孫基禎の優勝はどう伝わったか | 一松書院のブログ

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ベルリン・オリンピックで前畑秀子が金メダルを獲得した女子200メートル平泳ぎのラジオ中継は、いまでも語り草になっている。
「前畑、ガンバレ、ガンバレ」「勝った、勝った、勝った」という河西三省アナウンサーの実況は、映像のない時代に、声だけで競技場の熱気を伝えた、スポーツ放送史に残る名実況とされている。
 

その実況音声は、いまでもYouTubeなどで聴くことができる。この音声が残った背景には、ベルリンから日本へのラジオ中継が可能になっていたこと、それを録音してみようと考えた技術者がいたこと、さらに、その録音が思いがけず市販されることになったことなど、いくつもの偶然が重なっていた。
 

では、その二日前、ベルリン時間8月9日に行われた男子マラソンはどうだったのだろうか。
孫基禎ソンキジョンが優勝し、南昇龍ナムスンニョンが3位に入ったあのマラソンもラジオで中継されていた。そして、その音声も残っている。

◆ベルリンから届いたオリンピック放送

ベルリン・オリンピックを前に、ドイツはツェーゼンの短波送信施設を大幅に増強した。40キロワット級の短波送信機8基を新設するとともに、世界各地に向けた指向性アンテナ設備も拡充した。

 

日本では、日本放送協会(JOAK)がオリンピック関連のラジオ放送を行うことになり、夜10時45分から午前0時までと、朝6時30分から7時までの1日2回、放送された。

 

『朝日新聞』より

 

このオリンピック放送は、東京のJOAKと専用回線で結ばれていた京城中央放送局(JODK)でも、日本語の第一放送で同じ時間帯に連日放送されていた。

ただし、ベルリンと日本・朝鮮のあいだには8時間の時差があり、日本向けの放送時間も限られていた。したがって、競技を最初から最後まで生中継できるケースは多くはなかった。

 

そのなかで、現地時間の午後3時から4時ごろに行われる比較的短時間の競技なら、生中継が可能だった。

その一つが、8月11日の女子200メートル平泳ぎ決勝である。

ところが、この日は競技の進行が15分ほど遅れ、レース開始が日本の放送終了予定時刻である午前0時に間に合わなくなった。実況を担当していた河西三省アナウンサーは、午後11時57分ごろ、「あと二、三分でスタートします。切らないでください」と叫んだ。

放送は午前0時を過ぎても続けられ、0時3分ごろ、「勝った、勝った、勝った」と叫ぶ河西の声がラジオから流れた。そして、まもなく放送は終了した。

 

こうした例を除けば、多くの競技では、現地で実況を録音・編集し、日本向けの放送時間に合わせてベルリンから短波で送信し、それを東京で受信して中波で放送するという方式がとられた。

東京で受信した放送は、専用回線で京城へも送られ、貞洞の京城中央放送局から日本語の第一放送で流された。

 

沢井理恵の著書『母の「京城」・私のソウル』には、京城での生活を振り返って、次のような記述がある。

ラジオは茶の間にあって、しょっちゅう聞いていたわ。ベルリン・オリンピック(1936〈昭和11年〉)の『前畑、がんばれ」もラジオの生放送で聞いたのよ。

ベルリンからのオリンピック放送は、京城でも日常のラジオ放送として聴かれていたのである。

◆東亜日報が組んだ深夜の速報体制

マラソンは8月9日、現地時間午後3時、日本・朝鮮時間午後11時のスタート予定だった。
 

競技時間とラジオ放送について、『東亜日報』は競技当日の朝刊で次のように報じている。


マラソン時間(括弧内はベルリン時間)
9日午後11時(午後3時)
出発。到着は10日午前1時半前後
(9日午後5時半前後)
◇放送
9日午後11時から12時まで、現場から放送。
また10日午前6時半から7時までは、マラソン実況の現場放送をレコード録音したものを放送。

さらに、この日の夕刊には、次のような予告が掲載された。

本社運動部では、10日未明1時半(朝鮮時間)ごろにゴールするわれら両選手をはじめ、世界各国の選手たちの結果をいち早く受け取り、未明から3時ごろまで、眠らずに待っている一般のファンのため、自動車や自転車を利用して各地に速報することとし、京城市内でも便宜上、光化門通の本社前、鐘路四つ角の大昌洋靴店前、中学洞の崔学基運動具店で速報することになった。

光化門交差点横の東亜日報社(現在の一民イルミン美術館)、鍾路の大昌テチャン洋靴店、そして中学洞の崔学基チェハッキ運動具店の3か所が速報場所とされた。
大昌洋靴店は旧和信百貨店の東隣、崔学基運動具店は現在、日本大使館が入るツインツリータワーのB棟東端付近にあった。

 

 

8月9日夜、ベルリンでのマラソン開始を前に、光化門通の東亜日報社貴賓室には、新聞社の幹部、記者、職員だけでなく、朝鮮体育会会長の尹致昊ユンチホ養正ヤンジョン高等普通学校の安鍾元アンジョンウォン校長、教務主任の徐鳳勲ソボンフン、ロサンジェルス五輪マラソン代表だった金恩培キムウンベらが陣取っていた。

◆スタートはラジオで生中継

マラソンは日本・朝鮮時間の午後11時すぎにスタートした。
 

ちょうど日本向けのオリンピック放送時間にあたっていたため、スタートと競技場内の様子はベルリンから生中継された。
翌8月10日発行の『東亜日報』夕刊は、スタート時のラジオ放送を次のように要約している。

オリンピック最大の呼び物であるマラソンには、数万人の大観衆が熱狂する中、9日午後11時1分(ドイツ時間9日午後3時1分)、競技場内400メートル・トラックのスタートラインから56名の選手が一斉に出発した。
選手は三列に並び、わが孫基禎、南昇龍の両選手はエルポとともにゆったりとしたスタートを切った。
競技場内を350メートル走り、マラソン門をくぐって競技場の外へ出ると、スタジアム南側へ向かい、再びマラソン塔の前を経て競技場内へ戻り、さらにトラックを300メートル走ってからオリンピック塔へ向かい、市街地へと姿を消した。
この時、孫基禎は31番目、エルポは44番目、南昇龍は最後尾近くという順で競技場を離れ、やがて街路の彼方へと消えていった。

しかし、コース上を移動しながら中継することはできなかった。
選手が競技場を離れるとマラソン中継はいったん終了し、その後は400メートルリレー、女子走り高跳び、水泳100メートル自由形決勝などが放送された。
 

マラソンのゴールは、日本・朝鮮時間では翌10日午前1時半前後と予想されていた。しかし、この時間帯には日本向けのラジオ放送はなかった。
次のオリンピック放送は午前6時30分からである。
そのため、ラジオでゴール実況を聴くより先に、結果は通信社の速報によって伝えられることになっていた。

 

マラソンの結果を待つ東亜日報貴賓室(8月10日午前1時)東亜日報号外第2報より

◆ゴールの結果は「至急電報」で届いた

3着の南昇龍がゴールしたところで、同盟通信のベルリン特派員はメインスタジアムから、

1着 孫基禎 2時間29分19秒2

2着 ハーパー 2時間31分23秒2

3着 南昇龍 2時間31分42秒

という結果を「至急電報」で発信した。
 

これを受けた東京の同盟通信本社では、「同報電話」が設置されている新聞社には電話口で読み上げ、それ以外の加盟社には謄写版を作って配達した。
 

当時、京城の同盟通信京城支局は、明治町1丁目55番地の旧電通支局に置かれていた。
 

この年6月、同盟通信が電通のニュース報道部門を吸収し、京城の同盟通信支局は電通京城支局に移り、電信回線は電通の専用線をそのまま引き継いでいた。その回線を通じて、マラソンの「至急電報」も東京から京城へ送られてきた。
同盟通信の配信記事は、京城府内では若い配達員が自転車で各新聞社や放送局へ届けていた。この真夜中の至急電報も、到着後すぐに配達されたのであろう。
 

雑誌『三千里』1936年11月号で、東亜日報編集局長だった薛義植ソルウィシクが、
「(孫基禎の)快勝の第一報を聞いたのは新聞社で、電報でした」
と語っているのは、この同盟通信の速報を指していると考えられる。
 

時刻は午前2時少し前。
結果を知った東亜日報社の貴賓室では大歓声が上がった。

 

このとき、光化門交差点には速報を待つ人々が集まっていた。その人々にも知らせるため、東亜日報社2階の窓から、まず「勝った」と第一声が発せられ、続いて、
「孫基禎君、オリンピック新記録で優勝!」
「南昇龍君、第三位入賞!」
と結果が伝えられた。
 

集まった人々からは、「孫基禎君、マンセー!」「朝鮮、マンセー!」、さらには「東亜日報、マンセー!」という声まで上がったという。

 

東亜日報社前でマラソンの結果を聞く人々(8月10日午前2時過ぎ)東亜日報号外第2報より

 

同時に、大昌洋靴店と崔学基運動具店にも、マラソンの結果を大書した貼り紙を持った東亜日報の配達員が自転車で走った。

 

大昌洋靴店前でマラソンの速報を見る人々 東亜日報号外第2報より

◆翌朝、ゴール実況がラジオで流れる

ラジオのオリンピック放送は、10日午前6時30分から始まった。
すでに多くの人々が新聞の号外などで結果を知っていたが、今度はベルリンで録音されたゴール場面の実況放送に耳を傾けた。
 

このラジオ放送の一部が、SPレコードとして残されている。
実況を担当した山本照アナウンサーは、孫基禎のゴールを次のように伝えた。

やがて、そん選手に栄光あるか、一万余のドイツ青年団協助員、ただ今までフィールドにマスゲームを展開しておりましたが、ただいま、いずれも腰を下ろしまして、こうしてマラソンの来着、我が孫君を待ち構えております。

ついに拍手が起こっております。万場に拍手が起こっております。(拍手の音)

孫君、ついに1着! 孫君ついに1着! 孫君、やがてテープを切ります。孫君、マラソン門の中に現れました。ついに孫君は1着であります。マラソン、堂々、やがて孫君テープを切ります。孫君はついに1等であります。孫、1着! 孫、1着! 孫、1着! あと50メーターでテープを切ります。あと40メーター、30メーター、20メーター、10メーター。孫君ついにテープを切りました!

堂々、わが日本はマラソンに優勝いたしました。堂々、我が日本はマラソンに優勝いたしました。我が放送陣、また割れんばかりの万歳であります。我が日本は、ついに苦節20数年にいたしまして、堂々、今孫君によりまして、マラソンのテープは切って落とされたのであります。この十数万の観衆の拍手をお聞き願います。日章旗よ、メインマストに高々と揚がれ。日章旗よ、メインマストに高々と揚がれ。ついに我がマラソン、孫君によりまして、堂々優勝いたしました。続いて南が来るかあるいはイギリスが来るか。

ただいま第2位が入ってきました。ハーパーであります。イギリスのハーパーが到着しました。イギリスのハーパー、マラソン門を通過し、ぐんぐんぐんぐんホームストレッチに入りまして駆けております。

ついに第2位はイギリスのハーパーであります。第2位はイギリスのハーパーであります。ハーパーやがて40メーター……

続いて、やや100メートル遅れまして、なんが入ってきました。100メーター遅れましたが、南が入ってきました。また日本万歳、万雷の拍手であります。南選手が入ってきました。わずかに百2〜30メーター遅れまして、南選手は3着であります。

さらに放送終了間際、7時直前には、優勝した孫基禎本人の肉声も流された。

〈山本照〉最初は孫選手であります。

〈孫基禎〉皆さんが期待しておったマラソンを正々堂々と戦いまして、強敵アルゼンチンのサバラを圧倒的に倒しまして、優勝することになりましたのも皆様のおかげだと存じております。簡単ながらこれを持ってご挨拶と申します。

ここまではSPレコードに音声が残っている。
 

このあと、ラジオでは南昇龍のメッセージも放送されたが、SPレコードには収録時間の関係で肉声が残されていない。
ただし、ラジオ放送を朝鮮語に訳して文字化した『東亜日報』の記事から、その内容を知ることができる。

孫君とともに力を尽くし、正々堂々と戦って、このような好成績を収めることができたのは、ひとえに故国同胞の皆様の切なるご声援のおかげです。祖国へ帰りましたら、改めてご報告申し上げたいと思います。本日はこれにて失礼いたします。故国はいまごろ真夜中でしょうが、このように放送することになり恐縮しております。それでは、皆様お元気で。

◆残された「マラソン優勝実況」のSPレコード

このベルリン・オリンピックのマラソン実況の音声は、ほとんど知られていないが、

「第11回國際オリムピック大會 マラソン優勝実況(1)」
(ポリドール 15313-A、2分53秒)
「第11回國際オリムピック大會 マラソン優勝実況(2)」
(ポリドール 15313-B、2分37秒)

としてSPレコードに残されている。

 

一方、よく知られている女子200メートル平泳ぎ決勝の実況音声も、同じポリドールが市販したSPレコードによって残されたものである。
 

当時、日本放送協会自身はベルリンからの生中継を録音していなかった。
ところが、ポリドール系列のコロナ・レコードにいた録音技師・湯地富雄が、同僚の須藤重三郎の提案を受け、このラジオ実況を試験的に録音していた。
中波の放送を録音機で録音したところ、8月11日の女子200メートル平泳ぎ決勝で、河西三省アナウンサーの「前畑、ガンバレ」という絶叫と、前畑秀子が優勝した瞬間の録音に成功したのである。
しかし、これは日本放送協会に無断で録音したものだったため、そのまま市販することはできなかった。
ところが、日本放送協会には「あの中継をもう一度聞きたい」という要望が多数寄せられた。そこで、レコードに「日本放送協会著作権所有」と明示することを条件に、ポリドールによる販売が認められた。
こうして発売されたSPレコードは、11万枚を売る異例の大ヒットとなった。
 

湯地富雄は、著書『録音秘話 「前畑ガンバレ」と私』のなかで、マラソンについてもゴール場面を狙って録音したと回想している。

◆15313はどこで録音されたのか

ところが、市販された「マラソン優勝実況」のSPレコードをよく見ると、「前畑ガンバレ」のレコードとはレーベルの記載内容が少し違う。

まず、「日本放送協会著作権所有」という表示がない。むしろ、「伯林にて吹込」と記されている。さらに、レコード番号も15313で、前畑の女子200メートル平泳ぎ実況の8516とは、まったく別系統の番号が付けられている。

 

 

8516の女子200メートル平泳ぎ決勝、8517・8518の800メートルリレー決勝と1500メートル自由形決勝の水泳実況は、湯地と須藤が東京で中波ラジオ放送を直接録音したものだった。

湯地の回想によれば、マラソンについてもゴール場面を狙って録音している。しかし、その録音は、少なくとも8516番台の系列では商品化されなかった。音質あるいは内容が、市販用として十分ではなかったのかもしれない。

一方、15000番台は、もともと洋楽など海外原盤を扱う系列に使われていた。
しかも、オリンピック期間中のベルリンでは、ドイツ側の機材を使って実況の録音・編集と中継送信が行われていた。
つまり、8月10日午前6時30分から日本・朝鮮で放送されたマラソン実況については、少なくとも放送に使用された録音盤がベルリン側に存在していたことになる。

 

「伯林にて吹込」というレーベル表示と、15000番台というレコード番号を考え合わせると、市販された15313の「マラソン優勝実況」は、湯地らが東京で中波放送を録音したものではなく、ベルリンで作られた録音をポリドールが入手して発売したものと見るのが自然だろう。
ちなみに、その一つ前の15312は、河西三省による「開会式実況」である。

◆音声から活字、写真、映像へ  

こうして1936年8月9日から10日にかけて、京城の人々は、まずラジオでマラソンのスタートを聞き、深夜には通信社から届いた速報で孫基禎の優勝と南昇龍の3位を知った。そして翌朝には、ベルリンで録音されたゴール実況と、孫基禎、南昇龍の肉声をラジオで聞いた。
最初にベルリンから届いたのは、音声と文字だった。
 

その後、写真が電送され、さらにニュース映画が京城で上映されるようになる。人々は、孫基禎と南昇龍がベルリンで走り、ゴールし、表彰台に立つ姿を実際に目で見ることになった。
 

音声だけを聞いていた時には、「孫基禎が勝った」という事実が何より大きかった。しかし、写真や映像になると、そこには胸の日章旗があり、表彰式では君が代が流れ、日の丸が掲げられている。孫基禎の勝利が「日本の勝利」として示されていることも、否応なく目に入ってくるようになった。
 

ベルリンから届く情報が、音声から写真、映像へと変わるにつれて、孫基禎の勝利を朝鮮の人々がどう受け止めるのかという問題も、よりはっきりした形をとるようになったのである。
 

マラソンのラジオ中継から始まったベルリンからの情報は、二週間後、写真の上から日章旗を消すという行為にまでつながっていくことになる。

 

 


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