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鬼の説法集(悟りへの道)

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 自我を持つ者は、自我は自分を守るものだとオ想ったりしておる。
 自我分を守るために自我はあるのだと想い、自我が無ければ自分が守れないと考えるのじゃ。

 しかし、実際には自我は自分を守ったりしては居らず、むしろ危険な目にあわせたり迷わせたりしているものじゃ。
 自我があり我があるという想いから、人は自我を守ろうと金や権力や名声を求めたりする。
 時には不正な手段使ってもそれらを得ようとするものじゃ。

 それはすでに自分だけは何をしても大丈夫だとする謬見によって生じる思いなのじゃ。
 自我は自らにとってのみ都合の良い世界を見せる故に、そのような謬見も生じてしまうものじゃ。
 自我によって見られる世界が歪んでいる故に、その中を生きる人の行いも歪んでしまうの時や。

 平等なる智慧によって見れば、不正な手段を使うのは自らを危険な目に合わせる事であり、身を危険にさらすようなものを求める事そのものも、迷いでしかなと判るのじゃ。
 そのように自我は己を守っておらず、むしろ危険な目に合わせ、迷いを生じさせているのに気づくのじゃ。
 そうすれば観念に因って囚われる事無く、自らを観られるようになるじゃろう。
 感情もまた主体によつて起こるものではなく、己のものでもないと観察して気づくのじゃ。
 人の感情が起こる時、それは主体が無く、機械的に起こるものじゃ。

 感情は最も人間的なものであり、人としての在り方を表していると思われておる。
 しかし、実は機械的に起きているだけなのじゃ。
 人は嬉しい事があれば喜び、頭に来る事があれば怒り、悲しい事があれば悲しみ、楽しい事があれば楽しむじゃろう。
 
 それは自分の自由に変える事が出来ず、決まりきった反応に過ぎないのじゃ。
 悲しい事があれば、悲しむしかないという、常に決まっている反応なのじゃ。
 機械のボタンを押せば、常に同じ反応があるように、感情も同じ刺激に同じ反応をしている機械的なものに過ぎないのじゃ。

 それらの感情が起こり、その後に感情の主体である自己と言うものが想起される事を良く観察するのじゃ。
 そのような反応と想起は、非常に素早く起こるものじゃ。
 思考よりも早い反応を、止観に習熟した修行者だけが良く観察する事が出来るのじゃ。
 それが出来るまで精進あるのみなのじゃ。
 姿勢を正しくして座っていると、自然に気が上昇し、所謂クンダリニーの上昇と言われる現象が起きる事もあるのじゃ。
 白隠なども頭に気が上り、眠れなくなったりしたのじゃ。
 そのような時は頭に上った気を下に下ろすと良いのじゃ。

 気が頭に上って眠れない時等は、自分が滝を浴びているというイメージをして、新鮮な水が体の中まで通って下に流れていくと思えば気が下がるのじゃ。
 白隠が行ったように薬が体の中を下りていくイメージするのも良いのじゃ。
 慣れてくればただ単に気が下に下りていくとイメージするだけでも出来るようになるのじゃ。

 或いは胸式呼吸なども役に立つのじゃ。
 息を吸った時に胸を膨らませ腹をへこませるのじゃ。
 そして息を吐いて胸を小さくして、腹を膨らませながら気が下に下りていくとイメージするのじゃ。
 胸式呼吸は実際に横隔膜が動き、物理的に血液等を下に下ろす効果もあり、気を下ろすのに役に立つのじゃ。

 日中気が余っている時は眉間や胸の中央に集中してみると良いのじゃ。
 眉間に集中すると気がコントロールし易くなると、ヨーガでも言っておるのじや。
 いろいろと試してみると良いのじゃ。

 このようなクンダリニーの上昇は起こらないものも居り、それがあるから絶対に正しいとか正しくないと言うものでもないのじゃ。
 ただ肉体の現象としてそのような事もあると知り、囚われずに修行していくのじゃ。
 人がものを見る時、見たものに対して記憶が働き、言葉とイメージが浮かんでりんごならりんごと認識されるじゃろう。
 それが見る事であり、見て認識すると言われる事じゃ。
 そのような認識の働きで、そこにりんごがあると知れば、そこで認識は止まるじゃろう。

 観察はそこから始まるのじゃ。
 りんごという言葉とイメージを一旦止めて、すでに認識し終えたものを改めて詳細に観察するのじゃ。
 そうすれば更にそこから新しい事がわかるじゃろう。

 虫に食われているとか、皮が汚れているから古いとか、観察すればいろいろとわかるのじゃ。
 そのように既に認識し終えた所から観察は始まり、未知の事柄に気づく事が出来るのじゃ。

 心の中も同じように、喜怒哀楽が在ればそれを認識し、更に観察を行うのじゃ。
 嗜好や観念なども同じように認識してから、更に観察するのじゃ。
 そうすれば悲しみは自らの心に未だ執着が在ったからであるとか、いろいろと気づきが起こり、苦も厭離されるのじゃ。
 
 そのように言葉とイメージによって認識があり、更にそこから観察をする事が、真の観察なのじゃ。
 諸々の苦や障害や自我からの厭離は、そのような観察によって成されるのじゃ。
 例えば道を歩いていて、道の先にでかい岩があったならば、誰でも避けようとするじゃろう。
 岩があるのを知りながら、そのまま歩いて行けばぶつかるじゃろう。
 大抵の者は未来に起こる事に気をつけ、災難は避けようとするものじゃ。

 しかし、多くの者は死と言う未来に起こる事があるのを知りながら、金や権力や名声に執着しておる。
 そのような者は年をとってもうすぐ死ぬという時にまで、それらに執着しているものじゃ。
 そのような者は根本的に間違った人生を歩んでしまったともいえるのじゃ。

 直ぐ未来に死が来るのを知りながら、執着からも離れられないのは、大きな苦を招くものじゃ。
 死ぬ時になって執着するものと離れるしかないと知り、死の苦と執着するものと離れる苦が重なって、すでに地獄といえるじゃろう。
 そのような無知な者は泣きながら死に行くしかないのじゃ。

 人としての智慧や知識があれば、それだけでも死が来る事を予測できる筈であるがのう。
 賢い者は死が確実に訪れる事を予測し、死を超える道があると知って修行するが良いのじゃ。
 人が心の中にある苦の原因となる不安や恐怖を観察しようとする時、どうしてもそれから逃げようとしたり、隠そうとする働きが起こるものじゃ。
 長年続けてきて習慣となったそのような逃避や隠蔽は、他の心の働きと同じく、思考より素早く起こるものじゃ。
 それが起こったから止めようとしても、止められないのじゃ。

 そのような時はそのような逃避や隠蔽の働きも一緒に観察するのじゃ。
 不安や恐怖を想起して、逃避や隠蔽が起これば、不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こったと観察するのじゃ。
 それもまた正しい観察と言えるのじゃ。

 逃避や隠蔽もまた苦の原因である不安や恐怖から起こる、反応の一つであるから、それを観察するのも正しい観察なのじゃ。
 不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こるのも、当然の反応なのじゃ。

 不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こったとしても、それによって観察が上手くいかないと嘆いたりする必要は無いのじゃ。
 逃避や隠蔽があったとしても、それは卑怯でも弱いからでもなく、心の反応であるだけなのじゃ。
 ただ他の観察をするように、ひたすらにそれも否定も肯定もせずに、観察し続けるが良いのじゃ。
 
 そうすれば今まで上手く行かなかった苦の原因の観察も上手くいくかもしれん。
 不安や恐怖があれば、そこにまた逃避や隠蔽があるであろうと常に心して観察すると良いのじゃ。
734 :避難民のマジレスさん:2013/05/29(水) 07:48:21 ID:76wSxPYM0
鬼和尚さん
質問スレに書いたのですが規制中らしいので
こちらでも質問します
どうしたら利己主義を弱めて愛他的な人間になれるでしょうか

757 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/05/29(水) 20:09:59 ID:kaXJvxhM0
>>734 おぬしが利己主義的な者ならば、むしろそれを拡張するが良いのじゃ。
 例えば毎日母親が作ったご飯を食べるならば、自分が美味しい食事を食べるために母親を大事にするが良いのじゃ。
 友達も仲間も自分のために大事にすれば良いのじゃ。

 それが愛他的な人間になる事なのじゃ。
 自我を持つ人間は誰もが本来は利己主義的であるものじゃ。
 それを誤魔化して愛他的にふるまうより、自分を利己主義的なものと知り、己のために他人を愛すれば、むしろ本来の自分を知った上で愛他的になれるのじゃ。

 無理に我慢して愛他的にふるまっていれば、いつかは我慢しきれなくなるじゃろう。
 それよりも己を本来利己主義と知り、己のために他人を愛すれば、どこまでも無理が無く続くのじゃ。
 それが習慣になり、性格になれば、自他ともに愛他的な者と知られるようになるじゃろう。

759 :避難民のマジレスさん:2013/05/29(水) 20:53:55 ID:kDJrnMaE0
>>757
自分のために「大事にする」と言うところがポイントかと思いました。

763 :避難民のマジレスさん:2013/05/29(水) 22:24:17 ID:76wSxPYM0
>>757
レスありがとうございました
なんだかすっきりしました

826 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/05/30(木) 19:47:54 ID:kaXJvxhM0
>>759 そうじゃ、人は自我のある限り己という制約は免れないものじゃ。
 自分に嘘をつくよりむしろ己の為にも他者を愛するが良いのじゃ。
 それが自他の利を求める事なのじゃ。
 
>>763 どういたしまして、またおいでなさい。
 人が自分を認識するのは名前とイメージからなのじゃ。
 仮に人が名前かイメージのどらかを忘れただけでも、自分の認識に変化が訪れるじゃろう。
 観念は言葉とイメージによって認識されている故に、名前とイメージを忘れれば自己と言う観念も忘れられるのじゃ。

 例えば鈴木一郎と言う者が己の名前を忘れたらどうなるじゃろうか?
 その者はもはや己の名前に囚われず、名前を他人に知られたいとは思わなくなるじゃろう。
 そして誰かが鈴木一郎の悪口を言っても、気にしなくなるじゃろう。

 そのように自らの名前を忘れれば、名声への囚われを離れ、言葉によって感情が怒らなくなるのじゃ。
 欲から離れ怒りも怒らないのは自我を忘れているからなのじゃ。

 更に自分のイメージをも忘れたならば、もはや不安も無くなるじゃろう。
 不安とは過去に起きた嫌な事の記憶を、今の自分のイメージに起きはしないかと投射する事であるからなのじゃ。

 そして自分を守るための緊張も無くなる。
 自我のある人間は気づかないが、自分のイメージを持っている人間は、不安に因って何か起きはしないかと常に緊張しているものじゃ。
 不安が無くなれば緊張も無くなり、安心が生じるのじゃ。

 更に緊張が無いから、自分を守るために常に行なっている感覚による
情報の収集も無くなる。
 不安に因る緊張がある人間は、常に周りから情報を収集し、何か起きる兆候を探しているのじゃ。
 不安に因る緊張が無ければそれも無く、そこに静寂が生じるのじゃ。

 このように己の名前とイメージを忘れれば、欲は無くなり、怒りも無く、安心があり、静寂があるのじゃ。
 修行者はそれを知るために修行に励むのじゃ。
68 :避難民のマジレスさん:2014/08/16(土) 10:15:10 ID:YXJjgr6A0
鬼和尚、

パパジも悟りを得ているのでしょうか?



では、時々眼が動いているように見えますが。

71 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/16(土) 21:53:38 ID:3LAmjuRw0
>>68 悟りを得ているのじゃ。
 話す時は人に合わせて動くのじゃ。
 死人のように止まる時があるのを観察するのじゃ。
 その時、心の働きも止まっているのじゃ。
 よく観察すればわかるじゃろう。

78 :避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 21:21:16 ID:1/XG4j0Q0
>>71
確かに時々、時間が止まったかのように動きが止まる時があります。
他にも覚者のいろいろな動画を観察してみます。
ありがとうございました。

82 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/17(日) 22:15:44 ID:FGqBj7Ig0
>>78 そうじゃ、グルジェフも止まっているじゃろう。
 心が止まれば体も止まるのじゃ。
 いろいろ観察してみると良いのじゃ。

80 :避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 21:56:31 ID:F0lYHkKQ0
行為を真我に任せると言うことを、普通中々出来ませんが、出来る限り
プンジャジや一休さんのように、静けさを保ち、なるべく自我の活動を弱めるように
勤めるべきでしょうか?

81 :避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 22:00:40 ID:fb9.7IYY0
静けさを保ち、自然に行為が生じるのを待つ。

プンジャジの動画を見ると、万事においてそんな感じがします。

鬼和尚はどうでしょうか? 例えば、配達で迷ったときや、2chで書き込みをするときなど

瞑想などを通して自我の働きを無くすようにした方がよいのでしょうか?

「よい」が何を意味するかは不明でありますが、真我は選択において何を志向するのでしょうか?

83 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/17(日) 22:27:50 ID:FGqBj7Ig0
>>80 日常も静かにしたほうが良いのじゃ。
 寺や修行場はそのためにあるのじゃ。
 社会では難しい事では在るがのう。

>>81 わしも時々止まるのじゃ。

 瞑想によるのが良かろう。

 真我は無の修行のための観念であるから何も志向しないのじゃ。
 ただ無によってのみ表されるだけなのじゃ。

85 :避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 14:21:39 ID:ZneemYIM0
しかし、マハリシ、マハラジ、プンジャジ、釈迦(釈迦は諸説あるが)、鬼和尚は、恐ろしいほど、目指すところが同じですよね。
(釈迦は別として)皆、マハリシの弟子や孫弟子だから?
それとも単純に、それが「真理」だからと言うべきでしょうか?
アンチの人は、「鬼和尚は真似をしてるだけだ」みたいなことを言うでしょうが、真似にしては、修行体系に独自なものがあります。
明らかに自力で目的地まで切り開いていった人特有の自信や確信が彼らの発言からは感じられます。
マハラジ・マハリシ・プンジャジ・鬼和尚はまったく同じ地点から、修行者にアドバイスをしています。
同一人物が別の切り口から話しているようにすら見えます。
この四人のうち誰の本や発言から学んでも、同じように悟りに到達するように思われます。

87 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/18(月) 21:15:37 ID:1mQKjCa60
>>85 お釈迦様の教えなのじゃ。
 経を読めば全て書いて居るのじゃ。

131 :避難民のマジレスさん:2014/08/22(金) 22:35:02 ID:fYj0mFGQ0



鬼和尚。↑この動画の赤いシャツを着た男性は悟ったのでしょうか?

151 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/23(土) 22:03:21 ID:SWqJzPrs0
>>131 悟っていないのじゃ。
 知識はあるようであるがのう。
 気付きがあったようじゃ。
447 :避難民のマジレスさん:2014/10/10(金) 09:52:30 ID:lbuPWhfI0
和尚、こんにちは。

最近は集中の行に特化しておりますが、その日その日により持続力が違ったりします。
そういうものでしょうか?

また和尚おススメの集中力強化方法がありましたら教えて頂きたいです。

454 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/10/10(金) 23:03:02 ID:G8sAj0xk0
>>447 そういうものじゃ。
 スポーツでも調子の良いときと悪いときがあるが、日々練習していれば力は付いて行くものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

 水晶とか、綺麗な石等を凝視すると集中力が身につくのじゃ。
 見つめながら100秒数えるのじゃ。ヨーガのトラータカなのじゃ。
 あまり睨むと目つきが悪くなるのじゃ。
 笑顔で見つめるのじゃ。

467 :避難民のマジレスさん:2014/10/12(日) 13:50:56 ID:lbuPWhfI0
>>454
和尚、ありがとうございました。

調子は日によりけりなのですね。平均して上がっていくことを目指します。

またトラータカというのを調べたところ、1点を凝視する方法だと知りました。
こちらも試してみます。
ありがとうございました。

469 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/10/12(日) 21:38:29 ID:nSkmzBy.0
>>467 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 またおいでなさい。

471 :避難民のマジレスさん:2014/10/12(日) 22:30:24 ID:lbuPWhfI0
和尚、こんにちは。

以下のリンク先の話は、おそらく禅定状態に入ったものと思われるのですが、
どの段階くらいでの体験になるのでしょうか。

またこういったことは集中と観察の瞑想をしていても起こるものなのでしょうか。
(あくまで体験主が変な妄想に囚われる前までの体験についてです)

http://world-fusigi.net/archives/7221891.html

475 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/10/13(月) 21:57:35 ID:EsQtb4vg0
>>471 それは空無辺定と呼ばれる境地じゃな。
 集中していれば起こるのじゃ。
 元々意識は肉体に限定されたものではないからのう。
 世間の常識で肉体が自己と認識して居るだけなのじゃ。
 常識外の経験をして怖くなって妄想に入ってしまったようじゃ。
 修行して少しずつ意識の広がりを経験していれば何でもないのじゃ。
 囚われれば障害になるだけなのじゃ。

484 :避難民のマジレスさん:2014/10/15(水) 09:50:23 ID:lbuPWhfI0
>>482

>元々肉体の境界は記憶による認識によって作られたものでしかないのじゃ。

なんと…そうなのですか。
よく言われる自分で自分を縛りつけているという言葉の意味が少し理解できた気がします。
PCの中を流れる電気が、おれはパソコンだと思っているような感じかもしれませんね。

すべては記憶によるものですか。
とても参考になりました。
ありがとうございました。

489 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/10/15(水) 21:59:28 ID:EsQtb4vg0
>>484 どういたしまして、またおいでなさい。