自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。
己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。
19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。
そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。
20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。
六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。
21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯
それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。
六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。
22 迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。
迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。
23 夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。
夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。
何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。
24 眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。
どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
25 一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。
そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。
26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。
法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。
27 両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。
28 契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。
そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
それが無為なのじゃ。
疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。
29 一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測
一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。
一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。
観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。
思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
30 真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。
悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。
その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。
、
31 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。
そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。
32 宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。
そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。
そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
33 極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。
不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。
34 有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。
そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。
そのような境地は守るべきではないのじゃ。
速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。
分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。
それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。
36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
まことと心は一つである。
まことと心が一つ在るのみなのじゃ。
その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。
人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。
人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
ただ今ここに在るのみなのじゃ。
以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。