洞・町内の名物(3) ソルロンタン | 一松書院のブログ

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 「洞・町内の名物」の食べ物篇。
 この特集記事で取り上げられた食べられるものといえば、1924年8月6日版の「忠信洞(충신동) 白菜圃(백채포)」の白菜とか、8月15日版の「通洞(통동) 林檎園(임금원)」のリンゴがあるのだが、唯一料理として掲載されているのは、7月13日版の「長橋町 ソルロンタン」だけ。

 長橋町は現在の長橋洞チャンギョドンだが、ここは今や完全なオフィスビル街になっている。

 

 7月13日の長橋町の名物ソルロンタンの記事には、こんなことが書かれている。

ソルロンタン설넝탕 長橋町
◇三角町では「曲がった橋굽은다리」を名物だと自慢し、観水洞では「観水橋」を名物として持ち出してきたが、そんなありふれたもので名物といえるでしょうか。その程度であればうちの町内にもあります。「長橋町の長橋」とやれば、「曲がった橋」や「水標橋」にも負けはしません。
◇ということで、うちの長橋町では橋はやめにして、ソルロンタンを名物としてあげましょう。というと、ソルロンタンは長橋町にだけあるわけじゃないといわれるかもしれませんが、長橋ソルロンタンの美味しさは他とは比べものにならないのです。京城の人であれば誰もが長橋ソルロンタンの良さを知っています。ただ、最近はソルロンタンがよく売れるためか、以前のような美味しさではなくなったという声もよく聞きます。この名物は日本の飛行機のようであります

◇ソルロンタンということなので、その歴史をみてみましょう。ソルロンタンは「先農湯」が訛ったもので、この「先農湯설농탕」が生まれたのは籍田(王自らが田を耕す農事)のとき、多くの臣下と数千の群衆に昼食を振る舞う時に牛を丸ごと煮込んでそのスープを分け与えたことからこれを「先農湯」といったといわれています。

 ※の部分、「日本の飛行機」がわからなかったのだが、調べてみるとこういうことらしい。この年1924年は「世界飛行年」で、各国が競って長距離飛行などを行なっていた。東アジアにもイギリスやフランスの飛行機がデモフライトで飛来したが、日本の飛行機はこの時期に立て続けに事故を起こして墜落していた。4月4日の『東亜日報』が日本の飛行機が墜落して6名が死亡したと伝えている。また、『東亜日報』が6月13日の「横說竪說」欄に、日本は厄年であるかのように飛行機事故が多いと書かれていて、その直後の6月16日にも、飛行学校の飛行機が墜落して友成枝盛少尉が死亡している。

 「味が落ちる」と「飛行機が落ちる」をかけたのようにも思えるが(東亜日報の記者はそのレベルの日本語はできたはず…)、考え過ぎかも。単なる日本に対する嫌味なのかもしれない。

 

 この長橋町は清渓川に隣接しているが、同じく清渓川沿いの三角町、水標町、観水洞では清渓川に架かる橋が名物としてあげられている。7月8日に三角町の「曲がった橋」と水標町の水標橋、7月10日に観水洞の観水橋が取り上げられている。しかし、長橋町は、あえて橋ではなくソルロンタンにしたとわざわざ書いてある。長橋町はへそ曲がりの記者が担当したのであろう。

 ソルロンタンは、「先農湯」から転じた呼び名とされるが、植民地時代のハングル表記には「설넝탕」「설농탕」「설롱탕」などがみられる。解放後の1963年の記事にもハングル表記の揺れを指摘するものがある。漢字では「雪濃湯」と書かれた。

 

 このソルロンタンは、早くから京城の名物料理とされていた。

 

 日本人も、朝鮮通は好んで食べていたらしい。『朝鮮及満洲』1926年12月号(第229号)に浜口良光「ソルラントンの味」 という文章がある。浜口良光は、柳宗悦の友人で、京城で浅川伯教・巧兄弟とも親しかった。 ソルラントンとは、いうまでもなくソルロンタン。

ソルラントンの味   浜口良光

(漢字・仮名遣いなどは現代語化)
 二、三年前内地に帰った友達から来た手紙に—朝鮮の冬の思い出に忘れがたいものはソルラントンの味だ—と書いてあった。私は彼が京城にいる頃、よくソルラントン屋の軒をくぐった。二人がどうかした時に出逢って、連れ立って歩き出すと、きっと足はソラントン屋のほうに向かった。もちろんそこへ行こうと申し合わしたわけでもないが、きっと足はそちらに向かったのである。しかも一度でも「君どこへ行く気だ」などと尋ねあったこともない。二人が出会えばここに落ち着くのが当然ぐらいに考えていたのである。二人は熱いソルラントンをふきながら貪り食った。友達は今頃あのソルラントンの特殊な臭いや味を思い出して、喉をならしていることだろう。私だって内地へ帰る日があったら、冬ごとにきっとあのソルラントンの味を思い出すに違いないと思う。
朝鮮の街を歩いていると酒家スリチビほど多くはないが、時々雪濃湯というノレンのかかっている家を見る。これがそのソルラントン屋である。試しに黙って入って五寸ばかりの低くて細長い腰掛けに腰を下ろしてごらんなさい、注文しなくともソルラントンは運ばれます。ここはすべて専業で、ほかの料理や酒などは売らないから、座ればソルラントンを持ってくるに決まっているのである。
 ここでちょっと説明しなければならない—全体ソルラントンとはどんなものかというに、濃い茶褐色の植木鉢ようの粗末な器に、飯とコクス(ソーメンのごときもの)と一掴みの肉片とを入れ、それに牛の頭や足などからとった肉汁をかけたものである。—器の大きさ?それは一升ないし一升五合位入ろう。
 運ばれたソルラントンには味がつけてないから、客は前の低くて細長い卓子の上に置かれてある食塩を適当に入れ、薬味としてネギやこしょうを入れてさじで食べるのである。
 さてどんな味がするか?それは「問われてもいわれぬ梅の香りかな」で冷暖自知するより外に仕方がない。しかし非常にうまいとだけはいえよう。—価は十五銭さらに五銭を余分に出すと、別に一椀の肉を追加してくれる、スープはいくらほど追加を申し込んでもタダである。
 ソルラントン家の常客は労働者である。ために終夜店を閉じず、いつでも営業しているが、食べに行くなら夜おそく、なるべくなら午後11時ごろがよい。この頃に行くとニカワ質が十分にとけドロドロになっていて、実に滋養の多さを思わせる。うっかり衣服に汁を落としでもすると、白くあとがついてなかなか取れないほどである。それ以後になると、鍋に水を大量にさして翌日に備えるから、どうしても薄くなっている。このソルラントン屋では汁鍋は大抵二石入位のをニ個くらい備え付けている。そして牛の頭は多い所では一日に八頭くらい入れるという。牛の頭を入れるというと、あのよだれや毛を連想して汚く思う人もあるが、毛のついている皮はきれいにはたいてあるし、口だって洗ってあるから少しも汚くはない。その上、頭ばかりでなく肉塊も一抱えもあろうと思われるものが入れられてあるから、肉汁の滋養価は非常になもの、朝鮮人は病後に買って飲むという。
 ともかく安くて滋養に富んでいてうまいものである。初めの二、三回は気持ちが悪いかもしれないが慣れると実にうまい。もし味を解するようになった人が、帰国したなら、必ず朝鮮の冬の思い出の忘れがたいものの一つとなろう。

 ご飯と「コクス(クッス)」が入っていて、自分で塩や葱や胡椒で味付けをして食べる。今のソルロンタンと基本は同じ。この1926年当時は終夜営業でやっていたようで、夜の11時過ぎが狙い目だというのも面白い。浅川巧も生前、このソルロンタンが好物だった。1922年10月7日の日記にも「例に依つて一同ソルノンタンで済して」とある。

 この時代から30年代以降もソルロンタンは出前もしていた。配達夫が事故にあったという記事も散見されるし、配達夫が集団で悪事を働いたという記事もある。今の韓国の「ペーダル文化」のハシリかもしれない。

 あとはソルロンタン屋の衛生状態が問題になったり、戦時体制になった中で深夜営業が問題になったりしている。しこたま飲んでから、しめはソルロンタンで…というのがパターンだったらしく、戦時下でもソルロンタン屋は夜遅くまでやるものというのが相場だったらしい。

 

 

 


 

 私は長橋洞でソルロンタンを食べたことはない。

 ソウルで、私がソルロンタンを食べに行くのは安国駅の上、ジェドン(斎洞)交差点にあるソルロンタン屋「マンスオク」。美味しいかどうかは人それぞれだが、もう30年以上も通っているので、ソルロンタンが食べたくなると足が向く。

 釜山では、南浦洞のはずれにある「ソウルカクトゥギ」。ここもかなり前からソルロンタンというと足が向く店。

 この店がカクトゥギを店名にしているように、ソルロンタンとともにカクトゥギがポイント。ここまで書いて気づいたが、カクトゥギが気に入っている店が私の好みのソルロンタン屋なのかもしれない。浜口良光が「ソルラントン」を食べていた頃はどうだったのだろうか。