1916年8月3日、李垠と梨本宮方子の婚約が新聞で公表された。1918年11月28日に皇室典範が増補されて皇族女子と朝鮮の王公族との婚姻が制度上可能となり、12月5日に結婚の勅許、12月8日に納采の儀が行われた。
李垠と梨本宮方子の結婚勅許を12月7日付紙面で報じた『毎日申報』は、翌8日から5回にわたって「王世子殿下の嘉礼を前にして『日鮮同体』の家庭訪問」という記事を掲載した。
その第3回、12月10日付の記事で、安商浩・磯子夫妻を取り上げた。
王世子殿下の嘉礼を前に「日鮮同体」の家庭訪問
まったく「内地化」した医師・安商浩氏の家庭
◇五人の子どもをもうけ、たいそう楽しく暮らす◇
朝鮮で初めて西洋医術を取り入れて成功した医師・安商浩氏は、「日鮮同棲」の家庭をつくることにも、真っ先に成功の旗を掲げた。
8日、雨上がりの、冬の威厳を発揮するような烈しい風をものともせず、氏の邸宅を訪ねた。
診察室で忙しく仕事をしていた氏は、両手をこすりながら出てきて、記者の訪問の趣旨を聞くと、「ありがとうございます。あちらへお入りください」と言った。どこからどう見ても朝鮮紳士である。
案内されて内室に入ってみると、「内地」の家庭と同じようなものだろうとはあらかじめ思っていたものの、同じくらいの年頃の日本の子どもたちが四、五人もいて、たいそう賑やかである。安氏も記者も、たちまち別世界に入ったような気がする。
安氏は、「こら、お姉ちゃん、やかましいよ(日本語)」と、幼い子どもたちを制しながら、記者をオンドルの部屋へ案内した。
記者はまず、家庭生活の楽しみについて尋ねた。安氏は言った。
「ええ、そうですね。仕方がありません。私はまあ、日本人と同じですよ。私は今、朝鮮服は一着も持っていません。それに食べ物も、辛いものは少しも食べられません。日本人と同じですよ。ですから、不便なことは少しもありません。妻も何年か前まではずいぶん寂しく暮らしていましたが、最近では子どももたくさんいますし、義母も来ておりますので、たいそう楽しく暮らしています」
記者が、「それでも、もし田舎から親族の方々が訪ねてきたら、どうなさるのですか」
と尋ねた。安氏は答えた。
「ええ、私は孤独な人間になってしまって、訪ねてくる親族はいません。家族はまことに少人数です。朝鮮人とはそれほど付き合いもありませんので、不便なことはありません。これを不幸中の幸いというのでしょうか」
安氏は今から12年前、義親王が東京におられたころ、義親王の侍医を務めていた。そのころ現在の夫人・磯子と知り合い、磯子夫人の母親に結婚を申し込み、それ以来11年間、苦楽をともにしてきた。
現在は、桜井小学校に通う九歳の長女をはじめとして、子どもは全部で五人である。東京にいたころから今日に至るまで、暮らし方を少しも変えていないので、むしろ安氏のほうが妻に従って日本人になったようなものである。
◇記者が改めて夫人に面会を求めると、夫人は愛らしい幼い子どもたちに取り囲まれながら、こう語った。
「私は朝鮮人とはまったく関わりがありませんので、日本で暮らすのと少しも違いません。11年間朝鮮にいても、朝鮮語は一言も話せません。それに、ご覧のとおり子どもが多いので、外出もなかなかできません。ひと月に一度、泥峴〔チンゴゲ〕に行くくらいです」
記者が、「子どもたちは朝鮮の友だちともよく遊ぶのでしょうね」と尋ねると、夫人は、「家の前がすぐ電車道ですので、厳しく言い聞かせて外へ出さないようにしています。ですから、うちの家族は別世界に暮らしているようなものです」と答えた。
そう話しているところへ、年老いた朝鮮人の女中が戸を少し開け、「奥さん、牛肉(日本語)、焼けましたよ」と言った。
そこで記者は、安氏の家を辞した。
この連載の初回、12月8日付の記事で取り上げられたのは、子爵・趙重應夫妻で、妻は光岡竹子である。12月9日付の第2回では、具然壽夫妻が取り上げられている。妻は、前田侯爵家の旧臣だった酒井氏の娘とされる秋子である。
第3回が安商浩・川口磯子夫妻、第4回は日本大学を卒業して呉服商を営む金顯澤・サヨ夫妻である。サヨ夫人は朝鮮語を駆使し、料理や衣服など、生活様式はほぼ完全に朝鮮式になっている。第5回では、日本人の夫・渡邊鷹次郞と朝鮮人の妻・谷子が取り上げられている。渡邊鷹次郞は、1882年に在韓日本公使館ができた時から通訳官として勤務していた。
初回の趙重應と第2回の具然壽は、2009年に刊行された民族問題研究所『親日人名辞典』に収録されている。一方、第4回の金顯澤は呉服商であり、第5回の渡邊鷹次郞も警察関係の経歴はあるものの、朝鮮語通訳官として勤務した人物である。この連載の狙いは、日朝間の婚姻の実例を、職業や社会的地位の異なる家庭から拾って紹介することにあったとみるのが妥当だろう。
3回目の記事で取り上げられている安商浩は、1898年、大韓帝国政府の官費留学生として日本に渡り、東京慈恵医院医学校で西洋医学を学んだ。
1913年9月の『朝鮮公論』に掲載された「日鮮同化の魁、鮮夫日妻評判記」という記事でも、安商浩・川口磯子夫妻が取り上げられていた。
それによれば、安商浩は1900年5月に医術開業試験前期、1902年5月に後期に合格した。後期試験合格については同時代の『醫海時報』でも確認でき、1903年には医術開業免状を受けて日本の医籍に登録されている。
この『朝鮮公論』の記事では、夫人の川口磯子のことにも触れている。
君の夫人、川口磯子さんは、長州馬関の産で、当年二十七八歳の美人である。茲に窈窕なる磯子夫人に就て、何人も羨むお目出度い逸話がある。
(中略)
安君は由来多幸な男で、君が首尾よく医学得業士の免状を握って、愈々慈恵医院の医師となり、尚ほ斯学の研究に余念がなかった頃、丁度現時の李堈公殿下も等しく東京の別邸に在つたので、君は高木男爵の推薦で、同殿下付の医師に聘せられた。
多幸なる安君が、殿下付の医師として、殿下の健康を一身に引受け、専ら過失ならん様にと献身して居た頃一方同じ殿下の上女中と云う名義で、朝夕殿下の御身の廻一切の事をお世話して居た二十二三の美人があった。今迄解剖だの黴菌だのと、顕微鏡の底ばかりを覗いて居た安君の眼球の水晶体を透して、茲に端なくも美しい婦人の姿が、異様の尊き輝きをはなつて視神経を刺激し、奇しくも安君の心臓を跳らせた。常に科学の論定から宇宙の萬有を赤裸々にし尽くさずんば已まざる安君の勇気を以てするも、猶且つ此の奇しき物体に一指だも染むることを得ず、是に於て遂に宇宙の不可解を感じたかどうかそれは知らぬが、果断家の安君は遂に決心した。そして一日殿下の御機嫌よき日を待つて、彼は明瞭に意中を言上し、殿下の寛大なる御処置を懇請した。殿下にはいと粋に渡らせられ、諾と云つて微笑み給ふた。
だが、川口磯子は1890年生まれで、行儀見習いとして義親王・李堈の邸宅の上女中になったのは16歳の時だった。『朝鮮公論』の記事に記された年齢とは5~7歳ほどのずれがある。また、出会いの場面にも、かなりの脚色が施されているように見受けられる。
安商浩は1927年12月31日に腎臓炎で逝去した。56歳だった。この時、磯子は37歳で、四男三女の子どもがいた。長女の絹子は東京女子医学専門学校在学中、長男の正浩は龍山中学在学中だった。
長男の正浩は、その後、京城歯科専門学校を卒業して歯科医師となった。解放後は安養で歯科医院を開き、1950年4月には母・磯子の還暦祝いを行っている。ほかの子どもについては、四男の富浩が1940年に京城医学専門学校へ入学していることが確認できる程度である。
ここから逆算すると、川口磯子は、1906年に安商浩と出会って結婚し、1907年には長女絹子を出産したことになる。
1974年12月24日、のちに『韓国医学の開拓者』(1985)を出版する鄭求忠が、川口磯子本人にインタビューしている。その著書には次のようにある。
해관이 동경 마포구포병정 의친왕저택에 빈번하게 출입하던 중 왕저에서 사무를 보고 있던 묘령의 안양(安嬢)과 백년해로를 맺게 되었다. 결혼 후 부인이 먼저 서울에 와 구연수 경무사(具然寿 警務使:지금의 치안국장)집에서 해관의 귀국준비를 하였다.
海観(安商浩の号。訳者注)は、東京・麻布区砲兵町(市兵衛町の誤りであろう。訳者注)にあった義親王邸に頻繁に出入りしていたが、そのうち王邸で事務を執っていた妙齢の女性〔安嬢〕と生涯をともにする契りを結ぶことになった。結婚後、夫人が先に京城へ渡り、具然寿警務使(現在の治安局長にあたる)の家で、海観の帰国の準備をした。
さらに、
안여사는 원래 일본 모리가 공신(毛利家功臣)의 딸로서 공경대부나 반주나 가노집에 예의견습을 가는 여자들의 풍습으로 의친왕저에 갔다가 구연수(具然寿)의 소개로 의친왕저에서 사무를 보게 되었고 이것이 인연이 되어 해관과 결혼하였던 것이다.
安女史は、もともと日本の毛利家の功臣の娘であった。当時、女性が公卿・大夫、藩主、家老などの家へ礼儀見習いに行く習慣があり、その習慣に従って義親王邸へ行った。その後、具然寿の紹介で義親王邸の事務を担当するようになり、これが縁となって海観と結婚したのである。
義和君・李堈は、1895年11月、高宗の命で特派大使として来日し、そのまま日本に滞在した。翌年、福沢諭吉の慶應義塾に入るが、1897年5月、本国からの指示でアメリカに送られた。
1905年2月にアメリカから日本にもどったが、高宗は大韓帝国への帰国を許さず、1905年2月から1906年4月まで日本に滞在することになった。この間、李堈は、一時期、麻布区市兵衛町一丁目11番地の御用地に滞在したらしい。安商浩は、麻布区麻布今井町41番地に居住していたとの記録がある。
両者の住居は徒歩で8~10分ほどの距離にあった。安商浩は李堈の診療を担当するようになり、その過程で李堈邸の上女中だった川口磯子と知り合い、結婚したとされる。
このインタビューで川口磯子本人が語ったところによれば、安商浩との出会いには具然壽が関わっていたという。『毎日申報』の同じ連載で、安商浩夫妻の一つ前の回に取り上げられていた具然壽である。
具然壽は、高宗の王妃・閔妃の殺害事件に関わって日本に亡命していた。その亡命中に酒井秋子と結婚した。『毎日申報』の「王世子殿下の嘉礼を前にして」の記事では「先妻の子どもも実子と同じように育てている」とあるので、酒井秋子が最初の妻ではなかった。
さらに、『毎日申報』の1918年12月9日付の記事では、具然壽は次のように述べている。
조선의 사회를 개척하려면 제일 인종을 개량하여야만 하고, 인종을 개량하려면 내지인 아내를 많이 데려와야 하오
朝鮮の社会を開拓しようとするなら、第一に人種を改良しなければならず、人種を改良しようとするなら、内地人の妻を多く連れて来なければならない
露骨な優生思想である。川口磯子を安商浩と結びつけたことにも、こうした考えが何らかの形で影響していた可能性はある。
ただし、この発言から、安商浩や川口磯子までがこうした思想に同調して結婚したとみることはできない。当時、東京には1890年代以来の韓国人亡命者がおり、官費・私費の留学生も少なくなかった。彼らの間に人的なつながりがあったとしても、思想的に一様だったわけではない。
また、鄭求忠の記述には、李堈の東京での居所の誤記や、安商浩の没年月日を「1930年12月11日」とする誤りがある(実際は1927年12月31日)。インタビュー当時、川口磯子は84歳であり、具然壽に関する逸話についても、そのまま事実とみなすことはできない。
安商浩は1907年3月末に帰国し、京城の鍾路三丁目16番地の洋館で西洋式の医院を開業した。
1927年12月の安商浩の死後、鍾路三丁目16番地の安商浩医院の場所には、1925年に東京帝国大学医学部を卒業した康処洪が康内科医院を開業した。
安商浩の死後も、磯子は朝鮮で生活を続けていた。1945年8月、日本の敗戦によって朝鮮の植民地支配は終わった。
朝鮮人男性と結婚した日本人女性は、婚姻によって内地の戸籍から除かれ、朝鮮の戸籍に入っていたため、いわゆる「引揚げ」の対象とはならず、本人の意思にかかわらず朝鮮半島に残留することになった。
敗戦後の混乱と厳しい対日感情のなかで困窮する人も少なくなかった。さらに、国交がなかったため、日韓間の往来ができなかったばかりでなく、郵便による連絡もままならなかった。
1963年には相互扶助組織「芙蓉会」が結成された。また、慶州の「ナザレ園」は、身寄りを失うなどした日本人女性を受け入れ、その生活を支えた福祉施設として知られていた。
ここまで見てきたのは、一人の朝鮮人留学生が日本で医学を学び、その過程で一人の日本人女性と出会い、結婚し、京城で家庭を築いていった軌跡である。そうした時代の政治状況のなかにも、人と人との出会いによって形づくられた一つの生活があった。
安商浩の死後、川口磯子はどのような人生を送ったのであろうか。とりわけ1945年以後、朝鮮人男性と結婚して朝鮮に暮らした日本人女性たちが置かれた状況を考えると、その後の磯子の人生も気になるところである。


