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鬼の説法集(悟りへの道)

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994 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/04/27(土) 20:35:41 ID:kaXJvxhM0
 例えば昔ある地方で水に弱い毒が入っているのがわからなくて、住民はずうっと飲みつづけていたりした事があったのじゃ。
 長い間、飲んでいると病気になるが、井戸の水が原因とは判らなかったのじゃ。
 今、弱い毒も検出できるようになり、毒だと判るようになったから、医者や学者が警告して飲まないようになったのじゃ。

 同じように人々が自我を持ち、それを苦と感じて居なくとも、目覚めた者はそれが苦の因を作ると知っているから、人々にそれを手離すように教えるのじゃ。
 人々はむしろ自我は己を守るものであるとか、自我が無ければ精神病になるとか、無いと言う事はありえないとか想ってしまっているじゃろう。

 それは毒の水を飲んできた昔の住民が、生活用水が毒であると知らない故に、それが無ければ死ぬとか、生活できなくなるとか思うようなものなのじゃ。
 実際には自我は己を守って居らず、負担になり、執着による苦を作り出しているのじゃ。
 毒の水が病気を作り出すようにのう。

 肉体を守るのは知識や智慧であり、本当は自我とは関係無いのじゃ。
 ただ人はその知識や智慧に自我の観念を投射する故に、それが主体である自我であると認識してしまうのじや。
 それが自我を捨てる事に恐れを抱かせ、悟りを困難にしているのじゃ。

 自我とは言葉とイメージによる観念であり、負担でしかないのじゃ。
 自分の名前という言葉を守るために人は力を尽くし、怒りを生じ、無意味な消耗をしているじゃろう。
 自分のイメージを守るために殺し合いまでするじゃろう。
 
 そのような真実が観察できたならば、自我は不必要なものであり、負担であり、捨て去られるべきものと気づく事もできるじゃろう。

995 :避難民のマジレスさん:2013/04/28(日) 00:23:19 ID:CkaFQQO20
>>994 おに さん

毒の本質を知らないようだ。
毒が薄い状態は、無毒であり無効量なのだから、それは毒を含んだものであっても、食品である。
それを大量に取ると薬効量になり、薬として使われる。
その薬効量の最大値のずっとずっと先に、極量がある。
その極量のとてつもない遠くに致死量がある。。
そして、その致死量が劇薬、毒薬である。

少量でも、致死量のものもあり,必ず 死に至る。

もうひとつ、苦とは、思い通りにならない、事を言う。

自我、悪いのなら、肛門の専門医の診察を受け、治療を受けるべき・・・・・……( ̄ε ̄;) ボソッ

1000 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/04/28(日) 20:46:26 ID:kaXJvxhM0
>>995 昔、実際に砒素を含んでいる水を飲んでいた村があったのじゃ。
 実際を見ずに観念だけで語っていると、自らの間違いに気づかないのじゃ。
 
 思い通りにならない事が苦ならば、お釈迦様は嘘を言っていたことになるのう。
 一切が苦であると言っていたからのう。
 本当は思い通りになる事さえも苦なのじゃ。
 他人の言葉を鵜呑みにしてはいかんのじゃ。
 認識するものが自分であるという観念が在れば、認識の主体である自己があると思えるのじゃ。
 実は認識に因って自己はあるのじゃ。
 自分とは認識されたものなのじゃ。

 認識が無ければそこに自分は無いじゃろう。
 深い眠りの中で認識作用も無ければ、自分は無いのじゃ。
 認識は出来ないが自分はあるという事は無いのじゃ。

 記憶された観念が肉体や感情や思考や認識に投射されているから、肉体や認識があればその主体である自己があると想うのじゃ。
 実際には自己の無い認識もあり得るのじゃ。
 自我を無くしたサマーディや小悟の状態では、未だ認識はあるものじゃ。

 そして悟りを得て本来の認識を取戻した時も、自己は無く、認識はあるのじゃ。
 自己はそこで在るものではなく、必要なものではなく、己でもなく、己のものでもないと理解されるのじゃ。
 それは記憶によって認識された観念であり、確固とした存在でもなく、主体でもなかったとわかるのじゃ。

 観念である自己があると認識し、それが肉体や感覚や思考や認識の主体であると想う事が迷いなのじゃ。
 そのような見解を離れる事が我見を離れる事なのじゃ。
 人が観念に因って世界を見れば、自分や、自分を含む人間や、動物などにだけ意識が在り、他のものは全て無機質なものと見えるじゃろう。
 記憶によって生物にだけ意識が在り、知識や観念が無ければ、それすらも見えないと思考した結果そのように思えるのじゃ。
 
 知識や記憶によって人の意識が生まれ、知識や記憶が無ければ、それらが無いと想うのが謬見なのじゃ。
 実際には意識によって知識や記憶があるのじゃ。

 そして意識は記憶や知識を超えた全てにあるものじゃ。
 一切は個々に途切れたものではなく、全て繋がり、意識の表れとして在るものなのじゃ。
 記憶に依存した認識を滅し、本来の在り方が見えれば、それが感じられるのじゃ。

 実際に今ここにある肉体を詳細に観察してみても、本当は切れ目無く周囲の全てと繋がっている事が判るじゃろう。
 肉体は食物や呼吸や空間を通して全てと繋がって居る。
 例えば呼吸した空気が鼻に入った所から自己となるとか、肺に入った所から己のものになるという事は無いじゃろう。

 本当は真実の在り方として肉体も全てと繋がっているが、人は記憶に依存した認識により、観念を生じて世界から孤立した、個体としての自己の肉体があると想うのじゃ。
 そのような観念が無く、記憶に依存した認識による自己と言う想念が無くなれば、全ては無機質な空間ではなく、己と何一つ変わることの無い意識が普遍に存在している事を、知覚するのじゃ。
 それこそが平等という言葉の本来の意味なのじゃ。
 その不死の境地に至るために修行者は精進するのじゃ。
 悟りを得る事とは、何か超人のような者に変身したり、別人に変わってしまう事ではないのじゃ。
 むしろ自らの本来の在り方に戻る事なのじゃ。
 変化する事より、本来の在り方に回帰する事が不死の境地に至る事なのじゃ。

 人が記憶を持ち、言葉とイメージによって己と言うものを認識してしまえば、そこから様々な苦や囚われが生じてしまうものじゃ。
 観念である己が在ると想えば、世界から独立した己というものに孤独感や不安感が生じるじゃろう。

 それから逃れようとして、金や権力や名声等への欲が生じるのじや。
 そして欲が叶っても、叶わなくても苦が起きるのじゃ。

 誤謬から生じた己という観念から苦が生じ、それが更に様々な欲と苦を起こしていくのじゃ。
 このようにして欲と苦によって苛まれる人間が、本来の在り方に帰る時、一切の苦は滅し、智慧も生じるのじゃ。
 
 己という観念が無ければ、孤独や不安もなく、それから逃避しようとする欲もなく、次々に起こる苦も無いのじゃ。
 観念に囚われない事で真実を知り、今ここに適応する智慧も生じるのじゃ。
 それこそが悟りと言える状態なのじゃ。

 そのように修行者は自らの本来の在り方に戻るために修行するのじゃ。
 悟りを求める修行者は、常に自らに自分は本当に悟りを求めているのかと、問い続ける事が大事じゃ。
 本当は悟りを求めていないのに、別の目的で悟りを求めている振りをしていては、永久に悟りは得られないのじゃ。
   
 例えば悟りを得て有名になりたいと思う者は、悟りを求めておらず名声を求めているのじゃ。
 或いは悟りを得て名声と財産を得たいと思う者は、名声と財産を求めているのじゃ。

 そのような者達は自らが消えようとする時、名声や財産を受け取る己がなくなる事に恐れを抱き、途中で修行を止めてしまうじゃろう。
 真の悟りを求める者でなければ、真の悟りは得られないのじゃ。

 悟りを得るための動機としては、死を超えるため、死を克服するためと言うのが最も強く、確実な動機となるものじゃ。
 お釈迦様も老病死を克服するために、家を捨てて修行し悟りを得たのじゃ。

 死を完全に克服できる唯一の道が、悟りを得る事しかない故に、死を克服しようと言う動機は悟りを得るためには最も確実な動機となるのじゃ。
 他にも真実を知りたいとか、生まれてきた意味を知りたいとか、いろいろな動機があるじゃろう。
 それらの動機もただ悟りを得るためのものであるか、修行者は常に己に問い続けなければならんのじゃ。

 真摯にただ悟りだけを追い求めてきた者が、真の悟りを得る事が出来るのじゃ。
 そして死を克服し、永遠の意識を知ることになるじゃろう。
 修行者はその時まで自分が本当に悟りだけを求めているのか、己に問いつづけるが良いのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

 真にその通りに人は様々な欲望を抱き、得られなければ苦しみ、得られても苦しむものじゃ。
 人がさまざまな欲望を抱き、それを叶えたとしても決して満足できないのは、実は何かを欲しているのではなく、不安や恐怖や孤独から気を逸らすために、それらを求めているだけだからなのじゃ。

 それらを追う事で一時的に不安や恐怖や孤独から気を逸らしても、叶えてしまえばもはや逃れられなくなるのじゃ。
 それ故に欲望は叶えられても、叶えられなくても苦は無くならないのじゃ。

 賢い者はそれを知り、むしろその執着を滅する事を楽しむのじゃ。
 欲するものを得ても、得られなくとも苦が生じると知り、完全な満足と安心への道はそれらを滅する事であると理解しているのじゃ。
 修行者はこの理を知り、完全な満足と安心の道を歩むのじゃ。
 例えば人が山に登ったりする時、遠くの頂上ばかりを見て、未だあんなに遠くにあるとか想っていると、心も体も疲れてしまうものじゃ。
 目標は遠く、先は長いと想うからじゃ。

 むしろ目の前の道の景色を見たり、今まで登って来た道を振り返れば、こんなに遠くに来たと分かり、励みになるものじゃ。
 そして気がつけば頂上も近くにあるとわかったりするのじゃ。
 遠くの頂上ばかり想うより、目の前の楽しみを味わう方が、旅も楽に行く事が出来るのじゃ。

 修行の道も同じようなものじゃ。
 未だ悟道が来ないとか、いつになったら悟れるのかとか考えてばかりいると、疲れて辞めたくなってしまうじゃろう。
 それよりもむしろ今の境地を楽しみ、滅してきた苦の成果を見るのじゃ。

 修行が進んでいればかつては乱れていた心も静まり、多くの苦も滅しているじゃろう。
 苦を滅した安楽の境地を楽しみ、瞑想による喜びを味わうのじゃ。

 そのように楽しみながら行なえば、いつの間にか悟道も寄ってくるものじゃ。
 1日1日の瞑想を楽しみ、一つ一つの苦を滅して行けば、安楽が訪れ、自分の道が間違いではないと、知ることも出来るのじゃ。
 そのように修行が喜びであり、楽しみであれば、気がつかないうちに悟りへの準備も整うのじゃ。

 そのように遠くの目標を想うより、今出来る事を楽しみながらやる事が最も早く進歩する道なのじゃ。
737 :龍昇:2013/04/08(月) 19:35:12 ID:OkUZ1xsA0
で、>鬼和尚
修行って何? 観察のこと?
まじでよう分からんくなってきた。

738 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/04/08(月) 20:56:18 ID:kaXJvxhM0
>>737 先ずは数息観をしてみると良かろう。
 それから自分の心身を観察してみるのじゃ。
 それが修行なのじゃ。

741 :龍昇:2013/04/08(月) 23:46:05 ID:OkUZ1xsA0
>>738
数を数えるやつね。
寝る前にやってみる。

755 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/04/09(火) 20:34:07 ID:kaXJvxhM0
>>741 そうじゃ、やってみるのじゃ。
 実践が全てじゃ。

756 :龍昇:2013/04/09(火) 21:15:00 ID:OkUZ1xsA0
>>755
こんなんしたの何年ぶりかな。
途中で数字のカウントも無くなってさ。
寝たのとは違ったな。俺寝たら絶対頭カクンってなって目が覚めるから。
ってことは深い瞑想に入ったってこと?

仮にそうだとして、疑問がある。
で? それが何? ってなるんだ。
「俺」って奴がいるんだよ。「俺」にとっての何がしかの利益のために何やかんやとやってる。

「ゴチャゴチャうるせえ! 座れ!」ってのが禅だっけ?
まあ、とりあえず今日もやってみるか。

816 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/04/11(木) 19:47:55 ID:kaXJvxhM0
>>756 そうじゃ、瞑想に入っているのじゃ。

 そのように静かになった心には、本当の想いが観えてくるものじゃ。
 本当は自分をどのように想っているのかとか、今まで自分に認めてこなかったことは何なのかとか、それが見えてくるのじゃ。
 誰か他人に告げるものでもない故に、本当の思いを自分に打ち明けられるのじゃ。
 それに気づくために瞑想はあるのじゃ。
 気づきによって人は変容していくのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

129、すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

131、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

 これこそ不変の真理と言うべき言葉なのじゃ。
 暴力によって衆生を害する事は常に悪であり、非難されるべき事なのじゃ。
 暴力によって衆生を害しない事は常に善い事であり、称えられるべき事なのじゃ。

 しかし、何人かの世の者はこの真理を知らず、互いに害しあっているのじゃ。
 カルトとか過激派とか暴力によって人々を支配しようとする者達はいつでも居るじやろう。

 洗脳された者はそれが自らを苦しめる道である事さえ知らないのじゃ。
 これから暴力的なカルトとか過激思想の団体などが、身近に現れるかも知れん。
 賢い者はこの真理の言葉を知り、悪しき行いと善き行いを見分け、騙されないようにするのじゃ。
 例えば人が最近流行りのゲームに夢中になって、ゲームの中の者が自分と同じだと思い、お金をかけて強化したりするじゃろう。
 そのようにお金をかけてゲームの中の者を良くすれば、現実のお金はへって仕舞ったりする。
 架空の者がよくなった事に設定されたが、現実には損をしていたりする。

 同じように社会の中の地位によるイメージを己と思い、それを良くするために心身を費やすならば、それがよくなったように見えて実は心身を損なったりするものじゃ。
 実際にはそれは架空のゲームの中の人間に金を使い、損をしているのと変わりは無いのじゃ。
 
 社会の中での仕事は心身を養うためのものでしかないのに、それで心身を損なうのは本末転倒なのじゃ。
 社会的に成功するのが良い事と教えられ、洗脳されてしまうとそのような事さえわからなくなるのじゃ。

 多くの者が戦争に参加してしまうのも、同じように社会でのイメージ、強い自分と言うイメージを保とうとするためなのじゃ。
 人は自らのイメージを保つために殺し合いまでするのじゃ。
 それは自分を自分の主とせず、社会の奴隷としているとさえ言えるのじゃ。

 自分が自分の主であるならば、先ずは自分の心身を傷つける事は止めようとするじゃろう。
 そして他人の心身も、自分が自分の心身を大事に思うのと同じように思っているのであるから、傷つけるのを止めようと思うじやろう。

 そのように自分を自分の主として、心身を守る者こそ正しく考え、社会の洗脳に囚われていない者と言えるのじゃ。