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鬼の説法集(悟りへの道)

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 忙しい者でも、常に心掛けて自分とは何かという事を追求していくのじゃ。
 日常でもいつも自分とは何かを追及していれば、悟りが訪れるかも知れんのじゃ。

 人は大体自分のイメージと、自分を感じるものとの間に違いがあったりするものじゃ。
 論理的な自己イメージを持つ人間が、実は感情的な行動を止められなかったりするのも、その表れなのじゃ。
 親や世間から与えられた自己イメージによって自分を縛ると、自らの実感を失ったりしてしまうのじゃ。

 日頃から自分とはどのような者であり、何なのかと追求していけば、答えも出やすくなるのじゃ。
 常に答えを求めていれば、認識していない時でも智恵は働き、気づきとして見えてくるのじゃ。
 それによって失っていた実感を取り戻し、更には自我が己ではない事も気づける事もあるじゃろう。

 世界は心が作り出し、己という観念もまた心が作り出したものじゃ。
 世界があり、その中の己があるという観念に縛られれば、その消失である死が苦になるものじゃ。
 忙しくとも常日頃から己とは何かという事を追求して行けば、幻影である自我を滅し、偽りの世界もまた消えるじゃろう。

 その時こそ何ものにも縛られぬ真の自由が在り得るのじゃ。
 全ての真の目覚めた者達が教えるのは、実はただ一つの事だけなのじゃ。
 ただ一つの教えとは、自分の心を観ると言う事なのじゃ。
 このただ一つの教えを、さまざまなやり方で説いているだけなのじゃ。

 瞑想は心を観るためにあるのじゃ。
 神仏を観想するのも心を観るためにあるのじゃ。
 縁起を観るのも自らの心の中に観るのじゃ。
 空も心の中に観想して効果を発揮するのじゃ。
 真我が無である事も心の中に観るものじゃ。

 全ては自らの心を観るための技であり、法なのじゃ。
 自らの心を観ることこそ目覚めた者たちの教えの真の意味なのじゃ。
 
 自らの心を観る事によって人は苦を滅し、悟りを得られるのじゃ。
 それ以外に方法は無いのじゃ。
 心を観る事こそ、一切の目覚めた者たちの教えの中の究極の教えと言えるのじゃ。
 本来、お釈迦様の教えとは止観の両方で成り立っているものじゃ。
 集中して心を止めるのが止であり、止まった心を観察する観なのじゃ。
 しかし、今仏教と言われるものは、止である集中ばかり教えているのじゃ。

 禅も密教も阿弥陀信仰も集中ばかりしているという点では同じなのじゃ。
 集中はわかりやすくやりやすいから、そのようになってしまったのじゃ。
 呼吸や神仏の姿などに集中するというのは、対象があり、行う事もわかっている故にやりやすい。

 しかし、観察はわかり難くやり難いものじや。
 記憶に依存した認識を持つ人間は、一定の反復作業は理解し易く、やり易いのじゃ。
 観察は今ここにしかないものを、ただ一度だけ観るという作業であるから、反復は出来ず、理解もしにくいのじゃ。

 認識作用が一度、以前と同じものと認識してしまったら、観察はそれで止まり、連想記憶に写る事も観察をやり難くしておる。
 観察を教える年ながら、実際には反復作業を教えている者も居るのじゃ。

 真の観察とは、今ここにしかないものを、全ての注意力を集めて、観なければ成らないのじゃ。
 たとえ昨日と同じように見えても全ては移り変わり、二度と同じにはならないものじゃ。
 それを生まれて始めて観るかのように、観察するのじゃ。
 そうすれば全ての厭離をもたらす気づきが訪れるじゃろう。
 人によっては心を観察するという事が、とても難しい事もあるじゃろう。
 自分の心を観れば、今まで見ようとしなかった悲しみや苦しみと向き合わなければ成らないからのう。
 悲しい事や苦しい事を忘れようとして、さまざまな世間的な欲に溺れるのじゃ。

 そのような者もいつかは自分の心と向き合わなければならないものじゃ。
 忘れようとしても忘れられるものではないからのう。
 そのような者は大抵は死ぬ時になって、公開するものじゃ。
 
 本当は欲しくも無いものを、悲しみや苦を忘れるために求めてきたのであるから、死ぬ時になって本当はそんなものは欲しくなかったと気づくのじゃ。
 一時的に悲しみや苦を忘れさせてくれるから、それらを欲しがり、長い間も止めつづけてきたと、死ぬ時になってわかったりするのじゃ。

 欲望というものは大抵がそのようなものじゃ。
 孤独や不安や悲しみやさまざまな苦を、一時的に忘れさせてくれるから、その対象を欲しがり、求めつづけているだけなのじゃ。
 
 それを心の中に見て、認めてしまえば今までの人生で意味の無い事をしていて、費やした時間も無意味であったと認めるしかないから、恐れて見ないようにしているのじゃ。
 それを一度見てしまえば、人格さえも変化してしまうじゃろう。
 長年の習慣によって形作られた性格や人格は、変えてしまえば今の自分が消えるように思う。
 そのような自我の習俗も心を見る事を妨げて折るのじゃ。

 しかし、心の中にある孤独や不安や悲しみや苦が、はっきり観られたならば、それを越える事も出来るのじゃ。
 ただ一つの苦や囚われが消えるだけでも全ての世界が変わるのじゃ。
 ただつらく苦しいだけのトンネルの中を歩くような人生が、安らぎと幸福に満ちたものに変わる事もあるじゃろう。
 それ故に多くの目覚めた者たちは、ただひたすらに自らの心を観る事を勧めるのじゃ。
 世間では多くの知識を持っている者が賢いとされているが、実際にはどれほど多くの知識を持っていても愚かな者が居るものじゃ。
 なぜならば自らの知識だけが正しいと思い、それに反するものは間違いだと思うからじゃ。
 実際には世には間違った知識が多くあり、それを信じ込まされて、間違いを正せなくなっているのじゃ。

 知識や情報は常に正しいとは限らないのじゃ。
 そうであるから真実を求める者は、常に自ら試して何が真実なのか、確かめて見なければ成らないのじゃ。

 愚かな者は間違った情報を真実と思い込み、それを訂正できないのじゃ。
 賢い者は知識を得てもそれを直ぐに信じたりはせず、自ら試してみるものじゃ。
 そのようにして何が正しくて、何が間違っているのかがわかるのじゃ。

 確かめないばかりに長い間、意味も無く、効果も無い事を真実と思い込まされている者が世間には多いのじゃ。
 お釈迦様は2000年前に苦を滅する法を説いた。
 その法を修行すれば、苦は滅すると言う。

 しかし、世間で仏教と言われるものはその苦を滅する法を忘れ、一つの苦を滅する事も出来ないのに、経を唱えたり木や金で出来た像を拝んだりしておる。
 それが仏教として何となくありがたいものと思い込まされているだけなのじゃ。
 そのような何の効果も無い法が1000年も仏教として伝わってきたのじゃ。

 真のお釈迦様の教えは、そのようなものではなく、止観の法と共に用いれば確実に苦を滅する事が出来るものなのじゃ。
 賢い者は自ら試し、真実を知り、安楽の境地に至るが良いのじゃ。
 最近は唯脳主義が盛んになっておるが、実際は全てが脳ではないのじゃ。
 脳が介在しない脊髄反射というのもあるのじゃ。
 脳は体の一部として情報を処理する役目を担っているだけなのじゃ。

 意識は脳だけでなく、体全体にもあるものじゃ。
 心を思考や感情などの他に意識も含めれば、脳だけでは心の働きを全て網羅できないのじゃ。

 それが一番よくわかり易いのは、瞑想をしている時じゃろう。
 瞑想をして集中状態になった時、意識を下の方に下げて行くのじゃ。
 頭にある意識を下げていけば、脊椎から感じる意識があるとわかるじゃろう。

 更に下げれば腹や足にも意識はあり、そこから感じる事も出来るのじゃ。
 そして体に囚われず、肉体の他にも意識があると感じる事も出来るかもしれん。
 それは集中していれば本来は誰にでも出来る事なのじゃ。
 肉体だけが意識であると思っていれば、それが出来ても幻覚と認識するだけなのじゃ。

 脳は本来心の道具であり、言葉やイメージを扱うための者に過ぎないのじゃ。
 自ら観察し、何でも試してみればそれもわかるのじゃ。
 通常の人間がなにものかを認識したという時、それは予め記憶の中にあるものを、外にあるものと照らし合わせて、合っていると思えばそれを認識したとなるじろう。
 例えばりんごを見れば、赤い色と丸い形から頭の中の記憶と照らし合わせ、それはりんごである、りんごを認識したと成る。
 それが記憶に依存した認識なのじゃ。

 そのように認識作用が記憶に依存していると、過去の記憶の中に生き、今ここには生きていない事になるのじゃ。
 過去に苦しかった事があれば、それを何度も何度も記憶から縁によって繰り返し苦が起こり、自ら止める事も出来ないのじゃ。
 それが記憶に依存した認識による苦なのじゃ。

 それを滅すれば記憶に依存しない、本来の認識が起こるのじゃ。
 それが悟りと呼ばれる現象なのじゃ。

 認識が記憶に依存しなければ、世界を記憶によって解釈する事も無くありのままに見えるのじゃ。
 さらに記憶から起こる苦も無く、一切の苦を離れられるのじゃ。
 それらが目覚めた者の智恵であり、一切の苦から離れる事なのじゃ。

 それが既に唯識論によって語られている事なのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

 379 、みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。
 修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

 380 、実に自己は自分の主(あるじ)である。
 自己は自分の帰趨(よるべ)である。
  故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

 本来、修行とは自分が自分のためにやるものじゃ。
 安楽になるために、死を超えるために、自ら行い、他人に対して何も言うべきではないのじゃ。
 故に自分で自分を励まし、自分で自分を反省せよとお釈迦様は言うのじゃ。

 修行すればその結果は自らの心に返ってくるじゃろう。
 人によって気づきがあったり、サマーディに達したり、或いは真の悟りに達する事もあるじゃろう。
 それは他人に分ける事は出来ず、自分一人にしか齎されないものじゃ。
 
 自分で行い、自分に結果が返る修行が、この世で人が得られる唯一のものともいえるじゃろう。
 金も権力も名声も死によって消えてしまうが、修行によって得た境地は、空しくはならないものじゃ。
 自分の主である自分を、修行によって整えれば、堅固なより所になり、永遠の安楽が得られるのじゃ。
 お釈迦様の言葉を読んで更に精進するのじゃ。
585 :避難民のマジレスさん:2014/11/05(水) 06:44:24 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚、
ダンマパダ84の解説をお願いします。

84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。
財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行いあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。

586 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/05(水) 21:49:22 ID:.sHXjcvY0
>>585 それは執着によって子供や財や国を欲してはいかんということなのじゃ。
 自分や人の執着や欲によってそれらを望めば、争いとか競争が耐えぬものじゃ。

 それらに熱中すればする程、お互いに汚い策略なども使うようになり、人も死んだりするじゃろう。
 そして他人の怨みも多くかう事になり、長くは保てないのじゃ。

 執着によってそれらのものを欲すれば、そのように多くの悪も成し、身を滅ぼすも事になるのじゃ。
 正しい行いによって真理に従い、自ら得られるのならば良いのじゃ。
 
 そうすれば他人の怨みをかうことも無く、長く保てるのじゃ。
 それが正しい道なのじゃ。

589 :避難民のマジレスさん:2014/11/07(金) 14:10:29 ID:W9x6FqRY0
>>586 
執着によって欲してはいかんということだったのですね。
第2句と第3句のつながりが分からなかったのですが、ようやく理解できました。
お釈迦様の正しい教えを今、分かり易く伝えてくださり、ありがとうございます。

592 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/07(金) 21:35:14 ID:.sHXjcvY0
>>589 どういたしまして、またおいでなさい。

595 :避難民のマジレスさん:2014/11/08(土) 06:57:39 ID:EO4mNeKg0
鬼和尚、
ダンマパダの210と211の解説をお願いします。ダンマパダの84と同様に、人に執着するなということでしょうか?

210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

598 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/08(土) 22:57:07 ID:.sHXjcvY0
>>595 そうじゃ、愛着なのじゃ。
 愛し執着する事を諌めているのじゃ。

 愛するものと離れるのは愛別離苦なのじゃ。
 愛さない人と会うのは怨憎会苦なのじゃ。

 愛する者に会いたいという執着が愛別離苦を起こし、
 愛さない者と会いたくないという執着が怨憎会苦を起こすのじゃ。

 愛し執着する事がないならばそれらの苦もなくなるのじゃ。
 全ての人に平等な慈悲を持つ平等心こそ苦を滅した境地なのじゃ。

 なかなか難しい事ではあるがのう。
 アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。
 悟りを得るまで去りがたい執着を離れたならば、苦も無いのじゃ。

605 :避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 22:01:33 ID:NpBkhqbI0
>アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。

私は鬼和尚への執着から修業が進みません。
この愛着も断ち切らねばなりませんか?

607 :避難民のマジレスさん:2014/11/10(月) 04:18:44 ID:LoicJ7Tc0
>>598 ありがとうございます。
アナンダは苦滅の法を知りながら、お釈迦様への執着を厭離しなかったのでしょうか?

私自身、悟りの障害となっているのは、家族と自我への愛着だと感じています。
これらは完全に厭離しなくとも悟りは得られるものなのでしょうか?

鬼和尚が悟りを得た時には、家族への愛着は残っていましたか?

609 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/10(月) 21:30:14 ID:HogqPWDY0
>>605 そうじゃ、執着があれば苦も起こるじゃろう。
 悟りへの執着以外の全ての執着を捨てて進むのじゃ。
 最後には悟りへの執着も消えた時に悟りが訪れるのじゃ。

>>607 そうじゃ、一番多く教えを聞いていたから当然知っていたのじゃ。
 しかしわざと厭離しなかったのじゃ。

 深い瞑想の中で観照の瞬間が訪れたならば厭離しなくとも悟れるじゃろう。
 
 わしは自らの死を超える事で必死であったから家族の事も考えなかったのじゃ。
 自分が死ねば家族ともあえないと想っていたからのう。

610 :避難民のマジレスさん:2014/11/11(火) 17:57:56 ID:EIvcNESg0
お釈迦様に出会ったばかりのキサーゴータミーは、本当に愛別離苦を観察出来たのでしょうか?
観察は自分があると出来なくないですか?かなり難易度高くないですか?

611 :避難民のマジレスさん:2014/11/11(火) 20:14:57 ID:7rD9T5220
>>609
家族にしても自我にしても、結局は記憶によって起こる言葉とイメージに執着していると、知識では分かっています。
確かに自分が死ねば、愛着しているすべての物事も失われますね。

自分の本心を再度確かめたところ、死ぬより前に悟りを得て本当のことを知りたいという思いが最も強く、次いで自我への愛着、家族への愛着となっています。
止観にさらに励み、もし進めないようなら、愛着の厭離をする意志を起こそうと思います。
お答えくださり、ありがとうございました。

612 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/11(火) 21:14:15 ID:tHugDETI0
>>610 出来たのじゃ。
 それ故にもはや我が子を生き返らせようとは想わなくなったのじゃ。
 それは自分の執着であり、真に子を想っての事ではなかったと気づいたからのう。

 自分が在っても観察はできるのじゃ。
 学者が研究対象を観察して新しい発見をするのも同じ観察なのじゃ。
 自分の心を観察して今まで知らなかったことに気付くのが修行者の観察なのじゃ。
 対象が違うだけで行いは同じなのじゃ。

 日々練習すれば容易になるのじゃ。

>>611 良かったのじゃ。
 本心に気付いたのじゃな。
 さらに実践あるのみじゃ。
 今ここにいる自分に気づく事が行き詰まりを突破する英知であり、それを押さえて置けばいかなる状況にも対応できるものじゃ。
 
 例えば道に迷ったりした時、先ずは自分が迷ったという事に気づかなければならん。
 迷った事に気づかないでどんどん進めば、迷いはますます深くなってしまうじゃろう。
 迷ったという自分の今の状況に気づく事が、肝心なのじゃ。

 そして自分が迷っていると気づいたならば、次は自分が何処にいるのかを知らなければならん。
 地図を見たり人に聞いたりして自分の居場所に気づけば、何処に行けばよいかも判るのじゃ。
 そして正しい道を知り、正しい方向に進んでいく事が出来るのじゃ。

 この例のように、自分が行き詰まったり、何かの困難な状況に陥ったりしたならば、先ずは自分の状況に気づかなければならんのじゃ。
 そして今の自分の状況と、あるべき目的を知って為すべき事に気づき、対応する事が出来るのじゃ。

 気づく事によって人は進歩し、苦を滅し、悟りをも得られるのじゃ。
 止観の瞑想も全ては気づく事のためにあるのじゃ。
 常に自分を観察し、自分に気づくようにする事が、行き詰まりを突発し、全ての状況に対応する抑えておくべき英知なのじゃ。