 03:20:40.06 ID:Ykj+XllO
鬼和尚お手数をお掛けいたしますが、この7人の悟り鑑定をお願いできませんでしょうか?


井上哲玄


向令孝&やまがみてるお


知井道通&賢者テラ


阿部敏郎&雲黒斎

574 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/14(金) 22:04:40.15 ID:FbqZQRIO
>>549 ほったいすなのじゃ。
 ぎげんの弟子かのう

 近所のおっさんなのじゃ。
 左は漫才師の浜ちゃんかのう。
 悟りとは関係無いのじゃ。

 セミナーの人じゃな。
 商売は上手いのじゃ。
 悟りとは無関係なのじゃ。

 としろうはサマーデイまでは経験したようじゃ。
 芸名の人は漫才をしたほうが良かろう。

576 :神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 22:23:09.19 ID:Ykj+XllO
>>574
>ほったいすなのじゃ。
>ぎげんの弟子かのう

鬼和尚は今日はもう来られないのでせうか?
どなたか解読をお願いしまりもっこり。

610 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/15(土) 21:59:00.74 ID:FMdglQi4
>>576 はんたいすともいうのじゃ。
 飯袋子じゃな。
 井上儀玄というのが昔居たのじゃ。
 名前が似て居るから弟子かも知れんと想ったのじゃ。

34 :神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 20:35:18.04 ID:78AvrOxE
前スレ>>610
飯袋子調べてみました。ヒェー!
鬼和尚は禅の者には厳しいんかな?
井上哲玄は井上義衍(ぎえん)の長男ってことです。
以下の御3方の悟り鑑定お願いします。

井上義衍 原田雪渓 川上雪担

185 :神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 03:09:02.49 ID:z11SsX7H
鬼和尚だ!34の質問もお願いします。

215 :185:2014/11/26(水) 22:00:06.54 ID:z11SsX7H
鬼和尚にスルーされてしもうた…
3度目の正直!34の質問に回答プリーズ!

221 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/26(水) 22:36:27.51 ID:z6wKDq1U
>>215 すまんのう見落としていたのじゃ。
 
 井上義衍は悟っていたのじゃ。
 認識に問題があるとわかっていたのじゃ。

 原田雪渓はサマーディまで到達していたようじゃ。

 川上雪担はディヤーナの状態までじゃな。
 まさに禅なのじゃ。

239 :神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 02:44:21.72 ID:vV2E0dF5
>>221
やっと本物がでてきた感じでしょうか。
では、以下の御2方の悟り鑑定お願いします。

原田祖岳 飯田欓隠

318 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/27(木) 22:30:24.82 ID:HaVlCTiH
>>239 2人とも学者じゃな。
 知識だけは多いのじゃ。

330 :神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 00:38:29.74 ID:pFEUovD6
>>318
原田祖岳と飯田トウ隠は井上義衍に悟りの証明を与えたそうですが
井上義衍は悟ってたのにこの2人は悟ってない…
井上義衍の息子の井上哲玄も悟ってない…
この世界ではこういう悟り詐称って普通なんですか?
悟ってないのに悟りを語ったり他人を指導したりするのに
罪悪感とか良心の呵責みたいなものはないんですかね?

335 :神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 02:05:06.84 ID:EyRmJ1zN
>>318
鬼和尚、悟り鑑定お願いします!

http://retreat.awarenessism.jp/library/brown00.html
brown

http://www.geocities.jp/tierrakoya/hamabe/hibi/keiju/goroku.htm
青野敬宗


井上貫道

398 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/28(金) 21:36:47.49 ID:4x7o8ih9
>>330 知識があるから相手の状態がわかるのはわかるのじゃ。
 本当の悟りかどうかは曖昧なのじゃ。
 本人達にも分っていないのじゃ。
 伝統を継いだらよいと思っているのじゃろう。
 ぎえんは曹洞も臨済もいかんとかいっていたのじゃ。
 
>>335 ①は茶碗禅の仲間じゃな。
 商売人のみじゃ。壷を買わされんようにするのじゃ。

 ② は見性したとぎえんも言っておる。
    多少はわかっているようじゃのう。サマーディや無我には入っておるのじゃ。

 ③ またぎえんの縁続きかのう。
    悟っていないのじゃ。少しは落ち着いて居るから修行はしているようじゃ。

407 :神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 22:16:59.07 ID:pFEUovD6
>>398
ありがとうございます。
鬼和尚はほんと正直に語ってくれますね。
井上貫道は井上義衍の息子で
義衍から印可証明も受けていたようです。
悟った人からの印可証明もあてにならんということでしょうか?

う~ん悟ってない人が悟った人を見分けられないのはわかります。
でも義衍は悟っていたし禅の世界にいるのに
小悟と大悟を見分けることができなかったんですかね?
そして鬼和尚にそれができるのは
鬼和尚に特殊能力があるからでしょうか?

461 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/11/29(土) 22:08:04.54 ID:bYniJC9D
>>407 そうじゃ、悟ってもそこまで走らん者も居るのじゃ。
 インドのパパジも無我にすれば悟りと思っているのじゃ。

 オショーは知っていたのじゃ。
 無我だけでなく、更にそこから真の悟りがあると。
 昔の臨済禅も小悟と大悟があると知り、白隠も小悟で師匠に更に修行するように言われていたのじゃ。
 わしは自分の経験や禅の研究やオショーの話からそのような区別を知ったのじゃ。

 悟った後もそのように勉学と修行に励まなければいかんのじゃ。
 それによってそのような知識も得られるのじゃ。

625 :神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 13:38:20.87 ID:8rUrM7QX
>>461
ありがとうございます。
鬼和尚は小悟と大悟の時とでは実感にどんな差がありましたか?
それと鬼和尚の目には小悟と大悟の人はどう違って見えますか?

あとオショー関連で思い出したんですが
菊池霊鷲(太母さん)という人がオショーから
薔薇の花びらを振りかけられている動画を見たことがあります。
鬼和尚から見て彼女はどんな境地にいるのか教えて下さい。
その動画は消えてしまったようなので別の動画です。



658 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/01(月) 21:52:49.59 ID:jSmPszY1
>>625 小悟ではまだ無我を見ている意識があるのじゃ。
 大悟になればもはや何も無いのじゃ。
 語れるものも行う事も無いのじゃ。

 小悟ならば未だ認識があるから行うと言う意識が在るのじゃ。
 心も未だ定まらず、身心が動いているのじゃ。

 大悟になればもはや行いも無く、行うと言う意識も無いのじゃ。
 心は定まり、時々理由も無く身心が止まるのじゃ。
 グルジェフとかパパジの動画を見ると良いのじゃ。

 サマーディには達したようじゃ。

701 :神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 09:30:50.18 ID:Bwg4D1rK
>>658
ありがとうございます。
グルジェフとパパジの動画見ました。
所々止まってるのはおじいちゃんだからという気がしないでもないですが
前に鑑定してもらった人たちとは違う岩のような落ち着きを纏ってますね。

極めつけはラマナ・マハルシの動画ですが1:46から始まる
ヨガナンダとの写真撮影では微動だにしてなくて驚きです。



ニサルガダッタ・マハラジの動画も見ましたが
普通の人以上に忙しなく動く印象を受けました。
鬼和尚はどういうところに彼が大悟してるという特徴を見るんですか?



758 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/02(火) 22:13:11.91 ID:qWQmT5Rn
>>701 そうじゃ、身心が鎮まっているからなのじゃ。

 マハラジも最初止まっているのじゃ。
 動画が編集されているのじゃ。
 喋らず動かない所は不要と思って切ったのじゃろう。
 最初だけはのこって居たのじゃろう。

760 :コレ悟りかよ!?w:2014/12/02(火) 22:25:44.91 ID:qcU65d/1
>>758
冗談はこれぐらいにして、鬼和尚質問です。
何をもって悟ったとしたんでしょうか?

804 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/03(水) 20:58:18.33 ID:opO8Y/p+
>>760 悟ったものしか語れん事を語っていたのじゃ。
 聞いて見るのじゃ。

436 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 18:16:42.32 ID:Uq5u9U90
鬼和尚、ギリシャ哲学者のなかで、
鬼和尚が悟ってると思われる人物がいれば教えて下さい!

451 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/13(土) 21:29:00.51 ID:YpHoFIy8
>>436 いないのじゃ。
 ギリシアの哲学は修辞学のような感じじゃな。

103 :凹スケベ椅子凹:2014/12/20(土) 13:53:56.71 ID:Jav6vqMT
鬼和尚、質問です。
せったんこと川上雪担という方は悟ってるんでしょうか。

186 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/20(土) 21:20:29.82 ID:6LDE2+I8
>>103 悟れなかったのじゃ。
 自分と知識が捨てきれなかったのじゃ。

210 :神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 06:31:02.20 ID:HKSvThSR
鬼和尚。
ダンテス・ダイジは覚者ですか?

213 :神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 09:24:39.36 ID:HKSvThSR
鬼和尚。
http://jbbs.shitaraba.net/study/12104/
この掲示板TK師という人は、悟ってますか?

281 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/21(日) 22:12:10.77 ID:zml2te5O
>>210 悟っていないのじゃ。
 気付きがあっただけなのじゃ。
 それから金儲けに走って早死にしたのじゃ。

>>213 悟っていないのじゃ。
 妄想全開じゃな。

296 :210,213:2014/12/22(月) 07:40:23.42 ID:PLA4VLh4
>>281
ありがとうございます。

>>210 悟っていないのじゃ。
 気付きがあっただけなのじゃ。
 それから金儲けに走って早死にしたのじゃ。

ダイジが金もうけに走ったというのは、どうしてわかったのですか?
また、金もうけに走ることが、早死にと関係あるんですか?

364 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/22(月) 22:49:06.37 ID:DJ4FuKVu
>>296 本を出して一儲けしようとしていたのじゃ。
 それは天地を騙して儲けようとする事であるから運気が尽きるのも早いのじゃ。

475 :凹スケベ椅子凹:2014/12/23(火) 16:24:11.76 ID:ZEVna36x
鬼和尚、質問です。

悟れず成仏できなかったせったん和尚は何に輪廻転生したのでしょうか。
得意の神通力で透視してください。

491 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/23(火) 22:09:29.92 ID:lq4awfZj
>>475 未だなのじゃ。
 いずれ良いところに行くかも知れん。
 おぬしの子供になるかも知れん。

485 :神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 21:24:00.34 ID:cNP8pmxv
>>364

> 本を出して一儲けしようとしていたのじゃ。
> それは天地を騙して儲けようとする事であるから運気が尽きるのも早いのじゃ。

本を出してる人はみんなそうなんですか?
天地を騙して、とはどういうことですか?

494 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/23(火) 22:22:27.73 ID:lq4awfZj
>>485 本当は悟っていないのに、悟っていると言って一儲けしようとするとそのようなことになるのじゃ。
 自分を騙せば天地も騙す事になるのじゃ。

495 :神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 22:34:40.75 ID:cNP8pmxv
>>494

> 本当は悟っていないのに、悟っていると言って一儲けしようとするとそのようなことになるのじゃ。
> 自分を騙せば天地も騙す事になるのじゃ。

ダンテス・ダイジは、自分では本当に悟ったと思っていたかもしれませんよ?純粋な勘違いでもアウトですか?

もしも「自分は悟ってないけど、こんな修行をすればこんな結果が出るよ」という内容だったら、セーフだったのでしょうか?

578 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/25(木) 22:02:55.34 ID:QB6A/nTs
>>495 少しでも気付きがあったならば、自分で本当に一切の苦を超えて悟ったかわかるものじゃ。
  死を超えていなければ未だ悟っていないと判るのじゃ。

 自分に判る範囲ならば良かったじゃろう。
 正直になれば良い報いが在るのじゃ。

843 :神も仏も名無しさん:2014/12/31(水) 11:10:13.06 ID:Mp6HokCb
鬼和尚

この動画の方は悟っていますか?なんだか目が水晶のようです。

短いの

長いの


857 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/12/31(水) 21:44:45.89 ID:J9EQmJAi
>>843 悟っていないのじゃ。
 まだ苦の中にいるのじゃ。

860 :神も仏も名無しさん:2014/12/31(水) 23:23:10.20 ID:hPN3Hwdq
>>857
マハラジの弟子を悟ってないとか、
舐めてんのか?

882 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/01(木) 20:59:45.00 ID:eQaPSbKg
>>860 誰の弟子でも悟っていない者は悟っていないのじゃ。
 本人しだいなのじゃ。

885 :神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 02:19:59.00 ID:4EAMvp9J
>>882
>誰の弟子でも悟っていない者は悟っていないのじゃ。
>本人しだいなのじゃ。

では、どの部分で悟ってないと思ったんだ?
オーラの色か?
雰囲気か?

おまえはそれを見分ける能力を持っているのか?

889 :神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 10:27:24.62 ID:HsKgpHGH
鬼和尚

ラメッシ・バルセカールは悟らずに死んでしまったんですね。

彼の転生先はどこか教えて下さい。天人になったのでしょうか?

893 :神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 20:12:19.66 ID:d9LwRk9L
鬼和尚、質問です。

死後の世界はないのではないでしょうか。
死後の世界など「ない」と考えて生きるのが真実ではないのでしょうか?

896 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/02(金) 21:35:45.83 ID:s1o4xlup
>>885 マハリシやグルジェフなどの動画を見てみるのじゃ。
 心身を滅却した者は不動になるのじゃ。
 常人は心身が動いてとまらないのじゃ。
 真の仏陀の沈黙を味わうのじゃ。
 それが本当に役立つ教えなのじゃ。
 
>>889 まだ生まれていないのじゃ。
 なにやら苦しげなようであるがのう。

>>893 世界というものが観念であり無なのじゃ。
 今の世界も無いのじゃ。
 おぬしの近親のものは死んでもおぬしのそばに居るじゃろう。
 同じ空間に居るのじゃ。
 夢の中で会えるのじゃ。

901 :神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 05:46:32.58 ID:163WDtrP
>>896
ラメッシ・バルセカールは何で苦しそうにしているのか、聞いてもらえませんか?

それと、鬼和尚が真の悟りについて教えてあげれば、ラメッシ・バルセカールくらい修行が進んでいる人なら、
今いる死者の世界でも気づきが起こって悟りを得る可能性はあるんでしょうか?

904 :神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 08:35:33.36 ID:163WDtrP
鬼和尚に質問です。

悟ったら、だいたいはそのまま涅槃に入ってしまいますか?

悟って教えを説く人は稀ですか?

悟ったら肉体を持って生きる意味ってありませんよね?

946 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/03(土) 21:18:47.99 ID:hu2oOcNj
>>901 寝ているのじゃ。
 寝ているから無理なのじゃ。
 もはや他人のことも認識できないのじゃ。

>>904 教える者も多いのじゃ。
 いきなり死ぬのも無意味なのじゃ。
 生きられる限り生きて教えを説くのも自在なのじゃ。

929 :凹スケベ椅子凹:2015/01/03(土) 17:39:08.73 ID:rYthWoCI
鬼和尚、質問です。

鬼和尚は阿羅漢ですか、菩薩ですか。
この区別の意味を教えてください。

949 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/03(土) 21:23:07.54 ID:hu2oOcNj
>>929 わしは阿羅漢と呼べるじゃろう。
 阿羅漢は悟った者なのじゃ。
 菩薩は悟りを目指して修行中なのじゃ。

2 :神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 11:01:30.57 ID:s1RmF995
悟りをひらくの定義をしてください。
全てはそれからです。

61 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/05(月) 21:57:19.75 ID:lI6TVpZU
>>2 自我を滅し、認識をも滅することなのじゃ。
 それが真の悟りであり、大悟徹底なのじゃ。

52 :神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 16:54:42.59 ID:fJIlaO/5
鬼和尚に質問

前スレで鬼和尚は、ラメッシさんは今眠っていて話せないのじゃと言ってました。
でも鬼和尚はよく、死んだ者とも話せるのじゃと言ってます。
ということは、悟らずに死んだ場合
死ぬ→眠ってる(ラメッシさんの状態)→起きる(鬼和尚と交流が出来る状態)→生まれ変わる
のような過程を辿るのですか?

62 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2015/01/05(月) 22:01:44.39 ID:lI6TVpZU
>>52 死んだ者は親しい者とでないと話さないのじゃ。
 他人は認識すらできないのじゃ。
 夢の中のものと思っているのじゃ。
 まれに死んだ他人とでも話せるというものも居るがのう。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし


 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。


 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず


 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 


 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり


 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。


 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。


 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し


 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり


 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。

   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
2 :避難民のマジレスさん:2013/07/28(日) 15:38:05 ID:WL2yRwjAO
無我の境地に至るにはどうすればいいですか?

4 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/30(火) 20:07:58 ID:kaXJvxhM0
>>2 それにはさまざまな方法が在るのじゃ。
 ただ集中だけでも無我に入れるのじゃ。
 しかし、時間と才能が必要なのじゃ。

 神仏に帰依し、そのイメージに集中するとただ集中するだけより早く無我に入れるのじゃ。
 それには強い信仰心が必要なのじゃ。

 自我を観察し、厭離を起こせば自我は滅し、自然に無我の境地に入れるのじゃ。
 それには自らの言葉とイメージを観察しなければならないのじゃ。

 人には難しいが何もしないで座っていれば無我になることもあるのじゃ。
 長時間何もしないということが人には難しいがのう。
 他にもいろいろとあるのじゃ。
 学んでみるのじゃ。

278 :避難民のマジレスさん:2013/08/22(木) 22:53:12 ID:Ac76nLUY0
厭離が起こる、とはどういうことでしょうか。

観察とは、目で見る、つまり視覚を用いるのでしょうか。
聴覚や嗅覚、触覚など用いるのは方法が違うのでしょうか。

279 :避難民のマジレスさん:2013/08/23(金) 00:29:49 ID:Ac76nLUY0
このブログ主は悟っているでしょうか。
http://siran.gjpw.net/

284 :避難民のマジレスさん:2013/08/23(金) 15:44:57 ID:OWFkcfvg0
物差しと裁き(意味づけ)はどうしたらなくせますか?
それが自我そのものかもしれませんが、自我では自我を赦せないしなくせない。
他者や事象を見て嫌な気分になったとき、抑圧した自我を投射している、といいますが、
それを見つめて剥いでいっても、善悪などの価値判断が残っていれば裁いてしまい、自動的に
嫌な気分になる。ここで嫌な気分になるのを相手のせいにしてしまえば、自我や分離の幻想
に力を与えたことになり、エデンの園から出た状態、迷いから抜け出せない。
その迷い、苦の状態=自我がそのままでいいと思っていれば解放されたいとも思わないので、
自我自体を自分でいいも悪いも無いとは思えません。ある程度の悟りというか観察精神にシフト
しなければ。
ではどうしたら自我が嫌だな、と思うものを見たとき、自我に対する価値判断をなくせるのでしょうか。
よろしくお願いします。

287 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/23(金) 20:26:37 ID:kaXJvxhM0
>>278 厭離とは気づきによって、観察の対象との自己同一化が滅する事なのじゃ。
 例えば人は怒りを発すれば、怒りと己が同一であると認識しておる。
 怒っている己があり、己の怒りが怒っていると認識しておるのじゃ。
 冷静に集中して観察すれば、怒りはただ原因から自動的に連鎖して起こっているだけであり、己とは無関係である事に気づくのじゃ。
 そして怒りは己ではなく、己のものではないと厭離され滅していくのじゃ。

 怒りなどの感情が原因から連鎖的に起こるように、観察して気づきがあれば、。厭離も連鎖的に起こるのじゃ。

>>279 悟っていないのじや。
 お調子者じゃな。

288 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/23(金) 20:38:08 ID:kaXJvxhM0
>>284 その判断基準がどのような原因から起きているのか、観察して追及するのじゃ。
 原因がわかれば、その原因から価値判断が起こり、原因が無ければ価値判断も起こらないと観察するのじゃ。

 大抵の場合価値判断は親とか友人とか仲間内などから教えられるのじゃ。
 子供の頃の価値判断を抱えていれば、大人になってから苦になったりするのじゃ。

297 :避難民のマジレスさん:2013/08/24(土) 02:34:27 ID:OWFkcfvg0
>>288
その原因は自我には自我を幻想だと思えない、というところです。
だから他者の増長した自我や低次元の自我の部分を見たとき、判断して苦を感じてしまうことがあります。
無くそうとしていること、苦を感じること自体、自我というものをそのままではだめだ、という価値判断を
していることになる。強めてしまう。
だからなかなか明け渡せないというジレンマがあります。
エゴの増長した自分や他者や世界というものを感じたとき、狂っていて苦で嫌だと思うから悟りたいと思う。
それがエゴを赦せない、価値判断をなくせない(悟れない)原因にもなっている。
でも苦しいともおかしいとも思わなければエゴの世界に浸かったまま浄化もしないことになる。じゃあそのエゴ
に対するおかしいだろうとか憤りとか苦から来る価値判断はどうしたらよいのでしょう。
やはり自我を超えた一元性の意識が覚醒しないと二元性は消えていかない、といいますが、それに頼っていく、
自我の堂々巡りをすっぱり諦めて明け渡すことしかないでしょうね?
それはこの質問などもやめる、ということなんでしょうが。。

303 :避難民のマジレスさん:2013/08/24(土) 10:50:40 ID:p4aWaNt.0
>>287

>>278,279です。お答えありがとうございます。

厭離についてですが、その例と同じような事は日常的に経験しているように思います。
特に怒りや不安のようなものについてはわかりやすいです。
厭離が起きていれば、それでいいのでしょうか。
何か次にめざすべき道のようなものはあるでしょうか。

>>4で
>自我を観察し、厭離を起こせば自我は滅し、自然に無我の境地に入れるのじゃ。
とありあます。
これは、観察の対象が自我である、ということだと思います。
では、観察する主体は何でしょうか。自我とは別のものでしょうか。
何が自我を観察するのか、そして何が無我の境地に入るのか、ということです。

310 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/24(土) 20:16:35 ID:kaXJvxhM0
>>297 実際にはその自我は無いのじゃ。
 あると言う観念のみがあるのじゃ。
 自我が無くとも原因からの観念の連鎖が起こるのじゃ。
 それに己であると言う観念を投射するのが、認識の働きなのじゃ。
 存在しない自我が何かを邪魔したりする事は無いのじゃ。
 思考を止め、実践する者が進歩するのじゃ。

313 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/24(土) 20:42:14 ID:kaXJvxhM0
>>303 そうじゃ、そのような気づきによる厭離は、日常的にも起きているのじゃ。
 今まで判らなかったことがわかったり、知らないことを知って世界が変わるのじゃ。
 
 それを己に起こるようにしていくのじゃ。
 そのために自分を観察することが修行となるのじゃ。
 自分の肉体に始まり、五感や思考などの心の中を観察し、自我を観察するに至るのじゃ。

 観察する主体は無いのじゃ。
 本来一切の人の心身の働きは主体無く起こるものであるが、そこに主体があると感じ、主体があると思うのが自我を認識する働きなのじゃ。
 観察するものは無く、無我に入る者も無いのじゃ。
 何か観察するものがあり、無我にはいる者があったと思うならば、未だ無我ではないのじゃ。

330 :避難民のマジレスさん:2013/08/25(日) 13:43:08 ID:p4aWaNt.0
>>303です。お答えありがとうございます。

鬼和尚はときどき「無認識」という言葉を使われています。
>>310に
>それに己であると言う観念を投射するのが、認識の働きなのじゃ。
とありますが、この引用に関連して言うと、
己であるという観念の投射のない認識が無認識である、という理解でいいのでしょうか。
別の言葉で言うと、ただ在る、あるいは、ただ起こる、それらをたただ受け取る、
そのとき、在る、あるいは、起こる、のような認識する対象もなく、受け取る(認識する)主体もない、ということでしょうか。

>>313
観察する主体もなくその対象もないのであれば、観察した時点で既に無為、無我ということではないでしょうか。
また、無為、無我であるならば、そもそも観察とさえ言えない(認識できない)のではないでしょうか。

343 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/25(日) 20:18:41 ID:kaXJvxhM0
>>330 自我の観念だけでなく、一切の観念の投射のない認識が無認識と言えるのじゃ。
 自我の観念の投射が無いだけでは、未だ無我なのじゃ。
 一切の観念の投射が無いから、一切の対象も主体も無く、行為も無いのじゃ。

 本来は観察する主体無く、無為無我であるが、そこに主体が在り、対象が在ると認識しているのが通常の者の認識なのじゃ。
 主体が無く、観察と言う行為も無いが、誤ってそこに主体や対象や観察の行為があると衆生は認識してしまうのじゃ。
 一切衆生は本来仏陀であるが、無明によって迷いの世に陥っているとはそのような事なのじゃ。

332 :避難民のマジレスさん:2013/08/25(日) 14:03:40 ID:p4aWaNt.0
>>330
読み返して、疑問に思ったので追加。

>>330で私は「観察する(中略)対象もない」と書きましたが、
鬼和尚は「観察する主体は無い」とは言っていても、「観察する対象は無い」とは言ってないのでしょうか。

であるならば、対象はあっても、主体が無いということですね。

対象とは「自我」であり、観察によってそもそも自我は無いとわかるので、
主体とか対象があると思って作り出している者は自我だから、
自我が無いとわかれば、主体も対象も無いとわかる、
だから、主体が無い、
というようなことでしょうか。

347 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/25(日) 20:32:20 ID:kaXJvxhM0
>>332 そうじゃ、気づく順序としてはそのようになるのじゃ。
 始めは観察の対象として自我を捉える。
 しかし、それが無であると気づき、主体が無くなる。
 主体が無いと気づくから対象も無いと気づくのじゃ。

350 :避難民のマジレスさん:2013/08/25(日) 20:52:44 ID:p4aWaNt.0
>>343.347

>>330,332です。
よくわかりました。疑問は解消しました。
あとは私に実践できることを実践します。
ありがとうございました。

364 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/26(月) 19:53:28 ID:kaXJvxhM0
>>350 どういたしまして、またおいでなさい。

 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり

 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために

 いまこの詩を与うべし


 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。

 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、

 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。

 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。


 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。


 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。

 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。


 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。

 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。


「空」は何ものも頼まず

マハムドラーは何ものにも依らず

また労せず

ただゆったりと自然であることによりて

人はくびきを打ち壊し

解脱を手の内にするなり


 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。

 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。

 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。


 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。

 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。

 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。

 

 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。

 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。

 

 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 


もし中空を見つめて何も見ず

そのとき心をもって心を観ずれば

人は差別を打ち破り

ブッダフッドに至るなり


 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。

 これは正に止観の法なのじゃ。


 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。

 そして心を観察する。

 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。


 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。

 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。


 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。

 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


空をさまよう雲には

根もなくまた家もなし

分別の思いの

心を漂いよぎるもまたしかり

ひとたび「自性心」の見らるることあらば

識別は止まん


空間に象と彩の生ずることあれど

そは黒白に染まらず

万物は「自性心」より出で

しかも心は善悪に汚さるることなし


長き時ふる暗闇も

灼熱の陽を覆うこと能わず

カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も

「心」のまばゆい光を隠すことを得ず


 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。

 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。


 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。

 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。


 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。

 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。


 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。

 

 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。

 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。

 

 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。

 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。


 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。

 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。

 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。


 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。

 しかしそれは間違いなのじゃ。


 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。

 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。


「空」を説くに言葉の語らるることあれど

「空」そのものは表わされ得ず

「心」は輝ける光のごとし”と言うも

そはすべての言葉とシンボルを超越せり

本質に於いて空なれど

「心」は万物を抱き、そして容るるなり


 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。

 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。

 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。


 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。

 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。


 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。

 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。


 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。

 それを観想するのじゃ。


 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。

 空が空から起こり、空が空に収まって行く。

 そこに何の差別も分別も無い。


 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ

口を堅く結びて沈黙を守り

心を空しくして何ものも思わざれ

中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ

与えずまた取らず、汝の心を休ませよ

マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし

かくのごとく行ずるによりて

やがて汝はブッダフッドに至らん


 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。

 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。


 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。

 言葉も話さず沈黙する。

 心も又空によって思いを滅する。


 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。


 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。

 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。


 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。


 身口意の働きを止める事。

 心に得失などの二元論を滅する。

 一切の思いを空と観じて滅する。

 

 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。


真言、波羅蜜多の行

経文、訓戒の示すところ

宗門、聖典の教えも

甚深の真理の実現をもたらすことなし

欲望に満たされし心の

目標を追わざるを得ざれば

そはただ光を隠すのみなるがゆえに


 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。

 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。


 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。

 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。


 それらの法が間違いなのではないのじゃ。

 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。


いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者

サマヤの精神にそむくなり

すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ

あらしめよ、思考の

大海の波のごとく浮き沈むがままに

たえて無安住と

並びに無差別の原理をそこなわざる者

タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。

 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。

 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。


 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。

 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。


 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。

 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。


切望を避け

かれこれに執着せざる者

聖典の真意を知るなり

マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ

マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん

これぞダルマの至高の灯なり

そを疑う者

とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり


 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。

 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。


 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。

 これが法の至高の光となる。

 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。


 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。

 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。

 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。


 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。


解脱を目ざすにあたり

人はグルに依るべし

汝の心がその祝福を受くるとき

解放は間近なり


 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。

 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。

 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。


 しかしどのような者でも良い訳ではない。

 グルも又選ばなければいかんのじゃ。

 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。

 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。

 

 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。

 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。


ああ、この世のすべては無意味にして

ただ悲しみの種子なるばかりなり

小さき教えは行ないへといざなえば

人はただ大いなる教えにのみ従うべし


二元性を越ゆるは王の見地

散乱を征服するは王者の行

行なき道こそすべてのブッダたちの道なり

その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん


 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。

 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。

 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。


 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。

 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。


 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。

 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。


 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。


 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。

 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。

 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。


 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。

 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。


 そうすればもはや行いは無い。

 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。

 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。


心に執着せる者の

心を越えたる真理を見ることなく

ダルマを行ぜんと求むる者の

行を越えたる真理を見いだすことなし

心と行をふたつながら越えたるものを知らんには

人はきっぱりと心の根を断ち切りて

裸眼をもちて見つむべし

しかして人は一切の差別を打ち破り

くつろぎにとどまるべし


与えず、また取らず

人はただ自然のままにあるべし

マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに

もとよりアラヤの生ずることあらざれば

誰もそを妨げ汚すこと能わず

不出生の境界にありて

すべてのあらわれはダルマタへと溶解し

自己意志と傲慢は無の中に消滅せん


 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。

 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。


 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。

 修行をすれば修行をする自分が強まる。

 安楽になれば安楽な今の心に執着する。


 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。


 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。

 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。


 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。

 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。



 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。

 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。


 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。


 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。

 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。


 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。

 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。

 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。


 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。

 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。


至高の理解は

かれこれの一切を超越し

至高の行為は

執着なくして大いなる機知を抱く

至高の成就とは

望みなくして内在を知ることなり


はじめヨーギは

おのが心の滝のごとく転落するを感じ

中ほどにてはガンガーのごと

そはゆるやかにやさしく流れ

ついに、そは大いなる海なり

息子と母の光がひとつに溶け合うところ


 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。

 執着の無い行いは智慧となる。

 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。


 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。

 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。

 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。


 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。

 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。


 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。

 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。


 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。

 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。


 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。

 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。


 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。

 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。


 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。

 分かれていたものが一つになるのではない。

 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。


 もはや自分も他人も無い。

 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。

 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。