鬼の説法集(悟りへの道) -4ページ目

鬼の説法集(悟りへの道)

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18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好


 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。

 

 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。


 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。

 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。


19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵


 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。

 

 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。


 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。

 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。

 本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。


20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛


 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。

 

 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。


 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。

 自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。

 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯


 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。

 

 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。


 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。

 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。

 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。


22 迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌


 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。

 

 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。


 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。

 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


23 夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却


 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。

 

 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。


 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。

 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。

 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。


 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。

 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。


24 眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如


 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、

 

 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。


 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。

 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。

 

25 一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然


 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。

 

 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。


 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。

 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 


26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。

 

 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。


 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。

 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。

 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。


27 両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則


 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。

 

 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。

 

 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。

 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


28 契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直


 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。

 

 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 


 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。

 それが無為なのじゃ。


 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。

 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。


29 一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測


 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。

 

 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。

 

 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。


 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。

 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。


 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。

 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。

 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。


 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。

 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。


30 真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二


 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。

 

 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。

 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。


 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。

 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。

31 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗


 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。

 

 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。


 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。

 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。

 

 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。

 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。


32 宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前


 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。

 

 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。


 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。

 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。


 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。

 

33 極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表


 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。

 

 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。


 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。

 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。

 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。


34 有即是無 無即是有 若不如此 必不須守


 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。

 

 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。


 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。

 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。


 そのような境地は守るべきではないのじゃ。

 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。

 

35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢


 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。

 

 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。

 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 


 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。

 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今


 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。

 

 まことと心は一つである。

 

 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 


 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。


 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。

 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。


 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。

 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。

 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。

 


 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。

 ただ今ここに在るのみなのじゃ。


 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
   
 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。

 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。


 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。

 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。

 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。


02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆


 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。

 

 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。

 

 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。

 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。


03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静


 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。

 

 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。


 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。

 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。


04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如


 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。

 

 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。


 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。

 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。


05 莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽


 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。

 

 己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。


 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。

 それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。


 むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


06 止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 


 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。

 

 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。


 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。

 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。

 

 それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。

 父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。

 

07 一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空


 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。

 

 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。


 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。

 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。


08 多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通


 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。

 

 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。


 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。

 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。


09 帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  

 

 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。

 

 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。

 

 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。

 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。


 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。

 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。


10 前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見

 

 観念妄想が止まないのは皆妄見による。

 

 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。

 

 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。


 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。

 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。


 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。

 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。


11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心


 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。

 

 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。


 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。

 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。

 

12 二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎


 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。

 

 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。


 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。

 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。


13 無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 

 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。

 

 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。 


 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。

 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。


 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。


14 境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。

 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。


 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。

 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。


 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。

 

15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党


 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。

 

 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。 


 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。

 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。

 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。


 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。

 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。

 

16 大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅


 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。

 

 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。


 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。

 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。


17 執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住


 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。

 

 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。


 修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。

 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。

110 :マジレスさん:2010/03/27(土) 07:55:26 ID:MlOvkT5L
どうして悟りは ひろめたほうが良いのですか??

111 :マジレスさん:2010/03/27(土) 13:13:59 ID:UJQShH1N
なぜ菩薩は衆生を済度したいと願うのですか?

119 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/03/27(土) 20:29:14 ID:1Pl9clyf
>>110 苦しむ者がいなくなるからじゃ。

>>111 苦しむ者に慈悲を起こすからじゃ。

120 :110:2010/03/28(日) 11:09:26 ID:68Ki09gQ
>>119
苦しむ者がいなくなるのは 良いことと思いますが
そうなったらいいなぁという エゴとはちがうのですか?? 

123 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/03/28(日) 20:01:39 ID:UQmA6DZl
>>120 己のみが楽になればよいというのがエゴじゃ。
 他人を想うのは慈悲と言えるじゃろう。
 本来ならばエゴというのも在り得ないものじゃがのう。
 他人も自分も一つのものじやからのう。

127 :マジレスさん:2010/03/29(月) 20:51:30 ID:jedWq9l1
鬼和尚さん、これはどういうことですか?

>本来ならばエゴというのも在り得ないものじゃがのう。
 他人も自分も一つのものじゃからのう。

他人も自分も一緒ならば、自分が努力して向上する必要ないでしょ?
鬼和尚さんが一人悟れば、みんな悟ることになるんでしょ?

131 :110:2010/03/30(火) 02:00:07 ID:ZLSIEfvA
>>123
慈悲の原動力も人間のエゴのような気がしますがどうでしょうか?
あと 他人も自分も1つなら悟りをひろめる必要がなくなりませんか?

135 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/03/30(火) 19:40:06 ID:ftsilmAO
>>127 個我という観念を持っている者には、悟りは同じにはならないのじゃ。
 衆生も本来は仏であるが、観念によって自ら迷っているのじゃ。
 観念を逃れた時に始めから仏陀であったと気付くのじゃ。
 しかし、それは言葉通りの事ではない。
 未だ自我にとりつかれた者が、全ては仏だと言えば間違いになるのじゃ。
 
>>131 エゴという観念をどこまでも当てはめればそう見えるものじゃ。
 個人の存続のみを想うのが通常はエゴと呼ばれるが、家族や親族、民族、人類までも存続を願うのもエゴではないかと思えばエゴに見える。
 エゴではいけないという観念が無ければそのような観念にもとりつかれないじゃろう。

 悟りは個我という観念を持つ者がいる限り、広めなくては成らんのじゃ。
 現実に苦しむ者がいればそれに手を差し伸べる。
 それは理屈を離れた本然の働きなのじゃ。
698 :マジレスさん:2010/06/22(火) 17:09:53 ID:hTosNu8y
鬼和尚さん教えてください。
苦を観察していてもどうしてそうなったのか、その原因というのはあまりわかりません。
原因がわからずとも、苦を滅することはできるのでしょうか?
このままだとどうしても永久に苦を滅することはできません。

706 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/22(火) 21:04:37 ID:Qw01rtIB
>>698 苦は大抵は執着から起こるものじゃ。
 執着するものが得られないとか、執着するものを失った、失いそうになるとか、執着している状態とは反対の状況に陥っているとか、そのような原因を探ると良かろう。
 
 原因が判らなくとも、その苦を詳細に観察し、分析すれば厭離は起こるじゃろう。
 それはどのような特徴があるのか、その本性はどのようなものか、その本体はどのようなものか、それはどのような作用があるのか、原因は何か、何と関連しているのか、その結果はどのようなものか、どのような時に起こり、どのように消えていくのか、観察してみるのじゃ。
 全部正確に判らなくともよい。
 そのように観察しつづける事が大事なのじゃ。

700 :マジレスさん:2010/06/22(火) 18:52:07 ID:/SU4esRs
自己(句・ウダーナヴァルガ23章)
*この世では自己こそが自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。
よく説かれた事を実行せよ。修行者に使え、尊敬する事、人々から隠れて独りで座し、
心を静めることを。
独り座し、独り臥し、独り歩み、なおざりになることなく、自分ひとりを楽しめ。
常に独りで林の中に住め。
戦場において百万人の敵に勝つとも、ただ一つの自己に克つ者こそ、実に腐敗の勝利者である。
自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れている。
常に行いを謹み、、自己を整えている人、このように明らかな知恵ある
修行僧の克ちえた勝利を敗北に転ずる事はいかなる神々もなしえない。
点の音楽神たちも悪魔も、梵天もなしえない。
まず自分の身を正しくせよ。ついで他人に教えよ。
まず自己を正しく整え、次いで他人に教えよ。賢明な人はわずらわされ、悩む事が無いであろうから。
自分が他人に教えるとおりに自分でも行え。私は常にわが身をよく整えている。
自分というものは、まことに制し難いものである。
自分が他人に教えるとおりに自分でも行え。私は常にわが身をよく整えている。
賢者は自分の身を整えているからである。
たとえ他人にとっていかに重要であろうとも、自分でない他人の目的のために、
自分の務めを捨て去っては成らぬ。自分の最高の目的を知って、自分の務めに専念せよ。
この世では自己こそが自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。
賢者は自分の身をよく整えて、自分の主となり得る。
この世では自己こそが自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。
賢者は自分の身をよく整えて、自分の目的を達成する。
この世では自己こそが自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。
賢者は自分の身をよく整えて、徳行を達成する。

705 :マジレスさん:2010/06/22(火) 20:58:28 ID:4GSDfPSK
旦那の多重債務が原因で嘘だらけの毎日と格闘し続けましたが
子供は私が引き取り、昨年離婚しました。
そういう理由で
父の日のCMやチラシを見る度に怒りがこみ上げていました。
他にも急な事情が出来た為、ここ数日ハードな日々を過ごしていた事もあり
すっかり自分の父にプレゼントするのを忘れてしまい
今日、洋服を選んで渡しに行ったのですが
鬼のように怒って付き返されました。
私は忘れていた事を何度も詫び、
頭を地につけて土下座して誤りましたが
許してはもらえませんでした。
私の事情は全て知っている父親なのに・・・

こんな些細な事で
毎回怒るのでもう疲れ果ててきました。
私には旦那も含めて父親の良いイメージが全くありません。
自分の半分が父親だと思うので
自分自身も大嫌いです。

なんだか鬱になりそうです。
でも子供がいるので頑張ろうと思っています。
どんな風に気持ちを持てば
どう考えていけばいいでしょうか?

707 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/22(火) 21:23:47 ID:Qw01rtIB
>>705 菩薩が>>700に丁度おぬしに合った教えを書いたのじゃ。
 しんくろにしてぃじゃな。
 旦那も父親も頼りになるものでもないと骨身に知ったじゃろう。
 
 旦那も父親も主ではない。
 自分を自分の主とするのじゃ。
 
 旦那や父親にまだ未練があり、もっと優しくして貰いたいなどと思っていれば、逆の反応に合った時に悩み苦しむじゃろう。
 そのような未練を捨てて自分を整えるのじゃ。
 心を不動にする数息観などを行うがよかろう。
 自分が自分の主として確立したならば、以前はなぜあのような事で悩んでいたのかと不思議になるじゃろう。

712 :705:2010/06/23(水) 09:38:15 ID:TIhLAbbK
>>707
ありがとうございます。
ただ
>>700の教えですが
読めば読むほど父親に当てはまります。
自分が一番、自分が正しいと考えているので
何事にもわずらわされたり悩んだりする事がありません。
>まず自分の身を正しくせよ。ついで他人に教えよ。
ここの部分も自分ではそのつもりなのだと思います。
>>700の教え通りに生きる事は
父親の様な生き方をしなさいと言われている様に感じます・・

元旦那には全く未練がありません。
子供の為に犯罪は犯さないで欲しいと思う位です。
父親も子供の頃からずっと嫌いだったので
死んだと思う事にします。
誰にも頼らず生きていける様、頑張ってみます。

715 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/23(水) 19:46:48 ID:60T9Smy3
>>712 そうじゃ、己の道を行くのじゃ。
 またおいでなさい。

906 :マジレスさん:2010/07/23(金) 20:37:45 ID:hjMct6nD
24歳社会人女

好きだった男に「肉便器」「妊娠したらおろせ」「キチガイ」等々を言われ男性不信に。

どうやったら克服できるでしょうか…

913 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/24(土) 19:44:02 ID:qeC2r2ei
>>906 克服しなくてよいのじゃ。
 男も女も他人にそのような言葉を投げかけるものと心得ておくのじゃ。
 他人に頼れば常にそのように傷つけられる恐れがある。

 他人に依存することなく、自分を自分の主とするのじゃ。
 自分を主としていれば、そのような言葉をかける者は邪な心を持つ哀れな者とみることができるじゃろう。
483 :マジレスさん:2012/02/17(金) 20:32:59.55 ID:fYDrK2Gx
悟りに興味を持ち修行や瞑想に励むうちに自我が不明朗になり、目的意識も薄くなり、言葉がうまく話せなくなったり、
日常生活に弊害が出てきています。
社会生活と修行?を同時並行して進めることは可能でしょうか?悟らないままこのまま突き進むと狂人になる恐れがあるのですが。

486 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/02/17(金) 21:00:43.97 ID:g4kh2jDL
>>483 社会生活と言うのがどれほどのものかわからんが、仕事とかは無理じゃろう。
 もはや金銭的な欲求もなくなってしまうからのう。
 静かな所で独り修行に励むのじゃ。

489 :マジレスさん:2012/02/17(金) 22:11:25.17 ID:GPf0XrVd
>>486
このアドバイス凄いな。
廃人になりそうな人にさらに廃人になる事を奨めているようなもんだぞ

それで大丈夫なんですか?
人間性や社会性を失ってもなお求めるべき価値があるものなのですか悟りとは。

518 :483:2012/02/18(土) 01:16:14.79 ID:DJkRNV5C
皆さん、いろいろな意見有難う。ですが皆さんはそれぞれの偏見を通してアドヴァイスを下さっていると思います。
正解のでない質問してしまいすいません。

悟りに道は無限にあると思います。他人の意見に無暗に左右されず自己に頼ろうと思います。

>>486
静かなところで修行に励むことが重要だとお考えですか?

騒がしいところでの本格的な修行は難しいですか?

騒がしい凡俗を嫌い聖を求めるのはまだ、浄、不浄の分別に囚われている気するのですが。
そもそも聖も俗も名に過ぎぬことではありませんか?

というよりこう書いていて気付くのは何より私がそれに囚われている証拠ですねw

ちょっと現在危うくなりかけれいたので、眠って、また明日の朝からフレキシブルな感覚を取り戻して態勢を整えたいと思います。

あらゆる観念に囚われず、柔軟で新鮮な感性で自由自在に世の中生きたいですね。

580 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/02/18(土) 20:36:03.11 ID:wIuqm0Vs
>>489 人間性や社会性というものが本当にあるじゃろうか?
 その観念には実際には大きな欠陥があるものじゃ。
 人の集まりである社会も人間と言う分類も、条件によって成立し、やがては無くなるものじゃ。
 川に浮かぶ泡のようなものじゃ。
 誰か川に浮かぶ泡のために人生を捧げたり、貢献する事が立派な事だと言う者が居るじゃろうか?
 やがて無くなるはかないもののために、人はわかっていながら他にやる事も無くただ従っているものじゃ。

 そのように観念に囚われた者の心の奥底にも永遠の意識があるのじゃ。
 人は社会や人間集団としてではなく、己の心を制する事によって不死の境地に至れるのじゃ。
 それこそが滅びるものを捨て、永遠へと還る道なのじゃ。
 それを本当に知ればいいのじゃ。

581 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/02/18(土) 20:52:15.83 ID:wIuqm0Vs
>>518 真の悟りを得れば一時的に言葉が話せなくなるじゃろう。
 言葉と言葉の持つイメージとの乖離が起きるからのう。
 お釈迦様のように戻ってくる気になればいずれ話せるようになるがのう。

 仕事とか大勢の知らぬ者に会うような環境は無理なのじゃ。
 犀の角のように独り頑張るのじゃ。

577 :マジレスさん:2012/02/18(土) 17:31:30.07 ID:dOPWQhK9
鬼和尚さんのファンですので、鬼和尚さん限定で相談です。
 私(40代 男性)は
 地の顔(デフォルト)が笑い顔のため
 これまでに職場で失敗して必死で謝っている時も
 「何がおかしいんだ!」と怒鳴られたり
 道を歩いていても、ニタニタキモイと面と向かって
 言われたり、趣味の会合でさえ、女性から「私は旦那が居るんですよ!」
 と走って逃げて行かれたり(別に何も言っていないのに)
 スーパーのレジでさえ、顔を覚えられ、また来てるキモイわ、などと陰口を
 囁かれる始末。今は職を失い、職安でも「あんた、何がおかしいのかしらんが
 職員なめてんのか?」と喧嘩を売られ、求職さえ難しい。
 幼少時代から親から”ニタニタむかつく”と意味も無く殴られた事も多かった。
 ホンジャマカの石塚を痩せさせた雰囲気です。
 意識して怖い顔を作っても疲れてしまい、長持ちしません。
 どうかアドバイス宜しくお願いします。

582 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/02/18(土) 21:05:59.25 ID:wIuqm0Vs
>>577 笑顔で居るのはいい事じゃ。
 しかし、良い笑顔で無いと人には好かれないのじゃ。
 顔の筋肉を鍛えてさわやかな笑顔になるように訓練したら良かろう。
 顔の形は鍛えたりするとかなり変わるものじゃ。
 さわやかな笑顔が作れたら人にも好かれるじゃろう。
 鏡を見て練習するのじゃ。
 目が笑っていても口をおもいっきり閉じたりすると残念な顔になるのじゃ。
 笑顔で居るのは良い特徴なのじゃ。
 いろいろ俳優のように試して逆に顔を世渡りの武器にするのじゃ。

584 :マジレスさん:2012/02/18(土) 21:27:57.48 ID:SUKYeSlf
顔を世渡りの武器にするか、面白いね

さて和尚は「永遠」などと言う事を言うが
永遠など有り得るのだろうか
諸行無常であり心も心の形成原理すらもまた
「無常」ではありませんか?

585 :マジレスさん:2012/02/18(土) 22:17:15.92 ID:dOPWQhK9
>>582
577です。ありがとうございます。和尚さんの文章からは
しみじみとした人柄がにじみ出ておられ、とても癒されます。
これからも、どうぞ、アドバイス宜しくお願いします。

629 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/02/19(日) 20:20:56.65 ID:dBc6oQsz
>>584 そこにあるではないか。
 おぬしの心の奥に形成作用も滅した永遠があるのじゃ。
 それを他人に聞くのは、自分の腕がどこにあるかと他人に聞くようなものじゃ。
 自ら観察してみるのじゃ。 

>>585 どういたしまして、またおいでなさい。
210 :おさかなくわえた名無しさん:2013/10/13(日) 07:54:56.29 ID:bZp7g7G8
今朝洗い物をしながらニュースを見ていると「江戸川」の花火工場で爆発事故が有り・・・
と聞こえたので、えっと顔を上げて画面を見たら「ベトナム」の花火工場だった。
江戸川区には友人が居るので、ベトナムと分かってほっとしてる自分が居た。
自我ってこうやって働いてるんだなと、何となく思った。

鬼和尚、こういうのも観察になるのかな?
この場合修行的にはどう観察を続ければ良いんだろう。

213 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/10/13(日) 20:22:47.59 ID:TqsytS4t
>>210 なるじゃろう。
 日常にも気付く事はよくあるものじゃ。
 気付く事を多くするのが観察なのじゃ。

215 :おさかなくわえた名無しさん:2013/10/14(月) 07:08:38.59 ID:wPmHPYXH
>>213
>気付く事を多くするのが観察なのじゃ。

気づくだけで良いんですか?

223 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/10/14(月) 20:40:40.50 ID:h7VE+oYX
>>215 そうじゃ、気付くだけで良いのじゃ。
 気付くとは幻想を離れ、真実のありようを見出す事なのじゃ。
 例えば道に蛇が居ると思っていて、近付いてよく見ると古い縄だったと気付いたりする。
 そのように間違って認識していた物事を、よく見て本当の姿を見出すのが気付く事なのじゃ。

235 :おさかなくわえた名無しさん:2013/10/16(水) 07:34:42.47 ID:/pP9Eti5
>>233
人差し指と薬指の長さくらい、注意力が有る人なら誰でも知ってると思いますよ。
正直そんな答えが返ってくる事に少しガッカリしました。
外的なもの観察力は高まってると思いますから、内面の観察を続けていきます。
ありがとうございました。

236 :おさかなくわえた名無しさん:2013/10/16(水) 08:25:59.38 ID:/pP9Eti5
>>233
あ~そうだ。
上のガッカリしたとうのも、一応覚者と名乗る人なら、俺が知ってるような情報じゃ無くて
もっと悟りの核心に触れるような答えが返ってくるだろうという、自分自身の期待から
生まれったものだという観察はしました。

238 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/10/16(水) 20:29:33.12 ID:iXpao8Af
>>235 それはすまんかったのう。
 さらに実践すると良いのじゃ。
 ひこに答えは在るじゃろう。

>>236 幻想が壊れたならば良い事じゃ。
 例え目覚めた者でも、他人が常に自分を満足させるとは限らないのじゃ。
 自ら追及し、満足する答えを得るのも修行なのじゃ。
 自らの道を行くが良いのじゃ。
254 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/06(月) 22:34:13.01 ID:B/30vLlV
鬼和尚さんへ質問
スレは読んでないですが...orz

悟り?
何か特別な体験でもしたのですか?
それとも頭でっかちのニセモノですか?

279 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/07(火) 20:38:40.96 ID:nNL8l7ZS
>>254 悟りとは観念でしかない自我を滅し、記憶に依存した認識をも滅する事なのじゃ。
 悟りとはその瞬間の現象なのじゃ。
 おぬしが偽者と想えば偽者なのじゃ。
 偽者と思わなければ偽者ではないのじゃ。
 もしおぬしが目覚めたものの言葉を信じて実行したならば、人の世では幸福が得られ、苦しみを消滅させる事が出来るのじゃ。
 世間を離脱して死を克服しようと想えば、不死の境地に達する事も出来るじゃろう。

328 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/09(木) 20:14:42.30 ID:uQkvC5is
鬼和尚はどうして経を読んでるとき観照が起こったの?

347 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/10(金) 20:28:42.86 ID:XYn5h1XE
>>328 わしは過去からの記憶がある自分と言う観念による自我を持っていたと気付いたからなのじゃ。
 それは観念であり、自分ではなかったのじゃ。
 そして自我は滅したのじゃ。

352 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/10(金) 22:19:48.71 ID:+4JaKQB6
鬼和尚様に質問です。

>>347 で
「 <過去からの記憶がある、自分と言う観念による自我> を持っていたと気付いた」
とのことですが、その気付いた者は何者(どのような存在)なのでしょうか? 自我と
どこが根本的に異なる存在なのでしょうか?

また、そのように気付いた時に、間髪を入れずに自我の消滅が起こったのでしょうか?
それともある程度の時間差(日数差)があったのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

363 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/11(土) 20:34:20.79 ID:iSd3EfxF
>>352 それはもはや者ではなく、主体でもなく、観念でもないのじゃ。
 阿頼耶識と呼ばれる記憶に依存した認識の機能なのじゃ。
 それも主体無く、何者でもなくただ働きがあるだけのものなのじゃ。

 自我は観念であるが、阿頼耶識は観念ではないのじゃ。
 阿頼耶識は記憶に依存しているが、心の働きなのじゃ。

 気付きが起こればどのような事でも直ぐに変容は起こるものじゃ。
 例えば誰かが石ころを宝石だと思って持ち運んでいて自分を金持ちとおもつて居たりする。
 しかしそれが石ころでしかないと真実に気付けば自分は金持ちではない知るじゃろう。
 そのように気付きは文字通り、真実に気づくものであるから変容は瞬時に起こるのじゃ。

366 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/11(土) 21:58:26.93 ID:mfvMiTdf
>>363

鬼和尚様、お答え頂きありがとうございます。 >>352 の質問をさせて頂いた者ですが、
一つはっきりしないところがありますので、もう少しお聞きしてもよろしいでしょうか?

以前、 >>279 で他の方の質問にお答えになった時に、「悟りとは観念でしかない自我を滅し、

記憶に依存した認識をも滅する事なのじゃ。」 とお書きになっておられますが、そのことと今回の

「阿頼耶識と呼ばれる記憶に依存した認識の機能なのじゃ。」 との関係がどうなっているのかに

ついて、もう少しお教え頂けるでしょうか?

どちらも <記憶に依存した認識> という言葉が使われていますが、 >>279 と今回では別の意味

と考えてよろしいのでしょうか?  >>279 での 「・・・滅する事なのじゃ。」 の 「滅する」 は

<認識された記憶内容>であって、阿頼耶識の認識機能を滅するという意味ではありませんよね。

今回のご説明では、阿頼耶識の働きによって気付きが起きたわけですから。  

よろしくお願いいたします。

386 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/12(日) 20:26:50.24 ID:Mckv3wKk
>>366 阿頼耶識が記憶に依存した認識であり、阿頼耶識をも滅するのが真の悟りへの道なのじゃ。
 記憶に依存した認識である阿頼耶識により、感覚の対象への自己同一化が起こるのじゃ。
 それを厭離させるのが観察による気づきなのじゃ。

 本来の認識は阿頼耶識と共に常に在るが、記憶に依存している事で意識できないのじゃ。

389 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/12(日) 21:31:23.37 ID:efZ9adw4
>>366 です。 鬼和尚様、ありがとうございました! 他の方の質問に対する
ご回答も大変為になりました。 今後、ブログの方も読ませて頂き、修行を続け
させていただきます。 合掌

396 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/13(月) 20:29:45.85 ID:CG4xM3R/
>>389 どういたしまして、またおいでなさい。
131 :神も仏も名無しさん:2007/09/26(水) 02:24:47 ID:aNQm1KXr
>>鬼和尚さん
自我の流れが見えて来てからですけど、
正直、最近本当に死ぬことより生きることのほうが怖い。
しかし生きることによって次々と現れてくる難題にどうやって挑もうか戸惑うし、
今まで生きて来た事とは違う未知な部分に足を踏み込んでいるため不安も大きい。
数息感をやって不動心が本当に付くんでしょうか?

136 :鬼和尚:2007/09/26(水) 21:01:31 ID:mJNUClh1
>>131 数息観によって必ず不動心は身につく。既におぬしは以前とは比べ物にならぬ圧力に耐えておる。それも不動心が少し身に付いてきたからなのじゃ。
 悟りへの道は自我を解体する道である故に、未だ自我を自分だと認識している修行者は時に恐れを抱くものじゃ。
 わしも悟りを得る直前には、自我の消える不安や恐怖を味わった。しかし、自我は自分ではなく、ただのイメージに過ぎないと知ることで 恐怖は消えていった。
 それらの不安や恐怖はおぬしが正しい道を歩み、自我を脱しようとしている証拠なのじゃ。

 恐れているものは何か、恐れとはどこから生じ、どのように作用するのか、観るがよかろう。
 そうすれば恐れは消えていくじゃろう。 
 不安や恐怖は修行中には誰でも感じるものじゃ。 それから目を背けることが寧ろ後退への道と言えよう。
 恐れている自分と折り合いをつけ、僅かずつでも進んで行くのじゃ。
 一日に一センチしか進めない芋虫でも、一年間一日も休まずに歩み続ければ、12メートルも進む事が出来る。
 小さな虫でも毎日の努力を積み重ねれば、人を驚かすまでに進むことが出来るのじゃ。
 お釈迦さまが教えられた、優れた修行法である数息観を、毎日行う修行者が不動心を身に付けられぬはずは無いのじゃ。
 芋虫の如き歩みでも良い。
 毎日、数息観を続けて不動心で進むのじゃ。 

159 :131:2007/09/27(木) 21:27:04 ID:JZMfb3+M
>>136鬼和尚さん
アドバイス、それと話を聞いてくれてありがとうございます。
正直に言うと私は精神的なものにばかり気をとられていて、現実的なものに興味があまり行かなかった。
現在もどちらかというとそうなんですが、
現実的な事をしなくてはどうも駄目だ。そう言う結論に至り、
(感覚的にそう思ったので何でかは自分でも良く分からない。
 そういう感覚は昔からあったがようやく受け入れた)
現実世界での仕事などで今まで歩んできた道を止めて、違う道へと方向転換し、一から出発しています。
やはり今までの常識が通用しない世界なので不安と恐怖はかなりあります。
でも辛くしている自我がどういうものかは観えているので、
今の職場で怒られながら見つづけていれば近いうちに自我も完全崩壊するんでしょう。
怒られてそれを観ていると、屁とも思っていない自分がいる反面、
悲鳴をあげている自我が苦しくてしょうがないです。
ここ一年ほどで何度か(少しづつ?)自我崩壊がおこってますが、今回も相当辛いです。
現在対面している自我は、自分にとっての行動原理の相当に深い部分だったので実に手強い。
(……毎回、今回が一番手強いと思ってる(^^;;;)

あまり出来ませんが数息観、これからも続けます。

181 :鬼和尚:2007/09/28(金) 20:36:49 ID:gkqBOEee
>>159 うむ、頑張っておるな。おぬしの努力は必ず実を結ぶじゃろう。
 苦しい時こそ人は大きく成長するものじゃ。
 苦しければ時にはぐちなども吐いてよかろう。
 又、おいでなさい。
250 :ひろ:2007/10/02(火) 02:06:35 ID:MAz6VRPg
鬼和尚さん、過去スレ読んでたら「お酒は良くない。飲むと悟りを開けない」って意見をされてたようですが、
さっきテレビ見てたら、俺の好きな女優がお酒を飲んでました。
また、合間のCMでお酒のCMもされてました。
不特定多数の人が見てるというのに。。
これは、世界が悪い方向に向かっているということでしょうか??
そういえば、俺の尊敬している近所のおじいさんもお酒を飲んでいます。
おじいさんに注意してあげたほうがいいのでしょうか?
また、俺はまだ10代でお酒も飲んだことがないのですが、いつか飲むようになるかもしれません。。
だって、俺の親も飲んでる時あるし、上にも書いたけど、テレビでCMまでされてます。
しかも、飲まないより飲んだ方が人生楽しくなるような気がします。
(親とかテレビで飲んでる人を見て思いました。)
これらは、どう解釈すればいいのでしょうか?
鬼和尚さんが正しくて、世界が間違っているのでしょうか?
何かアドバイスお願いします。

254 :神も仏も名無しさん:2007/10/02(火) 09:26:34 ID:MsuKu6es
>>250
悟りを開きたい人は避けた方が良いということでは? 人間は悟らねば
ならないということもないし、悟る事が絶対的な正義でそれ以外は
悪ということもない。

スポーツの選手のようなものでもある。だいたいのスポーツの選手は
(力士などの特殊なやつは別として)暴飲暴食やタバコを控える。
それはそれがスポーツの記録を伸ばすことの足しにならないからだ。
しかし記録を伸ばす必要のない人には関係のない話だ。

260 :鬼和尚:2007/10/02(火) 21:56:07 ID:EMmwaBzA
>>250 うむ、これは>>254が大体正しい。
 普通の人間として生活するなら、酒を飲んでも良い。
 しかし、悟りを得ようとするなら、酒を飲んでいては無理と言えよう。

 酒は集中力が低下し、肝臓も悪くなる。
 スポーツ選手が飲まないのは当然だが、頭を使う棋士なども一流の者は酒を飲まないようにしておる。
 悟りを得ようとするなら、強い集中力を身につけなければならん。
 昔の禅僧などは正規の禅定の時間の他に、徹夜までして禅定に励み、修行をしていた。
 それでも悟りを得られぬ者も多かったのじゃ。
 全身全霊を打ち込んで、ほんの僅かの助けにするために、寝ないで禅定しても駄目だった者の事を考えれば、酒などを飲んでいては、とても悟りなどは得られぬと判るじゃろう。
 
 自我の抵抗は強く、心の動きは真に素早い。
 一瞬の認識を捉えて、自我の生成を観照出来るのは、強い、強い集中力を持っている者だけなのじゃ。
 おぬしも本当に悟りを得ようと思うなら、飲まない方が良かろう。
 しかし、諦めて普通の人間として生きるのも、一つの道じゃ。
 選ぶのはおぬしじゃ。
115 :マジレスさん:2012/03/05(月) 22:16:13.94 ID:zf46KX+w
人の不幸がうれしくて仕方ありません どうしたらいいですか

143 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/03/06(火) 20:09:02.22 ID:LXaO9xul
>>115 それがどのような原因から起こるのか心の中を観察してみるのじゃ。
 自分が不幸だったからとか、親兄弟がそのようであったからとか、原因があるじゃろう。
 原因が判れば想わなくなるじゃろう。

214 :マジレスさん:2012/03/07(水) 22:59:24.36 ID:t4xnsZTW
>>143
>  原因が判れば想わなくなるじゃろう。
思わなくなりませんよ
たぶん自分が不幸なのが原因です

241 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/03/08(木) 20:05:01.48 ID:kWXUInHx
>>214 原因がわかったのならば、それから思いが起こると観察するが良い。
 その原因が無ければ想う事も無いと、逆にも観察すれば思いは起こらなくなるじやろう。
 それでも無くならないならば、別の原因があるのじゃろう。
 さらに探してみるのじゃ。

252 :マジレスさん:2012/03/09(金) 00:13:00.32 ID:2bB41Etr
>>241
> 逆にも観察する とはどういうことでしょうか?

275 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/03/09(金) 20:33:53.51 ID:RcCNSYuJ
>>252 それは原因が無ければ、思う事も無いと観察する事じゃ。

278 :マジレスさん:2012/03/09(金) 21:07:14.81 ID:2bB41Etr
>>275
観察するだけで不幸じゃなくなるってことですか?
それとも不幸なまま他人の不幸を喜ばなくなるということですか?

307 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/03/10(土) 20:23:36.98 ID:Q/fwAnfd
>>278 今まで書いたとおりに観察すれば、他人の不幸を喜ばなくなるじゃろう。
 更に不幸であるならばまた原因から起こると観察すれば、不幸であると言う思いも滅するじゃろう。
 近親者が過去に死んだとかの記憶は変化しないが、そこから生じる悲しみや苦が滅するのじゃ。
 苦を滅する法とはそのためにあるのじゃ。