韓国の大学入試変遷史 | 一松書院のブログ

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  • 解放後の大学入試
  • 朝鮮戦争から5・16クーデター
  • 大学入学予備考査
  • 学力試験(1981~1993)
  • 修学能力試験(1994~)

 

 韓国での大学入試は、日本でも何かと話題になってきた。修学能力試験(スヌン:수능)の日には、朝のラッシュで受験生が遅刻しないように企業の出勤時間がずらされ、パトカーや白バイ、タクシー、それにボランティアのバイクや車が遅れそうな受験生を試験会場に送り届け、果ては飛行機の離発着まで中断する…ということで日本でも注目された。

 

 

 日本では、1979年に共通一次試験が始まり、1990年から大学入試センター試験に移行して私立大学での部分導入も徐々に広がった。しかし、韓国のように、全社会をあげて受験生をサポートすることはなかった。

 

 2006年1月22日付の朝日新聞の天声人語にこんな記事がある。


受験生の遅刻といえば、去年、列車を乗り違えた生徒を助けるため、東北新幹線が通過駅の宇都宮に止まった。JRには賛否の声が寄せられた。8割は「心温まる話」と好意的だった。残りは「甘すぎる」「不公平だ」。京都市では一昨年、茨城県から来た受験生が会場をまちがえ、涙ながらに交番へ駆け込んだ。見かねた警官がパトカーに乗せ、サイレンを鳴らして約20キロ先まで急送する。700件を超す反響が京都府警に届いた。やはり8対2で賛成が多かった
 韓国ならこんな論争は起きない。入試の日には受験生を遅刻させまいという熱気に包まれるからだ。
…中略…
 なかでも「修能」と呼ばれる統一試験が大変な騒ぎだという。遅刻者に備えてパトカーや救急車が駅前に待機する。離島の生徒を運ぶのは軍用ヘリだ。通勤ラッシュに巻き込まないよう、大人たちは出勤時間をずらす。

 2004〜5年の日本のセンター試験でのエピソードで、韓国の入試事情との違いにも言及しているのは、2004年あたりからの「韓流」の広がりも相まってのことだろう。

 

 韓国での受験当日の大騒ぎ、それに受験競争の厳しさは日本でもよく取り上げられるのだが、韓国の大学受験とはどんなものだったのか。入試形態や大学進学率の変遷も含めてまとめてみた。

 

  解放後の大学入試

 朝鮮が日本の植民地から解放された1945年以降、統計数値が探せた範囲で大学進学率をグラフ化するとこんな感じになる。

 

 1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わった時、朝鮮にある大学は京城帝国大学だけだった。米軍政のもとで、旧京城帝大は1946年の8月22日にソウル国立大学として新たに開校された。同じ年、南朝鮮では、延禧ヨニ専門学校、普成ポソン専門学校、梨花イファ女子専門学校が、それぞれ延禧大学、高麗コリョ大学、梨花女子大学として認可され、仏教系の恵化ヘファ専門学校が東国トングック大学、儒教系の明倫ミョンニュン専門学校が成均館ソンギュングァン大学として設立認可を受けた。それ以外にもいくつかの学校が大学となった。

 1946年は、朝鮮総督府時代の教育制度からの過渡期で、学期末が8月、9月からが新学期とされた。それに合わせて、新しく大学になった学校の初めての入学試験が7月に実施された。

 

 

 1947年10月には、米軍政庁の文教部が、北緯38度線以南の大学について正規大学17校と昇格準備校3校を公表している。

▲正規大学
国立ソウル大学校、延禧大学校、高麗大学校、梨花女子大学校、世富蘭西セブランス医科大学、東国大学、成均館大学、聖神ソンシン大学、中央女子チュアンヨジャ大学、国立釜山プサン大学校、大邱テグ師範科大学、大邱農科大学、大邱医科大学、大邱大学、光州クァンジュ医科大学、清州チョンジュ商科大学、春川チュンチョン農業大学、
▲大学昇格準備校
旧京城薬学専門学校、旧京城女子医学専門学校、旧淑明スンミョン女子専門学校

『朝鮮日報』1947年10月17日

 1947年には「大学入学資格検定試験」が6月に行われた。だが、これは後に行われるようになる全受験生を対象とした大学入試の試験ではなく、日本統治下の中等教育が中途半端なままになった者に大学受験有資格を認定するための試験だった。大学の入学試験自体は各大学で個別に行われた。

 

 1948年7月、ソウル大学の志願者数は、入学定員980名に対して志願者数2730名。法科・文理・商科・工科などは倍率が6倍を越えている。

 

  募集 志願者 倍率
文理大 100 615 6.15
医大予科 120 170 1.40
法大 100 700 7.00
工大 50 307 6.00
商大 40 278 6.95
師大 100 327 4.27
農大 275 176 0.80
同獣医学部 25 45 1.86
芸大音楽 70 40 0.58
同美術 100 72 0.72

『京郷新聞』1948年7月1日

 

 1950年には、新学期を9月始まりから4月に戻すため、過渡的な措置として新学期を6月始まりとした。そのため、この年の大学入試は5月に実施され、全大学の募集人員は6,200名、この年の6年制の中等教育修了者は男女合わせて15,639名(『朝鮮日報』1950年4月9日)なので、大学の入学定員数を中等教育修了者数で割った大学進学率は39.6%ということになる。だが、この進学率は日本の植民地統治下で中等教育課程まで進めた生徒数自体が少なかったため高くなったもの。1950年、人口が約8,400万人の日本では大学生数は約32万人。しかし、人口が2,000万の韓国では大学新入生の募集が6,200人のみ。この当時、韓国で大学に進学できるのはごく少数のエリートに限られていた。

 

 この1950年の各大学の入試は二期に分けて行なわれ、ソウル大、高麗大、東国大、梨花女子大などは5月15日から、国学クックハック大(現在の国民クンミン大)や成均館大は5月22日から実施された。ところが、延禧大学(1957年に世富蘭西医科大学と統合して延世ヨンセ大となる)の入試だけは5月1日から行なわれ、600人の募集定員に対して5,000人以上が受験するという「狭き門」となった。延禧大学は、抜け駆け的に入試を実施して、青田刈りや二重志願者の囲い込みを狙ったのだろう。

 

  朝鮮戦争から5・16クーデター

 こうして1950年の新学期が6月に始まったが、6月25日未明に朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島全体が戦火に包まれた中でも各大学は独自に新入生の選抜を行って大学の運営を続けようとしていた。だが、戦争中の1952年4月8日に行われたソウル大学校の入試の受験者は、わずか300人ほどだった。(『朝鮮日報』1952年4月9日

 

 本格的な大学入試が復活したのは、朝鮮戦争が停戦した後の1954年3月の大学入試からだった。

 

 

 

 1956年からは延禧大学をはじめ一部の大学で、「無試ムシ」すなわち高校の内申書や面接試験で入試選考して入学させる制度が導入され、その割合が増えていった。

 

 1958年8月11日付の『京郷新聞』の記事には、

高等学校は解放後に新たにできて611校となり、師範学校が18校、大学は(解放後の)19校から56校と3倍にも増え、大学生数は7,879人から106,818人へと13倍にも増えた

とある。大学数も大学生数も増えたが、依然として大学生は韓国社会の超エリートであった。

 

 1960年、その大学生が先頭に立って牽引した反政府運動(4・19サーイルグ学生革命)によって李承晩イスンマン政権が倒れた。1961年の大学入試は、1月に各大学を前・後期の二期制で分けて大学別の入試が実施された。筆記試験の成績による「有試ユシ」と、内申・面接で選考する「無試」の二つの方式で行われた。「有試」と「無試」はほぼ半々の割合だった。『東亜日報』1961年1月6日

 

 1961年5月、朴正煕パクチョンヒ少将による軍事クーデターが起きた。軍部を中心とする国家再建最高会議は、新たに「大学入学資格考査チャギョッコサ」を導入し、この「資格考査」の成績と各大学での選考試験を合算して大学の合否が決められた。この「資格考査」は、解放直後の「大学入学資格検定試験」とは違って、全大学受験生を対象としてその試験成績が合否の判定に反映されるものであった。

 

 最初の「資格考査」は、1962年1月16日から3日間実施された。

 

 

 翌1963年にも「資格考査」が実施されたが、出願学科別だったことで試験の高得点者が不合格になる事態が起きたり、各大学の特性や自律性を活かせないとの批判も噴出した。そのため、1964年の大学入試では「資格考査」は中止され、各大学の個別選抜試験だけでの選考に戻された。

 

  大学入学予備考査

 1968年10月、朴正煕政権が次年度から「予備考査イェビコサ」を実施して、「予備考査」と各大学の「本考査ポンゴサ」で合否を判定すると発表した。1962〜63年に実施した「大学入学資格考査」を修正して再導入したものだ。

 

1970年度の大学入学予備試験が全国93の試験場で120,582人の受験生が試験を受けました。大学の第一関門を突破するため、午前9時から全力で受験する受験生たちの環境を整えるため、コン・ドンチョル文教部長官が試験の実施状況を視察しました。今回、文教部では、より正確で迅速な答案処理のため科学技術研究所の電子計算機を利用しました。これによって、受験生の得点集計や点数の転記が人の手を経ずに正確に行われ、合格判定に新たな役割を果たすようになりました。

 「予備考査」は、できるだけ均質な環境を受験生に提供するということで、韓国社会あげての配慮が求められるようになった。警察にも、受験生を会場まで送り届ける便宜をはかるように指示が出された。

 

 1977年頃から、筆記の「本考査」の試験科目が減らされて、合否判定で「予備考査」の得点の比重が上がり、1981年度の入試から各大学の「本考査」をやめて、「予備考査」の得点と高校の内申書で選考を行う方針が1979年に示された。

 

 

  学力試験(1981~1993)

 朴正煕大統領が暗殺され、粛軍クーデターで国政の実権を握った全斗煥チョンドゥファン少将は、1980年7月に「7・30教育改革」を断行した。大学入試の選抜は、大学別の「本考査」が廃止されて「予備考査」と高校の内申書によって行なうことになった。「本考査」がなくなったため「予備考査」は「予備」ではなくなり、「学力考査ハンニョッコサ」と名称が変わった。同時に、教育「正常化」という名目で、当時過熱していた塾や家庭教師などの課外授業を一切禁止した。また、大学では入学者数を増やして、卒業時に卒業者を絞り込む「卒業定員制」が実施された。

 

国家保衛非常対策委員会は、教育の正常化と過熱した課外の解消方策を発表しました。81年度から大学入試の本考査を廃止し、各種の課外授業を一切禁止するという内容の発表に対して、「課外授業のない社会」「勉学に励む大学」の実現に大きな期待が寄せられました。過熱した課外授業追放の影響は、すぐに塾街に及びました。中高生は8月1日から私設の塾に通うことができなくなったため、すでに受講を申し込んでいた生徒たちが受講料の返還を受けるため、塾街では各塾の窓口が払い戻しに追われました。教育正常化方策の主な骨子は、81年から小・中・高校の教科を統廃合し、82年から教科書の改編を進めて学習負担を軽減し、生徒たちに幅広い教育を実施して余裕ある学校生活を実現しようというものです。大学入学試験では、大学別の「本考査」をなくし、高校の内申成績と予備考査の成績だけで新入生を選抜するのを原則とし、過熱した課外授業を解消して高校の授業の正常化を図ります。81年度の大学入学の合否基準は、内申成績20%以上、予備考査成績50%以上とし、残りの30%は各大学が内申成績と予備考査成績を自律的に配点できるようにしました。また、来年度の新学期からは大学入学者数を増やし、現在の昼夜間制の区分をなくして全日制で授業を行ない、新入生を大学定員よりも多く入学させて入学を容易にする一方で、定められた人数だけを卒業させる卒業定員制を実施することで、過熱した入試競争を沈静化させ、大学での学びの雰囲気を醸成して大学の質を高めることを目指すものです。

1981年度の大学入学予備試験が11月20日、全国451の試験場で一斉に実施されました。この日の予備試験には昨年より約15%多い57万5000人余りが受験しました。7月の教育正常化改革措置により、すべての大学で本考査を実施せず、代わりに予備考査成績を80%水準まで反映させるため、予備考査の比重が大きくなったことで受験生たちはより一層慎重な姿勢で問題を解いていました。

 このように、大学の合否に占める「学力考査」の比重が高まると、「学力考査」実施の公正性や均質性を韓国社会全体で守るべきだとする雰囲気がさらに一層高まった。このため、警察や公務員、それに民間のボランティアや企業などが、こぞって受験生のサポートに乗り出した。

 

1982年度の大学入学学力テストが全国28地区466の試験場で一斉に実施されました。この日の朝、全国各地で警察が先頭に立って受験生たちが時間通りに試験場に着けるよう輸送作戦を繰り広げ、官用車や自家用車、タクシーなども積極的に協力しました。パトカーや白バイも受験生を乗せて、奉仕に精を出しました。この日、試験会場の外には高校の後輩や先輩が詰めかけ、試験場に入る自分の学校の生徒に温かいお茶を振舞って激励しました。受験生は朝8時30分までに試験場に入場し、9時から試験を受けましたが、今回の試験問題の出題傾向は、高校の学習内容から包括的に出題され、単純な暗記ものではなく、全体の流れや基礎的理解を土台に応用や適用力を求める問題が多かったです。

 

 一方、一回の試験の結果だけで合否が決まるため、どこの大学のどの学科に出願するかで、合否が大きく左右されることになった。よりランクの高い大学の競争率の低い学科を狙った駆け込み出願が多くなり、毎年締め切り間際の各大学の出願窓口が大混乱になった。「ヌンチ出願」といわれ、逐次発表される各大学の各学科の志願状況を見ながら最後の最後に倍率の低いところに願書を出そうとする。そのため、締め切り時間ギリギリに出願窓口の建物に無理矢理入る受験生やその親の姿が毎年のようにニュースになった。

 

  修学能力試験(1994~)

 1987年の民主化宣言以降、韓国社会では社会的・政治的な変化が起きた。大学入試制度にも再び大きな変化が起きた。1993年、「大学修学能力試験」が始まった。同時に大学別の筆記入学試験も復活した。

 

 「大学修学能力試験」への移行は、1991年に発表され、1993年8月に最初の試験が実施された。大韓テハンニュースの未公開版に1993年8月25日作成の動画が残されている。ソウルの第8地区の21試験場の瑞草ソチョ中学校の校門前の様子を撮影したもの。ソウルでも特に進学熱の高い江南カンナム地区の試験場で、受験生の母親が校門前に詰めかけている。プラカードを持って受験生を応援しているのは、1919 年の3・1運動にも生徒が参加した名門とされる京畿キョンギ女子高校の生徒たち。1988年に江南の開浦洞ケポドンに移転したこともあって、在校生の受験生が多い会場に後輩たちが応援に来ていたのであろう。遅れてタクシーで試験場にきた受験生を試験会場の中までテレビカメラが追いかけているのがすごい…。

 

 

 1997年からは、大学別の筆記科目試験が廃止され、「修学能力試験」の成績に加えて、大学別の論述や面接を点数化して加算して合否を判定する入試制度が始まった。この時に、高校の内申書の生活記録それに社会活動などを判定材料として、これに各大学が実施する論述や面接の結果を加えて合否を決める「随時スシ」募集が導入された。「随時」は、日本でいう「AO入試」「自己推薦」に該当する選抜方式である。「修学能力試験」の成績が重視される入試は「定時チョンシ」募集と呼ばれるようになった。当初は「定時」での入学定員の方が多かったが、次第に「随時」方式での入学者枠が増加し、2007年ではほぼ同率となり、それ以降「随時」募集での入学比率が高くなってきた。

 

 

 「随時」では「帰国生徒枠」があったり、「社会体験」「語学習得」が入試で評価されるため、それをねらった早期留学が一層盛んになった。小学生の子供を母親と一緒に国外留学させて、単身韓国に残って仕送りのために働く父親が「キロギアッパ」と呼ばれる社会現象になった。

 

 一方、デジタル技術の発達とともに、新しい形の不正が発覚したことがあった。2004年に光州クァンジュの修学能力試験会場で、携帯電話を使った集団不正行為が摘発されて大きな社会問題になった。

 

SBS 뉴스「어떻게 휴대폰으로 부정행위 했나」2004.11.20
写真は再現場面

 

 この事件以降、試験場への携帯電話機の持ち込みが全面禁止され、全試験場に携帯電波の遮断機の設置まで検討された。さすがに経費的に無理だということで実現しなかったが、試験場の監督官に金属探知機が配布された。試験場まで受験生を送っていった母親が、受験生に自分のコートを着せて試験場に送ったところ、そのポケットに母親の携帯電話が入っていて受験生が退室させられるといった悲劇も起きた。

 

 「修学能力試験」では、受験生の「公平な受験機会」を担保するということで、遅刻しそうな受験生をみんなで受験会場に送り届けるだけではなく、不正行為を防ぐためにも最大限の措置を講じるべきものとされている。ただ、「随時」が増えていることで、大学受験における「公平性」とは何か…という議論も起きているのだが。

 

 2025年に実施される予定の4年制大学の入学者選考では、「随時」が79.9%となっている。首都圏の大学では「随時」募集は65.4%に留まっている(『釜山日報』2024年5月6日)が、新入生確保に苦慮している地方大学では、「随時」によって入学定員を確保しようとする傾向が強まっている。

 


 

 最後に、韓国での大学進学率の高さがよく言われるが、日韓の比較のグラフをアップしておこう。

 

 

 日本では、芸能界やスポーツ選手で、高校卒業から「業界」に入る傾向が強く、そのため俳優やタレントで大学に入学するとそれだけで話題になるし、高校野球で活躍した選手が大学野球に行くのも話題になる。それに対して、韓国の俳優やタレントを検索するとほとんどが「大卒」だし、高卒からプロのスポーツ界に行く選手というのも日本より少ない。

 

 そのあたりを含め、「大学進学」には、数字だけでは読み取れない日韓の社会の違いがありそうだ。