認識するものが自分であるという観念が在れば、認識の主体である自己があると思えるのじゃ。
実は認識に因って自己はあるのじゃ。
自分とは認識されたものなのじゃ。
認識が無ければそこに自分は無いじゃろう。
深い眠りの中で認識作用も無ければ、自分は無いのじゃ。
認識は出来ないが自分はあるという事は無いのじゃ。
記憶された観念が肉体や感情や思考や認識に投射されているから、肉体や認識があればその主体である自己があると想うのじゃ。
実際には自己の無い認識もあり得るのじゃ。
自我を無くしたサマーディや小悟の状態では、未だ認識はあるものじゃ。
そして悟りを得て本来の認識を取戻した時も、自己は無く、認識はあるのじゃ。
自己はそこで在るものではなく、必要なものではなく、己でもなく、己のものでもないと理解されるのじゃ。
それは記憶によって認識された観念であり、確固とした存在でもなく、主体でもなかったとわかるのじゃ。
観念である自己があると認識し、それが肉体や感覚や思考や認識の主体であると想う事が迷いなのじゃ。
そのような見解を離れる事が我見を離れる事なのじゃ。