非常戒厳令 | 一松書院のブログ

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 2024年12月3日22時過ぎ、尹錫悦大統領が非常戒厳令の発令を宣言した。しかし、翌4日未明に急遽開かれた韓国の国会はこの非常戒厳令の無効を全会一致で議決。早朝午前4時27分に大統領が戒厳令を自ら取り消した。

 

 1982年まであった夜間通行禁止や、維新体制下での大統領緊急措置などと混同され、独裁体制下では「よくあった」「いつもそうだった」ように思われがちの非常戒厳令だが、朝鮮戦争休戦以降、6回発令され、5回目までは11日から70日で解除もしくは終了し、最後の6回目だけが1年3ヶ月という長期間にわたった。

 

 ちなみに、よく戒厳令と関連づけられる1982年まで実施されていた夜間通行禁止は戒厳令に関する措置ではない。日本の敗戦によって、北緯38度線以南の戦後処理を担当することになったアメリカ軍が1945年9月7日に京城と仁川に夜間通行禁止令を出したのが最初で、朝鮮戦争以後、そのまま全国に拡大された。1982年1月までは、韓国の大部分の地域で日常的に夜間は通行禁止だった。

 

 朝鮮戦争以後、韓国で宣布された非常戒厳令は以下の通り。

  1. 1960年4月19日〜1960年6月7日 4・19学生革命
  2. 1961年5月16日〜1961年5月27日 5・16軍事クーデター
  3. 1964年6月3日〜1964年7月29日 日韓会談反対デモ
  4. 1972年10月17日〜1972年12月13日 10月維新
  5. 1979年10月18日〜 1979年10月27日 釜山・馬山民主抗争
  6. 1979年10月27日〜1981年 1月24日 朴正煕大統領暗殺
  7. 2024年 12月3日〜 2024年 12月4日 尹錫悦大統領が宣布

  4・19学生革命

非常戒厳令:1960年4月19日〜6月7日

 

 1960年3月の大統領選挙で、当選した現職の李承晩大統領が、後継者のこともあって側近の李起鵬を副大統領に当選させたいとして露骨な不正選挙を展開した。李承晩と李起鵬は当選するにはしたのだが、この選挙の無効を訴える抗議デモが激化した。李承晩は、警察力を動員して反政府運動を封じ込めようとした。だが、馬山でデモに参加した高校生が目に催涙弾が直撃した遺体で発見されるなどして、反李承晩の機運が一気に強まった。ソウルでは、4月18日に抗議デモに立ち上がった高麗大生が李承晩派のヤクザ組織に襲撃される事件が起き、翌4月19日には、学生・市民による大規模な抗議デモ隊が大統領官邸の景武台(後の青瓦台)に向かった。

 

 大統領官邸にデモ隊が迫ってきた午後1時半頃、孝子洞で警察隊による実弾発砲が始まった。

 

 

 非常戒厳令が宣布されたのは、この警察隊の発砲で学生・市民に多数の死傷者が出た後のことである。この時には、警察の発砲による混乱を収拾するため非常戒厳令が発動された。国会は4月25日に非常戒厳令の解除決議をしたが、非常戒厳令は解除されないままだった。だが、4月28日に副大統領に当選した李起鵬は一家で心中し、李承晩は大統領職を辞して妻のフランチェスカ・ドナーとともに5月29日にハワイに脱出した。非常戒厳令は、その前日5月28日午前0時に解除された。

  5・16軍事クーデター

非常戒厳令:1961年 5月16日〜27日

 

 1961年5月16日未明、朴正煕少将をリーダーとする韓国軍の将兵がソウルの主要機関を掌握した。張都暎陸軍参謀総長を議長とする軍事革命委員会が立法・行政・司法のすべての権限を掌握した。軍事革命委員会は全国に非常戒厳令を宣布し、国会を解散した。

 

 5月18日に張勉首相が憲法の規定に基づいて非常戒厳令を追認するとともに内閣は総辞職し、民主党の張勉内閣から政権を移譲されたとする軍事革命委員会は、国家再建最高会議と名称を変更して軍による統治を続けた。

大韓ニュース 第314号 5.16

 

 この時の非常戒厳令は5月27日に解除され、警備戒厳令に切り替えられた。

 

 

 警備戒嚴令は、翌年12月に予定されていた国民投票を前にした12月6日に解除された。

 

  日韓会談反対デモ

非常戒厳令:1964年6月3日〜1964年 7月29日

 

 1964年6月、日韓の国交正常化交渉が進む中で、朴正煕政権の対日交渉が「屈辱外交」であるとして、大学生を中心とする日韓会談反対デモが激化した。このため、6月3日に非常戒厳令を宣布して、大学キャンパスから学生を締め出して街頭デモの沈静化を図った。

この戒厳令は、学生デモが広がって混乱を招いているとして、午後2時半に青瓦台において朴正煕大統領主催で開かれた緊急国家安保会議で非常戒厳令宣布が満場一致で決められ、午後5時、中央庁で開かれた臨時閣議を経て、総理以下全閣僚が署名したものに午後8時朴正煕大統領が署名したもの。朴正煕大統領は、憲法第75条4項に従って、戒厳令宣布の事実を夜10時半に丁一権国会議長に通告し、臨時国会を早急に招集するよう要請した。

大学をロックアウトする軍部隊 東亜日報DBより

 

 この時の国会は、1963年11月26日の国会議員選挙で選出された175名の議員で構成されており、朴正煕政権与党の民主共和党が110議席、野党の民政党40議席、民主党14議席などで、与党が過半数をはるかに超える議席を確保していた。国会では、民主共和党も早期解除が望ましいとしながらもこの非常戒厳令を容認した。

 

 そして2ヶ月弱でこの非常戒厳令は解除された。

 

  1972年10月維新

非常戒厳令:1972年 10月17日〜12月13日

 

 朴正煕大統領は、1972年10月17日午後7時に「特別宣言」を出し、

  1. 1972年10月17日午後7時をもって国会を解散して政党及び治政活動の中止など現行憲法の一部条項の効力を停止する
  2. 効力が停止された憲法条項の機能は、現行憲法の国務会議が緊急国務会議として実施する
  3. 緊急国務会議は、1972年10月27日までに祖国の平和統一を志向する憲法改正案を公告、これを公告日から1ヶ月以内に国民投票に付す
  4. 憲法改正が確定したら、遅くとも今年末までに憲法秩序を正常化する

とした。同時に、非常戒厳令が宣布された。憲法が停止され、国会が解散されたため、国会への通告はなされなかった。

 1971年10月に国連の「中国」代表権が中華人民共和国に移り、翌1972年2月にはニクソン米大統領の訪中があった。そうした国際情勢の変化を受けて、7月4日には南北朝鮮の間で「共同声明」が出された。この朴正煕の「特別宣言」は、北朝鮮との交渉が本格化した場合に、韓国内は一枚岩でなければならないという口実で、反政府勢力を押え込み、朴正煕の独裁体制を確立しようとしたのだった。

 

 

 国民投票を経て、いわゆる「維新憲法」が制定されると、12月13日に非常戒厳令は解除されたが、これ以降、強化された独裁体制のもとで、反政府勢力・民主化要求運動に対する弾圧が本格化することになった。

 

  釜山・馬山民主抗争

非常戒厳令:1979年10月18日〜27日

 

 1978年12月に行なわれた国会議員選挙は、与党民主共和党が金権・官権選挙を展開したにも関わらず野党新民党が支持率で与党を上回った。とはいっても、与党側に有利な選挙制度によって議席数では与党が上回り、さらに維新憲法で国会議員の1/3は大統領が任命することになっていたため、国会も朴正煕政権側が主導権を握っていた。

 

 その中でも、民主化要求の動きは次第に大きくなっていった。1979年8月にYH貿易の女性労働者による新民党党舎籠城を契機に、野党側は朴正煕政権への批判を強めた。与党側は国会で野党新民党の党首金泳三を国会から除名する決議案を可決した。野党の国会議員は全員が議員辞職して抵抗した。9月に入ると全国で大学生のデモが拡大し、特に金泳三の地元釜山と馬山では反政府デモが激化した。

 

 10月18日、朴正煕大統領は釜山に非常戒厳令を出した。さらに21日には馬山に衛戍令(軍隊に治安出動をさせるもの)を宣布した。

 

 

 この釜山・馬山の民主化要求のデモへの対応をめぐって、朴正煕大統領・車智澈警護室長と中央情報部の金載圭部長との間に対立があって、それが10月26日の金載圭による朴正煕・車智澈銃撃事件の発端になったとされている。映画「KCIA 南山の部長たち」では、このように描かれている。ただ、これはあくまでもフィクションとされているものだが…

 

 

  朴正煕大統領暗殺

非常戒厳令:1979年10月26日〜1981年1月24日 

 

 朴正煕大統領が撃たれて死亡したことがわかると、国務総理の崔圭夏が大統領権限代行となり、直ちに全国に非常戒厳令を宣布、陸軍参謀総長の鄭昇和が戒厳司令官に任命された。崔圭夏は、当時の「維新憲法」の規定に従って、統一主体国民会議による間接選挙で大統領に選出され、12月6日に大統領に就任した。その直後、12月12日に保安司令部の全斗煥司令官が鄭昇和戒厳司令官を逮捕するという「粛軍クーデター(12・12事態)」が起きた。これ以降、形式的には崔圭夏が統治のトップだったが、戒厳令下で軍を掌握していた全斗煥が実質的な統治者となっていた。

 

 非常戒厳令の早期解除と、維新体制の清算を求める声が高まり、学生の大規模な街頭デモが全国的な規模で展開された。学生デモは1980年3月から5月中旬にかけて全国に拡大し、5月15日のソウル駅前広場のデモで頂点に達した。

 

 粛軍クーデターの勢力を中心とする軍部は、5月17日正午に全軍指揮官会議を開いて、国会の解散、国家保衛非常機構の設置、非常戒厳令の全国拡大を決議した。中東を歴訪していた崔圭夏大統領は急遽帰国したが、全斗煥の新軍部の動きを追認するしかなかった。5月18日午前零時に非常戒厳令が韓国全土に拡大された。

 

 全羅南道光州では、地元出身の金大中が拘束されたこともあり、全斗煥の統治に対する抗議のデモが巻き起こった。全斗煥は、光州に戒厳軍を投入して、市民・学生の街頭デモを徹底的に圧殺し、多数の市民・学生を虐殺した「光州事件」を引き起こした。

 

 1980年8月16日、崔圭夏大統領が辞任した。統一主体国民会議は、陸軍を退役した全斗煥を大統領に選出し、9月1日に第11代大韓民国大統領に就任した。非常戒厳令は、翌1981年の1月24日に解除された。新たに改定された憲法に基づき、全斗煥は2月25日に第12代大統領に選出され、第五共和国がスタートした。

 

 1987年、民主化要求の声が最高潮に達した。この時のシュプレヒコールは、「護憲撤廃!独裁打倒!호헌 철폐! 독재 타도!」であった。

 

映画「1987 ある闘いの真実」(2917)

 

 この年4月13日に全斗煥大統領は第5共和国憲法を維持するという「4・13護憲措置」を出した。憲法に定めた大統領の間接選挙制を維持するというものであり、民衆が求めた「護憲撤廃」とは大統領の直接選挙による選出、「直選制」の実現であった。

 

 この1987年6月、独裁体制を維持してきた全斗煥ですら、もう非常戒厳令を出して民主化要求を圧殺することは無理だった。「直選制」を行なうという、いわゆる「民主化宣言」を出したのは大統領ではなく、与党民正党の代表盧泰愚であった。

 

 

  尹錫悦の非常戒厳令

2024年12月3日23時〜4日午前5時

戒厳司令部布告令(第1号)
 自由大韓民国の内部に暗躍している反国家勢力による大韓民国体制転覆の脅威から自由民主主義、国民の安全を守るため、2024年12月3日午後11時付で大韓民国全域に以下の事項を布告する。

  1. 国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる。
  2. 自由民主主義体制を否定し、転覆を企てる一切の行為を禁じ、偽ニュース、世論操作、虚偽扇動を禁じる。
  3. すべての言論と出版は戒厳令によって管理される。
  4. 社会混乱を助長するストライキ、サボタージユ(怠業)、集会行為を禁じる。
  5. 専攻医をはじめとして、ストライキ中や医療現場を離脱したすべての医療関係者は48時間以内に本業に復帰して忠実に勤務し、違反時には戒厳法によって処断する。
  6. 反国家勢力など体制転覆勢力を除く善良な一般国民は、日常生活での不便を最小化できるように措置する。

 以上の布告令違反者に対しては、大韓民国戒厳法第9条により令状なしに「逮捕、拘禁、押収捜索ができ、戒厳法第14条によって処断する。 

2024年12月3日 

戒厳司令官陸軍大将
朴安洙

 独裁時代最後の戒厳令の解除から44年近く経った2024年12月3日の尹錫悦大統領による非常戒厳令の宣布。その宣布に至るまでの情勢判断や宣布までのプロセス、そして非常戒厳令下での統治について、尹錫悦とその周辺の人々にどのような思惑と計画があったのか、全く見えてこない。

 

 少なくとも、朝鮮戦争以降の非常戒厳令については、強権的な独裁体制下においても、国会への通告、国会の解散や機能の停止など、それに軍部を掌握した上での強権的な軍による軍事力の誇示と実力行使があって、初めて非常戒厳令が機能していたことが明らかであった。

 

 今回の非常戒厳令の宣布は、当事者が何を考えていたのか…そして、ここまでの韓国現代史の中でどう位置付けたらいいのか…、説明し難い出来事なのではなかろうか。