719 :避難民のマジレスさん:2014/01/26(日) 13:59:36 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはm(__)m
珍しく、まだ質問がないようなので、もしよろしければ、元気の出る説法をお願いします。
お忙しくなりそうなら、次の機会で結構です( ̄▽ ̄)b
723 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/26(日) 22:04:41 ID:kaXJvxhM0
>>719 明日やるじゃろう。
727 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/27(月) 20:58:59 ID:kaXJvxhM0
前にも紹介したが、お釈迦様はこのように言っておる。
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
影がそのからだから離れないように。
今引き寄せとか、願望の実現とか呼ばれる原理も、既に2500年前にお釈迦様が説いておるのじゃ。
ものごとは心によって作り出される故に、人が心を清め、確信を持って直感に従えば何事も成せない事は無いのじゃ。
心を清めるとは、決意して悪事を止めて善事を志す事なのじゃ。
善い事をする善い者を、この世の自他のあらゆる智慧と力が助けるのじゃ。
しかし、頭の中でちょっと考えた位では、何も叶わないのじゃ。
自他を助ける大儀があり、心の奥に深く入って確信となった願望が実現されるのじゃ。
確信とは確かな信じる心なのじゃ。
信じるとは未だ実現していない事をも実現したかのように振舞う事なのじゃ。
心を清め、未だ実現していない事も実現したかのように振舞えば、智慧と力が湧いて実現を促進するじゃろう。
それが出来ればこの世で成しえない事は殆ど無いと言って良いのじゃ。
そのような実現を妨げるのは、観念に因って築いた限界なのじゃ。
心を観察し、観念を滅する法を知った者にはそのような観念を滅するのも用意となるのじゃ。
そして確信を養うには正しい言葉を何度も繰り返すのが効果的なのじゃ。
お釈迦様はこのようにも言って居るのじゃ。
299 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
300 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
301 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
本当は瞑想を楽しんでいなくとも、このように宣言する事で弟子たちも瞑想を楽しむようになったりするのじゃ。
このような宣言は自己暗示とかアファメーションとも呼ばれておる。
言葉によって宣言して確信を養う事が出来るのじゃ。
このように心を清め、確信を作り上げることによって、世間の成功を求める者はそれを得られるじゃろう。
安心の境地を求める者は困難な修行も乗り越えて安心の境地を得るじゃろう。
一切の苦を滅した不死の境地である悟りを求める者は、必ず真の悟りを得られるじゃろう。
修行者は心の力を知って心を清め、不信を捨て、確信をもって修行に励むのじゃ。
728 :避難民のマジレスさん:2014/01/27(月) 23:20:49 ID:LC3de7YgO
>>727
ありがとうございますm(__)m
精進します。
731 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/28(火) 21:14:10 ID:kaXJvxhM0
>>728 どういたしまして、またおいでなさい。
702 :避難民のマジレスさん:2014/01/22(水) 07:13:29 ID:LTUvvDAY0
只管打座による悟りへの道程を解説していただけませんか?
704 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/22(水) 20:36:15 ID:PAHPUIz60
>>702 道元はちゃんと集中と観察を教えているのじゃ。
最初はどうしても集中の行をして集中力を養わなければならんのじゃ。
初心の者はやはり集中力が足りないから座っても何もわからんのじゃ。
十牛図で言えば牛の足跡も見えない段階じゃ。
集中力がつけば心をコントロールする事が出来るようになり、少しずつ心の働きも見えてくるのじゃ。
牛の足跡が見えるようになるのじゃ。
そして集中力が十分につけば自分が見えるのじゃ。
牛を見つける見性なのじゃ。
自分がコントロールできれば牛に乗った状態なのじゃ。
実は自分というものは無かったと気づくのが牛を忘れるのじゃ。
さらにそれを観ているものさえなくなれば人も牛も無い状態なのじゃ。
無為のままにすわって居れば全てが源に還るのがわかるじゃろう。
真の悟りを得て人々に説く時が来たのじゃ。
705 :善聖 ◆rgBot67fe.:2014/01/22(水) 23:22:12 ID:EUJYIxW20
>>704
道元が観察を教えていると言う根拠をご教示ください。
708 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/23(木) 20:11:02 ID:kaXJvxhM0
>>705 道元の書いたものに心を観ることが書いてあったのじゃ。
何に書いてあったのか忘れたのじゃ。
正法眼蔵だったかのう。
探してみるのじゃ。
710 :善聖 ◆rgBot67fe.:2014/01/24(金) 00:47:06 ID:EUJYIxW20
>>708
正法眼蔵ですか。あまり役に立たないテキストだと思いますが、読んでみます。
見付けたら報告します。
713 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/24(金) 20:36:58 ID:kaXJvxhM0
>>710 そうじゃ頼むのじゃ。
只管打座による悟りへの道程を解説していただけませんか?
704 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/22(水) 20:36:15 ID:PAHPUIz60
>>702 道元はちゃんと集中と観察を教えているのじゃ。
最初はどうしても集中の行をして集中力を養わなければならんのじゃ。
初心の者はやはり集中力が足りないから座っても何もわからんのじゃ。
十牛図で言えば牛の足跡も見えない段階じゃ。
集中力がつけば心をコントロールする事が出来るようになり、少しずつ心の働きも見えてくるのじゃ。
牛の足跡が見えるようになるのじゃ。
そして集中力が十分につけば自分が見えるのじゃ。
牛を見つける見性なのじゃ。
自分がコントロールできれば牛に乗った状態なのじゃ。
実は自分というものは無かったと気づくのが牛を忘れるのじゃ。
さらにそれを観ているものさえなくなれば人も牛も無い状態なのじゃ。
無為のままにすわって居れば全てが源に還るのがわかるじゃろう。
真の悟りを得て人々に説く時が来たのじゃ。
705 :善聖 ◆rgBot67fe.:2014/01/22(水) 23:22:12 ID:EUJYIxW20
>>704
道元が観察を教えていると言う根拠をご教示ください。
708 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/23(木) 20:11:02 ID:kaXJvxhM0
>>705 道元の書いたものに心を観ることが書いてあったのじゃ。
何に書いてあったのか忘れたのじゃ。
正法眼蔵だったかのう。
探してみるのじゃ。
710 :善聖 ◆rgBot67fe.:2014/01/24(金) 00:47:06 ID:EUJYIxW20
>>708
正法眼蔵ですか。あまり役に立たないテキストだと思いますが、読んでみます。
見付けたら報告します。
713 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/24(金) 20:36:58 ID:kaXJvxhM0
>>710 そうじゃ頼むのじゃ。
655 :避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 07:15:11 ID:LTUvvDAY0
「無住心」について釈義していただけませんか?
664 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/18(土) 21:08:57 ID:kaXJvxhM0
>>655 それは金剛経の言葉じゃな。
前の文から訳すとこのようになるのじゃ。
まさに色に住して心を生じてはならない。
まさに声香味触法に住して心を生じてはならない。
まさに住する所無き心を生ずべし。
五感から心に浮かぶ観念にまで、何ものにも囚われない心を生じさせよと言う意味なのじゃ。
六つの感覚に囚われない心とは、もはや無念無想に等しい心なのじゃ。
そのようにまでなればサマーディにも近く、体も自在に動くのじゃ。
心は本来、五感と心の働きである観念に住し、囚われ易いものじゃ。
心が形に囚われれば形によって苦を受け、形による制約を受ける。
そのように五感も同じであり、観念に心が囚われればやはり観念に因って苦を受け、観念による制約を受けるじゃろう。
心が六感に囚われなければ六感による苦を受けず、その制約を受ける事もないのじゃ。
そのように何ものにも囚われない心が無住心と呼ばれるのじゃ。
「無住心」について釈義していただけませんか?
664 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/18(土) 21:08:57 ID:kaXJvxhM0
>>655 それは金剛経の言葉じゃな。
前の文から訳すとこのようになるのじゃ。
まさに色に住して心を生じてはならない。
まさに声香味触法に住して心を生じてはならない。
まさに住する所無き心を生ずべし。
五感から心に浮かぶ観念にまで、何ものにも囚われない心を生じさせよと言う意味なのじゃ。
六つの感覚に囚われない心とは、もはや無念無想に等しい心なのじゃ。
そのようにまでなればサマーディにも近く、体も自在に動くのじゃ。
心は本来、五感と心の働きである観念に住し、囚われ易いものじゃ。
心が形に囚われれば形によって苦を受け、形による制約を受ける。
そのように五感も同じであり、観念に心が囚われればやはり観念に因って苦を受け、観念による制約を受けるじゃろう。
心が六感に囚われなければ六感による苦を受けず、その制約を受ける事もないのじゃ。
そのように何ものにも囚われない心が無住心と呼ばれるのじゃ。
406 :避難民のマジレスさん:2013/12/12(木) 12:34:38 ID:Zcl18UUU0
鬼和尚が悟りを得てから働けるようになるまでのプロセスと、
おおよそかかった時間をお教えいただけますでしょうか?
認識の転換の後で、おそらく仮の自我を作り出す必要があるのではないかと
思われるのですが、どのような感じなのかなと思いまして。
407 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/12(木) 20:18:37 ID:kaXJvxhM0
>>406 一年ぐらい掛かったようじゃ。
記憶からの認識をつくり、言語機能を快復して、仮の自我を創り上げたのじゃ。
元の自我の残っていた反応の回路を基にしたのじゃ。
元の性格が少々残っているのじゃ。
411 :避難民のマジレスさん:2013/12/13(金) 12:53:35 ID:Elpwrbn.0
>>407
>>406 です。ありがとうございます。まるで再び誕生したかのようですね。
特に悟りを得た直後のあたりで、何ができて、何ができなかったかを、
もう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
この質問の意図は2つあります。1つは、悟りを得た直後の認知や行動は
悟り以前と比較して、どのように変わっているのかということ。
2つめは、悟りを得たあと、肉体がこの世界にとどまるために、
他の人の助けが必要かどうかということ。この2つが知りたいです。
例えば、阿頼耶識を厭離し、本来の認識が戻った直後は、言葉もイメージも無い
とのことですが、その時に鬼和尚が使えた心の機能には、何があったのでしょうか?
今鬼和尚が肉体を持っているということは、食事はできたはずですよね。
認識が記憶によらなければ、何が食べ物かも、分からないのではないかと思いまして。
また、慈悲への執着とか、意志もありましたか?
413 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/13(金) 20:39:52 ID:kaXJvxhM0
>>411 特に言葉と言葉が表すもの、対象との結びつきが失われるのじゃ。
全ての言葉に意味はなく、叉全ての意味を含んでいるような気がするのじゃ。
しかし、わしは大乗の誓願を行っていた故に、衆生を導くためにこの世に戻ってきたのじゃ。
他人の助けは意味がないのじゃ。
言葉が無意味であるからのう。
機能は逆に増えたのじゃ。
智慧が身についたからのう。
肉体の制御は習慣によって出来るのじゃ。
執着はないのじゃ。
意志はあったのじゃ。
誓願を捨てる事も出来たが、果たす事を選んだのじゃ。
421 :避難民のマジレスさん:2013/12/14(土) 19:58:26 ID:Dp/qMVVc0
>>413 ありがとうございます。
とりあえず、他人の助けには意味はないが、肉体の制御は
習慣によってできるということで、安心しました。
また、悟りの前に悟り後のことを、強い意志で決めておくことも
大切だと分かりました。
悟りを得た後の状態というのは、止の瞑想で無念無想になった状態が、
常に続いているという感じでしょうか?
とすると、イメージや言葉の操作以外は、悟りの後でもできそうに
思うのですが、そのような理解で大丈夫でしょうか?
もう一点、お聞きしたいことがございます。
記憶を介さない状態の認識から、記憶を介した認識を作り上げるのは、
例えばリンゴを認識した時に、意志の力により記憶のリンゴを想起して、
両者を結びつけるといった訓練をするのでしょうか?
435 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/15(日) 21:09:42 ID:kaXJvxhM0
>>421 そうじゃ、出来れば皆悟りを得たら戻ってきて教えを説くという誓願をして置くと良いのじゃ。
それが修行を進める力にもなるのじゃ。
そのような理解で良いのじゃ。
意志を起こさなければずっと無念無想でいられるのじゃ。
そのような訓練はしなくとも、以前の自分の認識を呼び起こせば使えるのじゃ。
記憶に依存した認識もやはり習慣によって身についているのであるからのう。
一つ一つの物を言葉と結び付けていては、もう一度赤子の頃からの教育をやり直さなくては成らないから大変なのじゃ。
442 :避難民のマジレスさん:2013/12/16(月) 13:06:07 ID:fgD13pAM0
>>435
>>421 です。
悟りを得た直後にどのようになるのか分からず、恐怖が
あったのですが、幾分かイメージが掴めました。
悟り後をイメージしてみても、肩に力が入らなく
なっています。
誓願を胸に、実践に励みます。
ありがとうございました。
444 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/16(月) 21:10:29 ID:kaXJvxhM0
>>442 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
またおいでなさい。
鬼和尚が悟りを得てから働けるようになるまでのプロセスと、
おおよそかかった時間をお教えいただけますでしょうか?
認識の転換の後で、おそらく仮の自我を作り出す必要があるのではないかと
思われるのですが、どのような感じなのかなと思いまして。
407 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/12(木) 20:18:37 ID:kaXJvxhM0
>>406 一年ぐらい掛かったようじゃ。
記憶からの認識をつくり、言語機能を快復して、仮の自我を創り上げたのじゃ。
元の自我の残っていた反応の回路を基にしたのじゃ。
元の性格が少々残っているのじゃ。
411 :避難民のマジレスさん:2013/12/13(金) 12:53:35 ID:Elpwrbn.0
>>407
>>406 です。ありがとうございます。まるで再び誕生したかのようですね。
特に悟りを得た直後のあたりで、何ができて、何ができなかったかを、
もう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
この質問の意図は2つあります。1つは、悟りを得た直後の認知や行動は
悟り以前と比較して、どのように変わっているのかということ。
2つめは、悟りを得たあと、肉体がこの世界にとどまるために、
他の人の助けが必要かどうかということ。この2つが知りたいです。
例えば、阿頼耶識を厭離し、本来の認識が戻った直後は、言葉もイメージも無い
とのことですが、その時に鬼和尚が使えた心の機能には、何があったのでしょうか?
今鬼和尚が肉体を持っているということは、食事はできたはずですよね。
認識が記憶によらなければ、何が食べ物かも、分からないのではないかと思いまして。
また、慈悲への執着とか、意志もありましたか?
413 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/13(金) 20:39:52 ID:kaXJvxhM0
>>411 特に言葉と言葉が表すもの、対象との結びつきが失われるのじゃ。
全ての言葉に意味はなく、叉全ての意味を含んでいるような気がするのじゃ。
しかし、わしは大乗の誓願を行っていた故に、衆生を導くためにこの世に戻ってきたのじゃ。
他人の助けは意味がないのじゃ。
言葉が無意味であるからのう。
機能は逆に増えたのじゃ。
智慧が身についたからのう。
肉体の制御は習慣によって出来るのじゃ。
執着はないのじゃ。
意志はあったのじゃ。
誓願を捨てる事も出来たが、果たす事を選んだのじゃ。
421 :避難民のマジレスさん:2013/12/14(土) 19:58:26 ID:Dp/qMVVc0
>>413 ありがとうございます。
とりあえず、他人の助けには意味はないが、肉体の制御は
習慣によってできるということで、安心しました。
また、悟りの前に悟り後のことを、強い意志で決めておくことも
大切だと分かりました。
悟りを得た後の状態というのは、止の瞑想で無念無想になった状態が、
常に続いているという感じでしょうか?
とすると、イメージや言葉の操作以外は、悟りの後でもできそうに
思うのですが、そのような理解で大丈夫でしょうか?
もう一点、お聞きしたいことがございます。
記憶を介さない状態の認識から、記憶を介した認識を作り上げるのは、
例えばリンゴを認識した時に、意志の力により記憶のリンゴを想起して、
両者を結びつけるといった訓練をするのでしょうか?
435 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/15(日) 21:09:42 ID:kaXJvxhM0
>>421 そうじゃ、出来れば皆悟りを得たら戻ってきて教えを説くという誓願をして置くと良いのじゃ。
それが修行を進める力にもなるのじゃ。
そのような理解で良いのじゃ。
意志を起こさなければずっと無念無想でいられるのじゃ。
そのような訓練はしなくとも、以前の自分の認識を呼び起こせば使えるのじゃ。
記憶に依存した認識もやはり習慣によって身についているのであるからのう。
一つ一つの物を言葉と結び付けていては、もう一度赤子の頃からの教育をやり直さなくては成らないから大変なのじゃ。
442 :避難民のマジレスさん:2013/12/16(月) 13:06:07 ID:fgD13pAM0
>>435
>>421 です。
悟りを得た直後にどのようになるのか分からず、恐怖が
あったのですが、幾分かイメージが掴めました。
悟り後をイメージしてみても、肩に力が入らなく
なっています。
誓願を胸に、実践に励みます。
ありがとうございました。
444 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/16(月) 21:10:29 ID:kaXJvxhM0
>>442 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
またおいでなさい。
417 :避難民のマジレスさん:2013/12/14(土) 04:36:15 ID:6NaQvIas0
鬼和尚さん、空の法に関して質問です。たとえば嫌いな人がいて、そのことで苦しんでいるとします。その苦を滅するために、
「嫌いな人も空であり、嫌うという思いも空であり、その人が言った言葉も空であり、その人がした行為も空であり、それらを受け取る自分も空である…」
のように、その出来事に関連して心に浮かんでくるものを空と観想していくという方法をとるのは正しいやり方でしょうか?
423 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/14(土) 20:10:01 ID:kaXJvxhM0
>>417 そうじゃ、それで良いのじゃ。
心に浮かぶ全てを空であり、実在せず、夢幻のようなものと観想するのじゃ。
そうすれば執着や囚われが無くなるのじゃ。
420 :避難民のマジレスさん:2013/12/14(土) 19:50:51 ID:6NaQvIas0
グルジェフの瞑想法で「この世を夢とみなしなさい」というのがあるとOSHOの本で読んだ記憶があります。
この瞑想法は空の法と似ていると思うのですが、この瞑想法について鬼和尚さんの意見を聞きたいです。
435 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/15(日) 21:09:42 ID:kaXJvxhM0
>>420 そうじゃ、やはり空と同じものと言えるのじゃ。
金剛経にもこの世を夢幻と見るようにと教えられているのじゃ。
グルジェフは博識であるから知っていたのかも知れんのじゃ。
453 :避難民のマジレスさん:2013/12/18(水) 16:36:53 ID:JXKkxHbE0
全てを空とか夢幻と観想することで、どうして(どのようなメカニズムで)悟りが得られるのですか?
455 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/18(水) 20:27:04 ID:kaXJvxhM0
>>453 簡単に言えば観念への囚われから解放されるからなのじゃ。
人は自分と言う観念から自分のもの、他人のもの、自他のものではないものとか、様々に観念を抱えているものじゃ。
その観念がある限り、己への囚われがあり、苦があり、悟る事は出来ないのじゃ。
それを我見とか有身見とか言ったりするのじゃ。
一切を空と見なせば我もなくなり、無我になり、無我を見る認識も去って真の悟りが得られるのじゃ。
457 :避難民のマジレスさん:2013/12/19(木) 03:46:26 ID:pwM0EAio0
>>455
幻想と見做す、というのは方法かもしれませんが、本当に幻想だった、と目覚めないと
自我からは解放されないので思い込みになりますよね。
自我に同化して自我がゆるせないものがあったとき、自分も他人も世界も幻想なんだ、
と見做そうとして板挟みになり心身ともに追い詰められました。
実際には幻想だと見做せていないからです。むしろ自我は絶対に幻想だと見做せないし
許せない、これを最後まであらわにしたことで、シフトがあったように感じました。
チャクラとかクンダリニーとか幻想だとか言いますが、実際に霊的状況が移行していく過程
を経なければ、幻想だという境地になれないのも事実です。はじめから目覚めている人以外は。
459 :避難民のマジレスさん:2013/12/19(木) 07:10:21 ID:JXKkxHbE0
457さんの発言について鬼和尚さんに質問です。
”めげずに何度も空と観想することで効果が表れる”という趣旨のことを
鬼和尚さんのブログで読んだ気がしますが、実際はどうなんでしょう?
自我が空を観想しても観念の遊戯で終わってしまうのでしょうか?
462 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/19(木) 20:22:52 ID:kaXJvxhM0
>>457 幻想の思い込みで良いのじゃ。
それは観念を破壊する観念なのじゃ。
真摯に行えば結果は出るものじゃ。
途中で恐れを生じて逃避すると却って苦しいのじゃ。
自我を放棄するまで行うが良いのじゃ。
>>459 何度も行えば確実に効果は出るのじゃ。
むしろ途中で自分がなくなるとか、それで狂気に陥るとか思って止めてしまう者が多いのじゃ。
効果がなかったとか言うのは大抵はそのような逃避が原因なのじゃ。
本当に効果を知りたければ自ら試してみる以外にないのじゃ。
鬼和尚さん、空の法に関して質問です。たとえば嫌いな人がいて、そのことで苦しんでいるとします。その苦を滅するために、
「嫌いな人も空であり、嫌うという思いも空であり、その人が言った言葉も空であり、その人がした行為も空であり、それらを受け取る自分も空である…」
のように、その出来事に関連して心に浮かんでくるものを空と観想していくという方法をとるのは正しいやり方でしょうか?
423 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/14(土) 20:10:01 ID:kaXJvxhM0
>>417 そうじゃ、それで良いのじゃ。
心に浮かぶ全てを空であり、実在せず、夢幻のようなものと観想するのじゃ。
そうすれば執着や囚われが無くなるのじゃ。
420 :避難民のマジレスさん:2013/12/14(土) 19:50:51 ID:6NaQvIas0
グルジェフの瞑想法で「この世を夢とみなしなさい」というのがあるとOSHOの本で読んだ記憶があります。
この瞑想法は空の法と似ていると思うのですが、この瞑想法について鬼和尚さんの意見を聞きたいです。
435 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/15(日) 21:09:42 ID:kaXJvxhM0
>>420 そうじゃ、やはり空と同じものと言えるのじゃ。
金剛経にもこの世を夢幻と見るようにと教えられているのじゃ。
グルジェフは博識であるから知っていたのかも知れんのじゃ。
453 :避難民のマジレスさん:2013/12/18(水) 16:36:53 ID:JXKkxHbE0
全てを空とか夢幻と観想することで、どうして(どのようなメカニズムで)悟りが得られるのですか?
455 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/18(水) 20:27:04 ID:kaXJvxhM0
>>453 簡単に言えば観念への囚われから解放されるからなのじゃ。
人は自分と言う観念から自分のもの、他人のもの、自他のものではないものとか、様々に観念を抱えているものじゃ。
その観念がある限り、己への囚われがあり、苦があり、悟る事は出来ないのじゃ。
それを我見とか有身見とか言ったりするのじゃ。
一切を空と見なせば我もなくなり、無我になり、無我を見る認識も去って真の悟りが得られるのじゃ。
457 :避難民のマジレスさん:2013/12/19(木) 03:46:26 ID:pwM0EAio0
>>455
幻想と見做す、というのは方法かもしれませんが、本当に幻想だった、と目覚めないと
自我からは解放されないので思い込みになりますよね。
自我に同化して自我がゆるせないものがあったとき、自分も他人も世界も幻想なんだ、
と見做そうとして板挟みになり心身ともに追い詰められました。
実際には幻想だと見做せていないからです。むしろ自我は絶対に幻想だと見做せないし
許せない、これを最後まであらわにしたことで、シフトがあったように感じました。
チャクラとかクンダリニーとか幻想だとか言いますが、実際に霊的状況が移行していく過程
を経なければ、幻想だという境地になれないのも事実です。はじめから目覚めている人以外は。
459 :避難民のマジレスさん:2013/12/19(木) 07:10:21 ID:JXKkxHbE0
457さんの発言について鬼和尚さんに質問です。
”めげずに何度も空と観想することで効果が表れる”という趣旨のことを
鬼和尚さんのブログで読んだ気がしますが、実際はどうなんでしょう?
自我が空を観想しても観念の遊戯で終わってしまうのでしょうか?
462 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/12/19(木) 20:22:52 ID:kaXJvxhM0
>>457 幻想の思い込みで良いのじゃ。
それは観念を破壊する観念なのじゃ。
真摯に行えば結果は出るものじゃ。
途中で恐れを生じて逃避すると却って苦しいのじゃ。
自我を放棄するまで行うが良いのじゃ。
>>459 何度も行えば確実に効果は出るのじゃ。
むしろ途中で自分がなくなるとか、それで狂気に陥るとか思って止めてしまう者が多いのじゃ。
効果がなかったとか言うのは大抵はそのような逃避が原因なのじゃ。
本当に効果を知りたければ自ら試してみる以外にないのじゃ。
209 :避難民のマジレスさん:2013/11/16(土) 10:06:40 ID:zz3du5Nk0
鬼和尚
覚者が覚者ゆえに起こしやすい間違いというのはありますか?
213 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/16(土) 20:33:27 ID:kaXJvxhM0
>>209 目覚めた者は自他の区別が無いからろ、自分と同じ事が他人も出来ると思ってしまう事じゃ。
何もせずに座っていろとか、観察だけをすれば良いとか言ったりするのじゃ。
目覚めていない人間には何もしない事も、観察することも困難なものじゃ。
目覚めた後にも良く学び修行しないとこのような間違いを犯すものじゃ。
215 :避難民のマジレスさん:2013/11/16(土) 22:50:42 ID:I70fPQRo0
>>213 ありがとうございます。
覚者ならではの視点を持つゆえに、凡夫のことを理解しがたいというのは
凡夫の視点からは、覚者を理解しがたいのと似ていて、興味深いです。
また、目覚めた後も学び、修行できるというのは励みになります。
ところで鬼和尚は、ケン・ウィルバーは覚者だと思いますか?
インテグラル理論というものを提唱しており、youtubeに動画があります。
222 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/17(日) 20:33:31 ID:kaXJvxhM0
>>215 ケン・ウィルバーは悟っていないのじゃ。
頭で考えすぎなのじゃ。
229 :避難民のマジレスさん:2013/11/18(月) 15:14:02 ID:7rD9T5220
>>222 ありがとうございます。
ケン・ウィルバーは悟っていないのですね。
私も思考に自我を投射するタイプのようです.特に自分の思考を観察
しようとして思考に注意を割くと、その観察を思考が奪って、いつのま
にか観察が観念になって混乱することが良くあるように思います。
これは止の行に励むことで避けられるようになるでしょうか?
それとも、他にコツがありますか?
233 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/18(月) 21:07:05 ID:kaXJvxhM0
>>229 そうじゃ、集中力がついて思考と観察している状態が明らかにわかるようになれば、観察に集中できるようになるじゃろう。
集中の修行はそのためにあるのじゃ。
思考に自我を投射しているとわかっているならば、進歩も早いじゃろう。
239 :避難民のマジレスさん:2013/11/19(火) 12:57:35 ID:7rD9T5220
>>233 ありがとうございます。
観察と思考の判別について、もう一つお聞きしたいことがあります。
これまで、体に生じる本物感を頼りに、観察が正しく行なわれているか
どうかを判断してきています。例えば感覚は、感覚の生じたところに
本物感があり、それを観察するのは難しくありません。
また感情は、生じる直前から感情が消えるまで、例えば胸の下などに感覚が
生じるので、その本物感を頼りに観察することもできているように思います。
ところが思考の場合、生じる直前に頭の中にもやもやしたものが現れるのが
判ることがあるのですが、そのもやもやには、本物感が感じられません。
以前鬼和尚に、そのもやもやは観念ではなく観察されたものだと教わったの
ですが、それはそもそも本物感に乏しいものなのでしょうか?
それとも止の行を進めることで、もやもやの本物感は増しますか?
あるいは、本物感に頼ること自体に限界があるでしょうか?
241 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/19(火) 20:42:48 ID:kaXJvxhM0
>>239 おぬしの場合、思考は感情よりも肉体の感覚が少ないのかも知れん。
肉体に何かの感覚があると気づけば観察は出来ているのじゃ。
感情とは違う感覚であるだけなのじゃ。
感情と同じような本物感は必要ないのじゃ。
思考した時に同じ感覚が必ずあればそれが本物なのじゃ。
242 :避難民のマジレスさん:2013/11/19(火) 21:35:29 ID:8sDhNKjA0
>>241
なるほど。何かを観察した時に、それに付随して肉体に起こる感覚が
必ずあれば、それは本物感とは関係なく、正しく観察できているということですね。
思考が生じる時に肉体に何が起こるかを特に注意して、観察を続けてみます。
正しい観察というものの視野を広げていただき、ありがとうございました。
250 :避難民のマジレスさん:2013/11/20(水) 20:01:17 ID:7rD9T5220
鬼和尚、
鬼和尚は思考が生じる時に、肉体のどのような感覚を観察しますか?
感情については以前、みぞおちが重くなったとか喉が詰まるようになる
というようなことを書かれておりました。
251 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/20(水) 20:44:58 ID:kaXJvxhM0
>>242 そうじゃ、何が本物かとかに囚われなくて良いのじゃ。
今ここにある感覚を観れば良いのじゃ。
またおいでなさい。
>>250 頭の中が動いている感覚があるのじゃ。
考えつづけると頭の中が熱くなると判るのじゃ。
252 :避難民のマジレスさん:2013/11/21(木) 17:22:49 ID:7rD9T5220
>>251
ありがとうございます。やはり、思考に巻き込まれて、思考の観察が不十分なようです。
集中の行に励もうと思います。
それで集中の行ですが、現在思考が静まっていき、思考無しの意識状態が呼吸10回分
程度続けられるくらいになっています。正しい姿勢と毎日励むことの他に、何かサマーディに
達するのに役立つことがありましたら、お教えください。
253 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/21(木) 20:16:39 ID:kaXJvxhM0
>>252 肩の力をもっともっと抜くのじゃ。
個我という観念のある人間は、個我を守るために常に肩に力が入っているのじゃ。
攻撃も防御も放棄して、肩の力を全て抜ききってしまうのじゃ。
そうすれば無闘争の安心の境地に入るじゃろう。
255 :避難民のマジレスさん:2013/11/22(金) 12:51:35 ID:7rD9T5220
>>253
ありがとうございます。
肩の力をできるだけ抜くようにして、座ってみました。
集中の行でしたが、偶然思考の観察が少しできたように思います。確かに思考中に
頭の中が動くというか、回るような感覚がありました。思考が自分ではないと
感じるのは初めてだったので、思い出してみても奇妙で不思議な感じです。
同じことがまた起こるかどうか、気負わずに試してみたいと思います。
それで、定には初禅から第四禅の段階があるということですが、それの解説は、
ブログの「数息観のやり方」に書いてあるでしょうか?
経にある、喜とか楽とか捨とかが分からないので、少し詳しく教えていただけ
ますと、ありがたいです。
257 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/22(金) 21:53:02 ID:kaXJvxhM0
>>255 書いていないのじゃ。
心の段階はそのように正確に分けられるものではないからのう。
想念が無ければ無想と判るぐらいなのじゃ。
楽や喜は姿勢を正しくして座りつづければ自然に湧いてくるものじゃ。
気が頭の中にまで昇れば快や喜びは生じるのじゃ。
捨とは他人の行いに対する憎しみや怒りの感情を捨てる事なのじゃ。
他にも金銭欲とか権力欲とか名声欲とかあらゆる執着などを捨てるのじゃ。
260 :避難民のマジレスさん:2013/11/23(土) 09:42:56 ID:7rD9T5220
>>257
自分の中に、自分が消えてゆく恐れと好奇心、それから知識への執着と、
鬼和尚への執着が生じていることに気づきました。
心の段階や集中の行の進度について思い煩うより、止観の実践に励もうと思います。
ありがとうございました。
262 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/23(土) 21:01:21 ID:kaXJvxhM0
>>260 そうじゃ、修行に励むのじゃ。
またおいでなさい。
鬼和尚
覚者が覚者ゆえに起こしやすい間違いというのはありますか?
213 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/16(土) 20:33:27 ID:kaXJvxhM0
>>209 目覚めた者は自他の区別が無いからろ、自分と同じ事が他人も出来ると思ってしまう事じゃ。
何もせずに座っていろとか、観察だけをすれば良いとか言ったりするのじゃ。
目覚めていない人間には何もしない事も、観察することも困難なものじゃ。
目覚めた後にも良く学び修行しないとこのような間違いを犯すものじゃ。
215 :避難民のマジレスさん:2013/11/16(土) 22:50:42 ID:I70fPQRo0
>>213 ありがとうございます。
覚者ならではの視点を持つゆえに、凡夫のことを理解しがたいというのは
凡夫の視点からは、覚者を理解しがたいのと似ていて、興味深いです。
また、目覚めた後も学び、修行できるというのは励みになります。
ところで鬼和尚は、ケン・ウィルバーは覚者だと思いますか?
インテグラル理論というものを提唱しており、youtubeに動画があります。
222 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/17(日) 20:33:31 ID:kaXJvxhM0
>>215 ケン・ウィルバーは悟っていないのじゃ。
頭で考えすぎなのじゃ。
229 :避難民のマジレスさん:2013/11/18(月) 15:14:02 ID:7rD9T5220
>>222 ありがとうございます。
ケン・ウィルバーは悟っていないのですね。
私も思考に自我を投射するタイプのようです.特に自分の思考を観察
しようとして思考に注意を割くと、その観察を思考が奪って、いつのま
にか観察が観念になって混乱することが良くあるように思います。
これは止の行に励むことで避けられるようになるでしょうか?
それとも、他にコツがありますか?
233 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/18(月) 21:07:05 ID:kaXJvxhM0
>>229 そうじゃ、集中力がついて思考と観察している状態が明らかにわかるようになれば、観察に集中できるようになるじゃろう。
集中の修行はそのためにあるのじゃ。
思考に自我を投射しているとわかっているならば、進歩も早いじゃろう。
239 :避難民のマジレスさん:2013/11/19(火) 12:57:35 ID:7rD9T5220
>>233 ありがとうございます。
観察と思考の判別について、もう一つお聞きしたいことがあります。
これまで、体に生じる本物感を頼りに、観察が正しく行なわれているか
どうかを判断してきています。例えば感覚は、感覚の生じたところに
本物感があり、それを観察するのは難しくありません。
また感情は、生じる直前から感情が消えるまで、例えば胸の下などに感覚が
生じるので、その本物感を頼りに観察することもできているように思います。
ところが思考の場合、生じる直前に頭の中にもやもやしたものが現れるのが
判ることがあるのですが、そのもやもやには、本物感が感じられません。
以前鬼和尚に、そのもやもやは観念ではなく観察されたものだと教わったの
ですが、それはそもそも本物感に乏しいものなのでしょうか?
それとも止の行を進めることで、もやもやの本物感は増しますか?
あるいは、本物感に頼ること自体に限界があるでしょうか?
241 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/19(火) 20:42:48 ID:kaXJvxhM0
>>239 おぬしの場合、思考は感情よりも肉体の感覚が少ないのかも知れん。
肉体に何かの感覚があると気づけば観察は出来ているのじゃ。
感情とは違う感覚であるだけなのじゃ。
感情と同じような本物感は必要ないのじゃ。
思考した時に同じ感覚が必ずあればそれが本物なのじゃ。
242 :避難民のマジレスさん:2013/11/19(火) 21:35:29 ID:8sDhNKjA0
>>241
なるほど。何かを観察した時に、それに付随して肉体に起こる感覚が
必ずあれば、それは本物感とは関係なく、正しく観察できているということですね。
思考が生じる時に肉体に何が起こるかを特に注意して、観察を続けてみます。
正しい観察というものの視野を広げていただき、ありがとうございました。
250 :避難民のマジレスさん:2013/11/20(水) 20:01:17 ID:7rD9T5220
鬼和尚、
鬼和尚は思考が生じる時に、肉体のどのような感覚を観察しますか?
感情については以前、みぞおちが重くなったとか喉が詰まるようになる
というようなことを書かれておりました。
251 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/20(水) 20:44:58 ID:kaXJvxhM0
>>242 そうじゃ、何が本物かとかに囚われなくて良いのじゃ。
今ここにある感覚を観れば良いのじゃ。
またおいでなさい。
>>250 頭の中が動いている感覚があるのじゃ。
考えつづけると頭の中が熱くなると判るのじゃ。
252 :避難民のマジレスさん:2013/11/21(木) 17:22:49 ID:7rD9T5220
>>251
ありがとうございます。やはり、思考に巻き込まれて、思考の観察が不十分なようです。
集中の行に励もうと思います。
それで集中の行ですが、現在思考が静まっていき、思考無しの意識状態が呼吸10回分
程度続けられるくらいになっています。正しい姿勢と毎日励むことの他に、何かサマーディに
達するのに役立つことがありましたら、お教えください。
253 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/21(木) 20:16:39 ID:kaXJvxhM0
>>252 肩の力をもっともっと抜くのじゃ。
個我という観念のある人間は、個我を守るために常に肩に力が入っているのじゃ。
攻撃も防御も放棄して、肩の力を全て抜ききってしまうのじゃ。
そうすれば無闘争の安心の境地に入るじゃろう。
255 :避難民のマジレスさん:2013/11/22(金) 12:51:35 ID:7rD9T5220
>>253
ありがとうございます。
肩の力をできるだけ抜くようにして、座ってみました。
集中の行でしたが、偶然思考の観察が少しできたように思います。確かに思考中に
頭の中が動くというか、回るような感覚がありました。思考が自分ではないと
感じるのは初めてだったので、思い出してみても奇妙で不思議な感じです。
同じことがまた起こるかどうか、気負わずに試してみたいと思います。
それで、定には初禅から第四禅の段階があるということですが、それの解説は、
ブログの「数息観のやり方」に書いてあるでしょうか?
経にある、喜とか楽とか捨とかが分からないので、少し詳しく教えていただけ
ますと、ありがたいです。
257 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/22(金) 21:53:02 ID:kaXJvxhM0
>>255 書いていないのじゃ。
心の段階はそのように正確に分けられるものではないからのう。
想念が無ければ無想と判るぐらいなのじゃ。
楽や喜は姿勢を正しくして座りつづければ自然に湧いてくるものじゃ。
気が頭の中にまで昇れば快や喜びは生じるのじゃ。
捨とは他人の行いに対する憎しみや怒りの感情を捨てる事なのじゃ。
他にも金銭欲とか権力欲とか名声欲とかあらゆる執着などを捨てるのじゃ。
260 :避難民のマジレスさん:2013/11/23(土) 09:42:56 ID:7rD9T5220
>>257
自分の中に、自分が消えてゆく恐れと好奇心、それから知識への執着と、
鬼和尚への執着が生じていることに気づきました。
心の段階や集中の行の進度について思い煩うより、止観の実践に励もうと思います。
ありがとうございました。
262 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/23(土) 21:01:21 ID:kaXJvxhM0
>>260 そうじゃ、修行に励むのじゃ。
またおいでなさい。
25 :龍昇:2013/10/18(金) 01:10:54 ID:nxQ7UtQo0
映画を見ているとして。
自分とスクリーンが、自分と他人との関係。
自分がいて、外に他人を見ている。
ある時、自分もスクリーンに入ってしまった。
確かに他人だが、他人じゃなかった。同じ中の別のもの。
猛烈な違和感。すぐに閉じてしまった。1秒も持たなかった。
この道は正しいのだろうか?
毎度分かりづらい表現で申し訳ない。
28 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/18(金) 20:04:33 ID:kaXJvxhM0
>>25 対象と一体になるサマーディを一瞬体験したようじゃ。
常識外の体験に驚いて引いてしまったが、特に恐れる必要も無いものじゃ。
修行をしていけば、今までの人生で知った常識とは反する体験が、しばしば起こるものじゃ。
それはむしろ常識に囚われない真実を知る事なのじゃ。
恐れずに進んでいくと良いのじゃ。
32 :龍昇:2013/10/19(土) 00:40:55 ID:nxQ7UtQo0
>>28
いやあ、とにかく気持ち悪くてね。
これが素敵とか言ってるやつ出てこいや、って感じだよ。
「これはあなたをギョッとさせる」と言ったクリシュナムルティは正直者だ。
昨日と同じ今日を望んじゃいけないみたいだ。
進んでいきます。
36 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/19(土) 19:59:26 ID:kaXJvxhM0
>>32 そうじゃ、実際に自分が体験しなければ何もわからないのじゃ。
またおいでなさい。
62 :龍昇:2013/10/24(木) 18:21:02 ID:nxQ7UtQo0
嘘つきが許せない。
初めての一瞥の後、嘘がつけなくなった。
それによって、人の嘘が嫌でも分かるようになってしまった。
で、それがどうしても許せんのよ。
いつもバチバチにやりあう。怒りで体が震えるくらい。
環境は変わる。もちろん同じ状況が待っている。
もう何順目だっていうくらい同じ状況の繰り返し。
何とかならないだろうか。
知恵をお借りしたい。
64 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/24(木) 20:57:02 ID:kaXJvxhM0
>>62 社会で生きる人間は毎日幾つも嘘をついているものじゃ。
昼頃におはようとか言えばもう嘘なのじゃ。
特に早くないからのう。
しかしそのように挨拶しなければいかんから言う嘘とは社会の潤滑油のようなものじゃ。
様々に辻褄を合わせたり、迎合したり、妥協したりして嘘を言う事で人の世は動いていくものじゃ。
嘘とはただ単に社会を上手く動かすための潤滑油と思って居ればよいのじゃ。
嘘よりもむしろ嘘によって怒る自らの心を観察すると良いのじゃ。
それもまた完全に出来れば怒りは止み、気付きが起こるじゃろう。
65 :龍昇:2013/10/24(木) 21:32:32 ID:nxQ7UtQo0
>>64
ふう。結局はそうなるか。
環境変えてもついてくるしな。
骨が折れる。
どうもありがとう。
71 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/25(金) 20:17:02 ID:kaXJvxhM0
>>65 そうじゃ、世間の付き合いとは骨が折れるものじゃ。
故に犀の角のように独りで修行するのが一番なのじや。
またおいでなさい。
70 :龍昇:2013/10/25(金) 19:47:26 ID:nxQ7UtQo0
苦滅の観察を初めてやってみた。
鬼和尚のブログを参考に
③ その原因から苦が起きると観察する。
④ その原因が無ければ苦も無いと観察する。
を紙芝居的に繰り返す観想をしてみた。
確かに過去の記憶からの苦や、記憶に基づいた妄想も無くなる。
そこで質問なんだけど、俺は新たに苦を生み出したくないんだ。
「苦を滅するために、原因が無いと観想するのは、その原因を無くすためではないのじゃ。
それは苦を滅するために、原因が無いと想うだけなのじゃ。
その原因が無かったらどのようになるかと、心の中で想い、心の反応を観察するのじゃ。」
俺の場合「正しくありたいという思い」が新たに苦を生み出し続ける。
これを無くしたい場合、更に深く突っ込んで「正しくありたいという思い」自体を観念として処理する必要があると思うのだが、いかがだろうか。
72 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/25(金) 20:58:59 ID:PAHPUIz60
>>70 そうじゃ、人の持つ思想や信念や信条などが苦を生む原因である場合、それを滅する事も修行なのじゃ。
大抵の者はそれらを自分の自我を形成するものとして大事に思っているが、実際には苦をもたらしたり、行動を制限したりする観念に過ぎないのじゃ。
全ての観念を滅して、自由になるのじゃ。
75 :避難民のマジレスさん:2013/10/26(土) 07:49:59 ID:WL2yRwjAO
社会の持つ信条ってありますよね
日本社会なら伝統的に「何も考えるな。働け」です。
この信条が日本の「成功」の要因でしたが
同時に、生き苦しさの原因でもあると思います。
この国民的信条を個人で棄てるのは怖い。
一方的な道徳的非難を受けます。
76 :避難民のマジレスさん:2013/10/26(土) 07:53:14 ID:WL2yRwjAO
と言うのも働く(端を楽にする?)のは悪いことではないからね
でも強迫されてやるのは苦しい。
一見道徳的で正しい信条でもそれが観念化されたものであれば一旦棄てるのが正しいのでしょうが
77 :龍昇:2013/10/26(土) 14:26:03 ID:nxQ7UtQo0
>>72
正義感が足枷になるとは...皮肉なもんだ。
>大抵の者はそれらを自分の自我を形成するものとして大事に思っているが、実際には苦をもたらしたり、行動を制限したりする観念に過ぎないのじゃ
返す言葉が無いよ。
どうもありがとう。
79 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/26(土) 21:02:32 ID:kaXJvxhM0
>>75>>76 そうじゃ、信条に縛られているならば一度、捨てて改めて考えてみるのも必要じゃろう。
縛られていては選択の余地が無いからのう。
自らの選択によって行う事が自由なのじゃ。
信条に縛られない自由な立場で自ら考えて選択するが良いのじゃ。
>>77 そうじゃ、正義と言う観念さえも創られたものであり、時には枷にもなるのじゃ。
またおいでなさい。
映画を見ているとして。
自分とスクリーンが、自分と他人との関係。
自分がいて、外に他人を見ている。
ある時、自分もスクリーンに入ってしまった。
確かに他人だが、他人じゃなかった。同じ中の別のもの。
猛烈な違和感。すぐに閉じてしまった。1秒も持たなかった。
この道は正しいのだろうか?
毎度分かりづらい表現で申し訳ない。
28 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/18(金) 20:04:33 ID:kaXJvxhM0
>>25 対象と一体になるサマーディを一瞬体験したようじゃ。
常識外の体験に驚いて引いてしまったが、特に恐れる必要も無いものじゃ。
修行をしていけば、今までの人生で知った常識とは反する体験が、しばしば起こるものじゃ。
それはむしろ常識に囚われない真実を知る事なのじゃ。
恐れずに進んでいくと良いのじゃ。
32 :龍昇:2013/10/19(土) 00:40:55 ID:nxQ7UtQo0
>>28
いやあ、とにかく気持ち悪くてね。
これが素敵とか言ってるやつ出てこいや、って感じだよ。
「これはあなたをギョッとさせる」と言ったクリシュナムルティは正直者だ。
昨日と同じ今日を望んじゃいけないみたいだ。
進んでいきます。
36 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/19(土) 19:59:26 ID:kaXJvxhM0
>>32 そうじゃ、実際に自分が体験しなければ何もわからないのじゃ。
またおいでなさい。
62 :龍昇:2013/10/24(木) 18:21:02 ID:nxQ7UtQo0
嘘つきが許せない。
初めての一瞥の後、嘘がつけなくなった。
それによって、人の嘘が嫌でも分かるようになってしまった。
で、それがどうしても許せんのよ。
いつもバチバチにやりあう。怒りで体が震えるくらい。
環境は変わる。もちろん同じ状況が待っている。
もう何順目だっていうくらい同じ状況の繰り返し。
何とかならないだろうか。
知恵をお借りしたい。
64 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/24(木) 20:57:02 ID:kaXJvxhM0
>>62 社会で生きる人間は毎日幾つも嘘をついているものじゃ。
昼頃におはようとか言えばもう嘘なのじゃ。
特に早くないからのう。
しかしそのように挨拶しなければいかんから言う嘘とは社会の潤滑油のようなものじゃ。
様々に辻褄を合わせたり、迎合したり、妥協したりして嘘を言う事で人の世は動いていくものじゃ。
嘘とはただ単に社会を上手く動かすための潤滑油と思って居ればよいのじゃ。
嘘よりもむしろ嘘によって怒る自らの心を観察すると良いのじゃ。
それもまた完全に出来れば怒りは止み、気付きが起こるじゃろう。
65 :龍昇:2013/10/24(木) 21:32:32 ID:nxQ7UtQo0
>>64
ふう。結局はそうなるか。
環境変えてもついてくるしな。
骨が折れる。
どうもありがとう。
71 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/25(金) 20:17:02 ID:kaXJvxhM0
>>65 そうじゃ、世間の付き合いとは骨が折れるものじゃ。
故に犀の角のように独りで修行するのが一番なのじや。
またおいでなさい。
70 :龍昇:2013/10/25(金) 19:47:26 ID:nxQ7UtQo0
苦滅の観察を初めてやってみた。
鬼和尚のブログを参考に
③ その原因から苦が起きると観察する。
④ その原因が無ければ苦も無いと観察する。
を紙芝居的に繰り返す観想をしてみた。
確かに過去の記憶からの苦や、記憶に基づいた妄想も無くなる。
そこで質問なんだけど、俺は新たに苦を生み出したくないんだ。
「苦を滅するために、原因が無いと観想するのは、その原因を無くすためではないのじゃ。
それは苦を滅するために、原因が無いと想うだけなのじゃ。
その原因が無かったらどのようになるかと、心の中で想い、心の反応を観察するのじゃ。」
俺の場合「正しくありたいという思い」が新たに苦を生み出し続ける。
これを無くしたい場合、更に深く突っ込んで「正しくありたいという思い」自体を観念として処理する必要があると思うのだが、いかがだろうか。
72 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/25(金) 20:58:59 ID:PAHPUIz60
>>70 そうじゃ、人の持つ思想や信念や信条などが苦を生む原因である場合、それを滅する事も修行なのじゃ。
大抵の者はそれらを自分の自我を形成するものとして大事に思っているが、実際には苦をもたらしたり、行動を制限したりする観念に過ぎないのじゃ。
全ての観念を滅して、自由になるのじゃ。
75 :避難民のマジレスさん:2013/10/26(土) 07:49:59 ID:WL2yRwjAO
社会の持つ信条ってありますよね
日本社会なら伝統的に「何も考えるな。働け」です。
この信条が日本の「成功」の要因でしたが
同時に、生き苦しさの原因でもあると思います。
この国民的信条を個人で棄てるのは怖い。
一方的な道徳的非難を受けます。
76 :避難民のマジレスさん:2013/10/26(土) 07:53:14 ID:WL2yRwjAO
と言うのも働く(端を楽にする?)のは悪いことではないからね
でも強迫されてやるのは苦しい。
一見道徳的で正しい信条でもそれが観念化されたものであれば一旦棄てるのが正しいのでしょうが
77 :龍昇:2013/10/26(土) 14:26:03 ID:nxQ7UtQo0
>>72
正義感が足枷になるとは...皮肉なもんだ。
>大抵の者はそれらを自分の自我を形成するものとして大事に思っているが、実際には苦をもたらしたり、行動を制限したりする観念に過ぎないのじゃ
返す言葉が無いよ。
どうもありがとう。
79 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/26(土) 21:02:32 ID:kaXJvxhM0
>>75>>76 そうじゃ、信条に縛られているならば一度、捨てて改めて考えてみるのも必要じゃろう。
縛られていては選択の余地が無いからのう。
自らの選択によって行う事が自由なのじゃ。
信条に縛られない自由な立場で自ら考えて選択するが良いのじゃ。
>>77 そうじゃ、正義と言う観念さえも創られたものであり、時には枷にもなるのじゃ。
またおいでなさい。
485 :避難民のマジレスさん:2014/04/14(月) 12:57:52 ID:0Sk4wvvs0
鬼和尚、
自我の観照について、
もし予兆になるようなことがありましたら、お教えください。
487 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/04/14(月) 21:12:26 ID:kaXJvxhM0
>>485 そこまで近付けば主体が消えるような感覚が起こる者も居るのじゃ。
観念が破壊される故に混乱したと思う事もあるのじゃ。
世界や自分が消えるような感覚も起きたりするのじゃ。
それに恐れを抱いて後退したり止めたりしてはいかんのじゃ。
更に進めば無我も近いのじゃ。
598 :避難民のマジレスさん:2014/05/06(火) 18:20:33 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
苦滅に励んでいます。
縁起の観察により、苦の原因となる観念を厭離してきました。
過去の経験に関わる観念の厭離、
悪い自己イメージに関わる観念の厭離、
社会的に良いとされているルールに基づく観念の厭離、
そして、良い自己イメージに関わる観念の厭離と進んできました。
最近、何もしていなくともただ楽に感じられる時間が長くなってきています。
苦が生じたら瞑想で滅すれば良く、そうでない場合は瞑想中に自己の観察に励む
というやり方で進めていますが、ここの段階で注意することがもし
ありましたら、お教えください。
599 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/06(火) 21:31:34 ID:kaXJvxhM0
>>598 良い事じゃ。
常に必要なのは忍耐なのじゃ。
日々の修行を続けることなのじゃ。
例え苦しくてもう止めようと想っても、その思いさえも克服して行うのじゃ。
絶望や無力感に囚われても、その中でも修行を続けるのじゃ。
常に修行を続けるならば、やがてそれが自分を超えた力を生む。
そして自分を超えた境地に運んでくれるじゃろう。
600 :避難民のマジレスさん:2014/05/07(水) 12:59:47 ID:pEe1v5Oo0
>>599 ありがとうございます。
修行したくないときも、そうでないときも、修行を続けます。
以前は思考をすることに囚われていたのですが、
最近、思考をしないことに囚われていたことに気づきました。
心の働きとして、思考は自然に発生することもあるのですね。
少し、何もしないということが分かってきたように思います。
瞑想中でなくともたまに、自我意識が遠のく感覚が生じることが
あるのですが、そこで何もしなければ、無我になるのでしょうか?
601 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/07(水) 21:38:34 ID:kaXJvxhM0
>>600 そうじゃ、続けるのじゃ。
それが大きな力になるじゃろう。
良い気付きなのじゃ。
何ものにも囚われずに進むのじゃ。
それは未だ忘我への入り口なのじゃ。
その中で自我が無くとも意識はあり、自我が観念でしかないと気付けば無我に至るのじゃ。
603 :避難民のマジレスさん:2014/05/08(木) 12:10:46 ID:1sAvBPl20
>>601
無我に到達するには、 意志なしでの集中に加え、意志なしでの心の観察も
必要ということでしょうか?
心の観察もさらに精進します。
ありがとうございました。
605 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/08(木) 20:51:13 ID:kaXJvxhM0
>>603 そうじゃ、意志があれば自我からの働きと認識されるからのう。
それが自我を観察できなくするのじゃ。
その全ての過程が見えるほどの集中が必要なのじゃ。
またおいでなさい。
鬼和尚、
自我の観照について、
もし予兆になるようなことがありましたら、お教えください。
487 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/04/14(月) 21:12:26 ID:kaXJvxhM0
>>485 そこまで近付けば主体が消えるような感覚が起こる者も居るのじゃ。
観念が破壊される故に混乱したと思う事もあるのじゃ。
世界や自分が消えるような感覚も起きたりするのじゃ。
それに恐れを抱いて後退したり止めたりしてはいかんのじゃ。
更に進めば無我も近いのじゃ。
598 :避難民のマジレスさん:2014/05/06(火) 18:20:33 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
苦滅に励んでいます。
縁起の観察により、苦の原因となる観念を厭離してきました。
過去の経験に関わる観念の厭離、
悪い自己イメージに関わる観念の厭離、
社会的に良いとされているルールに基づく観念の厭離、
そして、良い自己イメージに関わる観念の厭離と進んできました。
最近、何もしていなくともただ楽に感じられる時間が長くなってきています。
苦が生じたら瞑想で滅すれば良く、そうでない場合は瞑想中に自己の観察に励む
というやり方で進めていますが、ここの段階で注意することがもし
ありましたら、お教えください。
599 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/06(火) 21:31:34 ID:kaXJvxhM0
>>598 良い事じゃ。
常に必要なのは忍耐なのじゃ。
日々の修行を続けることなのじゃ。
例え苦しくてもう止めようと想っても、その思いさえも克服して行うのじゃ。
絶望や無力感に囚われても、その中でも修行を続けるのじゃ。
常に修行を続けるならば、やがてそれが自分を超えた力を生む。
そして自分を超えた境地に運んでくれるじゃろう。
600 :避難民のマジレスさん:2014/05/07(水) 12:59:47 ID:pEe1v5Oo0
>>599 ありがとうございます。
修行したくないときも、そうでないときも、修行を続けます。
以前は思考をすることに囚われていたのですが、
最近、思考をしないことに囚われていたことに気づきました。
心の働きとして、思考は自然に発生することもあるのですね。
少し、何もしないということが分かってきたように思います。
瞑想中でなくともたまに、自我意識が遠のく感覚が生じることが
あるのですが、そこで何もしなければ、無我になるのでしょうか?
601 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/07(水) 21:38:34 ID:kaXJvxhM0
>>600 そうじゃ、続けるのじゃ。
それが大きな力になるじゃろう。
良い気付きなのじゃ。
何ものにも囚われずに進むのじゃ。
それは未だ忘我への入り口なのじゃ。
その中で自我が無くとも意識はあり、自我が観念でしかないと気付けば無我に至るのじゃ。
603 :避難民のマジレスさん:2014/05/08(木) 12:10:46 ID:1sAvBPl20
>>601
無我に到達するには、 意志なしでの集中に加え、意志なしでの心の観察も
必要ということでしょうか?
心の観察もさらに精進します。
ありがとうございました。
605 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/05/08(木) 20:51:13 ID:kaXJvxhM0
>>603 そうじゃ、意志があれば自我からの働きと認識されるからのう。
それが自我を観察できなくするのじゃ。
その全ての過程が見えるほどの集中が必要なのじゃ。
またおいでなさい。
137 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:17:48 ID:GFceyxAg
まあ聞いてくれ。大愚は大賢に通ず、とも言うからな。
クリシュナムルティだとかグルジェフだとか、oshoだとか、
何読んでも一緒さ。夢中で読んでるときは呼吸が浅くなってるし、
脳の酸素濃度も薄いわね。それは脳にとって心地よいことさ。
しかしその快楽にずっとながされて脳が機能しつづけているとよくないよな。
新鮮な空気吸って覚醒すれば全てたわごとよ。しかしよ、新鮮な空気吸って
覚醒ばっかりしててもしんどいわな。それがよ、自然なリズムでできてるうち
はええよ。しかし、社会の要請やらなんやらで年食えばだれでも少しずつ狂って
くるわ。呆けとったら。それを直そうと思ったら、運動とか体操とか瞑想とか
したらええというのは完全な嘘や。一生続けてもあんまし意味ない。
脳は多少、低酸素で耄碌してるぐらいのほうが快楽物質がでてきもちええんや。
だから、それでいい。しかし何かしら気づくときがある。そのとき、自分の
意思でそれこそ好きなだけ呼吸したらいい。今まさに自分が気づいたから言ってる
だけやで。脳波が覚醒する手前の印象が、固定化されてくるとだいたい悩みの種に
なるんや。覚醒のインパルスの前に悩んで多様なことが壁になってくるわけよ。
しかし、悩みなんて脳の快楽を生んでいきすぎた状態だから、ということは
悩みは脳に快楽を生み出しているわけだから、自分の意思でやめようたって
やめれない。だから自分の気づいたとき、悟ったときだけ自分の意思で呼吸すればいいと
いうかそれだけいい。それ以外はまた思考を生み出すだけだからさ。
最近、耄碌と覚醒を繰り返してて気づいたから友達とおもって書いてやってるよw
自然に逆らえるのはそれくらいだよ。快楽主義でも成功すると思うで。
あはは。全力疾走してるほうが心臓が楽なぐらいのときもあった私の
言うことです。まちがいないわ。
何言うてるのかわからへんかったらそのままどうぞw
では熱く、クリシュナムルティとかグルジエフとかoshoとか語ってください。
でもさ、真剣に人の話聞くときは、大体覚醒と耄碌のベクトルでいえば、
耄碌のほうにすすんでるよ。息殺して低酸素で聞くでしょ。w
余談だけど、高山なんかでは、もともと低酸素だから頂上着いて騒いだり
するとよくないみたいね。しかし、残念だったな~~
138 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:19:29 ID:GFceyxAg
悩んで多様な→なやんでいたような
142 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:50:19 ID:GFceyxAg
137の中ほどは
一生続けても意味がないじゃなくて
一生続けないと意味がないか。ははは
149 :ばんこ:2006/09/19(火) 22:36:14 ID:GFceyxAg
グルジェフ恐ろしく難解だなぁ~
すこしぐらいわかるんでしょ?
150 :お翔:2006/09/21(木) 11:51:29 ID:soSE93RY
ばんこよ。良く勉強しているようじゃな。感心感心。
これからは己の心を観る修行をしなさい。
わしが指導してやろう。
まあ 嫌ならいいんじゃが。
おぬしにとっては、千世に一度のチャンスじゃよ。
怖がることはない。やってみて騙されたと思ったら止めればいいだけじゃ。
151 :お翔:2006/09/21(木) 21:38:20 ID:soSE93RY
クリのいうように、自我を直接見ることが出来ればそれでいいのじゃが、
やはり普通の人間には難しいじゃろう。
じゃからわしは数息観を勧めるぞい。
これで集中力をつけるのじゃ。そして自我を観るのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に意識を集中し、おのれの息を数えるのじゃ。
吸う息は短く、吐く息は長く、1から十まで数えたら今度は十から1にへらすんじゃ。
152 :お翔:2006/09/22(金) 11:53:25 ID:lwoxOcAs
若い者にはいらいらする事もあるだろう。そんな時には一度止めて体を動かすのじゃ。
スポーツをやったり、太極拳をしたりして体を動かして少し疲れさせるのじゃ。
そして、いらいらがおさまったら又、一から始めるのじゃ。
154 :ばんこ:2006/09/23(土) 03:55:03 ID:TJ2dXZ5b
本当に、やることないから、やってみるよ。
先に聞くのはなんだけど、収穫あるのでしょうか?
息の仕方ねw・・・
では漸次、報告
155 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 04:12:01 ID:AWy4Awe9
持
156 :ばんこ:2006/09/23(土) 07:10:32 ID:TJ2dXZ5b
ただいま終了
随分すっきりしてありがたいけど
自我がみえるとか悟るとかいう様な様子はなし。
まあすっきりしていいのでしばらくやってみます。
158 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 11:24:07 ID:B9VFqtGL
自我を見つめているのは誰で、見つめられている対象の自我とは何なのですか?
どうか普通の人間には難しい、などと言わないでください。
それでは逆戻りです!
159 :お翔:2006/09/23(土) 19:06:30 ID:M8lB1JNa
おお、ばんこよ。早速修行に入るとは、偉いぞ。
もう、頭がすっきりしたと分かるとは、お主は筋がいい。
収穫は近いぞよ。そうじゃな、お主は筋がよいから、一週間続ければ自分でも落ち着きが
出てきたと分かるじゃろう。
2週間位すれば急に何か起こっても、慌てなくなる。不動心が身についてくるのじゃ。
この不動心は、人の上に立つ者には絶対に必要なのじゃ。不意の事件が起こっても
慌てなければ、部下も安心する。
たとえ悟りが得られなくとも、不動心を得ただけでも儲けものじゃよ。
頑張ればんこよ。
160 :お翔:2006/09/23(土) 19:32:13 ID:M8lB1JNa
>>158 なかなか良い質問じゃ。悟りというものの本質に迫る質問じゃ。
質問に答えてしまうのは簡単じゃが、この機会に少し心の仕組みという
ものを話しておこう。よいかな?
先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
そして見られている自我とは、イメージであり
言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。
何とも承服しがたい事じゃろう。
先ず>>158の質問、見るものは誰と聞いておる。何、ではなく、誰、と聞く。
これはまだ悟りを得ていない人間が、認識に自我を投影し、我が見ていると
いう観念を持っているからなのじゃ。
そして自我か゛認識を主宰し、自我なしでは動かないとの観念があるからな
のじゃ。
認識は自我がなくとも作動するのじゃ。
自我はお主の主体ではなく、お主自身でもなく、ただのイメージなのじゃ。
それが刺激に応じて、脳裏に浮かび上がってくるのを見るのじゃ。
わしの言葉で怖がることはないぞ。
いずれはお主も真実を追究していけば、ここに来るのじゃから。
お主も数息観をするのじゃ。
162 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 22:17:58 ID:B9VFqtGL
>先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
> そして見られている自我とは、イメージであり
> 言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。
言葉遊びがお好きですね!
認識作用とはなんですか?
辞書に書いてある意味を聞いているのではありません。
あなたのおっしゃっていることは
認識作用が自我イメージを見ている、
したがって認識作用が主で、
見られている自我が客と言っているようです。
言葉を変えただけではありませんか?
それでは依然として分離と葛藤から逃れることができません!
163 :お翔:2006/09/23(土) 23:28:01 ID:M8lB1JNa
>>162まずコテハンを付けるのじゃ。そして数息観をするんじゃ。
そうすればわしが何を言いたかったのか、分かるじゃろう。
認識と自我どちらも主ではない。わしは認識が主であると書いたかな?
主という言葉が出て来たのは、お主が未だ主客の観念に囚われているからじゃ。
どこかに主体がなければならない、そうせねば自我が拠り所を失う、その恐れが
主を作り出したのじゃ。
認識作用という言葉が分からなければ、お主が辞書を引けばよい。
正確な言葉を使わなければ、間違う者もいよう。じゃから少し難しくとも使わな
ければならんのじゃ。
最後の言葉はクリの言葉じゃな。なつかしいのう。
じゃがこんな所で使われてクリも泣いとるよ。
わしの教えは本来、修行者用なのじゃ。修行せん者には分かりはせんのじゃ。
お主が真面目に修行するなら、疑問にも答えよう。
しかし、論争がしたいのなら、もう知らん。
わしの師匠のお釈迦様も、論争は相手にせんじゃった。わしもそうする。
164 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 23:48:08 ID:B9VFqtGL
真理は道なき大地です
いかなる方法によってもそれに近づくことはできません。
自ら見出して下さい!
165 :お翔:2006/09/24(日) 09:18:49 ID:RpawbDVj
あんまりつれなくするのも可哀相じゃ。少し補足しとくかのう。
わしが自我も認識も主ではないと書いたのは、悟りの瞬間には本当にそのような
ことが起こるからじゃ。
主も客も無く、ただ自我が観照される瞬間があるのじゃ。
じゃからわしの書くのは純粋に修行者用なのじゃ。一般論ではないのじゃ。
一般論では見る者が主で、見られるのが客という論もなりたとう。
しかし、この特殊な状況ではそれがなりたたん。主も客も消え去る。
じゃからそれを知る為には修行するしかない。修行せん者には分からん。
わしが何を書いても、ただ論議がしたい者は言葉の一つを捉えて、それは
主だ、客だと言うじゃろう。
己の知識に振り回され、本当のチャンスを見逃してしまうのじゃ。
クリの奴も自分はヨーガのテクニックで悟りを得たのに、他人にはテクニック
を使うなという。
それが教義としては正しくとも、後に怠け者の言い訳に使われるようになって
しまったのじゃ。
本など捨てるのじゃ。
必要なものは全部、お主の心の中にある。数息観をするのじゃ。
心を止めて、ただ見るのじゃ。
172 :ばんこ:2006/09/25(月) 20:05:55 ID:CyUQpUip
数息観してると、ふーっと落ちるようで落ちきらない。
道元が心身脱落という言葉を残したのは知っているが、
心が落ちても、身がおちなかったり、その逆だったりする。
また、呼吸のコツがわかりだしたりすると、落ちるような”感覚”になる。
これはどう考えても心身脱落するのは無理っぽい。
それで、出てきたキーワードがやっぱり只管打座。
これはやったことがないのでまだ全然わからないのでやりがいがあるかもしれない。
それから、落語と禅は似てるように思う。落ちるのに、落とされるも
落ちるもないが、禅の場合心身脱落というように身”まで謡っている。
ふと今、身が落ちるわけないと、気づいて落ち込むわけだが、笑えない。
この辺が落語との違いかと思った次第である。
浮き沈みも飽きれば笑うこともない。w
177 :お翔:2006/09/25(月) 21:05:25 ID:LYCl+K3S
>>172おお、ばんこよ。たった三日でそこまで境地が進むとはたいしたものじゃ。
ずいぶん長い時間、修行しているようじゃな。偉いものじゃ。
そこまで進めば、日常でも落ち着きが出て来たと分かる位じゃろう。
今の時点で心身が落ちないと嘆く事はないぞよ。
少しずつ出来るようになってくるのじゃ。
例えば野球や水泳でも、最初からカーブが打てたり、1キロも泳げないじゃろ。
だんだんに修行を重ねるうちに、何でも出来るようになるのじゃ。
修行日記を付けると、自分がだんだんと進歩しているのが分かるぞい。
まあ、このスレを日記代わりでも良いがの。
さて、慣れてくるとだんだん雑念が出て来たりするじゃろう。
そんな時は雑念をスルーするのじゃ。ぜんぜん構わずにただ呼吸に意識を
戻すのじゃ。そうすれば雑念は自然に消えていくじゃろう。
今日はこの位でいいかな?
183 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:10:33 ID:rgjnea4o
興奮してたりまた逆に立ち呆けたりすると、まあ座れと言われたり、
言ってみたりするもんだけど、なかなか自分でやらない。
あ、座ってみようとは思わない。おなじく、小言の言い合いのあげく、
胸に手を当てて考えてみろなんて言ったり言われたりするもんだけど、
なかなか自分でやらない。数息観もまあ、それによく似たもんだと少しや
って思ったよ。とにかく、人は切のつかないことは、皆一様にやりたがら
ない。前職では延々と重い袋担がされて、自分でゴミかたづけて、これが
ずっと続くだけだと思ったら、イヤでたまらなくなってやめたけど、
数息観もまた、おなじことだと思ったよ。切は自分でつければいいとね。
いやなことをやりつづけなきゃいけない、世の中において、これは個人的
にはひとつの展望と成り得たよ。いやなことやり続けなきゃいけない理由は
ないわけだしね。
インドなんかじゃ、カーストが根深いけど、切のないことやり続けなきゃ
いけない人は、やりつづけるし、そういうのを悟りがないとするひとはそう
理解しつづけるし・・・・
結局なにやっても、すべては永遠だし、きりのないことだと思うよ。
kもそのようにしたし、またKを信望する人たちもみな、ないものはないと
はっきり言い続けなきゃいけない。ところがkのいた協会はあれは禅だみたいな
ことでまとめようとしている。
もうちょっと降りてくるひとがいてもいいんじゃない?
と世の中的には思う。
184 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:26:05 ID:rgjnea4o
一言いってもいいかな?
「矛盾に満ちた世界を笑うつもりはない」ということだよ。
186 :お翔:2006/09/27(水) 21:13:20 ID:gEj6S4Ky
おやおや、ばんこよ。少し疲れてしまったようじゃな。あまり長い時間やりすぎた
のじゃろう。
最初に言っておくべきだったかもしれんが、たまに長い時間やるより、少しずでも
毎日続けたほうがいいんじゃ。例えば寝る前の五分間、三往復するぐらいでも、いい
んじゃ。毎日やっていれば、その位でも、確実に進歩する。
睡眠薬がわりに、寝つきがよくなるからやっていると自分にいいきかせて、己をコ
ントロールするんじゃ。コントロールと強制は違うのじゃ。
自分に強制する必要は、勿論ない。ただ自分が決めたことを、やり易いように、自
分の心をなだめ、操縦するのじゃ。それにはたまには息抜きも必要じゃ。
自分こそが自分の主人であり、感情が主人ではないと言う所を見せつけるのじゃ。
その経験はこれから多いに役立つ事じゃろう。
189 :ばんこ:2006/09/28(木) 18:40:27 ID:xZNdXTDw
言われるとおり寝つきもよくなったし、動く気もなかったのが
また動けるようになってきた。自律神経と呼吸はやっぱり関係ある
のかな?まあとりあえずお礼申し上げる。謝礼はないよw。
また運動でもはじめるか・・・運動と数息でしばらく過ごすことにした。
今の体力では、ちとまだ働けん・・・
193 :お翔:2006/09/29(金) 12:31:46 ID:XaO/UwXB
おお、ばんこよ。謝礼などいいんじゃ。お主の成長がわしの何よりの謝礼じゃよ。
たしかにお主の言うとおり、数息観は副交感神経の働きを良くするとか、学者が
言っておった。
まあ、理屈はともかく体にも、心にも良い事は間違いない。
不動心がそろそろ身について来た事じゃろう。
真面目に行に励む者は1日1日と成長していくものじゃ。
206 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:17:00 ID:cvH0VQwz
過剰になった自意識を減らすには、現象の問題よりは、原理の問題に
目を向けなければいけないようだ。なぜ細胞は分裂するのかと問うたら
それは太古の昔からそうしてきたと答える以外ないのであって、現象を
問うても仕方がない、むしろ原理の問題だ。原理をしりたければ、大悟
一発という気持ちでうん!とひねり出す以外ないようだ。直感は他意識
よりやってきて、自分をたすけるものだが、この他意識というのが味噌で
いっぱいありすぎたんじゃ心が忙しくて仕方ない。しまいには窒息して
しまう。得てして自分に必要なものをみつけるまでに徒労を費やすことに
なるだろう。大本に立ち返る術は自分で身につけなければしょうがない。
俺は呼吸というものに直感を得、数息という術を教えてもらった。
207 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:22:36 ID:cvH0VQwz
よっていいものだったので、皆に勧める。
オリジナリティや旗色というものは勝手にでるものだからである。
やりかたはこのスレの上に、”書いてある”w
208 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:31:59 ID:cvH0VQwz
直感には上等なものと下等なものがやっぱりあってw
それは個々人によって判断される以外ないんだ。終わり。
209 :お翔:2006/10/02(月) 14:08:19 ID:mgWOpFOP
うむうむ ばんこよ。人に教えるのはいいことじゃ。
ハートのラブでおしえるの。とエディさんも言っておった。
簡単なことを一つずつおしえるの。とも言うておった。
お主のように自分が修行し、体で確かめたものこそ、他人に教えられる。
本から得た知識などは、そのままではただの雑念に過ぎぬ。
出来ればこれからも、そして悟りを得た後も、多くの者に役立つ技を教えてあげなさい。
228 :ばんこ:2006/10/04(水) 20:21:45 ID:rZTiKSuJ
そもそも、体と心は一体だ。
禅を問う前に、医者にいく手もある。
医者に行くほどでもなけりゃ、生活を全面的に工夫しなければならない。
健康な人が勝つに決まっている。無論勝ち負けだけじゃないが・・・
社会や、自然や、その他もろもろ問うてもしょうがないこともある。
病の始まりだ。胸がフルフルwするんだ。不整脈の気があるといわれていた。
心音がやたら気になる。いてもたってもいられなくなってくる。
医者はあまり好きではないが医者に明日行くことにした。
皆さんのクリシュナムルティ読書会が社会にかたむくか、個人に傾くか
それはわからない。教えてやろうとすると教えられるこれひとつの智慧だよ。w
まあ真剣にやってくれ!笑
232 :ばんこ:2006/10/05(木) 13:26:34 ID:hshuYP5Y
クリシュナムルティのことを救世主としてみる動きがあるようだが、
それはどうなのだろう?確かに生きている人ではありがたくないと
いうのはあるかもしれない。しかし、現に深くただただ息づいているひとが
あるということを感じることがありがたいということもあるだろう。
しかし、そういったことを超えて、一本の木を正確にみるということは
彼のいうとおり、人生の中で最もむづかしいことの一つなんである。
木のように深くただ息づくということはむづかしいんである。
私の結論としては、人工呼吸器だけはつけて欲しくないし、つけられたく
ないんである。
233 :お翔:2006/10/05(木) 19:38:04 ID:l8eiE0jZ
ああ ばんこよ。勉強にせいだしているようじゃな。感心なことじゃ。
それだけクリの本を読んでいるなら、もう次の段階に行ってもいいじゃろう。
これからわしの最後の教えに入る。といっても最初から二つしかなかったんじゃ。
その二つとは止と観 心を止めること、そして観察する事の二つじゃ。
普通の人間はやはり心を止めなければ、観察は難しい。
やさしい事から一つ一つ学んで行かなければ、観察は身につかないものじゃ。
さあ、ばんこよ。観察の最初の一歩を聞くのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような
物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほ
ど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
234 :お翔:2006/10/05(木) 19:51:09 ID:l8eiE0jZ
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたお主はどうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず
ただやり過ごして、観察に戻る。そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
235 :お翔:2006/10/05(木) 20:09:28 ID:l8eiE0jZ
そのように観察を続けていけば、やがて目の前の世界が、急に輝くような感じになる
ことがある。今まで知っていたものが、突然見知らぬ新しいものになったかのような、
新鮮な感覚が蘇るのじゃ。それは無心な観察眼、赤子の眼が芽生えたのじゃ。
ここまでくれば、漸くクリの言葉が判るようになるじゃろう。
クリの教えは元々大学生の勉強を、何も知らぬ幼稚園生に教えていたようなものじゃ。
クリ自身は子どもの頃からヨーガを習い、観察にも瞑想にも熟練しておった。
だから他人もそうじゃと思っていたのじゃろう。
普通の者は止と観の行をして漸く、彼の言葉が判るようになるのじゃ。
さあ、クリのいうように、何も知らぬ赤子の眼で観察するのじゃ。
こんどは外の対象から自分自身を対象にするのじゃ。
236 :お翔:2006/10/05(木) 20:30:52 ID:l8eiE0jZ
最初は体を、腕や足から始めて全身を、そして感覚、思考、感情、意志、認識を
観察して行くんじゃ。このどれかにお主は自我を投射しているじゃろう。
それが観察できた時、自我は消える。
更に自我が消えた後、見ている認識が残っている。それすらも観察した時、もはや言葉で
表す事の出来ぬ、大悟徹底の境地に至るのじゃ。
さあ、ばんこよ。そして皆も、心を止め、恐れずに観察するんじゃ。
悟りはいずれ向こうからやってくる。クリの本もoshoの本も役立つじゃろう。
しかし、一番大切なのはやる気じゃ。諦めてはいけぬ、必ずできると思うのじゃ。
わしの教えはこれで終わりじゃ。さらばじゃ、ばんこよ。
縁があれば又合おうぞ。さらばじゃ。
まあ聞いてくれ。大愚は大賢に通ず、とも言うからな。
クリシュナムルティだとかグルジェフだとか、oshoだとか、
何読んでも一緒さ。夢中で読んでるときは呼吸が浅くなってるし、
脳の酸素濃度も薄いわね。それは脳にとって心地よいことさ。
しかしその快楽にずっとながされて脳が機能しつづけているとよくないよな。
新鮮な空気吸って覚醒すれば全てたわごとよ。しかしよ、新鮮な空気吸って
覚醒ばっかりしててもしんどいわな。それがよ、自然なリズムでできてるうち
はええよ。しかし、社会の要請やらなんやらで年食えばだれでも少しずつ狂って
くるわ。呆けとったら。それを直そうと思ったら、運動とか体操とか瞑想とか
したらええというのは完全な嘘や。一生続けてもあんまし意味ない。
脳は多少、低酸素で耄碌してるぐらいのほうが快楽物質がでてきもちええんや。
だから、それでいい。しかし何かしら気づくときがある。そのとき、自分の
意思でそれこそ好きなだけ呼吸したらいい。今まさに自分が気づいたから言ってる
だけやで。脳波が覚醒する手前の印象が、固定化されてくるとだいたい悩みの種に
なるんや。覚醒のインパルスの前に悩んで多様なことが壁になってくるわけよ。
しかし、悩みなんて脳の快楽を生んでいきすぎた状態だから、ということは
悩みは脳に快楽を生み出しているわけだから、自分の意思でやめようたって
やめれない。だから自分の気づいたとき、悟ったときだけ自分の意思で呼吸すればいいと
いうかそれだけいい。それ以外はまた思考を生み出すだけだからさ。
最近、耄碌と覚醒を繰り返してて気づいたから友達とおもって書いてやってるよw
自然に逆らえるのはそれくらいだよ。快楽主義でも成功すると思うで。
あはは。全力疾走してるほうが心臓が楽なぐらいのときもあった私の
言うことです。まちがいないわ。
何言うてるのかわからへんかったらそのままどうぞw
では熱く、クリシュナムルティとかグルジエフとかoshoとか語ってください。
でもさ、真剣に人の話聞くときは、大体覚醒と耄碌のベクトルでいえば、
耄碌のほうにすすんでるよ。息殺して低酸素で聞くでしょ。w
余談だけど、高山なんかでは、もともと低酸素だから頂上着いて騒いだり
するとよくないみたいね。しかし、残念だったな~~
138 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:19:29 ID:GFceyxAg
悩んで多様な→なやんでいたような
142 :ばんこ:2006/09/19(火) 20:50:19 ID:GFceyxAg
137の中ほどは
一生続けても意味がないじゃなくて
一生続けないと意味がないか。ははは
149 :ばんこ:2006/09/19(火) 22:36:14 ID:GFceyxAg
グルジェフ恐ろしく難解だなぁ~
すこしぐらいわかるんでしょ?
150 :お翔:2006/09/21(木) 11:51:29 ID:soSE93RY
ばんこよ。良く勉強しているようじゃな。感心感心。
これからは己の心を観る修行をしなさい。
わしが指導してやろう。
まあ 嫌ならいいんじゃが。
おぬしにとっては、千世に一度のチャンスじゃよ。
怖がることはない。やってみて騙されたと思ったら止めればいいだけじゃ。
151 :お翔:2006/09/21(木) 21:38:20 ID:soSE93RY
クリのいうように、自我を直接見ることが出来ればそれでいいのじゃが、
やはり普通の人間には難しいじゃろう。
じゃからわしは数息観を勧めるぞい。
これで集中力をつけるのじゃ。そして自我を観るのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に意識を集中し、おのれの息を数えるのじゃ。
吸う息は短く、吐く息は長く、1から十まで数えたら今度は十から1にへらすんじゃ。
152 :お翔:2006/09/22(金) 11:53:25 ID:lwoxOcAs
若い者にはいらいらする事もあるだろう。そんな時には一度止めて体を動かすのじゃ。
スポーツをやったり、太極拳をしたりして体を動かして少し疲れさせるのじゃ。
そして、いらいらがおさまったら又、一から始めるのじゃ。
154 :ばんこ:2006/09/23(土) 03:55:03 ID:TJ2dXZ5b
本当に、やることないから、やってみるよ。
先に聞くのはなんだけど、収穫あるのでしょうか?
息の仕方ねw・・・
では漸次、報告
155 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 04:12:01 ID:AWy4Awe9
持
156 :ばんこ:2006/09/23(土) 07:10:32 ID:TJ2dXZ5b
ただいま終了
随分すっきりしてありがたいけど
自我がみえるとか悟るとかいう様な様子はなし。
まあすっきりしていいのでしばらくやってみます。
158 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 11:24:07 ID:B9VFqtGL
自我を見つめているのは誰で、見つめられている対象の自我とは何なのですか?
どうか普通の人間には難しい、などと言わないでください。
それでは逆戻りです!
159 :お翔:2006/09/23(土) 19:06:30 ID:M8lB1JNa
おお、ばんこよ。早速修行に入るとは、偉いぞ。
もう、頭がすっきりしたと分かるとは、お主は筋がいい。
収穫は近いぞよ。そうじゃな、お主は筋がよいから、一週間続ければ自分でも落ち着きが
出てきたと分かるじゃろう。
2週間位すれば急に何か起こっても、慌てなくなる。不動心が身についてくるのじゃ。
この不動心は、人の上に立つ者には絶対に必要なのじゃ。不意の事件が起こっても
慌てなければ、部下も安心する。
たとえ悟りが得られなくとも、不動心を得ただけでも儲けものじゃよ。
頑張ればんこよ。
160 :お翔:2006/09/23(土) 19:32:13 ID:M8lB1JNa
>>158 なかなか良い質問じゃ。悟りというものの本質に迫る質問じゃ。
質問に答えてしまうのは簡単じゃが、この機会に少し心の仕組みという
ものを話しておこう。よいかな?
先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
そして見られている自我とは、イメージであり
言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。
何とも承服しがたい事じゃろう。
先ず>>158の質問、見るものは誰と聞いておる。何、ではなく、誰、と聞く。
これはまだ悟りを得ていない人間が、認識に自我を投影し、我が見ていると
いう観念を持っているからなのじゃ。
そして自我か゛認識を主宰し、自我なしでは動かないとの観念があるからな
のじゃ。
認識は自我がなくとも作動するのじゃ。
自我はお主の主体ではなく、お主自身でもなく、ただのイメージなのじゃ。
それが刺激に応じて、脳裏に浮かび上がってくるのを見るのじゃ。
わしの言葉で怖がることはないぞ。
いずれはお主も真実を追究していけば、ここに来るのじゃから。
お主も数息観をするのじゃ。
162 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 22:17:58 ID:B9VFqtGL
>先ず質問の答えじゃ。自我を見つめているのは、認識作用じゃ。
> そして見られている自我とは、イメージであり
> 言葉であり、観念に過ぎないのじゃ。
言葉遊びがお好きですね!
認識作用とはなんですか?
辞書に書いてある意味を聞いているのではありません。
あなたのおっしゃっていることは
認識作用が自我イメージを見ている、
したがって認識作用が主で、
見られている自我が客と言っているようです。
言葉を変えただけではありませんか?
それでは依然として分離と葛藤から逃れることができません!
163 :お翔:2006/09/23(土) 23:28:01 ID:M8lB1JNa
>>162まずコテハンを付けるのじゃ。そして数息観をするんじゃ。
そうすればわしが何を言いたかったのか、分かるじゃろう。
認識と自我どちらも主ではない。わしは認識が主であると書いたかな?
主という言葉が出て来たのは、お主が未だ主客の観念に囚われているからじゃ。
どこかに主体がなければならない、そうせねば自我が拠り所を失う、その恐れが
主を作り出したのじゃ。
認識作用という言葉が分からなければ、お主が辞書を引けばよい。
正確な言葉を使わなければ、間違う者もいよう。じゃから少し難しくとも使わな
ければならんのじゃ。
最後の言葉はクリの言葉じゃな。なつかしいのう。
じゃがこんな所で使われてクリも泣いとるよ。
わしの教えは本来、修行者用なのじゃ。修行せん者には分かりはせんのじゃ。
お主が真面目に修行するなら、疑問にも答えよう。
しかし、論争がしたいのなら、もう知らん。
わしの師匠のお釈迦様も、論争は相手にせんじゃった。わしもそうする。
164 :名無しさん@3周年:2006/09/23(土) 23:48:08 ID:B9VFqtGL
真理は道なき大地です
いかなる方法によってもそれに近づくことはできません。
自ら見出して下さい!
165 :お翔:2006/09/24(日) 09:18:49 ID:RpawbDVj
あんまりつれなくするのも可哀相じゃ。少し補足しとくかのう。
わしが自我も認識も主ではないと書いたのは、悟りの瞬間には本当にそのような
ことが起こるからじゃ。
主も客も無く、ただ自我が観照される瞬間があるのじゃ。
じゃからわしの書くのは純粋に修行者用なのじゃ。一般論ではないのじゃ。
一般論では見る者が主で、見られるのが客という論もなりたとう。
しかし、この特殊な状況ではそれがなりたたん。主も客も消え去る。
じゃからそれを知る為には修行するしかない。修行せん者には分からん。
わしが何を書いても、ただ論議がしたい者は言葉の一つを捉えて、それは
主だ、客だと言うじゃろう。
己の知識に振り回され、本当のチャンスを見逃してしまうのじゃ。
クリの奴も自分はヨーガのテクニックで悟りを得たのに、他人にはテクニック
を使うなという。
それが教義としては正しくとも、後に怠け者の言い訳に使われるようになって
しまったのじゃ。
本など捨てるのじゃ。
必要なものは全部、お主の心の中にある。数息観をするのじゃ。
心を止めて、ただ見るのじゃ。
172 :ばんこ:2006/09/25(月) 20:05:55 ID:CyUQpUip
数息観してると、ふーっと落ちるようで落ちきらない。
道元が心身脱落という言葉を残したのは知っているが、
心が落ちても、身がおちなかったり、その逆だったりする。
また、呼吸のコツがわかりだしたりすると、落ちるような”感覚”になる。
これはどう考えても心身脱落するのは無理っぽい。
それで、出てきたキーワードがやっぱり只管打座。
これはやったことがないのでまだ全然わからないのでやりがいがあるかもしれない。
それから、落語と禅は似てるように思う。落ちるのに、落とされるも
落ちるもないが、禅の場合心身脱落というように身”まで謡っている。
ふと今、身が落ちるわけないと、気づいて落ち込むわけだが、笑えない。
この辺が落語との違いかと思った次第である。
浮き沈みも飽きれば笑うこともない。w
177 :お翔:2006/09/25(月) 21:05:25 ID:LYCl+K3S
>>172おお、ばんこよ。たった三日でそこまで境地が進むとはたいしたものじゃ。
ずいぶん長い時間、修行しているようじゃな。偉いものじゃ。
そこまで進めば、日常でも落ち着きが出て来たと分かる位じゃろう。
今の時点で心身が落ちないと嘆く事はないぞよ。
少しずつ出来るようになってくるのじゃ。
例えば野球や水泳でも、最初からカーブが打てたり、1キロも泳げないじゃろ。
だんだんに修行を重ねるうちに、何でも出来るようになるのじゃ。
修行日記を付けると、自分がだんだんと進歩しているのが分かるぞい。
まあ、このスレを日記代わりでも良いがの。
さて、慣れてくるとだんだん雑念が出て来たりするじゃろう。
そんな時は雑念をスルーするのじゃ。ぜんぜん構わずにただ呼吸に意識を
戻すのじゃ。そうすれば雑念は自然に消えていくじゃろう。
今日はこの位でいいかな?
183 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:10:33 ID:rgjnea4o
興奮してたりまた逆に立ち呆けたりすると、まあ座れと言われたり、
言ってみたりするもんだけど、なかなか自分でやらない。
あ、座ってみようとは思わない。おなじく、小言の言い合いのあげく、
胸に手を当てて考えてみろなんて言ったり言われたりするもんだけど、
なかなか自分でやらない。数息観もまあ、それによく似たもんだと少しや
って思ったよ。とにかく、人は切のつかないことは、皆一様にやりたがら
ない。前職では延々と重い袋担がされて、自分でゴミかたづけて、これが
ずっと続くだけだと思ったら、イヤでたまらなくなってやめたけど、
数息観もまた、おなじことだと思ったよ。切は自分でつければいいとね。
いやなことをやりつづけなきゃいけない、世の中において、これは個人的
にはひとつの展望と成り得たよ。いやなことやり続けなきゃいけない理由は
ないわけだしね。
インドなんかじゃ、カーストが根深いけど、切のないことやり続けなきゃ
いけない人は、やりつづけるし、そういうのを悟りがないとするひとはそう
理解しつづけるし・・・・
結局なにやっても、すべては永遠だし、きりのないことだと思うよ。
kもそのようにしたし、またKを信望する人たちもみな、ないものはないと
はっきり言い続けなきゃいけない。ところがkのいた協会はあれは禅だみたいな
ことでまとめようとしている。
もうちょっと降りてくるひとがいてもいいんじゃない?
と世の中的には思う。
184 :ばんこ:2006/09/27(水) 11:26:05 ID:rgjnea4o
一言いってもいいかな?
「矛盾に満ちた世界を笑うつもりはない」ということだよ。
186 :お翔:2006/09/27(水) 21:13:20 ID:gEj6S4Ky
おやおや、ばんこよ。少し疲れてしまったようじゃな。あまり長い時間やりすぎた
のじゃろう。
最初に言っておくべきだったかもしれんが、たまに長い時間やるより、少しずでも
毎日続けたほうがいいんじゃ。例えば寝る前の五分間、三往復するぐらいでも、いい
んじゃ。毎日やっていれば、その位でも、確実に進歩する。
睡眠薬がわりに、寝つきがよくなるからやっていると自分にいいきかせて、己をコ
ントロールするんじゃ。コントロールと強制は違うのじゃ。
自分に強制する必要は、勿論ない。ただ自分が決めたことを、やり易いように、自
分の心をなだめ、操縦するのじゃ。それにはたまには息抜きも必要じゃ。
自分こそが自分の主人であり、感情が主人ではないと言う所を見せつけるのじゃ。
その経験はこれから多いに役立つ事じゃろう。
189 :ばんこ:2006/09/28(木) 18:40:27 ID:xZNdXTDw
言われるとおり寝つきもよくなったし、動く気もなかったのが
また動けるようになってきた。自律神経と呼吸はやっぱり関係ある
のかな?まあとりあえずお礼申し上げる。謝礼はないよw。
また運動でもはじめるか・・・運動と数息でしばらく過ごすことにした。
今の体力では、ちとまだ働けん・・・
193 :お翔:2006/09/29(金) 12:31:46 ID:XaO/UwXB
おお、ばんこよ。謝礼などいいんじゃ。お主の成長がわしの何よりの謝礼じゃよ。
たしかにお主の言うとおり、数息観は副交感神経の働きを良くするとか、学者が
言っておった。
まあ、理屈はともかく体にも、心にも良い事は間違いない。
不動心がそろそろ身について来た事じゃろう。
真面目に行に励む者は1日1日と成長していくものじゃ。
206 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:17:00 ID:cvH0VQwz
過剰になった自意識を減らすには、現象の問題よりは、原理の問題に
目を向けなければいけないようだ。なぜ細胞は分裂するのかと問うたら
それは太古の昔からそうしてきたと答える以外ないのであって、現象を
問うても仕方がない、むしろ原理の問題だ。原理をしりたければ、大悟
一発という気持ちでうん!とひねり出す以外ないようだ。直感は他意識
よりやってきて、自分をたすけるものだが、この他意識というのが味噌で
いっぱいありすぎたんじゃ心が忙しくて仕方ない。しまいには窒息して
しまう。得てして自分に必要なものをみつけるまでに徒労を費やすことに
なるだろう。大本に立ち返る術は自分で身につけなければしょうがない。
俺は呼吸というものに直感を得、数息という術を教えてもらった。
207 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:22:36 ID:cvH0VQwz
よっていいものだったので、皆に勧める。
オリジナリティや旗色というものは勝手にでるものだからである。
やりかたはこのスレの上に、”書いてある”w
208 :ばんこ:2006/10/01(日) 10:31:59 ID:cvH0VQwz
直感には上等なものと下等なものがやっぱりあってw
それは個々人によって判断される以外ないんだ。終わり。
209 :お翔:2006/10/02(月) 14:08:19 ID:mgWOpFOP
うむうむ ばんこよ。人に教えるのはいいことじゃ。
ハートのラブでおしえるの。とエディさんも言っておった。
簡単なことを一つずつおしえるの。とも言うておった。
お主のように自分が修行し、体で確かめたものこそ、他人に教えられる。
本から得た知識などは、そのままではただの雑念に過ぎぬ。
出来ればこれからも、そして悟りを得た後も、多くの者に役立つ技を教えてあげなさい。
228 :ばんこ:2006/10/04(水) 20:21:45 ID:rZTiKSuJ
そもそも、体と心は一体だ。
禅を問う前に、医者にいく手もある。
医者に行くほどでもなけりゃ、生活を全面的に工夫しなければならない。
健康な人が勝つに決まっている。無論勝ち負けだけじゃないが・・・
社会や、自然や、その他もろもろ問うてもしょうがないこともある。
病の始まりだ。胸がフルフルwするんだ。不整脈の気があるといわれていた。
心音がやたら気になる。いてもたってもいられなくなってくる。
医者はあまり好きではないが医者に明日行くことにした。
皆さんのクリシュナムルティ読書会が社会にかたむくか、個人に傾くか
それはわからない。教えてやろうとすると教えられるこれひとつの智慧だよ。w
まあ真剣にやってくれ!笑
232 :ばんこ:2006/10/05(木) 13:26:34 ID:hshuYP5Y
クリシュナムルティのことを救世主としてみる動きがあるようだが、
それはどうなのだろう?確かに生きている人ではありがたくないと
いうのはあるかもしれない。しかし、現に深くただただ息づいているひとが
あるということを感じることがありがたいということもあるだろう。
しかし、そういったことを超えて、一本の木を正確にみるということは
彼のいうとおり、人生の中で最もむづかしいことの一つなんである。
木のように深くただ息づくということはむづかしいんである。
私の結論としては、人工呼吸器だけはつけて欲しくないし、つけられたく
ないんである。
233 :お翔:2006/10/05(木) 19:38:04 ID:l8eiE0jZ
ああ ばんこよ。勉強にせいだしているようじゃな。感心なことじゃ。
それだけクリの本を読んでいるなら、もう次の段階に行ってもいいじゃろう。
これからわしの最後の教えに入る。といっても最初から二つしかなかったんじゃ。
その二つとは止と観 心を止めること、そして観察する事の二つじゃ。
普通の人間はやはり心を止めなければ、観察は難しい。
やさしい事から一つ一つ学んで行かなければ、観察は身につかないものじゃ。
さあ、ばんこよ。観察の最初の一歩を聞くのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような
物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほ
ど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
234 :お翔:2006/10/05(木) 19:51:09 ID:l8eiE0jZ
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたお主はどうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず
ただやり過ごして、観察に戻る。そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
235 :お翔:2006/10/05(木) 20:09:28 ID:l8eiE0jZ
そのように観察を続けていけば、やがて目の前の世界が、急に輝くような感じになる
ことがある。今まで知っていたものが、突然見知らぬ新しいものになったかのような、
新鮮な感覚が蘇るのじゃ。それは無心な観察眼、赤子の眼が芽生えたのじゃ。
ここまでくれば、漸くクリの言葉が判るようになるじゃろう。
クリの教えは元々大学生の勉強を、何も知らぬ幼稚園生に教えていたようなものじゃ。
クリ自身は子どもの頃からヨーガを習い、観察にも瞑想にも熟練しておった。
だから他人もそうじゃと思っていたのじゃろう。
普通の者は止と観の行をして漸く、彼の言葉が判るようになるのじゃ。
さあ、クリのいうように、何も知らぬ赤子の眼で観察するのじゃ。
こんどは外の対象から自分自身を対象にするのじゃ。
236 :お翔:2006/10/05(木) 20:30:52 ID:l8eiE0jZ
最初は体を、腕や足から始めて全身を、そして感覚、思考、感情、意志、認識を
観察して行くんじゃ。このどれかにお主は自我を投射しているじゃろう。
それが観察できた時、自我は消える。
更に自我が消えた後、見ている認識が残っている。それすらも観察した時、もはや言葉で
表す事の出来ぬ、大悟徹底の境地に至るのじゃ。
さあ、ばんこよ。そして皆も、心を止め、恐れずに観察するんじゃ。
悟りはいずれ向こうからやってくる。クリの本もoshoの本も役立つじゃろう。
しかし、一番大切なのはやる気じゃ。諦めてはいけぬ、必ずできると思うのじゃ。
わしの教えはこれで終わりじゃ。さらばじゃ、ばんこよ。
縁があれば又合おうぞ。さらばじゃ。
631 :自在:2007/03/01(木) 21:40:32 ID:NObbqZZo
観察
心を止める数息観で、雑念を処理することが出来るようになったなら、そろそろ観察を行ってもよい。
観察をしながらも数息観は続けていくべきであろう。
数息観によって集中力を養いながら、観察もしていくと、成長は早い。
観察は初心の者がいきなり心の中をみるというのは困難である。
故に肉体などの外から内へ、粗大なものから繊細なものへと観察していくのが判りやすい道だ。
そうすることによって観察するということも学ぶことが出来る。
まず数息観を行い、雑念が無く、集中力が増した状態で、あなたの手を観察してみなさい。
初心の者は心の中で言葉にして観察してみるのもよい。
手や指という言葉を使わずに表現してみるのだ。
「これには五本の突起がある。それには曲がるための皺がある。先の方には固いものが覆っている・・・」
などというように判りきっているようなことでもよいから、出来る限り細かく、詳しく観察していく。
そのように観察していると雑念が起こるが、数息観によって雑念の処理が出来る者にはすでにそれは邪魔にはならないはずだ。
例えば手にキズなどがあり、それを見て「このキズは子供の頃、車に轢かれたキズだ。あの時は大変だった・・・」などと考えてしまうのが雑念である。
観察は今、ここにある物だけを純粋に見つめる行為だ。
雑念と観察は明確に区別して修行を行わなければならない。
632 :自在:2007/03/02(金) 21:38:02 ID:lF1a/kYP
観察Ⅱ
手の観察を真面目に行えば恐らく注意力のある者は、その力に驚くだろう。
ただ手を観察するというだけでも、大きな効果が得られる。
それがどんな効果なのか、自ら確かめていただきたい。
手からはじまった観察は腕、肩、体、足、頭、顔、そして眼に進んで行く。
鏡を使って顔や、眼を観察するのも良い。
肉体の全てを観察し終えたとき、ある資質を持つ者は、既に自我の脱却を果たしているかも知れない。
そのときは慌てずに>>543を思い出して、認識の脱落を目指して欲しい。
肉体の観察が終わっても自我を滅し切れない者は、続いて感覚、感情、思考、意志、認識の観察に進んでいただきたい。
この違いはただ自我を何に同一化しているか、という違いに過ぎないので、修行者は余計な劣等感、優越感を持たずに修行に専念すべきであろう。
635 :自在:2007/03/03(土) 21:12:51 ID:/ASh5eSa
観照
この辺で観照について書いておかねばなるまい。
観照は観察の一種ではある。
しかし、通常の観察と違うところは以下の二点にある。
Ⅰ 意識的にではなく、無意識的に行われる。
Ⅱ それは観察者そのものを観察する。
これをまとめると、観照とは無意識的に観察者を観察する行為であると言えよう。
これは言葉にすると難しいが、実際には多くの者が大なり小なり経験している。
例えば旅行などに行った時、今まで悩んでいて結論が出せなかった問題が、状況を離れて自分自身をも客観的に観察した結果、結論を出すことが出来たというようなものでも、小規模だが観照の一種といえよう。
このような場合でも自分を客観的にみようとするのではなく、無意識的に頭に浮かんだ自分自身を含む状況を客観的に見ることによって観照はできる。
前述のように自分を客観的に観察しようとすればするほど、かえって自我の介入を招いてしまうので観照は困難となる。
しかし、この観照を起こしやすくするのは、やはり観察を続けることなのだ。
観察を続けることによって、いずれ無意識のうちにも観察が働くようになるだろう。
そしてその観察が自我に向かった時、観照は起こる。
その時まで、あきらめることなく精進していただきたい。
637 :自在:2007/03/04(日) 21:44:30 ID:RVjQe+sN
観察 感覚の観察
感覚を観察するのには、長く響く鐘の音などを聞く方法が良く使われる。
集中力を保ったまま、聴覚を観察できる良い方法だ。
まず、出来るだけ長く響く鐘を用意する。
パソコンなどの音でもよい。
自分で叩かなくとも、定期的に音が鳴るようにするのが理想的だ。
肉体の観察と同じように、数息観を行い、集中した状態で鐘の音を聞く。
その時、音、音に反応する耳、耳からの刺激によって起こる心の動きなどを詳細に観察していく。
その他の視覚、触覚、臭覚、味覚なども、大体同じように、感覚の対象、感覚器、感覚主体を観察する。
各自工夫して観察していただきたい。
638 :自在:2007/03/05(月) 22:41:16 ID:GrQKU+dw
観察 感情の観察
観察もこの辺りから困難になってくるであろう。
感情を観察するという行為そのものに、強い反発を感じる者もいるだろう。
その反発自体が、感情を自己と同一化しているせいなのだが、感情の満足を求めて今までの人生を過ごしてきた者にとっては、感情の観察は人生の目的をも破壊されるような感覚を受ける。
その他にも感情を心に起こし、それを観察する間もなく、感情に引きずられてしまう者もいるだろう。
このような時こそ、己が何故、悟りを得ようと決意したのかを思いだし、発菩提心を発揮して集中して修行していただきたい。
感情の観察では心の中にある感情を引き出し、それを観察する。
喜怒哀楽といった感情を呼び覚ますのだが、過去の記憶を思いだし、感情に流されないようにしながら、今の反応を観察するというむずかしいことをしなければならない。
初心の内は悲しみや喜びというような穏やかな感情から、観察をしたほうがいいだろう。
精進していただきたい。
642 :自在:2007/03/06(火) 21:38:28 ID:mX2dh3RZ
観察 思考の観察
思考を観察するのは数息観で行った、雑念の処理を無視するのではなく、見守るかたちにすればできる。
生じては消えていく思考を、ただ見守る。
そこに批判や意見は付け加えてはならない。
ただそれが生じては消えていくさまを見続ける。
思考の対象、思考という行為、思考する主体を見る。
それがどこから起きて、どのような作用を及ぼすのか、詳細に見つづけて欲しい。
643 :自在:2007/03/06(火) 21:48:26 ID:mX2dh3RZ
自我の同一化
この辺で自我の同一化について書いておく。
体や感覚、感情、思考、意志、認識などのどの部分に自我を同一化しているのかは、人によってかなり違う。
ある者は自分を感情と同一であると感じ、他の者は思考こそが自分自身であると考えている。
われ思う、故にわれ在りと言葉を残した古代の哲人は、その思考に自分を同化していたのだ。
私自身は認識に自分を同化していたと、悟りを得てから判った。
あなたの自我がどの部分に同一化しているかは、あなた自身が探り出さねばならない。
一度それがわかったら、それをみるだけで、自我の離脱がはじまる。
精進していただきたい。
645 :自在:2007/03/09(金) 20:37:18 ID:BbmCJd7H
観察 意志と認識
この意志と認識の観察からは特に難しくなってくる。
この二つはすでに表層の意識をはなれ、潜在意識の部分で働いているからだ。
人間が何かを認識し、選択して意志を発動させるまでの動きは、殆どが潜在意識で決定されている。
認識から意志決定に至るまでの心の動きを観察するのは。非常に困難なことだ。
その原因は早さにもある。
人が例えばリンゴなどを認識すれば、瞬時にそれがリンゴであり、リンゴという名前やリンゴに間しての記憶が蘇る。
その過程を観察するのは非常に強い集中力が必要となる。
真の悟りを得ようとする者は、行住坐臥の全てにおいて己の心を見守り、修行に専念すべきであろう。
これで私の教えは終わりだ。
ここに示したのは、多くの者が悟りを得た古来の修行法の、おおまかな解説に過ぎない。
しかし、それでも真摯に悟りを求める者には、役に立つはずだ。
死から逃れる道は確実に存在する。
愚かな者はそれを笑い、死ぬ時になって泣くが、賢いものは修行を続け、死ぬ時になって笑うことができるだろう。
死は消滅ではなく、永遠への扉であったと知って。
649 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 19:37:26 ID:Pdm77Hxx
覚醒された方に質問ですが、参考になる書籍があれば教えてください。
よろしくお願いします。
652 :自在:2007/03/11(日) 20:30:24 ID:juZifynh
>>649 オショー 昔はバグワン・ラジニーシと言った。
クリシュナムルティもいいが、少し難しいかも知れない。
他にも悟りを得て本を書いた者はいるが、この二人が一番理論的だ。
後はダンマパダ(法句経)などの初期経典を読んでいただきたい。
653 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 20:30:48 ID:HQC6fI9m
覚者に聞きたい。
空とはどんな感じですか?
659 :自在:2007/03/12(月) 20:36:06 ID:9at+7UTO
>>653 良い質問だ。
空にはどのような感覚もない。感覚があれば空とは言えない。
空を観じるのは悟りを得るためのテクニックであり、一般論ではない。
一般人が全ての物は空だと茶飲み話で語るのは間違いだが、悟りを得ようとする者が物は空であると観るのは正しい。
唯識論では全ての物は空だと考えることを、空見に我執するといい「物事を空であるという概念を抱いてはならない。概念を破するのが空である」といさめている。
止観の観に属し、天台では空観を正式な観法にしている。
観察が苦手であったり、金や名声などにどうしても執着して修行が困難な者はこの空観を修行するといい。
空観を修行するにはまず、空性を体得しなくてはならない。
目の前に何か物を用意して、それが空であると見なす。
リンゴならリンゴを用意し、それが「皮と果肉と種の集まりであり、木の栄養と日の光と水によって出来たものであり、有るものではなく、無いものでもない」と観る。
何度も何度もそのように観じていると、やがてリンゴを見ても名前が思い浮かばず、それに関するイメージも思い浮かばなくなる。
リンゴが消えてなくなる訳ではないが、それを見ても何も感じなくなる。
それが出来たら今度は体、感覚、感情、思考、意志、認識などが空であると観じていく。
この辺は般若心経などが参考になるだろう。
金や異性などの執着する対象を空と観ることで執着を消すこともできる。
観察が苦手な者も、空観なら出来るという者も多い。
精進していただきたい。
672 :自在:2007/03/14(水) 19:48:27 ID:MpqgkpF2
空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
観察のところで書いたように、観察と空観の違いはテクニックが直接的であるか、間接的であるかの違いに過ぎない。
空観は能動的であり、受動的な観察が苦手な者はこちらを選ぶといい。
仏陀の法は全人類の宝であり、全ての衆生に無償で与えられる。
それはこのネットの上でも変わりは無い。
私はあなたたちにチャンスを与えた。
死から逃れる法を知るチャンスを。
偉大な仏陀・釈迦牟尼が言われた通り、目覚めた者は道しるべとなり、悟りにたどり着く道を教えるのみだ。
そのチャンスを生かして悟りを得られるかどうかは、つねにあなた自身が修行をやりとおすことができるかどうかにかかっている。
673 :自在:2007/03/14(水) 20:08:18 ID:MpqgkpF2
無常 死の考察
人間という存在にとって、死は常に前途にそびえたつ壁であった。
その壁の前に全ての者がひれ伏し、消えていく。
この絶望の前には金も、権力も、名声も何の意味もない。
世のものは多くがこの金、権力、名声を求めて止まないが、この死という観点から人の一生を見直してみれば、これらが何の意味もないことが判るだろう。
例えばルールの違うゲームを終わったあとで知らされるようなものだ。
人々がボールを手に持ち、ゴールに入れるゲームをして多くの点を得る。しかし、ゲームが終わってみれば審判がこれはサッカーであり、得点は無効、選手は永久に出場停止とされる。
これが多くの人間の置かれている状況だ。
人々はこの世に生まれていやおう無く金、権力、名声、異性などを争うゲームにまき込まれる。
しかし、死が近づけばそれらが何の意味もなく、ただ失ってしまうだけのものであることに気付かされる。
この世はまるごと大きな罠なのだ。
二度と戻っては来ない貴重な時間を、失われてしまう物のために使ってはならない。
あなたが修行によって集中力を高め、自己の存在の根底まで透徹した時、自己がこの失われていく体に限定されるものではなく、大いなる海のごとき存在であることが実感される。
その時、死は大海のはしでたわむれる波のような小さな変化の一つに過ぎなかったと気づくだろう。
そしてあなたは目覚めた者、仏陀となる。
674 :名無しさん@3周年:2007/03/14(水) 22:39:53 ID:rqNoLclR
仏陀にならなくても苦しみから開放される生き方が有って、それが仏教だろ。
そのために苦しむなんて馬鹿げてる。
覚者ってのは生まれつきそうなる定めが有って、本人にとってそれは偶然の出来事なんだよ。
悟るために修行をすればするほど遠ざかっていくのが悟りだと思う。
日々を懸命に生きるのも大切。それが中庸というものだろ。
677 :自在:2007/03/15(木) 22:47:20 ID:MWEuQ5JZ
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/index.html
クリシュナムルティ学友会
正田大観氏による和訳ダンマパダ(法句経)
第二十二章 地獄
306 事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」〔と〕言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。
彼らは、死してのち、両者ともどもに、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において、等しきものと成る。
仏陀の法において偽りを書いてはならない。
悟りを得る以外に苦しみを逃れる道があると仏陀は説いただろうか?
修行は苦しいものであると仏陀は説いただろうか?
世の快楽を離れ、苦行も離れた道を仏陀・釈迦牟尼は「中道」と説かなかったか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93
中庸は儒教の教えではないのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8
悟りを得られるものは定められていると真実ではないことを教えた者は誰か;?
あきらかに間違っている言葉を真実と認めるのはなぜか?
自分自身の言葉を飾るのか、あるいは同じ邪悪な教えを受けているのか?
目覚めた者の智恵は人の及ぶところではない。
全てを見ぬきながら、あわれみから暴いたりしないだけである。
邪悪な教えをはなれ、真の仏陀の言葉に帰依せよ。
679 :670:2007/03/15(木) 23:46:51 ID:G2N06drK
>>672 空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
私はとくに瞑想も自分探しもしない。悟りにも執着しない。
表現が難しいが簡単に言えばこういうことですか?
自己は空の一部であり同質である。また自我は対極にある。
自分を探ることで空を知ることができるし、対極の自我の視点からは
空のすばらしさを知ることができる。
680 :自在:2007/03/16(金) 21:22:03 ID:KOpdETTo
>>679
一字訂正する。
「空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い」
これは空観に対する包括的な解説に過ぎない。
この言葉の意味は悟りを得た後にわかるだろう。
修行中の者にはむしろ空を楽しんでほしい。
自分の体に空を観じ、自分の体が空であることを楽しむ。
自分の感覚にに空を観じ、自分の感覚が空であることを楽しむ。
自分の感情に空を観じ、自分の感情が空であることを楽しむ。
自分の思考に空を観じ、自分の思考が空であることを楽しむ。
自分の意志に空を観じ、自分の意志が空であることを楽しむ。
自分の認識作用に空を観じ、自分の認識作用が空であることを楽しむ。
このように空を楽しめば、いずれ観照が起こり、悟りは自然にやってくるだろう。
681 :醤油:2007/03/16(金) 23:39:54 ID:FbfhAYQR
いつもロムしておりますものです。自在さんにならい、息数観をしています。
止観すれば目の錯視も止まります。という例を載せてみます。
次のWebの錯視を止観で止めてみてください。なかなか面白いですよ。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/index-j.html
684 :自在:2007/03/18(日) 20:54:19 ID:0V6Ikfj/
>>681 ありがとう。
面白いサイトだ。
お気に入りにいれさせてもらった。
685 :自在:2007/03/18(日) 21:01:45 ID:0V6Ikfj/
空観と観察の違い。
それは例えば散らかった部屋で物を探す方法の違いと言えようか。
ある者は部屋を詳細に見ることでものを探し当てようとする。
他の者はとりあえず部屋を片付けて、自然に出てくるのを待つ。
部屋をそのまま見るのが観察であり、片付けてからというのが空観と言えよう。
物を探すのであるから、見つめるのが本道であろう。
しかし、片付けてから見つけるというのも悪くは無い。
どちらを選ぶのかは修行者個人の好みや、適性による。
自分にあった方法で精進していただきたい。
687 :白ふくろう:2007/03/18(日) 22:41:47 ID:Ba2h9kvh
>>685
空観と観察
観察は、生きてる自分が自分以外のことを観る。
空観は、生きている自分そのものを観る。
ってのはどうですか?
690 :自在:2007/03/19(月) 20:46:28 ID:e/J2iS/V
>>687 面白い。
少し言い換えてみよう。
観察は今、ここにあるものを観察して見つかるのを待つ。
空観はいらないものを片付けて見つかるのを待つ。
どちらも言葉の通りではないが、このような感じであろうか。
先ほどの例えにはまだ続きがある。
どちらの方法で探しても、探しても目的の物は見つからない。
そのうちに探している物が何であったのか、忘れてしまう。
探し疲れて、ふと、顔の前に手を伸ばした時、メガネをしていたことに気付き、同時にそれが探していたものだと気付く。
滑稽な話だがこのようなことが起こるのが頓悟というものだ。
探し物は実は目の前にあり、それを通して探していたのだ。
そして、探していた物が何であるのか、探し当てた時にしか判らない。
悟りを求める修行は自分を探すゲームと言えよう。
それがどのようなものなのかは、それが目の前にあり、それを通して見ていても、見つけるまでは判らず、迷い続ける。
困難なゲームではある。
あなたが心や体のどの部分に自我を同一化させているかは、あなた以外の誰にも判らない。
それが判るものはあなた自身しかいないのだ。
仏陀の法においてはあなたを救い得るのは、あなた自身しかない。
あなたの救世主はあなた自身だ。
迷わず精進していただきたい。
706 :自在:2007/03/20(火) 20:58:48 ID:qGM6mgPQ
自我同一性
観察、又は空観によって自我を見出そうとすれば、さらに自我の同一性について深く踏み込んでいかなければならない。
自我の同一性とは即ち、あなたが何をもって自分であると認識しているかを意味する。
あなたとは一体何だろうか?
体であろうか?
体だけがあなたであり、他に自分と呼べるものはないのか。
或いは他の感覚や、感情、意志、認識などの心の作用があなたの本体であろうか?
この問いに言葉で答えを出す必要は無い。
言葉による回答は何の意味も無い。
それが見られた時、観照が起こり、悟りが得られるのだから。
多くの者が誤解しているようだが、悟りとは何物かの知識や見解を得ることではない。
知識は悟りではない。
見解も悟りではない。
知識や見解には対象があり、それ自体も無常であり縁起によって生じたものに過ぎない。
観察や空観の目的も、自我についての知識や見解を得ることではない。
観察や空観そのものが、対象と自己に及ぼす作用を狙った行為なのだ。
その為には自らの自我を突き止めねばならない。
あなたとは何だろうか?
多くの真の導師達が放った問いを、私も何度も繰り返す。
あなたとは何だろうか?
722 :自在:2007/03/21(水) 20:39:59 ID:JBCx+gsc
悟りによって何が得られるのかを、初めに書いて置くべきだったかも知れない。
多くの人は死を恐れ、或いは真理を知るために、悟りを得たいと思う。
死を恐れ、生きることの意味を知りたいという小さな望みだ。
しかし、悟りを得たときに受け取るものは、計り知れないほどに大きなものだ。
これについて昔から伝わる美しい例え話しがある。
あるところに金持ちの息子がいた。
かれは家を出てよその国に旅に行き、とても苦労をして浮浪者、今のホームレスになってしまった。
彼はさまざまな家の前で食を貰い、ようやく生きていた。
そして、彼はいつしか自分が生まれた家に戻っていた。
彼が家の前に立って食を貰おうとすると、父親である金持ちは直ぐに彼を息子であるとわかった。
そして息子を家に招き入れ、全ての財産を譲り渡した。
ただ死を恐れ、悟りを得ようと願う者は一食のご飯を求めるホームレスのようなものだ。
しかし、そのような者も悟りを得た時、自分が全てを受け取っていると気付く。
全てを。
全てなのだ。
今、外に出て上を向けば見える空の全て。
今、人々の足元を支える大地の全て。
そして今、この存在する空間と時間の全てが、本当はあなたのものなのだ。
それは概念や思考ではなく、例えば右手で左の手を触るような確かな実感として認識できる現実であり事実なのだ。
区別の幻想を離れたところには、永遠の喜びがある。
この文を読む全ての者が速やかに悟りを得て、真の喜びに到達するように。
723 :白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/21(水) 23:08:06 ID:gVMFFEmy
>>722
まるで私の学生時代の話みたいだな。
有り金10万円ほどもって3ヶ月ほど、北海道東北へと旅に出ました。若いころ特有の熱病でしょうか。自分がいやになりまして。
最初は不安ですが、いざ、家を出てしまうとなんとかなるもんです。
寝袋、一人用テント、下着、食器、ガソリンコンロ背そして地図帳と。少しかっこよく言うとホームレス・ライフです。
都会は避け、田舎に向かいます。道に迷うと畑仕事のおばあさんに道を尋ね、たいてい「一人で?どこから?」と尋ねてくるので、
「一人で歩いてきました。」と言うと、おばあさんはにっこりし、ご飯いただいたり家に泊めてもらえたりしばしばで、自分には何もないのでおばあさんの話し相手します。
でも、そんなの物貰いは10日に1回あるかないか、特に人気のない山を選択しましたので。
実際は汚いもので、寝る場所は学校の倉庫、無人駅やバス停の待合室、山の非難小屋です。あるいは背負っている一人用テント、道中で風呂にあたればラッキーで、食料は、駅の場合便所の手洗い場で米といで、ガソリンコンロで朝に一日三食分のご飯たいて出発です。
歩きつかれて苦労感じる余裕もありません。ただ、自分の力だけでどれだけ歩けるのか試したかった。
でも、ホームレス・ライフを追及しても、自分一人では絶対に歩けないんですよね。
一人旅は自分しか話し相手がいない。テントは誰が作った?米は?歩いてる道は誰が切り開いた?と自問自答する。
もっと人の助けを借りないところ、吉野から那智へ山伏の奥駆けを一人で雪の中、飯も全部背負い、ある意味、山伏以上に山伏したけれども、やはりそこには切り開かれた道がある。気がついたら日本中旅してました。
いけどもいけども人がかかわってきて、もうそろそろ家に帰ろうと思う気に負けてしまう。
生きれない。
一人では生きれないのだ。
結局は生きて家に帰ってしまっている自分がいた。
726 :自在:2007/03/22(木) 21:41:01 ID:3nSOCbIl
>>723 素晴らしい体験だ。
その旅であなたはとても大きく成長したようだ。
それがあなたのイニシェーションだったのだろう。
その経験は今後の人生においても役立つだろう。
728 :自在:2007/03/23(金) 22:56:13 ID:ZOF45dX9
数息観から随息観
数息観を修行していくと、しだいに集中力が深まり、雑念も簡単に流せるようになる。
そして、雑念が止まり、無念無想の三昧に入る。
そこまで行くと、息を数えるのがかえって邪魔になるだろう。
そのような時は、自然に数えるのを止めて、呼吸に集中するだけでいい。
この状態を随息観と呼ぶ。
呼吸に集中しているだけで、意識は深く、深く集中していくだろう。
そして、次第に表面の意識だけでなく、潜在意識と呼ばれるものも感じられるようになっていく。
例えば雑念を無視していると、雑念とは別に呼吸に集中している意識があるのがわかってくる。
意識が二重にあり、それぞれが別に動いているのがわかるのだ。
さらに修行が深くなると、意識は二重だけでなく、幾つもあって別に動いているのが感じ取れるようになる。
人間の頭は普段から多重に動いているのだが、普通の人間にはわからない。
修行によって集中力が深まると、潜在意識も見えるようになるのだ。
ここまで集中力が深くなれば、自我を見るのも可能になる。
精進していただきたい。
775 :自在:2007/03/25(日) 22:24:22 ID:TwdaKtpA
止の行
これまでに主に数息観を止の行として紹介してきたが、集中系の行は全て止の行として使える。
天台の止観などでは鼻先に集中する法、胸に集中する法なども紹介されている。
チベット仏教などで教える鼻先に仏陀をイメージする法、日輪や月などをイメージする法も、この集中力をつける止の行として使える。
雑念を処理し、行を深めていく段階は数息観と同じである。
仏教には八万四千の法門があり、各々の修行者が、自分にあった方法をみつけるのが一番近道であるといえよう。
肝心なことは集中力を高め、自らの心の内に有る自我がどのように起こるのかを観ることだ。
これで悟りを得る法の概要は大体説き終わった。
この2ちゃんねるという場所は、人々の言葉と思いが集まる所であり、繁華街のように喧騒の場であるとともに、真実が明らかになるところでもある。
過去にもこの2ちゃんねるで幾つもの真実が明らかになった。
愚かな者の悪言や宣伝にまどわされず、真実を求める者は、ここにおいても真実を見出すことが出来るだろう。
観察
心を止める数息観で、雑念を処理することが出来るようになったなら、そろそろ観察を行ってもよい。
観察をしながらも数息観は続けていくべきであろう。
数息観によって集中力を養いながら、観察もしていくと、成長は早い。
観察は初心の者がいきなり心の中をみるというのは困難である。
故に肉体などの外から内へ、粗大なものから繊細なものへと観察していくのが判りやすい道だ。
そうすることによって観察するということも学ぶことが出来る。
まず数息観を行い、雑念が無く、集中力が増した状態で、あなたの手を観察してみなさい。
初心の者は心の中で言葉にして観察してみるのもよい。
手や指という言葉を使わずに表現してみるのだ。
「これには五本の突起がある。それには曲がるための皺がある。先の方には固いものが覆っている・・・」
などというように判りきっているようなことでもよいから、出来る限り細かく、詳しく観察していく。
そのように観察していると雑念が起こるが、数息観によって雑念の処理が出来る者にはすでにそれは邪魔にはならないはずだ。
例えば手にキズなどがあり、それを見て「このキズは子供の頃、車に轢かれたキズだ。あの時は大変だった・・・」などと考えてしまうのが雑念である。
観察は今、ここにある物だけを純粋に見つめる行為だ。
雑念と観察は明確に区別して修行を行わなければならない。
632 :自在:2007/03/02(金) 21:38:02 ID:lF1a/kYP
観察Ⅱ
手の観察を真面目に行えば恐らく注意力のある者は、その力に驚くだろう。
ただ手を観察するというだけでも、大きな効果が得られる。
それがどんな効果なのか、自ら確かめていただきたい。
手からはじまった観察は腕、肩、体、足、頭、顔、そして眼に進んで行く。
鏡を使って顔や、眼を観察するのも良い。
肉体の全てを観察し終えたとき、ある資質を持つ者は、既に自我の脱却を果たしているかも知れない。
そのときは慌てずに>>543を思い出して、認識の脱落を目指して欲しい。
肉体の観察が終わっても自我を滅し切れない者は、続いて感覚、感情、思考、意志、認識の観察に進んでいただきたい。
この違いはただ自我を何に同一化しているか、という違いに過ぎないので、修行者は余計な劣等感、優越感を持たずに修行に専念すべきであろう。
635 :自在:2007/03/03(土) 21:12:51 ID:/ASh5eSa
観照
この辺で観照について書いておかねばなるまい。
観照は観察の一種ではある。
しかし、通常の観察と違うところは以下の二点にある。
Ⅰ 意識的にではなく、無意識的に行われる。
Ⅱ それは観察者そのものを観察する。
これをまとめると、観照とは無意識的に観察者を観察する行為であると言えよう。
これは言葉にすると難しいが、実際には多くの者が大なり小なり経験している。
例えば旅行などに行った時、今まで悩んでいて結論が出せなかった問題が、状況を離れて自分自身をも客観的に観察した結果、結論を出すことが出来たというようなものでも、小規模だが観照の一種といえよう。
このような場合でも自分を客観的にみようとするのではなく、無意識的に頭に浮かんだ自分自身を含む状況を客観的に見ることによって観照はできる。
前述のように自分を客観的に観察しようとすればするほど、かえって自我の介入を招いてしまうので観照は困難となる。
しかし、この観照を起こしやすくするのは、やはり観察を続けることなのだ。
観察を続けることによって、いずれ無意識のうちにも観察が働くようになるだろう。
そしてその観察が自我に向かった時、観照は起こる。
その時まで、あきらめることなく精進していただきたい。
637 :自在:2007/03/04(日) 21:44:30 ID:RVjQe+sN
観察 感覚の観察
感覚を観察するのには、長く響く鐘の音などを聞く方法が良く使われる。
集中力を保ったまま、聴覚を観察できる良い方法だ。
まず、出来るだけ長く響く鐘を用意する。
パソコンなどの音でもよい。
自分で叩かなくとも、定期的に音が鳴るようにするのが理想的だ。
肉体の観察と同じように、数息観を行い、集中した状態で鐘の音を聞く。
その時、音、音に反応する耳、耳からの刺激によって起こる心の動きなどを詳細に観察していく。
その他の視覚、触覚、臭覚、味覚なども、大体同じように、感覚の対象、感覚器、感覚主体を観察する。
各自工夫して観察していただきたい。
638 :自在:2007/03/05(月) 22:41:16 ID:GrQKU+dw
観察 感情の観察
観察もこの辺りから困難になってくるであろう。
感情を観察するという行為そのものに、強い反発を感じる者もいるだろう。
その反発自体が、感情を自己と同一化しているせいなのだが、感情の満足を求めて今までの人生を過ごしてきた者にとっては、感情の観察は人生の目的をも破壊されるような感覚を受ける。
その他にも感情を心に起こし、それを観察する間もなく、感情に引きずられてしまう者もいるだろう。
このような時こそ、己が何故、悟りを得ようと決意したのかを思いだし、発菩提心を発揮して集中して修行していただきたい。
感情の観察では心の中にある感情を引き出し、それを観察する。
喜怒哀楽といった感情を呼び覚ますのだが、過去の記憶を思いだし、感情に流されないようにしながら、今の反応を観察するというむずかしいことをしなければならない。
初心の内は悲しみや喜びというような穏やかな感情から、観察をしたほうがいいだろう。
精進していただきたい。
642 :自在:2007/03/06(火) 21:38:28 ID:mX2dh3RZ
観察 思考の観察
思考を観察するのは数息観で行った、雑念の処理を無視するのではなく、見守るかたちにすればできる。
生じては消えていく思考を、ただ見守る。
そこに批判や意見は付け加えてはならない。
ただそれが生じては消えていくさまを見続ける。
思考の対象、思考という行為、思考する主体を見る。
それがどこから起きて、どのような作用を及ぼすのか、詳細に見つづけて欲しい。
643 :自在:2007/03/06(火) 21:48:26 ID:mX2dh3RZ
自我の同一化
この辺で自我の同一化について書いておく。
体や感覚、感情、思考、意志、認識などのどの部分に自我を同一化しているのかは、人によってかなり違う。
ある者は自分を感情と同一であると感じ、他の者は思考こそが自分自身であると考えている。
われ思う、故にわれ在りと言葉を残した古代の哲人は、その思考に自分を同化していたのだ。
私自身は認識に自分を同化していたと、悟りを得てから判った。
あなたの自我がどの部分に同一化しているかは、あなた自身が探り出さねばならない。
一度それがわかったら、それをみるだけで、自我の離脱がはじまる。
精進していただきたい。
645 :自在:2007/03/09(金) 20:37:18 ID:BbmCJd7H
観察 意志と認識
この意志と認識の観察からは特に難しくなってくる。
この二つはすでに表層の意識をはなれ、潜在意識の部分で働いているからだ。
人間が何かを認識し、選択して意志を発動させるまでの動きは、殆どが潜在意識で決定されている。
認識から意志決定に至るまでの心の動きを観察するのは。非常に困難なことだ。
その原因は早さにもある。
人が例えばリンゴなどを認識すれば、瞬時にそれがリンゴであり、リンゴという名前やリンゴに間しての記憶が蘇る。
その過程を観察するのは非常に強い集中力が必要となる。
真の悟りを得ようとする者は、行住坐臥の全てにおいて己の心を見守り、修行に専念すべきであろう。
これで私の教えは終わりだ。
ここに示したのは、多くの者が悟りを得た古来の修行法の、おおまかな解説に過ぎない。
しかし、それでも真摯に悟りを求める者には、役に立つはずだ。
死から逃れる道は確実に存在する。
愚かな者はそれを笑い、死ぬ時になって泣くが、賢いものは修行を続け、死ぬ時になって笑うことができるだろう。
死は消滅ではなく、永遠への扉であったと知って。
649 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 19:37:26 ID:Pdm77Hxx
覚醒された方に質問ですが、参考になる書籍があれば教えてください。
よろしくお願いします。
652 :自在:2007/03/11(日) 20:30:24 ID:juZifynh
>>649 オショー 昔はバグワン・ラジニーシと言った。
クリシュナムルティもいいが、少し難しいかも知れない。
他にも悟りを得て本を書いた者はいるが、この二人が一番理論的だ。
後はダンマパダ(法句経)などの初期経典を読んでいただきたい。
653 :名無しさん@3周年:2007/03/11(日) 20:30:48 ID:HQC6fI9m
覚者に聞きたい。
空とはどんな感じですか?
659 :自在:2007/03/12(月) 20:36:06 ID:9at+7UTO
>>653 良い質問だ。
空にはどのような感覚もない。感覚があれば空とは言えない。
空を観じるのは悟りを得るためのテクニックであり、一般論ではない。
一般人が全ての物は空だと茶飲み話で語るのは間違いだが、悟りを得ようとする者が物は空であると観るのは正しい。
唯識論では全ての物は空だと考えることを、空見に我執するといい「物事を空であるという概念を抱いてはならない。概念を破するのが空である」といさめている。
止観の観に属し、天台では空観を正式な観法にしている。
観察が苦手であったり、金や名声などにどうしても執着して修行が困難な者はこの空観を修行するといい。
空観を修行するにはまず、空性を体得しなくてはならない。
目の前に何か物を用意して、それが空であると見なす。
リンゴならリンゴを用意し、それが「皮と果肉と種の集まりであり、木の栄養と日の光と水によって出来たものであり、有るものではなく、無いものでもない」と観る。
何度も何度もそのように観じていると、やがてリンゴを見ても名前が思い浮かばず、それに関するイメージも思い浮かばなくなる。
リンゴが消えてなくなる訳ではないが、それを見ても何も感じなくなる。
それが出来たら今度は体、感覚、感情、思考、意志、認識などが空であると観じていく。
この辺は般若心経などが参考になるだろう。
金や異性などの執着する対象を空と観ることで執着を消すこともできる。
観察が苦手な者も、空観なら出来るという者も多い。
精進していただきたい。
672 :自在:2007/03/14(水) 19:48:27 ID:MpqgkpF2
空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
観察のところで書いたように、観察と空観の違いはテクニックが直接的であるか、間接的であるかの違いに過ぎない。
空観は能動的であり、受動的な観察が苦手な者はこちらを選ぶといい。
仏陀の法は全人類の宝であり、全ての衆生に無償で与えられる。
それはこのネットの上でも変わりは無い。
私はあなたたちにチャンスを与えた。
死から逃れる法を知るチャンスを。
偉大な仏陀・釈迦牟尼が言われた通り、目覚めた者は道しるべとなり、悟りにたどり着く道を教えるのみだ。
そのチャンスを生かして悟りを得られるかどうかは、つねにあなた自身が修行をやりとおすことができるかどうかにかかっている。
673 :自在:2007/03/14(水) 20:08:18 ID:MpqgkpF2
無常 死の考察
人間という存在にとって、死は常に前途にそびえたつ壁であった。
その壁の前に全ての者がひれ伏し、消えていく。
この絶望の前には金も、権力も、名声も何の意味もない。
世のものは多くがこの金、権力、名声を求めて止まないが、この死という観点から人の一生を見直してみれば、これらが何の意味もないことが判るだろう。
例えばルールの違うゲームを終わったあとで知らされるようなものだ。
人々がボールを手に持ち、ゴールに入れるゲームをして多くの点を得る。しかし、ゲームが終わってみれば審判がこれはサッカーであり、得点は無効、選手は永久に出場停止とされる。
これが多くの人間の置かれている状況だ。
人々はこの世に生まれていやおう無く金、権力、名声、異性などを争うゲームにまき込まれる。
しかし、死が近づけばそれらが何の意味もなく、ただ失ってしまうだけのものであることに気付かされる。
この世はまるごと大きな罠なのだ。
二度と戻っては来ない貴重な時間を、失われてしまう物のために使ってはならない。
あなたが修行によって集中力を高め、自己の存在の根底まで透徹した時、自己がこの失われていく体に限定されるものではなく、大いなる海のごとき存在であることが実感される。
その時、死は大海のはしでたわむれる波のような小さな変化の一つに過ぎなかったと気づくだろう。
そしてあなたは目覚めた者、仏陀となる。
674 :名無しさん@3周年:2007/03/14(水) 22:39:53 ID:rqNoLclR
仏陀にならなくても苦しみから開放される生き方が有って、それが仏教だろ。
そのために苦しむなんて馬鹿げてる。
覚者ってのは生まれつきそうなる定めが有って、本人にとってそれは偶然の出来事なんだよ。
悟るために修行をすればするほど遠ざかっていくのが悟りだと思う。
日々を懸命に生きるのも大切。それが中庸というものだろ。
677 :自在:2007/03/15(木) 22:47:20 ID:MWEuQ5JZ
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/index.html
クリシュナムルティ学友会
正田大観氏による和訳ダンマパダ(法句経)
第二十二章 地獄
306 事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」〔と〕言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。
彼らは、死してのち、両者ともどもに、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において、等しきものと成る。
仏陀の法において偽りを書いてはならない。
悟りを得る以外に苦しみを逃れる道があると仏陀は説いただろうか?
修行は苦しいものであると仏陀は説いただろうか?
世の快楽を離れ、苦行も離れた道を仏陀・釈迦牟尼は「中道」と説かなかったか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93
中庸は儒教の教えではないのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8
悟りを得られるものは定められていると真実ではないことを教えた者は誰か;?
あきらかに間違っている言葉を真実と認めるのはなぜか?
自分自身の言葉を飾るのか、あるいは同じ邪悪な教えを受けているのか?
目覚めた者の智恵は人の及ぶところではない。
全てを見ぬきながら、あわれみから暴いたりしないだけである。
邪悪な教えをはなれ、真の仏陀の言葉に帰依せよ。
679 :670:2007/03/15(木) 23:46:51 ID:G2N06drK
>>672 空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
私はとくに瞑想も自分探しもしない。悟りにも執着しない。
表現が難しいが簡単に言えばこういうことですか?
自己は空の一部であり同質である。また自我は対極にある。
自分を探ることで空を知ることができるし、対極の自我の視点からは
空のすばらしさを知ることができる。
680 :自在:2007/03/16(金) 21:22:03 ID:KOpdETTo
>>679
一字訂正する。
「空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い」
これは空観に対する包括的な解説に過ぎない。
この言葉の意味は悟りを得た後にわかるだろう。
修行中の者にはむしろ空を楽しんでほしい。
自分の体に空を観じ、自分の体が空であることを楽しむ。
自分の感覚にに空を観じ、自分の感覚が空であることを楽しむ。
自分の感情に空を観じ、自分の感情が空であることを楽しむ。
自分の思考に空を観じ、自分の思考が空であることを楽しむ。
自分の意志に空を観じ、自分の意志が空であることを楽しむ。
自分の認識作用に空を観じ、自分の認識作用が空であることを楽しむ。
このように空を楽しめば、いずれ観照が起こり、悟りは自然にやってくるだろう。
681 :醤油:2007/03/16(金) 23:39:54 ID:FbfhAYQR
いつもロムしておりますものです。自在さんにならい、息数観をしています。
止観すれば目の錯視も止まります。という例を載せてみます。
次のWebの錯視を止観で止めてみてください。なかなか面白いですよ。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/index-j.html
684 :自在:2007/03/18(日) 20:54:19 ID:0V6Ikfj/
>>681 ありがとう。
面白いサイトだ。
お気に入りにいれさせてもらった。
685 :自在:2007/03/18(日) 21:01:45 ID:0V6Ikfj/
空観と観察の違い。
それは例えば散らかった部屋で物を探す方法の違いと言えようか。
ある者は部屋を詳細に見ることでものを探し当てようとする。
他の者はとりあえず部屋を片付けて、自然に出てくるのを待つ。
部屋をそのまま見るのが観察であり、片付けてからというのが空観と言えよう。
物を探すのであるから、見つめるのが本道であろう。
しかし、片付けてから見つけるというのも悪くは無い。
どちらを選ぶのかは修行者個人の好みや、適性による。
自分にあった方法で精進していただきたい。
687 :白ふくろう:2007/03/18(日) 22:41:47 ID:Ba2h9kvh
>>685
空観と観察
観察は、生きてる自分が自分以外のことを観る。
空観は、生きている自分そのものを観る。
ってのはどうですか?
690 :自在:2007/03/19(月) 20:46:28 ID:e/J2iS/V
>>687 面白い。
少し言い換えてみよう。
観察は今、ここにあるものを観察して見つかるのを待つ。
空観はいらないものを片付けて見つかるのを待つ。
どちらも言葉の通りではないが、このような感じであろうか。
先ほどの例えにはまだ続きがある。
どちらの方法で探しても、探しても目的の物は見つからない。
そのうちに探している物が何であったのか、忘れてしまう。
探し疲れて、ふと、顔の前に手を伸ばした時、メガネをしていたことに気付き、同時にそれが探していたものだと気付く。
滑稽な話だがこのようなことが起こるのが頓悟というものだ。
探し物は実は目の前にあり、それを通して探していたのだ。
そして、探していた物が何であるのか、探し当てた時にしか判らない。
悟りを求める修行は自分を探すゲームと言えよう。
それがどのようなものなのかは、それが目の前にあり、それを通して見ていても、見つけるまでは判らず、迷い続ける。
困難なゲームではある。
あなたが心や体のどの部分に自我を同一化させているかは、あなた以外の誰にも判らない。
それが判るものはあなた自身しかいないのだ。
仏陀の法においてはあなたを救い得るのは、あなた自身しかない。
あなたの救世主はあなた自身だ。
迷わず精進していただきたい。
706 :自在:2007/03/20(火) 20:58:48 ID:qGM6mgPQ
自我同一性
観察、又は空観によって自我を見出そうとすれば、さらに自我の同一性について深く踏み込んでいかなければならない。
自我の同一性とは即ち、あなたが何をもって自分であると認識しているかを意味する。
あなたとは一体何だろうか?
体であろうか?
体だけがあなたであり、他に自分と呼べるものはないのか。
或いは他の感覚や、感情、意志、認識などの心の作用があなたの本体であろうか?
この問いに言葉で答えを出す必要は無い。
言葉による回答は何の意味も無い。
それが見られた時、観照が起こり、悟りが得られるのだから。
多くの者が誤解しているようだが、悟りとは何物かの知識や見解を得ることではない。
知識は悟りではない。
見解も悟りではない。
知識や見解には対象があり、それ自体も無常であり縁起によって生じたものに過ぎない。
観察や空観の目的も、自我についての知識や見解を得ることではない。
観察や空観そのものが、対象と自己に及ぼす作用を狙った行為なのだ。
その為には自らの自我を突き止めねばならない。
あなたとは何だろうか?
多くの真の導師達が放った問いを、私も何度も繰り返す。
あなたとは何だろうか?
722 :自在:2007/03/21(水) 20:39:59 ID:JBCx+gsc
悟りによって何が得られるのかを、初めに書いて置くべきだったかも知れない。
多くの人は死を恐れ、或いは真理を知るために、悟りを得たいと思う。
死を恐れ、生きることの意味を知りたいという小さな望みだ。
しかし、悟りを得たときに受け取るものは、計り知れないほどに大きなものだ。
これについて昔から伝わる美しい例え話しがある。
あるところに金持ちの息子がいた。
かれは家を出てよその国に旅に行き、とても苦労をして浮浪者、今のホームレスになってしまった。
彼はさまざまな家の前で食を貰い、ようやく生きていた。
そして、彼はいつしか自分が生まれた家に戻っていた。
彼が家の前に立って食を貰おうとすると、父親である金持ちは直ぐに彼を息子であるとわかった。
そして息子を家に招き入れ、全ての財産を譲り渡した。
ただ死を恐れ、悟りを得ようと願う者は一食のご飯を求めるホームレスのようなものだ。
しかし、そのような者も悟りを得た時、自分が全てを受け取っていると気付く。
全てを。
全てなのだ。
今、外に出て上を向けば見える空の全て。
今、人々の足元を支える大地の全て。
そして今、この存在する空間と時間の全てが、本当はあなたのものなのだ。
それは概念や思考ではなく、例えば右手で左の手を触るような確かな実感として認識できる現実であり事実なのだ。
区別の幻想を離れたところには、永遠の喜びがある。
この文を読む全ての者が速やかに悟りを得て、真の喜びに到達するように。
723 :白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/21(水) 23:08:06 ID:gVMFFEmy
>>722
まるで私の学生時代の話みたいだな。
有り金10万円ほどもって3ヶ月ほど、北海道東北へと旅に出ました。若いころ特有の熱病でしょうか。自分がいやになりまして。
最初は不安ですが、いざ、家を出てしまうとなんとかなるもんです。
寝袋、一人用テント、下着、食器、ガソリンコンロ背そして地図帳と。少しかっこよく言うとホームレス・ライフです。
都会は避け、田舎に向かいます。道に迷うと畑仕事のおばあさんに道を尋ね、たいてい「一人で?どこから?」と尋ねてくるので、
「一人で歩いてきました。」と言うと、おばあさんはにっこりし、ご飯いただいたり家に泊めてもらえたりしばしばで、自分には何もないのでおばあさんの話し相手します。
でも、そんなの物貰いは10日に1回あるかないか、特に人気のない山を選択しましたので。
実際は汚いもので、寝る場所は学校の倉庫、無人駅やバス停の待合室、山の非難小屋です。あるいは背負っている一人用テント、道中で風呂にあたればラッキーで、食料は、駅の場合便所の手洗い場で米といで、ガソリンコンロで朝に一日三食分のご飯たいて出発です。
歩きつかれて苦労感じる余裕もありません。ただ、自分の力だけでどれだけ歩けるのか試したかった。
でも、ホームレス・ライフを追及しても、自分一人では絶対に歩けないんですよね。
一人旅は自分しか話し相手がいない。テントは誰が作った?米は?歩いてる道は誰が切り開いた?と自問自答する。
もっと人の助けを借りないところ、吉野から那智へ山伏の奥駆けを一人で雪の中、飯も全部背負い、ある意味、山伏以上に山伏したけれども、やはりそこには切り開かれた道がある。気がついたら日本中旅してました。
いけどもいけども人がかかわってきて、もうそろそろ家に帰ろうと思う気に負けてしまう。
生きれない。
一人では生きれないのだ。
結局は生きて家に帰ってしまっている自分がいた。
726 :自在:2007/03/22(木) 21:41:01 ID:3nSOCbIl
>>723 素晴らしい体験だ。
その旅であなたはとても大きく成長したようだ。
それがあなたのイニシェーションだったのだろう。
その経験は今後の人生においても役立つだろう。
728 :自在:2007/03/23(金) 22:56:13 ID:ZOF45dX9
数息観から随息観
数息観を修行していくと、しだいに集中力が深まり、雑念も簡単に流せるようになる。
そして、雑念が止まり、無念無想の三昧に入る。
そこまで行くと、息を数えるのがかえって邪魔になるだろう。
そのような時は、自然に数えるのを止めて、呼吸に集中するだけでいい。
この状態を随息観と呼ぶ。
呼吸に集中しているだけで、意識は深く、深く集中していくだろう。
そして、次第に表面の意識だけでなく、潜在意識と呼ばれるものも感じられるようになっていく。
例えば雑念を無視していると、雑念とは別に呼吸に集中している意識があるのがわかってくる。
意識が二重にあり、それぞれが別に動いているのがわかるのだ。
さらに修行が深くなると、意識は二重だけでなく、幾つもあって別に動いているのが感じ取れるようになる。
人間の頭は普段から多重に動いているのだが、普通の人間にはわからない。
修行によって集中力が深まると、潜在意識も見えるようになるのだ。
ここまで集中力が深くなれば、自我を見るのも可能になる。
精進していただきたい。
775 :自在:2007/03/25(日) 22:24:22 ID:TwdaKtpA
止の行
これまでに主に数息観を止の行として紹介してきたが、集中系の行は全て止の行として使える。
天台の止観などでは鼻先に集中する法、胸に集中する法なども紹介されている。
チベット仏教などで教える鼻先に仏陀をイメージする法、日輪や月などをイメージする法も、この集中力をつける止の行として使える。
雑念を処理し、行を深めていく段階は数息観と同じである。
仏教には八万四千の法門があり、各々の修行者が、自分にあった方法をみつけるのが一番近道であるといえよう。
肝心なことは集中力を高め、自らの心の内に有る自我がどのように起こるのかを観ることだ。
これで悟りを得る法の概要は大体説き終わった。
この2ちゃんねるという場所は、人々の言葉と思いが集まる所であり、繁華街のように喧騒の場であるとともに、真実が明らかになるところでもある。
過去にもこの2ちゃんねるで幾つもの真実が明らかになった。
愚かな者の悪言や宣伝にまどわされず、真実を求める者は、ここにおいても真実を見出すことが出来るだろう。