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鬼の説法集(悟りへの道)

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507 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/20(水) 21:54:22 ID:kaXJvxhM0
 般若心経は他の経と違い、最初に私はこのように聞いたと言う文句が無いのじゃ。
 それは元からお釈迦様の教えではないと言う事を宣言しているのじゃ。

 観自在菩薩が智慧の完成と言われる行をして、心身の全てを空と観想して、一切の苦厄を脱した。
 舎利子よ、肉体は空と異ならず、空は肉体と異ならない、肉体は即ち空であり、空は即ち肉体である。
 感覚も空であり、空は感覚と異ならない。感覚は即ち空であり、空は即ち感覚である。
 想いも空であり、空は思いと異ならない。思いは即ち空であり、空は即ち思う事である。
 分別も空であり、空は分別と異ならない。分別は即ち空であり、空は即ち分別する事である。
 認識も空であり、空は認識と異ならない。認識は即ち空であり、空は即ち認識する事である。

 舎利子よ、全ての事物を空と観想して、生まれる事は無く、滅する事は無く、汚れる事は無く、清くなる事は無く、増える事は無く、減る事も無いと見よ。
 空と観れば肉体は無であり、感覚も無であり、想いも無であり、分別も無であり、認識も無である。
 眼耳鼻舌身意も無であり、色声香味触法も無であり、眼によって成される界域から意識によって成される界域も無である。
 
 修行のための法である無明や無明が尽きるという事も無く、老死も無く、老死が尽きる事も無い。
 四諦の苦集滅道も無く、智慧も無く、何かの境地を得る事も無い。

 得るという事も無いのであるから、菩薩達は智慧の完成によって心の妨げを無として、恐怖も無とする事が出来る。
 全ての顛倒や幻想を厭離する事が出来て、涅槃を極めるのである。

 智慧の完成によって無上にして正しい悟りを得るのである。

 故に智慧の完成が一切の苦を除く、真実にして虚しくない偉大な呪文と知るのじゃ。
 
 故に智慧の完成の呪文も記すのである。
 羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶

509 :ステテココ:2013/11/20(水) 21:56:59 ID:9o5gwtHw0
>>507
>それは元からお釈迦様の教えではないと言う事を宣言しているのじゃ。

それで、それが何か問題でも?

512 :生老病死出入自在乃漢奴 ◆OSyakyaG2c:2013/11/20(水) 22:01:28 ID:Bwz0R3.60
>>507  おに さん

おつかれ、食券をもらって食堂へどうぞ。。

513 :カカシ:2013/11/20(水) 22:03:42 ID:C1/URfh.0
>>507
般若心経は自覚ある無名の祖師が書きました。 ご存知かと思ってましたが。 だから仏説ね。

うんうん。翻訳おみごと。

708 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/21(木) 20:03:43 ID:kaXJvxhM0
>>509 無じゃ。

>>512 無じゃ。

>>513 無じゃ。
 最近は自己啓発の本などに社会で成功し、億万長者になるには瞑想を行うと良いとか書いてあったりするのじゃ。
 多くの指導者が成功するための方法の一つとして瞑想を勧め、瞑想によって智慧が生じ、成功への道が開けたというのじゃ。

 昔の剣豪なども禅寺で修行して剣が上手くなったりしたものじゃ。
 智慧が生じるだけでなく、丹田に機が落ちる事で肉体にも好影響があるのじゃ。
 
 瞑想によって心が静まれば確かに智慧が生じるものじゃ。
 普段はわからないような問題でも、瞑想中ならば智慧が生じて簡単に解けたりするのじゃ。

 瞑想中には一時的に自己への囚われや環境への依存が無くなる故に、智慧も生じるのじゃ。
 誰でも普段の生活では自分と言うものがあり、自分が利益を得たり、不快を避けて、快楽に向かおうとしておるのじゃ。

 その性質が多くの情報を遮断し、視野を狭くしたり、必要な知識を思い出せなくしているのじゃ。
 良いアイデアでも少しでも不快なものであれば無意識に見ないようにしたり、避けようとするからなのじゃ。

 更に周囲の環境から常に投射されている自我は、その制約の中でしか思考は出来ないのじゃ。
 例えば今自分に一万円しかなかったら、その金でできる事しか考えられない。
 百万円でできる事など夢想として考えられないのじゃ。

 それ故に瞑想によって自分の枠を離れ、環境の制約をも超えれば、それらの障害は取り除かれ多くの智慧が生じるのじゃ。
 少しの努力や不快を要する事でも、高遠な境地にある大きな利益を見出す事が出来る。
 そして環境にも囚われずに大きな理想を感じる事も出来るのじゃ。

 更に瞑想を続ければ、人を超えた大きな喜びも感じる事が出来るようになる。
 人が望む全ての快楽と歓喜は瞑想によって達成する事が出来るのじゃ。
 
 そうであるから世間の欲を達成するためにも、自己を練磨するためにも、喜びを味わうためにも瞑想を活用しても良いのじゃ。
 お釈迦様も修行者はむしろ瞑想の喜びに触れよと言っておるのじゃ。
 
 例え欲の為に始めた瞑想であっても、続ければ瞑想の喜びが人を思いもしなかった境地へと導いてくれるものじゃ。
 死を超える事だけを考えて悟りを求めた者が、全てを手に入れて歓喜するように、瞑想が人を全てへと誘うじゃろう。
 今、止観と言う言葉は残っているが、その真の意味を知り、正しく修行しているのは、わしがここで教えている者たちだけじゃろう。
 お釈迦様が教えて以来、その言葉の意味すらも失われて久しいものじゃ。

 集中によって心を止め、心を観察する。
 ただそれだけの事が難しいのは、人々は自分の心を観ないからなのじゃ。
 なぜ観ないのかと言えば、観たくないからなのじゃ。

 誰でも自分について、多少の飾りがついたイメージがあり、それを壊されるのは恐いのじゃ。
 自分の心を本当に観ようとすれば、自分の心の醜さや、愚かさや、情けなさもちゃんと観なければならないのじゃ。
 自分について飾られたイメージがあれば、それには耐えられない。

 それ故に人々は観察を拒否し、忘れる事を無意識に選んだりしているのじゃ。
 その結果、本当の観は忘れ去られてしまったのじゃ。

 しかしどのように醜く、愚かで、情けない心であっても本当に自分の心が観られたならば、そこから本当に変わる事が出来るのじゃ。
 真の変容は観察によってのみ起こるのじゃ。

 心が観られなければ本当の変化も変容もあり得ないのじゃ。
 自らの心を観る事を避け続けて悟りに至った者など居ないのじゃ。

 どれほど困難であっても自らの心を観察し続ける者には、変化が訪れ、やがて変容もやってくる事じゃろう。
 長年続いた苦は観察されれば一瞬にして消え去るじゃろう。

 自我を観察できたならば、個我の観念を離れて無我に至るじゃろう。
 認識が観察できれば、真の悟りが訪れ、目覚めた者となるじゃろう。
 
 全ての変化と変容は観察によって訪れるのじゃ。
 その観察を強く完全なものとするには、集中力が必要なのじゃ。
 集中力と観察力を養う真の止観を修行する者は、真の変化と変容を味わう者となるのじゃ。

 盲亀の浮木と言うように人として生まれたものが目覚めた者に合うのは稀な事じゃ。
 既に忘れさられた止観の法を正しく知るのは更に稀な事じゃ。
 止観を正しく修行して変容を味わう事が出来るのは、真に稀な幸運な修行者と呼ぶべきじゃろう。
 修行者は自らの幸運を無駄にせず、永遠の境地に至るまで油断せず修行に励むのじゃ。
 人は悟りを得ない限り言葉や観念に囚われ、言動も制限されているものじゃ。
 知識としては正しい事が判っていても、観念への囚われがあるから正しい事も出来なかったりするのじゃ。

 しかしそのような観念も正しい言葉によって制御すれば、正しく整えられ、正しい行動をする事も出来るのじゃ。
 正しい言葉を繰り返し、自らの心に正しい観念を餓えれば、行いもまた制御できるじゃろう。

 先ずは自分の出来る事を増やすために「私はやりたい事が全部できる」と何度も唱えてみるのじゃ。
 これによって自分には出来ないという観念がなくなり、何でも可能であると思えるじゃろう。

 これは心の中に信念を植えるものであるから、信じて行う事が大事なのじゃ。
 半信半疑で本当なのかと疑いながらやっても、効果は低いのじや。

 自らの可能性を信じて何度も唱えれば、本当になるのじゃ。
 信じなければ途中で飽きたりして止めてしまうこともあるじやろう。
 信じて行えばこの言葉が真実となるのじゃ。

 千回も唱えれば効果が出てくるじゃろう。
 二千回位で効果ははっきりしてくるのじゃ。
 五千回も唱えればもはや効果は疑いも無く、行動にも変化が出てくるじゃろう。

 一万回も唱えればもはや信念は完全に定着し、性格さえも積極的に変わったとわかるじゃろう。
 更に続ければ人生も成功に近付いていくじゃろう。

 まだ観念から離れられない者は、このように観念を変えて生活を容易にするのも良いのじゃ。
 更に人を助ける清い心を忘れずに実践すれば、常に幸運は付き従うじゃろう。
 おぬしは後三時間で死ぬ!!

 などと言われれば誰でも驚き恐れるじゃろう。
 日頃忘れている死というものを間近で感じるからなのじゃ。
 そのように大抵の者は死から逃避し、日頃は忘れてしまっているものじゃ。

 しかし死ぬという事は生きていれば必ずやってくるものじゃ。
 いずれは最初のわしの言葉は、誰にでも本当になるじゃろう。
 もしかするとそれは今かも知れんのじゃ。

 今の肉体や思考や感情や自我はいずれ捨て去らねば成らないのじゃ。
 もはや後三時間で死ぬ者が、肉体や思考や自我などに執着していれば、死苦の他に執着による苦も負う事になるじゃろう。

 自我は悟りを得なくとも、いずれは捨てなくてはならんものなのじゃ。
 そうであれば今捨てる事で不死の境地への道が開かれるのならば、速やかに手放すが良いのじゃ。

 自我を手放すことに恐れが生じれば、いつでもそれが後三時間で捨てなければならんのかも知れんと思うが良いのじゃ。
 自我を手放すとは捨てなければならんものを、今捨てる事なのじゃ。

 そうすれば恐れを克服して無我に至るじゃろう。
 さらに無我を認識するものも厭離すれば、真の悟りに至るじゃろう。

 そうすればもはや一切の苦は無く、死もまた無く、一切が一つである喜びが常に感じられるのじゃ。
 一切の仮設された観念から解放され、為すべき事も為すべき己も無いのじゃ。
 修行者はその境地に至るまで日々精進するのじゃ。
 人が死ねば肉体は無くなり、意識だけになるじゃろう。
 そうすると肉体や肉体の能力である思考や感情などがなくなり、それに依存していた者は己がなくなったと想うのじゃ。
 
 実際には全ては意識であり、肉体もその能力も意識の表れに過ぎないのじゃ。
 天も地も海も空間さえも一つの意識であるから、その中にある肉体やその能力などは小さな一部に過ぎないのじゃ。
 
 例えば爪の先がなくなっても人は己がなくなったとか、もはや何もなくなったとか想わないじゃろう。
 そのように肉体やその能力などは意識の一部であり、それが変化し、操縦する力が喪失するだけであるから何も無くなったりしないのじゃ。

 そのように観察する者には死も、もはや存在しないのじゃ。
 人が己の消滅として恐ろしいイメージと共に想起する死は、完全に滅しているのじゃ。

 肉体を己と想って執着していた者は、再び肉体を持つ事を望むじゃろう。
 その執着に従って、人は肉体に惹かれていくのじゃ。

 しかし己の行いの報いによって、得られる肉体も違うのじゃ。
 良き事をしてきた良い心の者には良い環境の肉体が得られるじゃろう。
 悪しき事をしてきた悪い心の者には、悪い所の肉体が得られるじゃろう。

 智慧によって分けられる報いには抗い様も無いのじゃ。
 そして悟りを得た仏陀はもはや肉体を必要としない故に、全てであるがままに安らぐのじゃ。

 このような正しい知によって修行者や賢い者は善事を心掛け、真の悟りを目指すが良いのじゃ。
 子供のように人生を楽しむには、過去の事も未来の事も考えずに、今ここにある事だけを感じると良いのじゃ。
 子供の頃には皆そうだったのじゃ。

 リストラされそうだとか、変なものを買ってしまったとか、未来の事や過去の事は考えずに、今目の前にある事だけを楽しんでいたのじゃ。
 大人になったからと言ってそれが出来ない訳は無いのじゃ。

 しかしそれでは未来の計画を立てたり、過去の過ちを反省するのはいかんという事ではないのじゃ。
 未来の計画も過去の反省も進歩するためには必要なのじゃ。

 人に不安や憂鬱が起こるのは、未来の計画を立てたり、過去を反省するだけでなく、それ以上に考えて事故が起こるのではないかとか、こうすれば良かったとか想ってしまうからなのじゃ。
 計画や反省をしたならば、もはやそれ以上に考えたり、想ったりせずに思考を止めるのじゃ。

 日頃から数息観などの瞑想をしていれば、簡単な事なのじゃ。
 先の事について計画を立てて、さらにそれ以上に考えていると想ったならばそれで止めるのじゃ。
 過去を反省して、それよりもこのようにすればよかったなどという執着を考えていたらそれも止めるのじゃ。

 そうすれば不安や執着からの憂鬱もなくなり、子供の頃のように楽しい日々が送れるのじゃ。
 実践してみるのじゃ。
 自分の本心に気づくのは、本心を隠して生きて来た人間には難しいものじゃ。
 自分のイメージを守るために、相応しくない願望などを自分にさえ隠そうとするからなのじゃ。

 自分を一人前の自立した大人であるというイメージを持っている者が、本当はママに抱っこして欲しいというような本心を持っていたとしても、それを認める事すら困難なのじゃ。
 自分のイメージを保つために、自分にさえそれを隠そうとするであろうからのう。

 そのような本心を隠そうとする働きがある限り、本心に気付く事は容易ではないのじゃ。

 その障害を越えて本心を観ようとするならば、常日頃から自分の心を偽らない心掛けが大事なのじゃ。
 日常の一つ一つの言葉から、心の動きにも常に本音を見るようにしていれば、本心も見えてくるものじゃ。

 仕事の都合や谷への気遣いで嘘をついたとしても、心の中では今嘘を付いたと観るのじゃ。
 そのようにしていれば、心は習慣に従うものであるから、本心を観る事にも繋がるのじゃ。

 そして孤独である事も本心に気付く役に立つのじゃ。
 お釈迦様も犀の角のように独り歩めと言っておる。

 人のイメージというものは、自分よりも他人に向けて表されたものである事も多いのじゃ。
 他人に向けて自分はこのような人間であり、その上で付き合うように仮設されたものなのじゃ。

 心理学では仮面とか言われたりしているのじゃ。
 他人が居なければ仮面を被る必要も無いのじゃ。

 しばらく孤独で過ごし、他人に向けた仮面は必要ないと気付いたならば、仮面は落ちて本心も表れて来るものじゃ。
 それは困難であり、苦しいものとなるかも知れんが、同時に心安らぐものでもあるのじゃ。
 
 隠し続けてきた本心が表れれば、隠す努力も無くなり、心に安らぎが訪れるのじゃ。
 更にもはやなにものも隠す必要の無い本心から、本当の進歩は始まるのじゃ。
 修行者は自らを偽らない事により、そして孤独によって本心を求めるが良いのじゃ。
87 :避難民のマジレスさん:2014/05/12(月) 18:25:30 ID:pItdugu.0
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  (⌒⌒⌒) 
   |_i_i_|  お好みのカレーオーダーしてってお!
  (;`・ω・)
  /   o⊂| ̄ ̄ ̄|⊃
  しー-J  |___|

89 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/12(月) 20:00:58 ID:kaXJvxhM0
>>87 いつでも死が在る事を想うのじゃ。
 死から逃れる道を知らないものにとっては虚無主義であるが、
 そこから抜け出す道が在る事を知る者にとっては踏み台に過ぎないのじゃ。

 キーマカレーじゃ。

88 :避難民のマジレスさん:2014/05/12(月) 18:29:46 ID:wqr.6GRM0
       せっかく来たならら~めん食べてくか一言書いてって                   
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   |、 \ 〈〈//ハニヽ  ~             〉〉ニヽ^        /  |
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   ヘ       └┘└─┘└┘└─┘└┘└─┘└┘└─┘    /

       お好みのラーメンオーダーしてってお!!!
      ∧,,∧
     (;`・ω・) ζζ
     /   oー-,===、
     しー-J | ̄ ̄ ̄|
            ̄ ̄ ̄
91 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/12(月) 20:05:22 ID:kaXJvxhM0
>>88 自分を恐れてはいかんのじゃ。
 大抵の者は己の心にある恐れや不安から自分の心を観る事を拒むのじゃ。
 それは己を恐れていることになるのじゃ。
 恐れをも観察するのじゃ。
 そうすれば恐れは消えていくのじゃ。

 とんこつラーメンじゃ。

90 :避難民のマジレスさん:2014/05/12(月) 20:04:41 ID:wqr.6GRM0
ようこそ

   (⌒⌒⌒)   
    |_i_i_|  >>89にキーマカレー作るお!
   (;`・ω・)    
   /   o⊂| ̄ ̄ ̄|⊃
   しー-J  |___|

93 :避難民のマジレスさん:2014/05/12(月) 20:07:58 ID:wqr.6GRM0
>>91
  とんこつラーメンおまちっ!
      _∬_
  (.⌒⌒)\≠/
  |___| ∩ ̄  チリンチリン
  (・ω・ )ノ ≡=-     (´´
  /ゝ: ヽ  _ __ _   (´⌒(´⌒;;
 0┬ゝ  )= ≡=- (´⌒;;;
 (*)(_/(*) (´⌒(´⌒;;

105 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/13(火) 21:17:57 ID:kaXJvxhM0
>>90>>93 ごちそうさんなのじゃ。
 人が観念に囚われるのは、観念を持つと共にそれを正しいものとしているからじゃ。
 しかし、観念を正しいと思うのも実際は自己正当化によるものが多いのじゃ。

 一度、観念を受け入れ、それが正しいと思ってしまうと、なかなかそこからは抜けられないものじゃ。
 現実とはかけ離れたことでさえ、観念として囚われてしまえば、それがその者にとっては現実よりも優先するようになる。

 例えば些細なことでも己を責め、自分で自分を苦しめたり、知識を蓄え、それだけが正しいと思い、現実を見れなくなったりする。
 観念に囚われ、観念に従っていれば、そこから逃れるのは難しいものじゃ。

 観念に囚われた者は観念が己であると投射し、観念を持つ己というものを守るために、観念を守ろうとする。
 それが自分を苦しめているものであるとさえ、判らずに観念を守るのじゃ。
  
 観念に囚われた者は、観念を守るために人の言葉を聞かず、観念を守るために知識を集め、修行さえもする。
 しかし、観念を守るための知識や修行は何の役にも立たないものじゃ。
 それはかえって苦滅の道、悟りへの道から遠ざかるばかりなのじゃ。

 そのような観念を滅するには、己の本心を観なければならない。
 嘘偽りに固められたものではない、己の本当の思いを、集中力と観察力で観るしかない。
 
 ただ独りで座り、他人からの何の介入も無い時、人は己の本心を自ら吐露する。
 他人が居ればやはり観念を用い、それをまた守りたくなる。
 ただ独りで居れば、誰かに何かを開陳することも無い。
 観念を述べたり、守ったりする必要も無い。
 そこで初めて己の本心が現れるのじゃ。
 
 修行によって得た全ての集中力と観察力は、本心に向けられるためにのみある。
 それが本心に向けられず、ただ観念を守るために向けられれば、どんな修行も実ることは無い。
 集中力と観察力は本心に向けられるために、養われてきたのじゃ。

 己の心を嘘偽りで固めてきた者には、むしろこの本心を知るが難しいものじゃ。
 誰かに見せるためでもない。
 誰かを守るためでもない。
 誰かを見返すためでもない。
 ただありのままの己の本当の心。

 そこに帰ることが安らぎであり、苦を滅する道であり、悟りへの道なのじゃ。