586 :自在:2007/02/20(火) 12:39:55 ID:wO6Yo/gR
発菩提心
悟りを得ようとする者は、初めに悟りを得る強い決意を持たなければならない。
これを菩提を求める心を発するという意味で発菩提心という。
修行の途中で訪れるさまざまな誘惑や、倦怠、恐れなどによって諦めてしまわないように、強い意志を最初に培っておかなければならない。
「私は必ず悟りを得るまで修行を止めない」
と、あなたの信じるものに、出来ればはっきりと声に出して誓いなさい。
大乗の道を行く者なら更に
「悟りを得た後に現世に戻って衆生を導く」
と、いうことも誓うべきであろう。
強い意志を奮い起こし、悟りを得ようと固く決意することが悟りへの第一歩である。
人は意志することで様々な不可能を可能にしてきた。
空を飛び、地を速く走り、海や川も征服して来た。
人の意志に勝る力はこの世にはない。
強い意志を持てば必ず修行を全うすることが出来るだろう。
588 :自在:2007/02/21(水) 20:40:38 ID:2cWzvV55
座法
座法とは座り方を意味する。
座法は修行の基本であり、同時に最後の行でもある。
修行の最後には修行者は全ての技を捨て、ただ座り続ける。
座法を極めた者には三昧も、無想も容易である。
修行者はまず、足の組み方を工夫しなければならない。
必ずしも足を結跏趺坐にしなければならない、ということはない。
背中を真っ直ぐにして、楽に長時間座れるのが一番よい。
片足だけをももの上にのせる半跏坐や、あぐらのように座ってもよい。
ただし背中が真っ直ぐになっていなければならない。
骨盤を床に立て、腹を乗せ、胸を乗せ、首から頭を乗せるように座る。
肩の力を抜き、頭の中心、お腹の中心、下腹の中心が、真っ直ぐに重力の方向に向かうようにすれば、何もせずとも自然に無念無想の境地に入れる。
中国ではこの三ヶ所を上中下の三つの丹田と呼ぶ。
三丹田をいきなりコントロールするのは難しい。
初心のうちは頭の中心、上丹田と、下腹の中心、下丹田だけでも重なるようにしなさい。
592 :自在:2007/02/22(木) 19:58:01 ID:kw6SBqyZ
座法Ⅱ
三つの丹田を揃える最も良い方法は、正中線を真っ直ぐに整えることだ。
体の前面を通る真中の線、鼻先、胸の中央、臍の三点を合わせる。
部屋にある垂直な柱の線などを利用し、自分の体の正中線が真っ直ぐになっているか確かめても良い。
正中線が真っ直ぐになっていれば、後は体を少しずつ動かして微調整をする。
体を動かして居るうちに、体が気持ち良くもっとも集中する所がわかる。
そこがあなたの座法の正しい位置である。
この感覚が判るようになるまで、座法の研究を続けるべきであろう。
道元禅師は禅とは只管打座であるとして、小賢しい技術は捨ててただ黙々と座りつづけるべきだと説いた。
座ることは修行の基本であり、基本を疎かにする者は大成することはない。
例えば野球やサッカーなどのプロスポーツを教えるコーチなどは、本当に選手を育てようとするなら、まず基本をしっかり教えるであろう。
そしてテクニックなどは、基本を身につけた後で教える。
それが正しい教え方なのだ。
同じように真の悟りを得ようとするなら、まず基本である座法を身につけるべきなのだ。
修行の基本である座法はいくら研究しても、し過ぎということはない。
各自、力を尽くして研究して欲しい。
594 :馬渡 :2007/02/23(金) 18:15:09 ID:zG7v6Im8
気になる点がひとつ。
観察行というテーマでいろんなやり取りがあった中で
禅の大悟を否定した文章があったと思う。
人によって方法が違っても
最後にたどり着くところは同じという考えもあるけど
実際のところどうなんだろう。
windowsを入れ直していて思ったんだが
例えば禅の大悟を
OSのクリーンインストールのようなものとしたら
観察行を主張する人って
あなたというOSは初期化できません
クリーンインストールは無理です
だから一つ一つのアプリケーションが
どのように動作してるかを把握して
原因を特定することで一つ一つ削除していくしかないですよ
という話なんだろうか。。。
瞑想も座禅もアプリケーションだから
それを動かしてるOSはそのままあるんだよ、てか。
どうなんでしょうねえ。
例えに無理があるかなあ
595 :自在:2007/02/23(金) 22:12:21 ID:H0EpV0Bs
>>594 なかなか良い例えだ。
例えは事実の一端を示していればそれで良い。
PCのシステムは人をモデルとして作られたために、参考になるところがある。
OSを自我と例えると、禅やヨーガのような集中系の行は、強い集中力によって自我を観照するのであるから、OSを力技で排除しクリーンインストールするようなものと言えよう。
観察はOSの仕組みそのものを理解してOSを排除するようなものと言えよう。
どちらにせよ、最後には自我を観照するのであるから、正式な方法として私は観察を薦めている。
多少、質問の傾向を違えてしまったようだが、これで答えになっているだろうか?
596 :自在:2007/02/23(金) 22:47:21 ID:H0EpV0Bs
無常
座法ができるようになったのなら、この世の在り様を知り、悟りに向かう意志を固めるために、無常の観想をする。
無常とは字の通り、全てこの世にあるものは常にあるといことが無く、移り変わって行き、止まるもののないことを意味している。
私のこの身も時がくれば滅びる。
そしてあなたの身はどうであろうか。
近親者を亡くしてしまった者は、この無常ということが良くわかるであろう。
人も物も、全て変化し続け、やがて滅びる。
それを逃れるためには修行して悟りを得るしかないと、深く心に思うのだ。
私は修行中は死を思うことに疲れ、修行を止めようかと思った時があった。
私も世の人々のように、死を思うより、限られた生を楽しもうと、そのような事を考えながら歩き、交差点で信号待ちをしていると、一匹の蝶が飛んできた。
蝶は車の行き交う車道に飛び出した。
そして、車にぶつかり一瞬にして消えた。
その体は一枚の羽も残さなかった。
あの蝶は恐らく何も知らずに死んでいったろう。
この世には自動車というものがあり、それにぶつかって自分が死んだという事さえ判らなかったであろう。
自分が死んだという意識さえなかったかも知れない。
何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
その恐ろしさに私は震えた。
私にはそのようなことは耐えられなかった。
その蝶の最後は百万の経典より、確実に私に無常、死というものの恐ろしさを教えてくれた。
その後、私は修行を続け、悟りを得て死の恐怖を克服することができた。
死を克服しようと言う動機こそ、人を悟りに向かわせる最も強い力になる。
例えばあなた自身が生まれてから成長し、成熟して、やがて衰え、死に至る過程をイメージすることで、無常と死を免れぬ自分というものを意識できるだろう。
精進していただきたい。
598 :金平糖 :2007/02/24(土) 09:28:16 ID:kTj2YMiM
>>596 自在さん
>何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
>その恐ろしさに私は震えた。
>私にはそのようなことは耐えられなかった。
悟りを得られたとのことですが、悟りを得たことによって、それまでの死の恐怖は
どのように変化しましたか?
現在、死をどのようなイメージでとらえていますか?
601 :自在:2007/02/24(土) 22:01:47 ID:gEeVMYrI
>>598
悟りを得た後、死は存在しないと知ることができた。
そして死への恐怖は消えた。
肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ。
しかし、その知識を得ることが、即ち悟りを得ることではなく、副産物として得ることが出来る知識の一つだ。
>>594
この例えの良い所は多くの修行者を悩ませ、真の覚者達が言及して来た問題を明示している点だ。
PCではOSに依存しているアプリケーションは、OS自体を削除することができない。
人では自我によって行う全ての行為は、自我を補強するだけで脱落させることが出来ないということだ。
それ故に観照というものが必要になる。
この観照は観察の一種であるが、自ら引き起こすことは出来ない。
これをクリシュナムルティは見ることと呼び、オショーはアウェネスと言い、鈴木大拙は看と呼んだ。
PCに例えればOSの働きを止め、BIOSからの指令を待ってOSを削除するというような感じになろうか。
自我の働きを抑え、自然に湧き起こる観照だけが自我を消滅させ得る。
この観照はとても大切なものであるから、別に一項を設けて言及する。
今日はこれまで。
602 :金平糖 :2007/02/24(土) 23:06:21 ID:Pa8bIUaO
>>601 自在さん
>肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
>それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ
永遠不滅の意識ですか・・・・・・・・。
輪廻のことをおっしゃっているのですか?
ブッダでさえ「死後の世界」については沈黙を通したらしいですよ。
自在さんのお話って、どうもキリスト教的解釈としか思えないんですが。
もし、例え肉体は滅んでも「自分の意識(魂)」は後世に受け継がれるということを言わんとしているとしても、
「あなたの意識(魂)」というのはそれを受け継いだ(受け継ぐ)人間の意識(概念)によるものではないでしょうか?
「永遠不滅の意識」ということ自体、自在さんの概念であり信仰に過ぎないと思いますが・・・・・・・。
604 :自在:2007/02/25(日) 19:54:46 ID:m8v/Q6Xw
>>602
あなたの質問に答えるのは容易であるが、>>524のような反応を考えると、あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
だから逆にあなたが私に教えて欲しい。
Ⅰ 私は輪廻を知って死の恐怖を克服したと書いただろうか?
Ⅱ 仏教において輪廻と悟りはどのような関係であると説かれているか?
Ⅲ キリスト教は輪廻の概念を肯定しているだろうか?
Ⅲ キリスト教は神を信じないものが修行によって救われると教えているだろうか?
Ⅳ 仏陀は死後の世界を説かなかったと言うなら、「ダンマパダ(法句経)」の次のような詩句は何を意味しているか?
テラワーダ協会による和訳「ダンマパダ」
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhammapada-jp.html#10
棒の章より
131
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害する者が、自己の安楽を求めるなら、死後に、安楽を得ることはない。
132
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害さない者が、自己の安楽を求めるなら、彼は、死後に、安楽を得る。
悪の章より
或る者たちは、〔母〕胎に再生する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。善き境涯(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。
Ⅴ あなたに仏陀は死後の世界を説かなかったと誰が教えたのか?
Ⅵ あなたに嘘を教えた者をこれからも信奉すべきだろうか?
正直な所、あなたの才能は教義とは異なる所にある。
あなたには実務の素晴らしい才能がある。
今後はそちらの才能を発揮して欲しい。
605 :自在:2007/02/25(日) 20:05:49 ID:m8v/Q6Xw
数息観
数息観は集中力をつけるために非常に良い。
観察が本道であるが、集中力の無い一般の人間には観察自体が困難だ。
集中力を増し、雑念を静める力を養うために、数息観を止の行としてお薦めする。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていく。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数える。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻る。
簡単であるが効果は非常に高い。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けてほしい。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなる。
そして、日常生活でも落ち着きが出て、不意の出来事でも慌てないようになる。
精進していただきたい。
606 :自在:2007/02/26(月) 22:28:05 ID:FHXYPjOS
数息観 雑念の処理
数息観などの瞑想をしていると、必ずといっていいほど悩ませられるのが雑念である。
瞑想をしていたはずなのに何時の間にか、全く別のことを考えていたという経験は多くの方がしているだろう。
これらの雑念を処理するコツは無視することである。
雑念を止めようとか、抑えようとすればそれが新たな雑念となる。
それよりも雑念が生じても、無視して息を数えることに集中する。
そのようにすれば、次第に雑念は少なくなり消えていくだろう。゜
雑念ばかり頭に浮かぶからといって、怒ったり、焦ったりする必要はない。
ただ確かな信念を持って修行を続ければ、次第に集中力が付き、雑念を完全に処理することができるようになるだろう。
607 :吽狛:2007/02/27(火) 08:51:43 ID:7hLBQB93
めちゃ、庶民的な事を、悟り開いた人に尋ねたい。
ある日、ウチの子供に、ダンナが
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
と言って、子供の鼻をつまんでいました。
子供は、まだ0歳なので、言葉とか分からないので、
「?」というような顔をして見てるだけですが、
一応、その時は、「○ちゃんは、このままでかわいいよ。」と子供に言った。
今は言葉が分からないから、なんともないけど、子供が、大きくなって、
言葉が分かるようになって、そういう事言われたら、傷つくかもしれない。
いや、本人じゃないので分からないから傷つかないかもしれないけど、傷つくと、私は思っている。
そういう場合、覚者さんは、どういった対処をするんでしょうか?
609 :名無しさん@3周年 :2007/02/27(火) 09:34:52 ID:p/VfhKwb
>>607
自分がそう思っているのなら、夫の奇行を戒める事だ
610 :自在:2007/02/27(火) 20:55:27 ID:L2vf18Sg
>>607 は >>609の言う通りだ。
子供を守るために夫であっても、もう少し積極的に止めてもいい。
子供には言葉がわからなくとも、両親の心は伝わる。
子供が寝る前に、あなたはとても良い子だと話しかけてあげなさい。
612 :自在:2007/02/27(火) 21:13:55 ID:L2vf18Sg
数息観 三昧(サマーディ)
数息観を熱心にやっていれば、雑念がやがて止まり、完全な無想の状態が現れる。
外部からの刺激にも心が動かされない完全なる集中状態を、三昧(サマーディ)と呼ぶ。
この三昧は昔からよく悟りと間違えられてきた。
悟りを得たと勘違いする者の多くは、この三昧を経験しただけの者だ。
しかし、悟りと三昧は明らかな違いがある。
三昧は一時的な経験に過ぎない。
悟りは精神の恒久的な変化である。
例えば行をする前に借金や、体の痛みに悩まされていた者がいたとしよう。
三昧の途中では世俗の悩みや痛みを忘れていても、三昧から覚めると又、悩みや痛みが戻ってくる。
悟りを得た者は、もはや悩みや痛みには苦しめられることはない。
それらが消えてしまう訳ではないが、もはや目覚めた者を煩わす苦ではなくなる。
これが三昧と悟りの違いである。
悟りを求める者は、三昧に止まらず、真の悟りを求めて更に修行を続けるべきであろう。
613 :金平糖 :2007/02/27(火) 22:20:41 ID:nfsJIv0u
>>604 自在さん
解脱者は、「私は解脱した。」とは言わないそうです。
http://www.j-theravada.net/qa/qahp68.html
私が申し上げたいのは以上です。
また、以下も参考にされたし。
http://www.j-theravada.net/qa/index.html
614 :名無しさん@3周年 :2007/02/28(水) 00:20:06 ID:CV9LEIqy
>>613横レスでスマンのだが、
>604での
>あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
という書き込みが当たっていたことを実証したわけですな。
>解脱者は、「私は解脱した。」とは言わないそうです。
例外なくそうなのか、その妥当性はどこに求める?
自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
酔っ払いで「俺は酔ってねぇ」って言う奴は一杯いるのは確かだけど。
615 :金平糖 :2007/02/28(水) 07:43:17 ID:rgyHnrFO
>> 614
http://www.j-theravada.net/qa/qahp68.html
を読んでいただけたでしょうか?
大事なのは、以下の部分です。
>私という錯覚、『自我』という錯覚はなくなっているので、『自分』を表現しない。
>発表しない。他人に認めて欲しいという気持ちは完全に、全くもありません。
>だから、自分で「解脱した」言わない、言えないのです。
悟り=忘我とも定義できます。
自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
構造自体おかしくはありませんか?
掲示板と言う性質上、何らかの言葉(概念)で表現しなければならないという制限は受けますが、
ここに書かれている自在さんの言葉は自在さんの概念(観念)に過ぎません。
勿論、仏教の知識もキリスト教の知識も沢山お持ちの方だというのはわかりますが、
その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは?と思うところが多々ありました。
また、仏教の知識が多い、方法論に詳しいのは素晴らしいことだと思いますが、そんなに難しい言葉や
文章で表現しないと悟れないの?っとも思いました。
もし難しいことだとしても、その難しいことを平易な言葉で簡単に説明できるのでは?とも思います。
もっとも、これは私の願望ですが・・・・・・・・・。
>自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
>都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
自在さんがどういう方なのか私にはわかりません。解脱者といのも自在さんの自己申告ですから・・・・。
もし、どちらを信じるのか?と問われれば、『今は』、少なくても所在のはっきりしているテラワーダ協会HP
かもしれませんが、最終的には自分で確かめるしかないでしょう。
悟りもそんなのんじゃないでしょうか?100人いれば100人の悟りがあるはずですから。
616 :名無しさん@3周年 :2007/02/28(水) 08:34:02 ID:CV9LEIqy
>>615
ちゃんと読んだ上でレスしたよ。
引用部分には論理的帰結は見出せない。
>『自分』を表現しない
ことと表現できないこととは積極性の有無という点でまったく異なっている。後半の
>「解脱した」言わない、言えないのです。
と両方を無理矢理結び付けている。
特に、その後に続く、
>第三者に「この方が解脱者です」と言える。
>これを言うために言う人は解脱していないとできません。
ここは完全に間違っている。
悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
>自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
>構造自体おかしくはありませんか?
それとて、あなたが作り出しているあなたの構造。現にあなたはあちこちで質問をしている。
>その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは
あなたの知識がそう結び付けただけ。あなたが自在さんの言葉を信じるか選択する際、
仏教やキリスト教というオーソリティによる裏づけを求めたからそうなる。
選択的に信じることより、批判的批判・批判的肯定をきっちり行うことのほうが
清濁入り乱れている宗教・思想関係の理解には役立つと思うよ。
617 :金平糖 :2007/02/28(水) 09:11:37 ID:rgyHnrFO
>>602
>悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
>そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
すみません、私は悟ってませんよ。悟っていないから自在さんが悟っている人かどうかはわかりません。
ただ、なぜ自在さんが御自分の意見をそんなに表そうとするのかわかりません。
「わからないのは、あなたがわかろうとしていないからだ。」といわれればそれまでですが・・・。
もちろん、自分(この私)が正しいとも思っていません。また、自分の概念を第三者に
押しつけようとも思っていません。そもそも、押し付けられるわけがありませんから。
あなたのご指摘には感謝いたします。ありがとうございました。
618 :614 :2007/02/28(水) 10:34:56 ID:CV9LEIqy
>>617
意図が伝わってないようですね。
まぁ、いいや。
619 :吽狛:2007/02/28(水) 12:43:11 ID:cjdstMFJ
>>609 >>610
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
と言っているダンナに、どう言って止めたら良いと思いますか?
それとも、殴るとか?(汗
今まで、全く、積極的に止めてこなかったわけではなく、
言い方を変えて、いろいろ言ってきたんだけど、忘れてしまうのか、
言い方が優しすぎたのか?また、同じような事を子供に言うんです。
だから、ダンナの行動を止める、もしくは変えるのは、不可能なんではないかと思いました。
でも、言い続けるべきなのかな?
変わることはなさそうだけど・・・・。逆に、ひねくれてしまうかも知れん(汗
620 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/28(水) 13:18:27 ID:6VH3zN3u
家族なんだから、痛みを分け合いましょ♪
って言って、旦那にも洗濯バサミするとか?
621 :吽狛:2007/02/28(水) 14:48:24 ID:cjdstMFJ
いや、実際、鼻に洗濯バサミする事はないと思うけど(笑)
鼻に洗濯バサミする事を止めるんじゃなくて、
「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
というバカな発言を止めるには、どう言ったらよいのでしょうか??
625 :自在:2007/02/28(水) 20:43:09 ID:OpT55d0E
>>621 同じ言葉で何度も何度も言いなさい。
「そんなことを言わないでほめてあげて」などの言葉を、何度も繰り返し告げるのです。
千回ほど繰り返せば、大抵は修正される。
これは仏陀が子息を諌めた時に使った技だ。
子供が少し大きくなって、危ない行動を注意するときなどにも使うといい。
626 :自在:2007/02/28(水) 20:45:48 ID:OpT55d0E
>>618 ありがとう。素晴らしい論理だ。
627 :自在:2007/02/28(水) 21:28:32 ID:OpT55d0E
>>617
あなたの言葉は意図するところと反して、かえって私の言おうとしていることを質問するような形になっている。
あなたがいろいろと活躍してくれたおかげで、まがい物の導師達は消え、ここは私のブッダ・フィールドになった。
これも仏陀の経綸の一部なのだ。
あなたの自我には理解できないかも知れないが、あなたの潜在意識は私という本物の目覚めた者にあって震え、恐れながらも質問を止めることができない。
全ては定められた通りに進行している。
あなたの質問通り、私がどうして教えを説くのかを語ろう。
例えば昔、汚れたどぶに落ちた経験のある者の子供が、同じどぶに落ちてしまったとしよう。
親はどぶが汚く、危険に満ちたところであると知っているから何とかして子供を助け出そうとするだろう。
同じように目覚めた者にとって衆生は全て我が子であり、汚濁の世にあって苦しむのを見て法を説く。
私自身、世にあって死の恐怖や執着の悩みに苦しめられた。
それがどれほど強力に人を苦しめ、悩ませるかを知っている。
そして最後には死によって、全てを失うという最大の苦痛が待っている。
だからかつての私のように同じ苦しみを抱える者に法を説くのだ。
そして、先ほどの例のどぶに落ちた子供を助けるのに、あまりにも深くて子供自身が努力して這い上がらなければならないようなどぶであれば、親はいろいろと言葉をかけてやるだろう。
「私はそのようなどぶから抜け出た。お前もそうしろ」という親もいれば「私はまだどぶから抜けていないが、そこから抜け出す法をしっている」という者もいるだろう。
私が師として言動を模範とするのはただ仏陀・釈迦牟尼だけであり、他の者達は参考にはするが、基本的に何を語ろうが関係はない。
そして釈迦牟尼は自らが解脱したと、はっきり語られた。
故に私もそのように語るのだ。
1 :悟ラー:2006/06/21(水) 22:07:20 ID:sE0azmZW
何か質問ありますか。
446 :自在:2007/02/12(月) 22:51:42 ID:eX2eu4Mq
本来、私はこのような言葉遊びに口を出すことはないのだが、義務として書いておく。
悟りを得ていないのに得たと言うのは止めなさい。
悟りを得ていないのに得たと言うものは、天地を欺く咎を負う。
かつて悟りを得ていないのに得たと言った者がいた。
一人は今、刑務所で死刑を待つ身だ。
一人は若くして命を落とした。
真摯なる修行者を欺き、自らを昂ぶらせてはならない。
ちいさな満足感を得るために、永劫の地獄に落ちるのは愚か者である。
私がこのように説いても、心昂ぶらせたものは聞くまい。
だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
私は確かに真実を教え、警告したのだから。
456 :brown:2007/02/13(火) 02:16:04 ID:tBSJu4Tb
>>光ファイバーEOさん
なんだかとっても怒ってるみたいだけど,とにかくごめんなさい。
光ファイバーEOさんは瞑想を心得てるんですか?
他力本願であれだけど,心得てるなら,その方法でちとその怒りの矛,
納めてみてください。
457 :光ファイバーEO:2007/02/13(火) 02:28:41 ID:habbmUoQ
怒る?
そのような話はしていないのだが・・・
もう一度書くけど
概念と悟りは等しくないぞ
迷いには原因があるぞ
自己観察などでは悟れんぞ
こう主張しているのだが・・・
464 :吽狛:2007/02/13(火) 06:59:27 ID:xaLGqfsj
>>446 自在さん
具体的に、どの書き込みに対して、そう思ったのか、書いて欲しかったなあ・・・。
>だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
>私は確かに真実を教え、警告したのだから。
まあ、本当に、悟ってたら、そんな事、気にしないと思うけど、
悟ってなくて、悟ってるって勘違いしてた場合はどうなるの?
468 :自在:2007/02/13(火) 13:36:32 ID:WSZa7F86
>>446 あなたは真面目に修行をしているようだから書いておきます。
私が誰かを名指した非難をすることはありません。
しかし、自己観察では悟れないと書くのはいけません。
そのような言葉が間違いであると書けばわかるでしょう。
自己観察こそが真摯な修行者を真の悟りへと導く最も正しい道です。
このような言動に惑わされないように修行を続けてください。
あなたは正しい道を歩んでいる。
私が警告を書いたりするのは、気になるからではなく、哀れみからです。
例えば親が子供に、間違いで自分を傷つけないようにと諭すのと同じことです。
僅かな満足感のために永劫の苦痛を受けないように、気をつけなさいということです。
残念なことに真実を告げられてもかえって反発してしまう者も多いが。
最後の質問
勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
確信して他人を欺く者よりは軽く。
470 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/13(火) 21:57:48 ID:XZmGPp2d
>>468
面白い奴だな。
真似してやろう。
初心者の貴方には維摩経を勧めよう。
自他の不二門を知らぬが故に。
471 :トトロン:2007/02/13(火) 23:14:56 ID:kAqVt6ny
>>446
すばらしいお言葉身にしみます.簡単に悟ったなど言うべきではないとは
私も思います.ただ私が思うに,この世の一部の人が悟った状態になるだけ
で良いのでしょうか?私は全ての人が,呼吸をするように悟った状態にな
れる日が,いつか来れば良いなと思っています.でもそうなった時に痛みが
発生するとするなら,その痛みに絶えられるかどうか・・.
488 :吽狛:2007/02/14(水) 09:05:32 ID:pxHVRY7f
>>468 自在さん
ありがとうございます。う~む。。。。自己観察は、続けます。
ただ、まあ、どうでも良いことかもしれないですが、
自己観察では、悟れない、と言うのは、ある意味、間違ってはいない。と、私は思います。
悟りには、段階・・・というか、純度というか・・・そういう、あ、
十牛図は、私は、詳しくないので、よく分からないですが、
たぶん、それで説明が付くのかもしれないと思います。
「全ては悟っている」という事と、「悟っている人が、悟っていない人を導く事」は矛盾しているように感じる。
けれど、それは、十牛図の8,9,10のいずれかから、覚者が話しているからでしょう。
後は、個人の方便の違いとかですね。とか、私は、思います。
>最後の質問
>勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
>確信して他人を欺く者よりは軽く。
うへえ・・・。そうか、やばい。
以前に、「自分は、悟った」と勘違いして、人に言った事があって(汗
まあ、でも、説法とかはしてないので、大丈夫かな??駄目か・・・。
この場を借りて、謝ります・・・。私は悟ってなかったです。勘違いでした。
単に、魔境に入ってただけです。バカでした。迷惑かけた方々、ごめんなさい。
これでも、駄目だったら、マジで悟るしかないですね。
悟ったら、きっと、地獄も極楽でしょう・・・。
492 :自在:2007/02/14(水) 11:27:45 ID:+wlIoOYO
>>470 あなたはもう正しい知識を得ている。誰の真似をすることもない。
>>471 全ての人が悟りを得るべきであると、私も思います。自分自身の意志によって。その時には痛みはなかったと全ての人が知るでしょう。
>>488 自己観察が正しい道であるというのは、どのような道を通っても結局は最終的に自我を観照することになるからです。三昧や空観などの、どの行においても最後は自我を観照することで、悟りに至ります。
修行中にはどうしても迷いが出勝ちですが、自己観察が最も正しい道に違いはありません。
例えば山の頂上に上ろうとするとき、真っ直ぐに頂上を目指す道が、回り道に比べて最も正しい道であるが、最も険しく困難な道であるように、正しい道であるが故に苦しい道なのです。
あなたは既に頂上の近くまで来ている。
恐れは観照されようとする自我を、未だ自己であると思っているからです。
恐れが生じたなら恐れは空であり、縁起によって出来たものであり、実体の無いものであると空を観じてもいいでしょう。
そのまま正しい道を歩んでください。
最後に、
あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
494 :金平糖 :2007/02/14(水) 11:46:33 ID:23WZ3BaY
>>492
自在さんは、仏教徒ですか?クリスチャンですか?
どちらでもあり、どちらでもない、自由人なんですね。
自由人だからどっちにもトランスできるし、超越しているんでしょうね。
499 :金平糖 :2007/02/14(水) 19:12:57 ID:nT2x6udZ
>>492 自在さん
>最後に、あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
>私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
>>494で書き漏れたので、追加。
どうして、あなたに告白することで赦されるんですか??
神だからですか?覚者だからですか?
500 :自在:2007/02/14(水) 20:56:47 ID:+wlIoOYO
>>499
私はかつて仏陀を信じる者であった。
今は仏陀の法を知り、証する者となった。
懺悔の法はかつて仏教にあった。
初期経典には紛れも無く記してある。
目覚めたものや先達の菩薩に罪を告白し、悔いたものは許される。
それが仏陀の定められた法である。
人々が忘れ去った法を再興するのも私の仕事である。
それをあかすのに、あなたの力が必要だった。
善き者よ。
あなたを祝福する。
501 :金平糖 :2007/02/14(水) 21:11:08 ID:nT2x6udZ
>>500 自在さん
信じる 証(あかし) 懺悔 罪の告白 許し(赦し)
善き者 祝福
これって、キリスト教用語ですよ。
なんか、わからんなぁ~~~~~。(笑
502 :自在:2007/02/14(水) 23:03:05 ID:+wlIoOYO
>>501
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94%E5%81%88
もう少しのところまで来ている。
この国にキリスト教が入ってきた時、キリスト教の用語を理解できなかった日本人は仏教から言葉を借りてあてはめた。
懺悔も罪も善き者と言う言葉も、もともとは仏教語なのだ。
そこのところは承狂師の方がくわしかろう。
若い者が知らなくとも無理は無い。
懺悔の法も忘れさられて久しい。
あなたの問いはそれをあきらかにした。
再び仏教語であなたを祝福する。
524 :金平糖 :2007/02/15(木) 09:12:01 ID:JVP4NiFD
>>502 自在さん
リンク、ありがとうございます。
>もう少しのところまで来ている。
天の御国は近いってことですか?これまた、キリスト教的発想ですね。
そうではなくて、「既にそこにいるんだよ。なのに迷いにとらわれてそれに気がつかないだけだよ。」
っていうほうが仏教的だと思いますが。
あなたに祝福していただく道理がわかりませんねぇ。
祝福している御自分を祝福していらっしゃるんですよね。自在さんの自己満足の世界ですね。
>>492で山登りの例え、brownさんとそっくり。
543 :自在:2007/02/16(金) 11:51:23 ID:by3lXTDj
今後のために自我が観照されてからのことを書いておこう。
自我が観照された時、それはもはや維持力を失って消え去る。
もともとそれはイメージに過ぎなかったのだと修行者は理解する。
そして、沈黙、静寂、安心の境地があらわれる。
これは言葉通りのものではないが、そこに達したものだけに理解できる単語である。
しかし、未だその境地を見るもの、認識が残っている。
これを観照しなければ大悟徹底の境地ではない。
白蔭禅師などが「大悟二度」とい言っているのはこの自我と認識の二度の観照を意味している。
自我の邪魔がなければ認識の観照は容易い。
修行者は今、この感覚を見ている者は何か、どのようにして見ているのかを観照するか、あるいは空観を用いて見るものは空であり、実体が無く、縁起によって生じたものであると、観じ消滅させよ。
そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
もはや為す者も為される物もない。
ただ無為にして座せよ。
全ての神秘が目覚めた者の前に開かれる。
ニルヴァーナの喜びは至上のものであるが、目覚めた者は現世に戻り、未だ苦渋に迷う衆生を救うべきである。
目覚めた者よ、願わくば多くの衆生を導かれよ。
548 :名無しさん@3周年 :2007/02/16(金) 18:30:44 ID:bNgTek7M
>>543
自在さん、マジでお聞きしたいのですが、
>そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その現れた悟りをまた認識するのですか?
現れた、ということを知覚してというのはどういうことなのでしょう?
>その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
>もはや為す者も為される物もない。
その境地のとき、その状態をどう知覚しているのでしょうか?
境地と一体となり、観察者はいないということですか?
その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
そのあたりがいまだよくわかりません。
どこまで消えるのかということが。
555 :吽狛:2007/02/17(土) 05:32:34 ID:3kcOwIXk
>>543 自在さん
「自我が観照されてからのこと」と、書いてあるので、悟ってからのことですね。
自我を観照し、沈黙し、安心の境地が現れる。これが大悟の一度目。
でも、こんなの、大悟でもなんでもない・・・。
これを、大悟思ってる人に向けて言ってる言葉だとは思うけど。
だから「観照者」という自我が残っている。
「観照者」である自我を「観照」する。これが、いわゆる大悟だと、私は思う。
けど、自我のとき「観照者」は、どこまで行っても「観照者」でしかありえない。
悟らないと、「観照者」を観照する事は不可能。
自我のまま、やれることじゃない。
ま~、はっきり言って、自在さんが説明している観照は、私には意味がないというか・・・汗
564 :自在:2007/02/17(土) 19:57:06 ID:gKqG9aS2
>>548
>その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
>こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
感覚的にはこの表現が一番近い。
理論的に表現されたものでは「唯識論」の中の阿頼耶識の消滅について書かれたものを参考にしていただきたい。
>>555 正直な所、その境地については、今はまだ判ってもらえぬであろうとは考えていた。
言葉は全て仮説であり、言葉自体を超えたところを表すにはとても不自由な道具でしかない。
しかし、悟りを得た時に、私が何を言おうとしていたのか、判る時が来る。
全ての目覚めた者の言葉、全ての聖なる教典は目覚めた後にしか本当の意味は判らない。
ただ、自我を失った後もこのように言葉を操り、思考し、意識を保つことができるということを示すことで、自我を失う恐怖も無用なものと知るだろう。
569 :迷い人:2007/02/17(土) 21:20:39 ID:i8/FEw3x
自在さんにお聞きしたいんですが、
自我を失うと意志だけで行動するように
なると思うのですがいかがでしょうか?
意志はただ「する」か「しない」かのどちらかですよね。
そこに善悪の区分もないし、強迫観念もない。
ただ、したいからする、したくないからしないって感じで。
でも自我があると、意志した後に
「しようとする」「嫌々する」「怒られるからする」
「不安で怖いからしない」「めんどくさいからしない」
って感じで自我が割り込んで来て、動機が不純になりますよね。
意志だけだと動機も純粋で、したい事がなんでも出来そうな気がします。
意志が強い人って、自我をはねのける力が強いんだろな。
いまいましい自我の出端を挫いてやりたい!!
581 :自在:2007/02/18(日) 13:10:35 ID:cmpDjPDm
>>569 あなたの言う通りだ。
自我が意志を縛り、迷わせ、人をして間違った道に足を踏み入れさせる。
そして自我を肥大させた軍人や政治家たちが虐殺を繰り返している。
小さなブリキの勲章を胸につけるために、自分の命を危険にさらし、他人の命を奪っていく犯罪者達。
自我を擁護するにせものの言葉は、今世界で起こっていることに目をそむけ、自らの自我を守るための言葉でしかない。
戦争を止めさせるための戦争、虐殺を止めさせるための虐殺を信じてはならない。
真の平和は自我の終焉と共に訪れる。
貴方達こそ真の平和を実現する者だ。
心を止める数息観や集中などの行をなし、己の心をみつめなさい。
止むことなく修行を続けるものは、いずれ自我の消滅を果たし、誰の言葉にも縛られることのない自由な意志を獲得するだろう。
584 :自在:2007/02/20(火) 12:09:53 ID:wO6Yo/gR
>>446について。
仏陀の教えは我々のみならず全ての衆生の宝であり、梵天をはじめとする天神地祇達が守っている。
そのような宝を汚すものに、容赦の無い罰があたえられるのは当然のことである。
そして、天神地祇の加護を失った者に、魔王が盗り憑く。
魔王に盗り憑くかれた者は、己の意志を失い自らを滅ぼす過ちを犯して止むことが無い。
数々の過ちを犯しながら、己は正常であると思っている。
既に他者から見れば破綻は明らかであるのに。
例えば何も知らない幼い子が台所から刃物を持ち出し、悪戯に振りまわしたらどうなるだろうか。
そのような子は刃物で自分も、他人も傷つけるであろう。
そして刃物の危うさを知る大人は、例え己の子でなくとも刃物を取り上げ、叱るであろう。
仏陀の法は人を悟りに至らしめるが、他人を欺くために用いれば自分も他人も地獄に陥れる。
刃物が台所では役立つが、幼子の悪戯に用いれば自他を傷つけるように。
目覚めた者はこの危うさを知り、何も知らぬ幼子のような者に警告を出す。
幼子と他人を傷つけまいとして。
しかし、既に魔王に盗り憑かれ、己の意志を失った者は聞かず、地獄への道を辿っていく。
そのような者は欺瞞の罪を告白し己を救おうとしなければ、仏陀も救うことは出来ない。
585 :自在:2007/02/20(火) 12:25:50 ID:wO6Yo/gR
>>543 について。
これは修行者が行く最後の関門を示したものだ。
例えば大学の卒業試験や論文のようなものである。
初心の者に対しては入学からの行を説く。
しかし、順番が逆になったわけでもない。
頓悟は初心の者にも偶然に訪れることがある。
そのような時には慌てずに、この教えを思い出すように。
偉大な仏陀・釈迦牟尼は「我が教えに師拳なし」と言われた。
仏陀の全ての教えは金で購われることなく、全ての衆生に開放される。
それはネットの上でも同じことである。
まがい物の導師たちよ、我が教えを模倣するがいい。
魔王に憑かれた者たちよ、我が教えをけなすがいい。
それら全ての行いが、仏陀の真の法を広げる役に立つだろう。
全ては仏陀の経綸の内に在る。
目覚めた者の智恵は常人には計り知ることが出来ない。
何か質問ありますか。
446 :自在:2007/02/12(月) 22:51:42 ID:eX2eu4Mq
本来、私はこのような言葉遊びに口を出すことはないのだが、義務として書いておく。
悟りを得ていないのに得たと言うのは止めなさい。
悟りを得ていないのに得たと言うものは、天地を欺く咎を負う。
かつて悟りを得ていないのに得たと言った者がいた。
一人は今、刑務所で死刑を待つ身だ。
一人は若くして命を落とした。
真摯なる修行者を欺き、自らを昂ぶらせてはならない。
ちいさな満足感を得るために、永劫の地獄に落ちるのは愚か者である。
私がこのように説いても、心昂ぶらせたものは聞くまい。
だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
私は確かに真実を教え、警告したのだから。
456 :brown:2007/02/13(火) 02:16:04 ID:tBSJu4Tb
>>光ファイバーEOさん
なんだかとっても怒ってるみたいだけど,とにかくごめんなさい。
光ファイバーEOさんは瞑想を心得てるんですか?
他力本願であれだけど,心得てるなら,その方法でちとその怒りの矛,
納めてみてください。
457 :光ファイバーEO:2007/02/13(火) 02:28:41 ID:habbmUoQ
怒る?
そのような話はしていないのだが・・・
もう一度書くけど
概念と悟りは等しくないぞ
迷いには原因があるぞ
自己観察などでは悟れんぞ
こう主張しているのだが・・・
464 :吽狛:2007/02/13(火) 06:59:27 ID:xaLGqfsj
>>446 自在さん
具体的に、どの書き込みに対して、そう思ったのか、書いて欲しかったなあ・・・。
>だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
>私は確かに真実を教え、警告したのだから。
まあ、本当に、悟ってたら、そんな事、気にしないと思うけど、
悟ってなくて、悟ってるって勘違いしてた場合はどうなるの?
468 :自在:2007/02/13(火) 13:36:32 ID:WSZa7F86
>>446 あなたは真面目に修行をしているようだから書いておきます。
私が誰かを名指した非難をすることはありません。
しかし、自己観察では悟れないと書くのはいけません。
そのような言葉が間違いであると書けばわかるでしょう。
自己観察こそが真摯な修行者を真の悟りへと導く最も正しい道です。
このような言動に惑わされないように修行を続けてください。
あなたは正しい道を歩んでいる。
私が警告を書いたりするのは、気になるからではなく、哀れみからです。
例えば親が子供に、間違いで自分を傷つけないようにと諭すのと同じことです。
僅かな満足感のために永劫の苦痛を受けないように、気をつけなさいということです。
残念なことに真実を告げられてもかえって反発してしまう者も多いが。
最後の質問
勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
確信して他人を欺く者よりは軽く。
470 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/13(火) 21:57:48 ID:XZmGPp2d
>>468
面白い奴だな。
真似してやろう。
初心者の貴方には維摩経を勧めよう。
自他の不二門を知らぬが故に。
471 :トトロン:2007/02/13(火) 23:14:56 ID:kAqVt6ny
>>446
すばらしいお言葉身にしみます.簡単に悟ったなど言うべきではないとは
私も思います.ただ私が思うに,この世の一部の人が悟った状態になるだけ
で良いのでしょうか?私は全ての人が,呼吸をするように悟った状態にな
れる日が,いつか来れば良いなと思っています.でもそうなった時に痛みが
発生するとするなら,その痛みに絶えられるかどうか・・.
488 :吽狛:2007/02/14(水) 09:05:32 ID:pxHVRY7f
>>468 自在さん
ありがとうございます。う~む。。。。自己観察は、続けます。
ただ、まあ、どうでも良いことかもしれないですが、
自己観察では、悟れない、と言うのは、ある意味、間違ってはいない。と、私は思います。
悟りには、段階・・・というか、純度というか・・・そういう、あ、
十牛図は、私は、詳しくないので、よく分からないですが、
たぶん、それで説明が付くのかもしれないと思います。
「全ては悟っている」という事と、「悟っている人が、悟っていない人を導く事」は矛盾しているように感じる。
けれど、それは、十牛図の8,9,10のいずれかから、覚者が話しているからでしょう。
後は、個人の方便の違いとかですね。とか、私は、思います。
>最後の質問
>勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
>確信して他人を欺く者よりは軽く。
うへえ・・・。そうか、やばい。
以前に、「自分は、悟った」と勘違いして、人に言った事があって(汗
まあ、でも、説法とかはしてないので、大丈夫かな??駄目か・・・。
この場を借りて、謝ります・・・。私は悟ってなかったです。勘違いでした。
単に、魔境に入ってただけです。バカでした。迷惑かけた方々、ごめんなさい。
これでも、駄目だったら、マジで悟るしかないですね。
悟ったら、きっと、地獄も極楽でしょう・・・。
492 :自在:2007/02/14(水) 11:27:45 ID:+wlIoOYO
>>470 あなたはもう正しい知識を得ている。誰の真似をすることもない。
>>471 全ての人が悟りを得るべきであると、私も思います。自分自身の意志によって。その時には痛みはなかったと全ての人が知るでしょう。
>>488 自己観察が正しい道であるというのは、どのような道を通っても結局は最終的に自我を観照することになるからです。三昧や空観などの、どの行においても最後は自我を観照することで、悟りに至ります。
修行中にはどうしても迷いが出勝ちですが、自己観察が最も正しい道に違いはありません。
例えば山の頂上に上ろうとするとき、真っ直ぐに頂上を目指す道が、回り道に比べて最も正しい道であるが、最も険しく困難な道であるように、正しい道であるが故に苦しい道なのです。
あなたは既に頂上の近くまで来ている。
恐れは観照されようとする自我を、未だ自己であると思っているからです。
恐れが生じたなら恐れは空であり、縁起によって出来たものであり、実体の無いものであると空を観じてもいいでしょう。
そのまま正しい道を歩んでください。
最後に、
あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
494 :金平糖 :2007/02/14(水) 11:46:33 ID:23WZ3BaY
>>492
自在さんは、仏教徒ですか?クリスチャンですか?
どちらでもあり、どちらでもない、自由人なんですね。
自由人だからどっちにもトランスできるし、超越しているんでしょうね。
499 :金平糖 :2007/02/14(水) 19:12:57 ID:nT2x6udZ
>>492 自在さん
>最後に、あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
>私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
>>494で書き漏れたので、追加。
どうして、あなたに告白することで赦されるんですか??
神だからですか?覚者だからですか?
500 :自在:2007/02/14(水) 20:56:47 ID:+wlIoOYO
>>499
私はかつて仏陀を信じる者であった。
今は仏陀の法を知り、証する者となった。
懺悔の法はかつて仏教にあった。
初期経典には紛れも無く記してある。
目覚めたものや先達の菩薩に罪を告白し、悔いたものは許される。
それが仏陀の定められた法である。
人々が忘れ去った法を再興するのも私の仕事である。
それをあかすのに、あなたの力が必要だった。
善き者よ。
あなたを祝福する。
501 :金平糖 :2007/02/14(水) 21:11:08 ID:nT2x6udZ
>>500 自在さん
信じる 証(あかし) 懺悔 罪の告白 許し(赦し)
善き者 祝福
これって、キリスト教用語ですよ。
なんか、わからんなぁ~~~~~。(笑
502 :自在:2007/02/14(水) 23:03:05 ID:+wlIoOYO
>>501
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94%E5%81%88
もう少しのところまで来ている。
この国にキリスト教が入ってきた時、キリスト教の用語を理解できなかった日本人は仏教から言葉を借りてあてはめた。
懺悔も罪も善き者と言う言葉も、もともとは仏教語なのだ。
そこのところは承狂師の方がくわしかろう。
若い者が知らなくとも無理は無い。
懺悔の法も忘れさられて久しい。
あなたの問いはそれをあきらかにした。
再び仏教語であなたを祝福する。
524 :金平糖 :2007/02/15(木) 09:12:01 ID:JVP4NiFD
>>502 自在さん
リンク、ありがとうございます。
>もう少しのところまで来ている。
天の御国は近いってことですか?これまた、キリスト教的発想ですね。
そうではなくて、「既にそこにいるんだよ。なのに迷いにとらわれてそれに気がつかないだけだよ。」
っていうほうが仏教的だと思いますが。
あなたに祝福していただく道理がわかりませんねぇ。
祝福している御自分を祝福していらっしゃるんですよね。自在さんの自己満足の世界ですね。
>>492で山登りの例え、brownさんとそっくり。
543 :自在:2007/02/16(金) 11:51:23 ID:by3lXTDj
今後のために自我が観照されてからのことを書いておこう。
自我が観照された時、それはもはや維持力を失って消え去る。
もともとそれはイメージに過ぎなかったのだと修行者は理解する。
そして、沈黙、静寂、安心の境地があらわれる。
これは言葉通りのものではないが、そこに達したものだけに理解できる単語である。
しかし、未だその境地を見るもの、認識が残っている。
これを観照しなければ大悟徹底の境地ではない。
白蔭禅師などが「大悟二度」とい言っているのはこの自我と認識の二度の観照を意味している。
自我の邪魔がなければ認識の観照は容易い。
修行者は今、この感覚を見ている者は何か、どのようにして見ているのかを観照するか、あるいは空観を用いて見るものは空であり、実体が無く、縁起によって生じたものであると、観じ消滅させよ。
そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
もはや為す者も為される物もない。
ただ無為にして座せよ。
全ての神秘が目覚めた者の前に開かれる。
ニルヴァーナの喜びは至上のものであるが、目覚めた者は現世に戻り、未だ苦渋に迷う衆生を救うべきである。
目覚めた者よ、願わくば多くの衆生を導かれよ。
548 :名無しさん@3周年 :2007/02/16(金) 18:30:44 ID:bNgTek7M
>>543
自在さん、マジでお聞きしたいのですが、
>そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その現れた悟りをまた認識するのですか?
現れた、ということを知覚してというのはどういうことなのでしょう?
>その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
>もはや為す者も為される物もない。
その境地のとき、その状態をどう知覚しているのでしょうか?
境地と一体となり、観察者はいないということですか?
その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
そのあたりがいまだよくわかりません。
どこまで消えるのかということが。
555 :吽狛:2007/02/17(土) 05:32:34 ID:3kcOwIXk
>>543 自在さん
「自我が観照されてからのこと」と、書いてあるので、悟ってからのことですね。
自我を観照し、沈黙し、安心の境地が現れる。これが大悟の一度目。
でも、こんなの、大悟でもなんでもない・・・。
これを、大悟思ってる人に向けて言ってる言葉だとは思うけど。
だから「観照者」という自我が残っている。
「観照者」である自我を「観照」する。これが、いわゆる大悟だと、私は思う。
けど、自我のとき「観照者」は、どこまで行っても「観照者」でしかありえない。
悟らないと、「観照者」を観照する事は不可能。
自我のまま、やれることじゃない。
ま~、はっきり言って、自在さんが説明している観照は、私には意味がないというか・・・汗
564 :自在:2007/02/17(土) 19:57:06 ID:gKqG9aS2
>>548
>その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
>こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
感覚的にはこの表現が一番近い。
理論的に表現されたものでは「唯識論」の中の阿頼耶識の消滅について書かれたものを参考にしていただきたい。
>>555 正直な所、その境地については、今はまだ判ってもらえぬであろうとは考えていた。
言葉は全て仮説であり、言葉自体を超えたところを表すにはとても不自由な道具でしかない。
しかし、悟りを得た時に、私が何を言おうとしていたのか、判る時が来る。
全ての目覚めた者の言葉、全ての聖なる教典は目覚めた後にしか本当の意味は判らない。
ただ、自我を失った後もこのように言葉を操り、思考し、意識を保つことができるということを示すことで、自我を失う恐怖も無用なものと知るだろう。
569 :迷い人:2007/02/17(土) 21:20:39 ID:i8/FEw3x
自在さんにお聞きしたいんですが、
自我を失うと意志だけで行動するように
なると思うのですがいかがでしょうか?
意志はただ「する」か「しない」かのどちらかですよね。
そこに善悪の区分もないし、強迫観念もない。
ただ、したいからする、したくないからしないって感じで。
でも自我があると、意志した後に
「しようとする」「嫌々する」「怒られるからする」
「不安で怖いからしない」「めんどくさいからしない」
って感じで自我が割り込んで来て、動機が不純になりますよね。
意志だけだと動機も純粋で、したい事がなんでも出来そうな気がします。
意志が強い人って、自我をはねのける力が強いんだろな。
いまいましい自我の出端を挫いてやりたい!!
581 :自在:2007/02/18(日) 13:10:35 ID:cmpDjPDm
>>569 あなたの言う通りだ。
自我が意志を縛り、迷わせ、人をして間違った道に足を踏み入れさせる。
そして自我を肥大させた軍人や政治家たちが虐殺を繰り返している。
小さなブリキの勲章を胸につけるために、自分の命を危険にさらし、他人の命を奪っていく犯罪者達。
自我を擁護するにせものの言葉は、今世界で起こっていることに目をそむけ、自らの自我を守るための言葉でしかない。
戦争を止めさせるための戦争、虐殺を止めさせるための虐殺を信じてはならない。
真の平和は自我の終焉と共に訪れる。
貴方達こそ真の平和を実現する者だ。
心を止める数息観や集中などの行をなし、己の心をみつめなさい。
止むことなく修行を続けるものは、いずれ自我の消滅を果たし、誰の言葉にも縛られることのない自由な意志を獲得するだろう。
584 :自在:2007/02/20(火) 12:09:53 ID:wO6Yo/gR
>>446について。
仏陀の教えは我々のみならず全ての衆生の宝であり、梵天をはじめとする天神地祇達が守っている。
そのような宝を汚すものに、容赦の無い罰があたえられるのは当然のことである。
そして、天神地祇の加護を失った者に、魔王が盗り憑く。
魔王に盗り憑くかれた者は、己の意志を失い自らを滅ぼす過ちを犯して止むことが無い。
数々の過ちを犯しながら、己は正常であると思っている。
既に他者から見れば破綻は明らかであるのに。
例えば何も知らない幼い子が台所から刃物を持ち出し、悪戯に振りまわしたらどうなるだろうか。
そのような子は刃物で自分も、他人も傷つけるであろう。
そして刃物の危うさを知る大人は、例え己の子でなくとも刃物を取り上げ、叱るであろう。
仏陀の法は人を悟りに至らしめるが、他人を欺くために用いれば自分も他人も地獄に陥れる。
刃物が台所では役立つが、幼子の悪戯に用いれば自他を傷つけるように。
目覚めた者はこの危うさを知り、何も知らぬ幼子のような者に警告を出す。
幼子と他人を傷つけまいとして。
しかし、既に魔王に盗り憑かれ、己の意志を失った者は聞かず、地獄への道を辿っていく。
そのような者は欺瞞の罪を告白し己を救おうとしなければ、仏陀も救うことは出来ない。
585 :自在:2007/02/20(火) 12:25:50 ID:wO6Yo/gR
>>543 について。
これは修行者が行く最後の関門を示したものだ。
例えば大学の卒業試験や論文のようなものである。
初心の者に対しては入学からの行を説く。
しかし、順番が逆になったわけでもない。
頓悟は初心の者にも偶然に訪れることがある。
そのような時には慌てずに、この教えを思い出すように。
偉大な仏陀・釈迦牟尼は「我が教えに師拳なし」と言われた。
仏陀の全ての教えは金で購われることなく、全ての衆生に開放される。
それはネットの上でも同じことである。
まがい物の導師たちよ、我が教えを模倣するがいい。
魔王に憑かれた者たちよ、我が教えをけなすがいい。
それら全ての行いが、仏陀の真の法を広げる役に立つだろう。
全ては仏陀の経綸の内に在る。
目覚めた者の智恵は常人には計り知ることが出来ない。
人が自分を認識するのは名前とイメージからなのじゃ。
仮に人が名前かイメージのどらかを忘れただけでも、自分の認識に変化が訪れるじゃろう。
観念は言葉とイメージによって認識されている故に、名前とイメージを忘れれば自己と言う観念も忘れられるのじゃ。
例えば鈴木一郎と言う者が己の名前を忘れたらどうなるじゃろうか?
その者はもはや己の名前に囚われず、名前を他人に知られたいとは思わなくなるじゃろう。
そして誰かが鈴木一郎の悪口を言っても、気にしなくなるじゃろう。
そのように自らの名前を忘れれば、名声への囚われを離れ、言葉によって感情が怒らなくなるのじゃ。
欲から離れ怒りも怒らないのは自我を忘れているからなのじゃ。
更に自分のイメージをも忘れたならば、もはや不安も無くなるじゃろう。
不安とは過去に起きた嫌な事の記憶を、今の自分のイメージに起きはしないかと投射する事であるからなのじゃ。
そして自分を守るための緊張も無くなる。
自我のある人間は気づかないが、自分のイメージを持っている人間は、不安に因って何か起きはしないかと常に緊張しているものじゃ。
不安が無くなれば緊張も無くなり、安心が生じるのじゃ。
更に緊張が無いから、自分を守るために常に行なっている感覚による
情報の収集も無くなる。
不安に因る緊張がある人間は、常に周りから情報を収集し、何か起きる兆候を探しているのじゃ。
不安に因る緊張が無ければそれも無く、そこに静寂が生じるのじゃ。
このように己の名前とイメージを忘れれば、欲は無くなり、怒りも無く、安心があり、静寂があるのじゃ。
修行者はそれを知るために修行に励むのじゃ。
仮に人が名前かイメージのどらかを忘れただけでも、自分の認識に変化が訪れるじゃろう。
観念は言葉とイメージによって認識されている故に、名前とイメージを忘れれば自己と言う観念も忘れられるのじゃ。
例えば鈴木一郎と言う者が己の名前を忘れたらどうなるじゃろうか?
その者はもはや己の名前に囚われず、名前を他人に知られたいとは思わなくなるじゃろう。
そして誰かが鈴木一郎の悪口を言っても、気にしなくなるじゃろう。
そのように自らの名前を忘れれば、名声への囚われを離れ、言葉によって感情が怒らなくなるのじゃ。
欲から離れ怒りも怒らないのは自我を忘れているからなのじゃ。
更に自分のイメージをも忘れたならば、もはや不安も無くなるじゃろう。
不安とは過去に起きた嫌な事の記憶を、今の自分のイメージに起きはしないかと投射する事であるからなのじゃ。
そして自分を守るための緊張も無くなる。
自我のある人間は気づかないが、自分のイメージを持っている人間は、不安に因って何か起きはしないかと常に緊張しているものじゃ。
不安が無くなれば緊張も無くなり、安心が生じるのじゃ。
更に緊張が無いから、自分を守るために常に行なっている感覚による
情報の収集も無くなる。
不安に因る緊張がある人間は、常に周りから情報を収集し、何か起きる兆候を探しているのじゃ。
不安に因る緊張が無ければそれも無く、そこに静寂が生じるのじゃ。
このように己の名前とイメージを忘れれば、欲は無くなり、怒りも無く、安心があり、静寂があるのじゃ。
修行者はそれを知るために修行に励むのじゃ。
360 :避難民のマジレスさん:2013/06/11(火) 22:37:46 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です。
最近、ラマナマハリシの本を読んだのですが
悟りの修行法として「私とは誰か」をつきつめよと言う事を言っています
彼が説く悟りは鬼和尚のそれと同一ですか?
386 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:16:54 ID:kaXJvxhM0
>>360 同じなのじゃ。
修行法は違うがのう。
山の頂上にさまざまな道から上るようなものじゃ。
極めれば行き着くところは同じなのじゃ。
382 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 19:41:45 ID:NpBkhqbI0
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい
結局、あなたが確信できる唯一の事実とは
あなたは在るということだけだ
「私は在る」は確かだ
「私はこれだ」は確かではない
真実のあなたとは何なのか
それを見いだすために努めなさい
あなたが何なのかを知るために
あなたが何でないかを知りなさい
あなたではないものすべてを発見しなさい
身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ……
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない
知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している
マインドのレベルにおいては
あなたは否定的言語によってしか描写できないということをより明確に理解するほど
あなたの探求はより早く終焉を迎える
そして、あなたが無限の存在であることを悟るのだ
シュリー・二サルガダッタ・マハラジ
↑この方は悟ってりますか?
鬼和尚への質問です。
383 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 19:44:07 ID:NpBkhqbI0
↑>>382は鬼和尚への質問。
その他、鬼和尚から見て、この人は悟っているといえる人はいますか?
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>382 悟っているのじゃ。
大体悟っている者の言葉は、人に自らの心を観るように勧めるのじゃ。
探求の仕方や修行法に違いはあっても、心を観る事を勧めるのは同じなのじゃ。
全ての悟りは心の内にあるものであるからのう。
ニセモノはそのような事は知らず、ただ自分の思想信条主義主張などを押し付けるだけなのじゃ。
そのような違いを知って法を択ぶのも修行なのじゃ。
>>383 ラマナ・マハリシやクリシュナムルティーやオショーも悟っていたのじゃ。
日本では鈴木大拙も悟っていたのじゃ。
390 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 20:38:40 ID:WL2yRwjAO
悟りに到達するための鬼和尚の修行法はどう言うものですか
これだけやれば良いと言うのがあれば教えてください。
391 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 20:45:28 ID:WL2yRwjAO
マハラジやマハリシが悟っていると言うならばデカルトも悟っているのではないでしょうか
デカルトは一切を疑ったが疑っている自分は疑えなかったので「私は在る」と結論したと言う
これは鬼和尚が言う一切を認識しているこれ以上相対化しえないその認識そのもののことと言っても良いかと思いますがいかに
394 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 21:02:27 ID:kaXJvxhM0
>>390 集中によって心を抑制し、心を観察するのじゃ。
集中するのは心を観察し易くするためなのじゃ。
本来は観察だけをすれば良いのじゃ。
マハリシの言うように、己とは何かを心を観察して探すのも良いのじゃ。
そこに在る己とは何かを追求しても良いのじゃ。
肝心なのは途中で止めない事なのじゃ。
追求してきた己も、在る筈の己も実は無であったと気づくまで極めるのじゃ。
>>391 それでは悟っていないのじゃ。
未だ疑う自分が残っているからのう。
疑う自分とは何かを追求し、それもまた無いと気づけば、疑う己は無くなり、疑うという行為さえも無くなる。
そこまで追求を極めれば悟れたかも知れんのじゃ。
408 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 06:13:42 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚も悟りを開いていると認定されたラマナ・マハリシにある人が「隣の娘と間違い(不倫)を犯しそうで怖いです」と言うような相談をしたらしいのですが、
マハリシの答えは「心配するな。神に任せよ。それで間違いが起こったらそれは神の行為なので誰も責任を感じたり罪悪感を感じたりする必要は無い」と言うものだったそうです。
マハリシは間違っているのでしょうか
それとも意図があってこのようなことを言ったのでしょうか
鬼和尚はどう思いますか?
412 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 09:26:35 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚、マントラとか念仏は悟りを得る役にたつのでしょうか
433 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:51:42 ID:kaXJvxhM0
>>408 本当に神に任せたならば、何も起こらないからじゃろう。
男女が惹かれあうのも自然な行為なのじゃ。
社会的には許されなくとも、そこに真実の愛がある事もあるじゃろう。
もしそうであれば、それこそ神の行為と言うべきじゃろう。
>>412 それに集中するならばサマーディには達するじゃろう。
そこから先は悟りを求めて自らを観なくてはいかんのじゃ。
偶然達する事もあるがのう。
405 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 05:33:12 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です
悟りを開いたヨギが深い意味で
「神に任せよ」(自我を放棄せよ)
と言うのは正しいのでしょうか
と言うのも我々は普通エゴで行為しエゴで反省するので後悔が多い人生を送っています。
無我であれば神と一致し
究極の意識が行為を司る為に行為は浄化される。
バガバッドギータや老子などにもこのような考えはあると思いますが鬼和尚はいかに思われますか?
406 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 05:45:58 ID:WL2yRwjAO
一方でオウムの信者は「俺がサリンを撒いたんじゃない。シヴァ神がやったのだ」と嘯いていると思いますが、本当の意味で無我になった時、社会道徳に反する行為が含まれる場合もあるのでしょうか
神戸連続殺傷の少年も「バモイドオキ神」がやったとか自我喪失したカルト信者みたいなことを言っていましたが、無我であることを無意識の暴走との関係を含めて御説法頂けると幸いに思います。
429 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:35:50 ID:kaXJvxhM0
>>405>>406 それには未だ行為が在るのじゃ。
心境で言えばサマーディの段階なのじゃ。
真の悟りにはもはや行為も無いのじゃ。
そこまで至れば悩む事も無いのじゃ。
無我になった段階でも行為はあり、平等性智が働く事もある。
神に任せよとは、無我による平等性智に従う事じゃろう。
しかし、人は頭の中で理解した事を行なうのも困難なのじゃ。
良い考えが浮かんでも実行するとなると、ためらったり止めたりするじゃろう。
例えば寄付をしようと思っても、実際にはもったいないと思って小銭にしたり止めたりする。
そのように智慧が生じても未だ自我が完全に滅しなければ、神や智慧に従う事も難しいものじゃ。
神に任せる行為自体も自我を強化するという動機のためであれば、人は神の中に自我を捨てるより、自我の中に神を捨てる方を選ぶじゃろう。
そうすると神とは心の深奥に内在する智慧ではなく、幻想でしかないイメージと言葉であり、その強化が正しいと言う事に繋がるじゃろう。
己の名前を広めるために、イメージを強化するためにあらゆる不道徳が為されても良いと思うのじゃ。
それは神を自我の中に捨てる事であり、無我ではないのじゃ。
自我を強化するために行った事を、神のせいにしているだけなのじゃ。
そのように自我のある人間が神に全てを任せる事は難しく、例え智慧が生じてもそれに従う事も難しいのじゃ。
自我を完全に滅するまで、行為はありつづけ、浄化される事も無いのじゃ。
悟りを求めて自我を完全に滅すれば、認識も無くなり、行為も無くなるじゃろう。
行為の無いとき、それは無為と呼ばれる。
為す者が無く、為すという事も無い完全な意識の顕現がそこに在るのじゃ。
その境地に至るまで進むのじゃ。
430 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 20:45:15 ID:WL2yRwjAO
その究極の無為の境地に至るまでの間はどのように行為すればいいのでしょうか
対症療法でもいいのでお教えください
434 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 21:00:15 ID:kaXJvxhM0
>>430 十悪を止め十善を行い、修行に励むのじゃ。
行いや感覚器官を慎み、認識の働きを弱めるのじゃ。
ダンマパダなどを読み日々修行するのじゃ。
詳しくはわしのブログなどを読むのじゃ。
833 :避難民のマジレスさん:2013/06/18(火) 19:33:23 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問
私とは身体でもなく心でもないと言うなら何なのですか?
840 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/18(火) 20:05:49 ID:kaXJvxhM0
>>833 私とは無いものじゃ。
しかし、無いものという観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
肉体を手や足や髪や目や鼻や口やその他全てを観察し、己ではない気づけばどこにも己と呼ぶべきものは無いと気づく。
そして心も感情や思考や認識等も観察し、己と言えるものは無いと気づけばそれらも消える。
そして己とは真に無であると気づくのじゃ。
そのような気づきとは観念でも知識でもなく、真実を在りのままに観る事なのじゃ。
1009 :避難民のマジレスさん:2013/06/19(水) 20:13:58 ID:WL2yRwjAO
(思考を)やめようと思ってやめれたら苦労しないよ
1011 :避難民のマジレスさん:2013/06/19(水) 20:21:42 ID:WL2yRwjAO
普通の人は思考をしてしまう。
それもネガティブ思考だ。
だからマントラとかを唱えて強制的に思考を変革させようと言う技術も生まれたんでしょう。
鬼和尚に聞きたいのはその密教部分なんですよ
無念夢想になればいいのじゃ
とか言ったって出来ないから苦労してるんだから
84 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/20(木) 20:17:48 ID:kaXJvxhM0
前スレ1009、1011 数息観や集中の修行をしてるならば普通に出来るようになるのじゃ。
日々の修行の積み重ねが、不可能を可能にするのじゃ。
自分でも思っていなかった事さえ出来るようになるのじゃ。
それを知るには実践あるのみなのじゃ。
鬼和尚に質問です。
最近、ラマナマハリシの本を読んだのですが
悟りの修行法として「私とは誰か」をつきつめよと言う事を言っています
彼が説く悟りは鬼和尚のそれと同一ですか?
386 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:16:54 ID:kaXJvxhM0
>>360 同じなのじゃ。
修行法は違うがのう。
山の頂上にさまざまな道から上るようなものじゃ。
極めれば行き着くところは同じなのじゃ。
382 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 19:41:45 ID:NpBkhqbI0
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい
結局、あなたが確信できる唯一の事実とは
あなたは在るということだけだ
「私は在る」は確かだ
「私はこれだ」は確かではない
真実のあなたとは何なのか
それを見いだすために努めなさい
あなたが何なのかを知るために
あなたが何でないかを知りなさい
あなたではないものすべてを発見しなさい
身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ……
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない
知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している
マインドのレベルにおいては
あなたは否定的言語によってしか描写できないということをより明確に理解するほど
あなたの探求はより早く終焉を迎える
そして、あなたが無限の存在であることを悟るのだ
シュリー・二サルガダッタ・マハラジ
↑この方は悟ってりますか?
鬼和尚への質問です。
383 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 19:44:07 ID:NpBkhqbI0
↑>>382は鬼和尚への質問。
その他、鬼和尚から見て、この人は悟っているといえる人はいますか?
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>382 悟っているのじゃ。
大体悟っている者の言葉は、人に自らの心を観るように勧めるのじゃ。
探求の仕方や修行法に違いはあっても、心を観る事を勧めるのは同じなのじゃ。
全ての悟りは心の内にあるものであるからのう。
ニセモノはそのような事は知らず、ただ自分の思想信条主義主張などを押し付けるだけなのじゃ。
そのような違いを知って法を択ぶのも修行なのじゃ。
>>383 ラマナ・マハリシやクリシュナムルティーやオショーも悟っていたのじゃ。
日本では鈴木大拙も悟っていたのじゃ。
390 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 20:38:40 ID:WL2yRwjAO
悟りに到達するための鬼和尚の修行法はどう言うものですか
これだけやれば良いと言うのがあれば教えてください。
391 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 20:45:28 ID:WL2yRwjAO
マハラジやマハリシが悟っていると言うならばデカルトも悟っているのではないでしょうか
デカルトは一切を疑ったが疑っている自分は疑えなかったので「私は在る」と結論したと言う
これは鬼和尚が言う一切を認識しているこれ以上相対化しえないその認識そのもののことと言っても良いかと思いますがいかに
394 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 21:02:27 ID:kaXJvxhM0
>>390 集中によって心を抑制し、心を観察するのじゃ。
集中するのは心を観察し易くするためなのじゃ。
本来は観察だけをすれば良いのじゃ。
マハリシの言うように、己とは何かを心を観察して探すのも良いのじゃ。
そこに在る己とは何かを追求しても良いのじゃ。
肝心なのは途中で止めない事なのじゃ。
追求してきた己も、在る筈の己も実は無であったと気づくまで極めるのじゃ。
>>391 それでは悟っていないのじゃ。
未だ疑う自分が残っているからのう。
疑う自分とは何かを追求し、それもまた無いと気づけば、疑う己は無くなり、疑うという行為さえも無くなる。
そこまで追求を極めれば悟れたかも知れんのじゃ。
408 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 06:13:42 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚も悟りを開いていると認定されたラマナ・マハリシにある人が「隣の娘と間違い(不倫)を犯しそうで怖いです」と言うような相談をしたらしいのですが、
マハリシの答えは「心配するな。神に任せよ。それで間違いが起こったらそれは神の行為なので誰も責任を感じたり罪悪感を感じたりする必要は無い」と言うものだったそうです。
マハリシは間違っているのでしょうか
それとも意図があってこのようなことを言ったのでしょうか
鬼和尚はどう思いますか?
412 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 09:26:35 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚、マントラとか念仏は悟りを得る役にたつのでしょうか
433 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:51:42 ID:kaXJvxhM0
>>408 本当に神に任せたならば、何も起こらないからじゃろう。
男女が惹かれあうのも自然な行為なのじゃ。
社会的には許されなくとも、そこに真実の愛がある事もあるじゃろう。
もしそうであれば、それこそ神の行為と言うべきじゃろう。
>>412 それに集中するならばサマーディには達するじゃろう。
そこから先は悟りを求めて自らを観なくてはいかんのじゃ。
偶然達する事もあるがのう。
405 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 05:33:12 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です
悟りを開いたヨギが深い意味で
「神に任せよ」(自我を放棄せよ)
と言うのは正しいのでしょうか
と言うのも我々は普通エゴで行為しエゴで反省するので後悔が多い人生を送っています。
無我であれば神と一致し
究極の意識が行為を司る為に行為は浄化される。
バガバッドギータや老子などにもこのような考えはあると思いますが鬼和尚はいかに思われますか?
406 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 05:45:58 ID:WL2yRwjAO
一方でオウムの信者は「俺がサリンを撒いたんじゃない。シヴァ神がやったのだ」と嘯いていると思いますが、本当の意味で無我になった時、社会道徳に反する行為が含まれる場合もあるのでしょうか
神戸連続殺傷の少年も「バモイドオキ神」がやったとか自我喪失したカルト信者みたいなことを言っていましたが、無我であることを無意識の暴走との関係を含めて御説法頂けると幸いに思います。
429 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:35:50 ID:kaXJvxhM0
>>405>>406 それには未だ行為が在るのじゃ。
心境で言えばサマーディの段階なのじゃ。
真の悟りにはもはや行為も無いのじゃ。
そこまで至れば悩む事も無いのじゃ。
無我になった段階でも行為はあり、平等性智が働く事もある。
神に任せよとは、無我による平等性智に従う事じゃろう。
しかし、人は頭の中で理解した事を行なうのも困難なのじゃ。
良い考えが浮かんでも実行するとなると、ためらったり止めたりするじゃろう。
例えば寄付をしようと思っても、実際にはもったいないと思って小銭にしたり止めたりする。
そのように智慧が生じても未だ自我が完全に滅しなければ、神や智慧に従う事も難しいものじゃ。
神に任せる行為自体も自我を強化するという動機のためであれば、人は神の中に自我を捨てるより、自我の中に神を捨てる方を選ぶじゃろう。
そうすると神とは心の深奥に内在する智慧ではなく、幻想でしかないイメージと言葉であり、その強化が正しいと言う事に繋がるじゃろう。
己の名前を広めるために、イメージを強化するためにあらゆる不道徳が為されても良いと思うのじゃ。
それは神を自我の中に捨てる事であり、無我ではないのじゃ。
自我を強化するために行った事を、神のせいにしているだけなのじゃ。
そのように自我のある人間が神に全てを任せる事は難しく、例え智慧が生じてもそれに従う事も難しいのじゃ。
自我を完全に滅するまで、行為はありつづけ、浄化される事も無いのじゃ。
悟りを求めて自我を完全に滅すれば、認識も無くなり、行為も無くなるじゃろう。
行為の無いとき、それは無為と呼ばれる。
為す者が無く、為すという事も無い完全な意識の顕現がそこに在るのじゃ。
その境地に至るまで進むのじゃ。
430 :避難民のマジレスさん:2013/06/13(木) 20:45:15 ID:WL2yRwjAO
その究極の無為の境地に至るまでの間はどのように行為すればいいのでしょうか
対症療法でもいいのでお教えください
434 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 21:00:15 ID:kaXJvxhM0
>>430 十悪を止め十善を行い、修行に励むのじゃ。
行いや感覚器官を慎み、認識の働きを弱めるのじゃ。
ダンマパダなどを読み日々修行するのじゃ。
詳しくはわしのブログなどを読むのじゃ。
833 :避難民のマジレスさん:2013/06/18(火) 19:33:23 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問
私とは身体でもなく心でもないと言うなら何なのですか?
840 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/18(火) 20:05:49 ID:kaXJvxhM0
>>833 私とは無いものじゃ。
しかし、無いものという観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
肉体を手や足や髪や目や鼻や口やその他全てを観察し、己ではない気づけばどこにも己と呼ぶべきものは無いと気づく。
そして心も感情や思考や認識等も観察し、己と言えるものは無いと気づけばそれらも消える。
そして己とは真に無であると気づくのじゃ。
そのような気づきとは観念でも知識でもなく、真実を在りのままに観る事なのじゃ。
1009 :避難民のマジレスさん:2013/06/19(水) 20:13:58 ID:WL2yRwjAO
(思考を)やめようと思ってやめれたら苦労しないよ
1011 :避難民のマジレスさん:2013/06/19(水) 20:21:42 ID:WL2yRwjAO
普通の人は思考をしてしまう。
それもネガティブ思考だ。
だからマントラとかを唱えて強制的に思考を変革させようと言う技術も生まれたんでしょう。
鬼和尚に聞きたいのはその密教部分なんですよ
無念夢想になればいいのじゃ
とか言ったって出来ないから苦労してるんだから
84 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/20(木) 20:17:48 ID:kaXJvxhM0
前スレ1009、1011 数息観や集中の修行をしてるならば普通に出来るようになるのじゃ。
日々の修行の積み重ねが、不可能を可能にするのじゃ。
自分でも思っていなかった事さえ出来るようになるのじゃ。
それを知るには実践あるのみなのじゃ。
381 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 19:19:32 ID:WL2yRwjAO
ここ数年鬼和尚の下で修行し、多少は悟ったのか毎日平穏なのですが
この上さらに認識を滅却し、涅槃に入る意義はありますか?
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>381 あるじゃろう。
不死の境地に至ればもはや永遠に平穏が訪れるのじゃ。
そのようであってこそ肉体を持った意義もあったというものじゃ。
不死の境地こそ人が達成し得る最高の完成なのであるからのう。
461 :避難民のマジレスさん:2013/06/14(金) 18:27:12 ID:WL2yRwjAO
ヴァガバーン鬼和尚。
仕事も生活も順調で幸せな人生を送らせて頂いているのですが
これは神の配剤か何かなのでしょうか
それとも法によるもので神や仏は関係ないのでしょうか
477 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/14(金) 20:47:42 ID:kaXJvxhM0
>>461 お釈迦様はこのように言っておる。
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う
影がそのからだから離れないように。
おぬしの人生に福楽が多いのならば、清らかな心で話したり行なったりしているからじゃろう。
例え100万の神に祈ろうとも、本人の語る言葉や行いの報いを変える事は出来ないのじゃ。
これからも清らかな心で語り、行なうと良いのじゃ。
仏とは言動の報いを変える者ではなく、上記のように悪しき報いと善き報いを生じさせる行いを指し示す者なのじゃ。
481 :避難民のマジレスさん:2013/06/14(金) 21:05:10 ID:WL2yRwjAO
確かに私は人に親切なのですが、それは単に落ち着いた平和な人生を送りたいが為にそうしているのですが、やたら人に気に入られたり福が舞い込んで来ます。
しかしそれだけでしょうか。まるで私の内面を見透かしたかのように
私の望んだ仕事や人間関係にも恵まれます。
これは神がそうしているのではないでしょうか
529 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/15(土) 20:31:43 ID:kaXJvxhM0
>>481 言動が正しく、謙虚ならば更に福楽も大きいのじゃ。
世界の億万長者なども貧乏な頃から収入の10%は寄付していたりするという。
そうであったからこそ億万長者にも成れたのじゃ。
その福楽が神によるものか、自らの行いによるものか、試してみるのは簡単じゃ。
試しに人の物を盗ったり、人を傷つけてみたりすれば、警察に捕まるじゃろう。
そして牢に行き罪を償わなければならなくなる。
それが神による福楽であれば、行いに関係なく罪の報いは無い筈じゃ。
しかし、現実には人は自らの行いの償いをしなければならないじゃろう。
それが正しく現実なのじゃ。
現実を離れて自分は神に守られているとか、そのような観念を抱いてしまうと、自分は特別な人間だと思い、傲慢になり道に外れた行いをしたりする。
そして福楽は離れてしまうのじゃ。
それが自らの行いによるものであると自覚していれば、自ら言動を慎み、傲慢になる事無く、正しい行いの道を歩み続ける事も出来るのじゃ。
610 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 03:20:39 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚。
私は辛いです。
それはある人間との関係性がうまくいっている時は幸福でうまくいかないと不幸だからです
つまり関係性に依存して苦楽が生じるからです
悟りを開けば関係性に依存せずに幸せに生きる(或いは死ぬ)ことが出来るでしょうか
関係性は些細なことで崩れそれに依存すると病んでいく気がします。
710 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/17(月) 19:53:12 ID:kaXJvxhM0
>>610 そうじゃ、依存や執着があればそこから苦は起こるじゃろう。
依存や執着は常に苦の原因になるものじゃ。
しかし、依存も苦も滅しようと意志を奮い起こし、苦滅の法の通りに観察すれば滅することが出来るのじゃ。
悟りを開かずとも関係性に依存せずに幸せに生きる事が出来るじゃろう。
依存もまた恐れや不安から起こるものじゃ。
そのような原因から依存が起こり、依存から苦が起こると、全てを観察するのじゃ。
その原因が無ければ依存も無く、依存から起こる苦も無いと観察できれば、依存も、依存から起こる苦も無くなるじゃろう。
詳しくはわしのブログを参考にするのじゃ。
611 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 03:40:01 ID:WL2yRwjAO
心理学の理論で名前は忘れましたが
自己の心の健康は
家族-会社-地域-社会と言った重層的円構造になっておりどれかひとつが欠けても病んでしまうと言うものがあります
しかし往々にして家族関係がうまくいかない家庭もありますし
会社や学校で孤立する場合もあるでしょう
つまり人は常に病んでしまう可能性があります。
悟りを得た人はこのような関係性のモデルからも自由なのでしょうか
何か絶対的な安心をもたらすものがないと人は相対的な関係性を安定させることも出来ないと思います。
昔は神や仏がそれに当たったのかもしれません
「神が死んだ」と言うのであれば神に代わる何かを掴みとう存じます。
713 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/17(月) 19:58:50 ID:kaXJvxhM0
>>611 そうじゃ、もはや社会や地域などと言う観念は無く、家族へも他人と平等な慈悲があるだけであるからのう。
慈悲には依存も執着も無く、ただ何の期待も無く施す事が出来るのじゃ。
自らの死生を超えた所に、却って永遠の幸福はあるのじゃ。
自らの心の内に観念でしかない神以上の意識があるじゃろう。
瞑想によってそれに達すれば心は不動になるじゃろう。
神を捨て未だ悟りに達しなければ、瞑想によって自らの心の内に安らぎを見出すのじゃ。
ここ数年鬼和尚の下で修行し、多少は悟ったのか毎日平穏なのですが
この上さらに認識を滅却し、涅槃に入る意義はありますか?
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>381 あるじゃろう。
不死の境地に至ればもはや永遠に平穏が訪れるのじゃ。
そのようであってこそ肉体を持った意義もあったというものじゃ。
不死の境地こそ人が達成し得る最高の完成なのであるからのう。
461 :避難民のマジレスさん:2013/06/14(金) 18:27:12 ID:WL2yRwjAO
ヴァガバーン鬼和尚。
仕事も生活も順調で幸せな人生を送らせて頂いているのですが
これは神の配剤か何かなのでしょうか
それとも法によるもので神や仏は関係ないのでしょうか
477 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/14(金) 20:47:42 ID:kaXJvxhM0
>>461 お釈迦様はこのように言っておる。
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う
影がそのからだから離れないように。
おぬしの人生に福楽が多いのならば、清らかな心で話したり行なったりしているからじゃろう。
例え100万の神に祈ろうとも、本人の語る言葉や行いの報いを変える事は出来ないのじゃ。
これからも清らかな心で語り、行なうと良いのじゃ。
仏とは言動の報いを変える者ではなく、上記のように悪しき報いと善き報いを生じさせる行いを指し示す者なのじゃ。
481 :避難民のマジレスさん:2013/06/14(金) 21:05:10 ID:WL2yRwjAO
確かに私は人に親切なのですが、それは単に落ち着いた平和な人生を送りたいが為にそうしているのですが、やたら人に気に入られたり福が舞い込んで来ます。
しかしそれだけでしょうか。まるで私の内面を見透かしたかのように
私の望んだ仕事や人間関係にも恵まれます。
これは神がそうしているのではないでしょうか
529 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/15(土) 20:31:43 ID:kaXJvxhM0
>>481 言動が正しく、謙虚ならば更に福楽も大きいのじゃ。
世界の億万長者なども貧乏な頃から収入の10%は寄付していたりするという。
そうであったからこそ億万長者にも成れたのじゃ。
その福楽が神によるものか、自らの行いによるものか、試してみるのは簡単じゃ。
試しに人の物を盗ったり、人を傷つけてみたりすれば、警察に捕まるじゃろう。
そして牢に行き罪を償わなければならなくなる。
それが神による福楽であれば、行いに関係なく罪の報いは無い筈じゃ。
しかし、現実には人は自らの行いの償いをしなければならないじゃろう。
それが正しく現実なのじゃ。
現実を離れて自分は神に守られているとか、そのような観念を抱いてしまうと、自分は特別な人間だと思い、傲慢になり道に外れた行いをしたりする。
そして福楽は離れてしまうのじゃ。
それが自らの行いによるものであると自覚していれば、自ら言動を慎み、傲慢になる事無く、正しい行いの道を歩み続ける事も出来るのじゃ。
610 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 03:20:39 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚。
私は辛いです。
それはある人間との関係性がうまくいっている時は幸福でうまくいかないと不幸だからです
つまり関係性に依存して苦楽が生じるからです
悟りを開けば関係性に依存せずに幸せに生きる(或いは死ぬ)ことが出来るでしょうか
関係性は些細なことで崩れそれに依存すると病んでいく気がします。
710 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/17(月) 19:53:12 ID:kaXJvxhM0
>>610 そうじゃ、依存や執着があればそこから苦は起こるじゃろう。
依存や執着は常に苦の原因になるものじゃ。
しかし、依存も苦も滅しようと意志を奮い起こし、苦滅の法の通りに観察すれば滅することが出来るのじゃ。
悟りを開かずとも関係性に依存せずに幸せに生きる事が出来るじゃろう。
依存もまた恐れや不安から起こるものじゃ。
そのような原因から依存が起こり、依存から苦が起こると、全てを観察するのじゃ。
その原因が無ければ依存も無く、依存から起こる苦も無いと観察できれば、依存も、依存から起こる苦も無くなるじゃろう。
詳しくはわしのブログを参考にするのじゃ。
611 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 03:40:01 ID:WL2yRwjAO
心理学の理論で名前は忘れましたが
自己の心の健康は
家族-会社-地域-社会と言った重層的円構造になっておりどれかひとつが欠けても病んでしまうと言うものがあります
しかし往々にして家族関係がうまくいかない家庭もありますし
会社や学校で孤立する場合もあるでしょう
つまり人は常に病んでしまう可能性があります。
悟りを得た人はこのような関係性のモデルからも自由なのでしょうか
何か絶対的な安心をもたらすものがないと人は相対的な関係性を安定させることも出来ないと思います。
昔は神や仏がそれに当たったのかもしれません
「神が死んだ」と言うのであれば神に代わる何かを掴みとう存じます。
713 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/17(月) 19:58:50 ID:kaXJvxhM0
>>611 そうじゃ、もはや社会や地域などと言う観念は無く、家族へも他人と平等な慈悲があるだけであるからのう。
慈悲には依存も執着も無く、ただ何の期待も無く施す事が出来るのじゃ。
自らの死生を超えた所に、却って永遠の幸福はあるのじゃ。
自らの心の内に観念でしかない神以上の意識があるじゃろう。
瞑想によってそれに達すれば心は不動になるじゃろう。
神を捨て未だ悟りに達しなければ、瞑想によって自らの心の内に安らぎを見出すのじゃ。
370 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 12:53:51 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚
超人になる秘訣を教えてください。
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>370 肉体と精神の秘密を追求すると良かろう。
肉体にも精神にも未だ多くの人に知られていない秘密があるものじゃ。
捻挫や病を直ぐに治す方法とか無限の力を出す方法などもあるものじゃ。
真摯に求めれば門は自然に開かれるのじゃ。
396 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 21:32:27 ID:P/CrFCYQ0
>>392
>挫や病を直ぐに治す方法とか無限の力を出す方法などもあるものじゃ。
是非教えてくれ
428 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:03:35 ID:kaXJvxhM0
>>396 探すのじゃ。
探せば見つけられるじゃろう。
真摯に探せば向こうから来るのじゃ。
525 :避難民のマジレスさん:2013/06/15(土) 19:40:38 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です。
この世にエネルギッシュな人とそうでない人がいるのは何故ですか?
エネルギーはどこから生じるのでしょうか
531 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/15(土) 20:47:36 ID:kaXJvxhM0
>>525 それは姿勢によるのじゃ。
常に背骨が真っ直ぐで、腰が据わり、腹に力がこもっていれば、呼吸も深くなり、エネルギーが自然に湧いてくるものじゃ。
ヨーガや気功等の呼吸法を自然にやっているようなものであるからのう。
それが自然に出来ない者のためにヨーガや気功等の方法があるのじゃ。
姿勢がよければ下丹田に力と呼吸が集中し、そこからエネルギーは無限に沸いてくるのじゃ。
あまり多すぎると寝られなくなったりするがのう。
鬼和尚
超人になる秘訣を教えてください。
392 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:50:36 ID:kaXJvxhM0
>>370 肉体と精神の秘密を追求すると良かろう。
肉体にも精神にも未だ多くの人に知られていない秘密があるものじゃ。
捻挫や病を直ぐに治す方法とか無限の力を出す方法などもあるものじゃ。
真摯に求めれば門は自然に開かれるのじゃ。
396 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 21:32:27 ID:P/CrFCYQ0
>>392
>挫や病を直ぐに治す方法とか無限の力を出す方法などもあるものじゃ。
是非教えてくれ
428 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/13(木) 20:03:35 ID:kaXJvxhM0
>>396 探すのじゃ。
探せば見つけられるじゃろう。
真摯に探せば向こうから来るのじゃ。
525 :避難民のマジレスさん:2013/06/15(土) 19:40:38 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です。
この世にエネルギッシュな人とそうでない人がいるのは何故ですか?
エネルギーはどこから生じるのでしょうか
531 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/15(土) 20:47:36 ID:kaXJvxhM0
>>525 それは姿勢によるのじゃ。
常に背骨が真っ直ぐで、腰が据わり、腹に力がこもっていれば、呼吸も深くなり、エネルギーが自然に湧いてくるものじゃ。
ヨーガや気功等の呼吸法を自然にやっているようなものであるからのう。
それが自然に出来ない者のためにヨーガや気功等の方法があるのじゃ。
姿勢がよければ下丹田に力と呼吸が集中し、そこからエネルギーは無限に沸いてくるのじゃ。
あまり多すぎると寝られなくなったりするがのう。
388 :避難民のマジレスさん:2013/06/12(水) 20:28:22 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚に質問です。
美女に克つにはどうすればいいですか?
393 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:55:00 ID:kaXJvxhM0
>>388 昔から伝わる美しい者に惹かれる執着を滅する修行法に不浄観があるのじゃ。
美女でも詳細に観察すると、生きている限り糞便や鼻汁や眼耳垢等を延々と排出し、美しいとはいえないものと判るのじゃ。
そして美しいと思うのは、実は自分が他人に投射したイメージでしかなかったと気づくのじゃ。
そのようにして美女にも心が揺るがなくなるのじゃ。
715 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 20:20:18 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚。
性欲が耐えきれなく爆発しそうな時はどうしたらいいんでしょうか
837 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/18(火) 19:52:17 ID:kaXJvxhM0
>>715 ナンパとかをすると良かろう。
100人に声を掛ければ二人は反応すると言う。
なんぱにもいろいろと技があるものじや。
他のわざと同じように何度もやるうちに上手くなっていくものじゃ。
何でも試してみるのじゃ。
895 :ろん:2013/06/19(水) 00:36:55 ID:F5zgGgXc0
>>837
鬼はナンパしたことあるの?
コツとかあったら教えて~。。w
1008 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/19(水) 20:09:52 ID:kaXJvxhM0
>>895 わしはいけめんであるからなんぱしなくてもよかったのじゃ。
ぐぐればナンパのテクニックなどはいくらでも見つかるのじゃ。
おぬしのように考えすぎな者は、思考も感情も一時的に封印して、とにかく町に出て実践してみるのが大事じゃ。
こんな事をしても何にもならないとか、そのような事を考えるのを止めるのじゃ。
女子の方も上手く誘われたいと思っている者も居ると、知って置くのじゃ。
掲示板で仲間を作ってオフナンパ会でもやるとよいのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
鬼和尚に質問です。
美女に克つにはどうすればいいですか?
393 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/12(水) 20:55:00 ID:kaXJvxhM0
>>388 昔から伝わる美しい者に惹かれる執着を滅する修行法に不浄観があるのじゃ。
美女でも詳細に観察すると、生きている限り糞便や鼻汁や眼耳垢等を延々と排出し、美しいとはいえないものと判るのじゃ。
そして美しいと思うのは、実は自分が他人に投射したイメージでしかなかったと気づくのじゃ。
そのようにして美女にも心が揺るがなくなるのじゃ。
715 :避難民のマジレスさん:2013/06/17(月) 20:20:18 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚。
性欲が耐えきれなく爆発しそうな時はどうしたらいいんでしょうか
837 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/18(火) 19:52:17 ID:kaXJvxhM0
>>715 ナンパとかをすると良かろう。
100人に声を掛ければ二人は反応すると言う。
なんぱにもいろいろと技があるものじや。
他のわざと同じように何度もやるうちに上手くなっていくものじゃ。
何でも試してみるのじゃ。
895 :ろん:2013/06/19(水) 00:36:55 ID:F5zgGgXc0
>>837
鬼はナンパしたことあるの?
コツとかあったら教えて~。。w
1008 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/19(水) 20:09:52 ID:kaXJvxhM0
>>895 わしはいけめんであるからなんぱしなくてもよかったのじゃ。
ぐぐればナンパのテクニックなどはいくらでも見つかるのじゃ。
おぬしのように考えすぎな者は、思考も感情も一時的に封印して、とにかく町に出て実践してみるのが大事じゃ。
こんな事をしても何にもならないとか、そのような事を考えるのを止めるのじゃ。
女子の方も上手く誘われたいと思っている者も居ると、知って置くのじゃ。
掲示板で仲間を作ってオフナンパ会でもやるとよいのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
892 :避難民のマジレスさん:2013/06/30(日) 22:18:11 ID:WL2yRwjAO
善事とは何でしょうか
他人に親切にすることと
自己を知ることは
どちらが優先すべき善事でしょうか
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>892 善事とは慈悲の心によって他人を喜ばす事じゃのう。
一人が喜んでも他の者が悲しむようなものは善事ではないのじゃ。
泥棒の手伝いをするとかじゃな。
自他の利益になることこそ善事なのじゃ。
976 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 21:00:11 ID:kaXJvxhM0
お釈迦様はこのように言っておる。
133、荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134、こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
このように十善の中でも言葉に関する善がいくつもあるのじゃ。
嘘をつくなとか、無意味なおしゃべりはしないとか、乱暴な言葉は言わないとか、他人同士を仲違いさせるようなことをいわないとかじゃな。
人は生まれて来るとき口に剣をもつているとも言う。
言葉による悪はやり易く、善は難しかったりするじゃろう。
常に心掛けていてもつい感情的になって乱暴な言葉を口にする事もあるじゃろう。
そのような事を制して優しい言葉を使う事こそ善事なのじゃ。
お釈迦様の教えを守る者は常に心掛けて、この為し難い善を行うべきなのじゃ
善事とは何でしょうか
他人に親切にすることと
自己を知ることは
どちらが優先すべき善事でしょうか
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM[:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>892 善事とは慈悲の心によって他人を喜ばす事じゃのう。
一人が喜んでも他の者が悲しむようなものは善事ではないのじゃ。
泥棒の手伝いをするとかじゃな。
自他の利益になることこそ善事なのじゃ。
976 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 21:00:11 ID:kaXJvxhM0
お釈迦様はこのように言っておる。
133、荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134、こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
このように十善の中でも言葉に関する善がいくつもあるのじゃ。
嘘をつくなとか、無意味なおしゃべりはしないとか、乱暴な言葉は言わないとか、他人同士を仲違いさせるようなことをいわないとかじゃな。
人は生まれて来るとき口に剣をもつているとも言う。
言葉による悪はやり易く、善は難しかったりするじゃろう。
常に心掛けていてもつい感情的になって乱暴な言葉を口にする事もあるじゃろう。
そのような事を制して優しい言葉を使う事こそ善事なのじゃ。
お釈迦様の教えを守る者は常に心掛けて、この為し難い善を行うべきなのじゃ
879 :避難民のマジレスさん:2013/06/30(日) 19:34:51 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚
法話お願いします。
889 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/30(日) 21:33:46 ID:kaXJvxhM0
>>879 人が己の心を観察し、役割について深く調べるならばそれを捨てる事も出来るじゃろう。
身についた習慣により、強固に見える役割も、観察し気づきが起こったならば、容易に厭離する事も出来るのじゃ。
例えば人が仕事をするために会社に入ったならば、己の性格と仕事に役に立つように調和した一つの役割を創り上げるじゃろう。
人との対話や仕事を進めるための習慣の積み重ねが、一定の役割となるのじゃ。
初めは失敗もしたりして不完全なものであるが、次第に修整されてきて完全なものとなるのじゃ。
そして完成してしまえば毎日のように使われ、自己同一化が進んでくるのじゃ。
何年も経って自己同一化が深くなると、仕事が出来る己という社員の役割が完成してしまうのじゃ。
それに対してプライドや欲が生じ、もはや己そのものであると疑いもなくしてしまうじゃろう。
そのように役割は長年使ううちに自己同一化が行なわれ、それを己と思い込んでしまうものなのじゃ。
自己同一化が進めば仕事や会社の為に生きるのが普通に成ってしまう。
そしてそのような者が仕事を失うと何をして良いのかも判らなくなってしまうのじゃ。
役割が迷いと執着を作り出すのじゃ。
そのような役割も詳細に観察することによって、気づく事が出来るのじゃ。
多くの習慣によって形成された役割を観察し、厭離する事で本来の性質を見つけ出すのじゃ。
911 :おみやげ:2013/07/01(月) 01:07:27 ID:naqXghzU0
>>889
> 多くの習慣によって形成された役割を観察し、厭離する事で本来の性質を見つけ出すのじゃ。
役割を観察して厭離したにもかかわらずどうしてコテに役割を入れるの?
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>911 それはわしには役割ではないのじゃ。
鬼和尚
法話お願いします。
889 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/30(日) 21:33:46 ID:kaXJvxhM0
>>879 人が己の心を観察し、役割について深く調べるならばそれを捨てる事も出来るじゃろう。
身についた習慣により、強固に見える役割も、観察し気づきが起こったならば、容易に厭離する事も出来るのじゃ。
例えば人が仕事をするために会社に入ったならば、己の性格と仕事に役に立つように調和した一つの役割を創り上げるじゃろう。
人との対話や仕事を進めるための習慣の積み重ねが、一定の役割となるのじゃ。
初めは失敗もしたりして不完全なものであるが、次第に修整されてきて完全なものとなるのじゃ。
そして完成してしまえば毎日のように使われ、自己同一化が進んでくるのじゃ。
何年も経って自己同一化が深くなると、仕事が出来る己という社員の役割が完成してしまうのじゃ。
それに対してプライドや欲が生じ、もはや己そのものであると疑いもなくしてしまうじゃろう。
そのように役割は長年使ううちに自己同一化が行なわれ、それを己と思い込んでしまうものなのじゃ。
自己同一化が進めば仕事や会社の為に生きるのが普通に成ってしまう。
そしてそのような者が仕事を失うと何をして良いのかも判らなくなってしまうのじゃ。
役割が迷いと執着を作り出すのじゃ。
そのような役割も詳細に観察することによって、気づく事が出来るのじゃ。
多くの習慣によって形成された役割を観察し、厭離する事で本来の性質を見つけ出すのじゃ。
911 :おみやげ:2013/07/01(月) 01:07:27 ID:naqXghzU0
>>889
> 多くの習慣によって形成された役割を観察し、厭離する事で本来の性質を見つけ出すのじゃ。
役割を観察して厭離したにもかかわらずどうしてコテに役割を入れるの?
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>911 それはわしには役割ではないのじゃ。
322 :おりえ:2013/06/23(日) 01:15:20 ID:X8M4QSp.0
お金ってどうなんでしょうね。
バシャールの動画wをみたことがあるんですけど、
お金は「価値のシンボル」だから、
自分に価値を置いている人のところに集まってくるっていうお話でした。
お金持ちになるには、自愛を極めた世尊wになればいいってことなんでしょうか。w
443 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/23(日) 19:59:26 ID:kaXJvxhM0
>>322 お金はお金を愛し、知り尽くした者の元に多くやってくるものじや。
お金の性質とは人々の心の性質に依るものじゃ。
人々に価値在るものを提供したり、喜ばせる事で金は集まるのじゃ。
462 :おりえ:2013/06/24(月) 00:11:24 ID:X8M4QSp.0
>>443
>人々に価値在るものを提供したり、喜ばせる事で金は集まるのじゃ。
なるほど、その結果、自分にそれが返ってくるんですね。
価値のシンボルであるお金が集まってきて、喜ぶことになるんですね。
了解です。
でも、自分に価値を置く(自愛だとか、自信を持つこと)の影響もあるような気がするんです。
私が他者を観察していて気づいたことなんですが、
前に、とある美容院に行ったときの話です。
その日はいつも行ってるお店の予約がとれなかったので、
オープンして間もない近所のお店にアポなしwで突然行きました。
美容師さんはセンスも感じもいい方でしたし、内装もお洒落です。
なのにお客さんがひとりもいないんです。 確か土曜日だったのに。
そんな訳であっさり通されて、あれこれお話しながらケアしてもらいましたが、
「いつもどの美容院に行かれてるんですか? この近所ですか?
この辺は美容院がたくさんありますよね・・・」
と、やはり元気がない様子でした。 この辺は美容室の激戦区なんです。
不安そうだったので、私まで困ってしまいました。
でも、内装が素敵だったし、隅々まで綺麗にお掃除がされていたので、
「とても素敵なお店ですね」と言いました。
そうしたら少し元気になられて、店内のことについて自信満々wでお話をしてくれました。
鏡とシャンデリアが特に素敵だったのですが、それについて嬉しそうに話してくださって。
目に光がもどったような感じでした。
その後すぐでしょうか、電話が何本もかかってきて、あっという間に超忙しそうになちゃって。
私はその瞬間をみたんです・・・!w
他にもいろいろみましたけど、これはとても顕著なケースでした。
(まあ、たまたまかもしれませんけどw)
お金に限らず、運勢っていろんな要素から構成されてそうですね。
お徳とか、縁とか、心とか。 ・・・他にもありますか?
498 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/24(月) 19:57:26 ID:kaXJvxhM0
>>462 知識も必要なのじゃ。
絵描きが絵について良く知っているように、金を求める者は金について良く知るべきなのじゃ。
金持ち父さんとかを読むと良いのじゃ。
526 :おりえ:2013/06/25(火) 00:12:01 ID:X8M4QSp.0
>>498 鬼和尚さん
やっぱり知識も必要なんですね。
金持ち父さんを読んで勉強しないといけないんですか?
なんだかめんどくさくなってきました・・・。
私は空中から札束を出せるように頑張ってみます。w
ありがとうございました。
574 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/25(火) 21:08:28 ID:kaXJvxhM0
>>526 心が清ければ福楽は影のようについてくるとお釈迦様は言っておる。
西洋でも収入の10%ずつ寄付していけば、10倍になって帰ってくると言う。
しかし、大抵の者にはそっちの方が難しいものじゃ。
おぬしには容易かも知れんがのう。わっはっはっは。
754 :おりえ:2013/06/28(金) 20:25:53 ID:X8M4QSp.0
>>574
神様は10倍だといわれていますが、それと同じでしょうか。
また、1円の狂いもなく清算されると言われています。
自分の目は誤魔化せませんし。
ありがとうございました。
771 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/28(金) 21:14:54 ID:kaXJvxhM0
>>754 何だか矛盾して居るようじゃのう。
善事をすれば自分に返るのは確かな事じゃ。
お釈迦様も言っているのじゃ。
851 :おりえ:2013/06/29(土) 23:45:33 ID:X8M4QSp.0
>>771
矛盾ですか? どのへんがですか?
1円の狂いもないのに、10倍だとか、計算が合いませんか?ww
私もよくわかんないです、そんなの確認しようがないですよね。
どうもスイマセンww
884 :おみやげ:2013/06/30(日) 20:01:55 ID:naqXghzU0
>>574
収入の10%って、斎藤ユキの入っている、自転車二人組で徘徊して布教している
あのモルモンのことか
ヤマギシ会とか全財産だから、それよりはまだいいほうか。
鬼和尚はモルモンに入っているのか?
890 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/30(日) 21:39:32 ID:kaXJvxhM0
>>851 そのようなものじゃ。
10倍になる方がよいがのう。
>>884 たしか聖書に書いてあったのじゃ。
それを信じている西洋人も多いのじゃ。
906 :おみやげ:2013/07/01(月) 00:57:44 ID:naqXghzU0
>>890
意外にも聖書読んでるとは
体力自慢かと思ってた
921 :おりえ:2013/07/01(月) 01:19:00 ID:X8M4QSp.0
寝まーす。
鬼和尚さん、おみやげさん レスもらってますけどまたぁ~
おやすみなさーい。
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>906 まさに鬼じゃ。
>>921 おやすみなのじゃ。
お金ってどうなんでしょうね。
バシャールの動画wをみたことがあるんですけど、
お金は「価値のシンボル」だから、
自分に価値を置いている人のところに集まってくるっていうお話でした。
お金持ちになるには、自愛を極めた世尊wになればいいってことなんでしょうか。w
443 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/23(日) 19:59:26 ID:kaXJvxhM0
>>322 お金はお金を愛し、知り尽くした者の元に多くやってくるものじや。
お金の性質とは人々の心の性質に依るものじゃ。
人々に価値在るものを提供したり、喜ばせる事で金は集まるのじゃ。
462 :おりえ:2013/06/24(月) 00:11:24 ID:X8M4QSp.0
>>443
>人々に価値在るものを提供したり、喜ばせる事で金は集まるのじゃ。
なるほど、その結果、自分にそれが返ってくるんですね。
価値のシンボルであるお金が集まってきて、喜ぶことになるんですね。
了解です。
でも、自分に価値を置く(自愛だとか、自信を持つこと)の影響もあるような気がするんです。
私が他者を観察していて気づいたことなんですが、
前に、とある美容院に行ったときの話です。
その日はいつも行ってるお店の予約がとれなかったので、
オープンして間もない近所のお店にアポなしwで突然行きました。
美容師さんはセンスも感じもいい方でしたし、内装もお洒落です。
なのにお客さんがひとりもいないんです。 確か土曜日だったのに。
そんな訳であっさり通されて、あれこれお話しながらケアしてもらいましたが、
「いつもどの美容院に行かれてるんですか? この近所ですか?
この辺は美容院がたくさんありますよね・・・」
と、やはり元気がない様子でした。 この辺は美容室の激戦区なんです。
不安そうだったので、私まで困ってしまいました。
でも、内装が素敵だったし、隅々まで綺麗にお掃除がされていたので、
「とても素敵なお店ですね」と言いました。
そうしたら少し元気になられて、店内のことについて自信満々wでお話をしてくれました。
鏡とシャンデリアが特に素敵だったのですが、それについて嬉しそうに話してくださって。
目に光がもどったような感じでした。
その後すぐでしょうか、電話が何本もかかってきて、あっという間に超忙しそうになちゃって。
私はその瞬間をみたんです・・・!w
他にもいろいろみましたけど、これはとても顕著なケースでした。
(まあ、たまたまかもしれませんけどw)
お金に限らず、運勢っていろんな要素から構成されてそうですね。
お徳とか、縁とか、心とか。 ・・・他にもありますか?
498 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/24(月) 19:57:26 ID:kaXJvxhM0
>>462 知識も必要なのじゃ。
絵描きが絵について良く知っているように、金を求める者は金について良く知るべきなのじゃ。
金持ち父さんとかを読むと良いのじゃ。
526 :おりえ:2013/06/25(火) 00:12:01 ID:X8M4QSp.0
>>498 鬼和尚さん
やっぱり知識も必要なんですね。
金持ち父さんを読んで勉強しないといけないんですか?
なんだかめんどくさくなってきました・・・。
私は空中から札束を出せるように頑張ってみます。w
ありがとうございました。
574 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/25(火) 21:08:28 ID:kaXJvxhM0
>>526 心が清ければ福楽は影のようについてくるとお釈迦様は言っておる。
西洋でも収入の10%ずつ寄付していけば、10倍になって帰ってくると言う。
しかし、大抵の者にはそっちの方が難しいものじゃ。
おぬしには容易かも知れんがのう。わっはっはっは。
754 :おりえ:2013/06/28(金) 20:25:53 ID:X8M4QSp.0
>>574
神様は10倍だといわれていますが、それと同じでしょうか。
また、1円の狂いもなく清算されると言われています。
自分の目は誤魔化せませんし。
ありがとうございました。
771 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/28(金) 21:14:54 ID:kaXJvxhM0
>>754 何だか矛盾して居るようじゃのう。
善事をすれば自分に返るのは確かな事じゃ。
お釈迦様も言っているのじゃ。
851 :おりえ:2013/06/29(土) 23:45:33 ID:X8M4QSp.0
>>771
矛盾ですか? どのへんがですか?
1円の狂いもないのに、10倍だとか、計算が合いませんか?ww
私もよくわかんないです、そんなの確認しようがないですよね。
どうもスイマセンww
884 :おみやげ:2013/06/30(日) 20:01:55 ID:naqXghzU0
>>574
収入の10%って、斎藤ユキの入っている、自転車二人組で徘徊して布教している
あのモルモンのことか
ヤマギシ会とか全財産だから、それよりはまだいいほうか。
鬼和尚はモルモンに入っているのか?
890 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/06/30(日) 21:39:32 ID:kaXJvxhM0
>>851 そのようなものじゃ。
10倍になる方がよいがのう。
>>884 たしか聖書に書いてあったのじゃ。
それを信じている西洋人も多いのじゃ。
906 :おみやげ:2013/07/01(月) 00:57:44 ID:naqXghzU0
>>890
意外にも聖書読んでるとは
体力自慢かと思ってた
921 :おりえ:2013/07/01(月) 01:19:00 ID:X8M4QSp.0
寝まーす。
鬼和尚さん、おみやげさん レスもらってますけどまたぁ~
おやすみなさーい。
973 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/07/01(月) 20:41:58 ID:kaXJvxhM0
>>906 まさに鬼じゃ。
>>921 おやすみなのじゃ。