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鬼の説法集(悟りへの道)

鬼和尚の仏教勉強会 http://onioshyou.blog122.fc2.com/

899 :乱入:2013/08/04(日) 11:34:14 ID:wqr.6GRM0
『昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり、常に一人の二八女子をして飯を送って給持せしむ。
一日女子をして主を抱かしめて曰く、正に恁麼の時如何と。主曰く枯木寒巌に倚る三冬暖気無し。
女子婆に挙似す。婆曰く我れ二十年祗箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して庵を焼却す。』

普通に訳すと・・・

ある老婆が、一人の修行僧を世話をして20年が過ぎました。いつも、ひとりの少女に食事を
届けさせ仕えさせていたのですが、ある時その16になる少女に修行僧に抱きつき誘惑するように
言いつけました。
少女は修行僧に抱きつき「さあ、どうしますか?」とささやきました。
修行僧は「枯れた木が寒い岩に立つように私の心は熱くなりません。」と言って少女の誘いを
断ったといいます。
少女からその報告を聞いた老婆は「私は、二十年もこんな俗物に供養してきたのか!」と怒りだし、
庵を焼き払ったというのです。

923 :乱入:2013/08/04(日) 16:39:54 ID:wqr.6GRM0
>>899の公案の正解らしい
本スレ134 神も仏も名無しさん:2013/08/04 14:19:23  ID:WzptN4z4

公案の正解 ~
 
婆と少女に20年も食事の世話になっていたなら、
その婆と少女が自分に気があるのか、ないのかぐらいは知っていたはず。
そこでまず、少女にその気があるのかどうかを確かめてから、
婆さんの危険な誘いを見ぬかなければならない。
かくなるうえは、婆さんに別れを告げ、旅に出るのが正解になる。

924 :避難民のマジレスさん:2013/08/04(日) 16:55:32 ID:zizKiqw60
どこらへんが、公案なのかね?性欲あるのに、ないふりした嘘つき坊主に失望した老婆ってだけだろ。

925 :乱入:2013/08/04(日) 17:04:25 ID:wqr.6GRM0
私も高校の時 この回答に納得出来なかったね

確かに その時もこんな回答だったのだけれども

926 :木の葉:2013/08/04(日) 17:17:18 ID:/Afup01Q0
禅は知識で物事を扱わないようにするんだが
その点公案回答集などは
邪魔にしかならんのだろうな。

927 :乱入:2013/08/04(日) 17:19:23 ID:wqr.6GRM0
すまん><;

929 :避難民のマジレスさん:2013/08/04(日) 17:59:17 ID:zizKiqw60
詳しいひといないのかねー
これ、どこが公案になってるの?
そこからわからん

930 :乱入:2013/08/04(日) 19:16:23 ID:wqr.6GRM0
老婆は「私は、二十年もこんな俗物に供養してきたのか!」と怒りだし、
庵を焼き払ったというのです。

これが お坊様の信頼も失い最悪の結果であるとする

どうしたら これを回避出来ただろうか?

932 :避難民のマジレスさん:2013/08/04(日) 19:59:17 ID:kDJrnMaE0
性欲を乗り越えてるなら性欲を回避する必要もないのかな

933 :避難民のマジレスさん:2013/08/04(日) 20:03:09 ID:zizKiqw60
ほんもんの修行僧じゃないと、意味がない公案みたいだな。

934 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/04(日) 20:19:17 ID:kaXJvxhM0
性欲を完全に厭離した者ならばそのような事を考えたりもしないものじゃ。
美女が部屋に来て抱きついてきたとしても、誘っているとかそのような事すら思いつかないのじゃ。

ニセ坊主は美女がよってきた時、これはそのような誘いなのだと真っ先に思いついてしまったのじゃ。
肉体は枯れ木でも頭の中では未だ性欲を保っていたのじゃな。
心身が完全に脱落した坊主ならば、そのような事すら考えなかったじゃろう。
老婆はこの坊主が未だ頭の中に女子の名相を保っていると知って、生臭坊主を追い出したのじゃ。

真に性欲が無ければ女子とただ語り合うも良い、共に勧めて修行するのも良いのじゃ。
考案には固定した答えなど無いのじゃ。
 記憶に依存した認識機能を持つ人間は、言葉とイメージによる観念に因って全てを認識しているのじゃ。
 そしてその中には自分自身も含まれているのじゃ。

 つまり普通の人間は言葉とイメージによって自分を認識しているのじゃ。
 自分の名前と言う言葉によって自分があり、自分のイメージによって自分があると思うのじゃ。

 自分の名前によって自分のイメージが起こり、自分のイメージによって名前を思い起こすのじゃ。
 言葉には自分の名前以外にも、自分の所属する国や組織や地域や民族なども含まれているのじゃ。

 それ故に自分が所属する国や地域を悪く言われると怒ったりするのじゃ。
 そのような国や地域の名称も、己であり、己のものであると思っているのじゃ。

 自分の名前とその名前が使われた時に起こる反応を、良く観察するのじゃ。
 そうすれば名前による囚われが無くなるじゃろう。

 そして、自分のイメージをも観察し尽くすのじゃ。
自分のイメージがどのようなものであるのか、呼び起こしては良く観察してみるのじゃ。

 どのような色や形をしているか、どのような性質であるか、どのような原因から怒り、どのような生じるのか等、一つ一つ自らのイメージを観るのじゃ。
そのイメージが自分の行いにどのような影響を与えているのか、そのイメージが無ければ自分の行いにどのような変化があるのか、そのような事も観察してみるのじゃ。

 その観察によって自分のイメージが己ではなく、己のものでもないと気づきが起これば、自我は厭離されるのじゃ。
 己ではないものを己としていた誤謬に気づき、自然に厭離は起こるのじゃ。

 そして自我が滅すれば、さらに認識をも滅する事は容易になるのじゃ。
 無我に達し、無認識にまで至ったならば、真の悟りを得たと言えるのじゃ。
797 :避難民のマジレスさん:2013/08/12(月) 20:03:20 ID:doF0gNBI0
鬼和尚に質問です。

ヴィパッサナー瞑想についていかが思われますか?

京都と千葉に寄付で成り立っているセンターがあり、
10日間のコースがあるそうで気になっているのですが、いかがでしょう?
http://www.jp.dhamma.org/index.php?L=12

798 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/12(月) 20:13:53 ID:kaXJvxhM0
>>797 何でもやってみたら良いのじゃ。
 1000の言葉よりも自ら試した一つの体験によって本当の知識が得られるのじゃ。
 お釈迦様が言った通り、それで苦が滅するのか試してみたらよいのじゃ。

825 :避難民のマジレスさん:2013/08/13(火) 02:49:06 ID:doF0gNBI0
>>798
ありがとうございます。
以前、上座部仏教というのはおすすめしていないと伺いましたが、
このヴィパッサナー瞑想というのも、やらないよりは、よさそうなのでしょうか?

890 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/08/13(火) 20:29:39 ID:kaXJvxhM0
>>825 悪事でもない限り、何でも試してみるのが良いのじゃ。
 それが本当にお釈迦様が言った通り、苦を滅する法であるのか、それとも違うのであるか、体験して試してみると良いのじゃ。
 知識によって理解するより、自ら試してこそ確信となり、真実となるのじゃ。
 集中力が身につき修行が進めば人は瞑想中に忘我の状態に入るのじゃ。
 そのような我と言う観念の無い集中状態を三昧、サマーディと呼ぶのじゃ。

 一時的に我を忘れ、在りのままの世界の姿を垣間見えるために、昔から真の悟りと間違われてきたのじゃ。 
 それは未だ真の悟りではなく、禅では小悟と言われる段階なのじゃ。

 更に精進して自我を滅し、認識をも超えなければ真の悟りではないのじゃ。
 その段階で驕り、自らを目覚めたと思えば修行も止まり、真の悟りは訪れないのじゃ。

 サマーディを続け、その状態を極めれば悟りに至る事もあるのじゃ。
 それには対象の無いサマーディにまで到達しなければならないのじゃ。

 対象に集中する意志がある限り、心の働きも止まらず、自我は完全に観られる事は無いからなのじゃ。
 対象の無いサマーディにまで到達すれば、心は止まり、自我は観られるものとなり、厭離されるのじゃ。
 
 しかし、そこまでに至るには長い時間と才能が必要になるのじゃ。
 観察を行えば悟りはもっと早くなるのじゃ。

 多少の無いサマーディによっても最後には自我を観察する事で厭離は起こるのじゃ。
 集中と観察を二つながら行う事によって、悟りは速やかに訪れるのじゃ。

 瞑想によってサマーディにまで至ったならば、忘我の状態から、きっかけによって起こる自我を観察するようにするのじゃ。
 昔の僧も烏の声とか、鐘の音とか、セミの声を聞いて悟ったと言う者が多いのじゃ。

 忘我の状態に在る時、それらの音を聞いて、記憶から起こる自我を見る事が出来たのじゃ。
 そのようにサマーディに入ったら、油断無く注意深く観察し、自我の起こる瞬間を捉えるのじゃ。

 自我は記憶から縁によって起こるじゃろう。
 強い集中力によって、それが観られれば厭離が起こるのじゃ。
 自我が厭離され滅すれば、認識も容易く滅することが出来るのじや。

 修行者はそのように修行の道に難しいのと容易いものがある事を知り、迷うことなく進むのじゃ。
 お釈迦様の言う心によってものごとが作り出されるとは、更に深い意味がこめられておるのじゃ。
 誰でも心の中にあるものごとが世界に反映されるのじゃ。

 心に不満が在ればどれほど多くの金や宝があっても世界は不満だらけなのじゃ。
 世の中の全ての金を集めても心に不満が在る者を満たす事は出来ないのじゃ。
 不満は心にある故に、心の他に満足を求めても得られないのじゃ。

 逆に心が満足していれば、例えものが無くとも満足なのじゃ。
 乏しい食べ物や飲み物だけしかなくとも、心は満たされるのじゃ。
 満足とは心の中に在るものである故に、心に満足が在れば全て満たされるのじゃ。

 このように心は人の内にありながら、外の世界にも反映されるものなのじゃ。
 それ故に心によって全ては作り出されると言われるのじゃ。

 人は自らの心によって世界を作り出している故に、心を制し、整えれば世界も制され、整えられるのじゃ。
 自らの心を制し、整える事は決意すれば誰にでも出来る事なのじゃ。

 自らの心を制し、整えた者は苦の多い世界で苦を滅し、安楽を手に入れるじゃろう。
 この世界では多くの者が苦を抱え、それを滅する法さえも知らないが、幸運な修行者は苦を滅する法を知り、実践すれば苦を滅する事も出来るじゃろう。
 この幸運を手離すことなく修行者は、苦を滅する道に励み、安楽の世界を楽しむが良いのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

31 多くの人々は恐怖にかられて、山々、園、林、樹木、霊樹などにたよろうとする。

32 しかしこれは安らかなよりどころではない。
  それらのよりどころによっては、あらゆる苦悩から逃れる事は出来ない。

 心に恐れがある人間は、様々なものに縋り、頼りにしたりするものじゃ。
 いわしの頭も信心からと言うが、ただ信じたいから信じているようなものじゃ。

 しかし、人の心の中にあらゆる苦から逃れる力が在るのじゃ。
 それが人の意志なのじゃ。

 人の意志はこの世で最も強いものである故に、さまざまな不可能を可能にしてきたのじゃ。
 人が本気で何かをなしとげようとした時、鬼神でさえも避けるというのじゃ。

 そうであるから修行者は自分が修行して悟りを得られるか、それとも得られないのかとか、気に病む事は無いのじゃ。 
 本当に本心から悟りを得たいと意志を奮い起こし、修行に励むならば意志の力によって必ず悟りは訪れるのじゃ。

 悟りが得られるか、得られないのかと気に病む必要は無いのじゃ。
 むしろ自分の本心が本当に悟りを望んでいるかどうか、何度も確かめてみるのじゃ。
 それが本当の希ならば、死を超えようとする本心からの意志は、必ず悟りを招き寄せるじゃろう。
 縁によって起こる心の働きを観察する苦を滅する法に慣れれば、他の心の働きもそれによって滅せる事が判るじゃろう。
 心の働きはそのような縁起と呼ばれる記憶の連想によって行なわれているからなのじゃ。

 一切の心の働きを滅する事が出来るのであるから、自我の働きもまた滅する事が出来るのじゃ。
 自我がある、自分が居ると認識するのも心の働きなのじゃ。

 それも縁によって起こるものであるから、原因から起こる事を観察し、原因が無ければ起こらないと観察する事で滅する事が出来るのじゃ。
 それには先ず自我の働きを追求し、見つけなければいかんがのう。

 一度自我が縁によって起こるのを観たならば、それだけでも無我に入る事もあるが、修行して集中力が身についていなければ難しいのじゃ。
 自我の起こる所を観たならば、それが原因から起こり、原因が無ければ起こらないと観察すれば、無我に入るのも容易いのじゃ。

 そのように苦を滅する法も十二因縁を観察する法も、全て無我に至る観察の法として繋がって居るのじゃ。
 我在りと言う無明の根本的な原因から、苦が起こる瞬間まで観察すれば、それは全体として観察されるのじゃ。

 そして自我は滅するじゃろう。
 修行者がこれを行なえば確かに無我への道が開くのじゃ。
 そのようにして失われていた悟りへの道は、これを見る全ての者の心の中に蘇るのじゃ。
 全てのものは本来名前が無いものじゃ。
 人が勝手に名前を与え、記憶によりイメージをも与えただけなのじゃ。

 例えば道端に転がっている固い物を石と呼ぶ。
 しかし、それは名前がついたから石になって存在した訳ではない。

 名付ける前からそこにあったものなのじゃ。
 人が名づけようかと名付けまいと関係なく在り続けるものじゃ。

 しかし、人が名付け、それにイメージを与えると石と言うものとしか想う事が出来なくなるのじゃ。
 名前からイメージが想起され、投射される故に、石は石としてしか認識できなくなるのじゃ。

 人間も同じように鈴木家の一郎とか名付けられると、自分は鈴木一郎としか思えなくなるのじゃ。
 記憶から過去の体験のイメージが投射され、そのような経験をした鈴木一郎であると言う固体認識がなされるのじゃ。

 それが自我というものなのじゃ。
 本来の名付けられないものの状態を忘れた習慣による謬見なのじゃ。

 観察やサマーディなどによって名前が同一化できなくなると、本来の名前の無い状態が見えるのじゃ。
 名前や過去の記憶からのイメージが己であると言う謬見が止まり、真実の姿が垣間見えるのじゃ。
 
 修行者は自我とは名前とイメージでしかないとしり、恐れを超えて行くのじゃ。
530 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/29(火) 21:32:14 ID:kaXJvxhM0
 観察を行う目的は気づきを得るためなのじゃ。
 気付く事で人は苦を厭離し、自由になるのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい蛇が居ると見た時、人は恐れて道を行く事が出来なくなるじゃろう。
 しかしよく観察して、それがへびではなく縄であったと気づいたならば、もはや恐れは無く、自由に道を行く事が出来るじゃろう。

 そのように気付きとは、対象を良く観察して真実を見出す事なのじゃ。
 観察して真実に気づいたとしても、何か外部の世界が変化する訳ではない。

 蛇がどこかに行き、縄が現れたのではない。
 蛇がどこかに行ったから恐れが消えて、道を行けるようになったのでもない。

 縄は元から縄であり、自分が知らなかっただけなのじゃ。
 元々縄であったものを、蛇と間違えていた自分の認識が正されるのじゃ。
 
 そして恐れが無くなり、道を自由に行く事が出来るのじゃ。
 気付きによって変わったのは、自分の認識なのじゃ。

 認識が変わった故に、恐れが無くなり、自由に道を行けるようにもなったのじゃ。
 それが気付く事による解放なのじゃ。

 同じようにもし人が肉体が自分であり、肉体以外に自分は無いと認識していたならば、肉体がやがて無くなる恐れがあり、恐れによって苦を生じる事になるじゃろう。
 感情や思考や認識能力等もそれだけが自分であり、他に自分は無いと認識していれば、同じように恐れと苦があるじゃろう。

 しかし、観察する事によって自我を滅し、それらが己ではなく、己のものでもないと気付いたならば、恐れは消え、苦も無くなるのじゃ。
 それら肉体や肉体の作用や能力が変化したり、消えたりするのではないのじゃ。

 ただ自らの認識が変化しただけで、恐れは消え、苦は無くなり、心は自由になるのじゃ。
 それが気づく事の作用なのじゃ。

 悟りも自我の作用に気付く事で自我は無いと知り、認識の作用に気付く事で認識を滅して得られるのじゃ。
 肉体や心が変化するのではなく、自らの心の真実のあり方を見出す事で、悟りは得られるのじゃ。

 修行者はただひたすらに心を集中し、自らの本心を観察し続けるのじゃ。
 そうすれば気付きが訪れ、悟りは得られるじゃろう。

531 :ステテココ:2013/10/29(火) 22:26:19 ID:/ucFPWlk0
>>530
鬼和尚さま、人の認識もまた「空」ですぞ

532 :東都西都南都北都出入自在乃漢奴!:2013/10/29(火) 22:41:52 ID:iV9YIG0s0
>>530 おに さん

お疲れさまでーす(・ω・)ノ▼"パンティーフリフリ

食券が出てますよー

547 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/30(水) 19:57:46 ID:PAHPUIz60
>>531 それもまた空かもしれん。

>>532 瞑想券30時間分で座ると良かろう。
 人が何か観念を抱いていると、観察でさえも観念に染まってしまうものじゃ。
 観念による観察は本当の観察とは言えないのじゃ。

 例えば昔の人は地面はお盆のようであり、平であると信じていたのじゃ。
 地平線や水平線が丸くなっていても、それはお盆の縁が丸いのだと観念に因って投射していたのじゃ。

 このように心に観念があれば、何を見てもその観念を補強するためのものしにしかみえないのじゃ。
 観念があれば観察でさえ虚しいのじゃ。

 心から一切の観念を捨て、あるがままの状態を見るのが真の観察なのじゃ。
 集中の状態に入ればそれもまた可能なのじゃ。

 そして観察によって自らの弱さが露にされるならば、それすらも受け入れなければならん。
 自分の強い所や良い所だけ見ようとするならばそれもまた観察とは言えないものになるのじゃ。
 自分は強い者であるとか、いかした奴であるとか言う観念が観察の邪魔になるからのう。
  
 観察が自分の弱さや醜さを露にするならば、それをそのまま受け入れるという決意が必要なのじゃ。
 そして心を虚しくし、真摯に自らの心を観るのじゃ。

 そうすれば観察により本当の変容が始まるじゃろう。
 観察によって自らの本性への気付きが起こり、気付きによって厭離が起こり、厭離によって苦の滅と悟りが得られるのじゃ。