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3、長男の治療経過

これまでの過程はこちら

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を参照してください。

 

3、1歳0カ月:摘出か、放射線か①

3、1歳0カ月:摘出か、放射線か②

3、1歳0カ月:摘出か、放射線か③

 

の続きです。



●思いがけない提案


思いつめて思いつめて、摘出から放射線に気持ちが傾きつつあった2017年4月19日。


放射線治療を止めに来た小児科のK先生の提案は、

眼科の主治医に「国内では不可能です」と言われた陽子線を受ける気はあるか、

というものでした。


入院中、摘出を余儀なくされたお子さんの中で、

眼球ではなく、眼窩に腫瘍の再発があったお子さんが、陽子線照射を受けたという話は聞いたことがありました。


 

しかし、長男のように眼球温存を目的とする場合、

主治医には国内で陽子線照射は不可能と言われていました。


その理由は、放射線(X線)に比べ、陽子線は照射部位がかなり限局されること。


乳幼児の場合、照射はいずれも薬で鎮静をかけて行われますが、

目は、眠っていても動きます。

(たまに赤ちゃんが目を開けて寝ている時、ゆっくりぐるーっと黒目が動いているのがわかると思います)

さらに、鎮静の薬でも眼振が出ることがあるそうで、

眼球に陽子線を当てたい場合は、それを固定しなければ照射部位がズレる可能性があります。


アメリカなどの実施施設では、吸盤のような医療器具で眼球を固定した上で、

照射をするのが一般化しているそうですが、

日本では、またそういった方法は導入されていない。



これが「不可能」の理由でした。


それを踏まえた上で、K先生は、

関東で小児の陽子線治療の実績が豊富な

筑波大学病院に一度問い合わせてみる

と、提案してくれました。



あると思わなかった第3の道。

それが開けるかもしれないという期待と、

「眼窩照射とは違う、出来るわけがない」と信じないておこうという気持ち。


翌日、引き受けてくれるかどうか電話をしてくれることになり、


ひとまず、

月末の摘出手術の予定と、

放射線治療を受ける予定、


双方の予定を入れたまま、病院を後にしました。





翌日、K先生からの電話。


「来週MRIを撮って、その結果次第で陽子線を検討する」



まさか、と思いました。


希望を持ったら、叶わなかった時に辛い。

まだ、喜んではいけない。

やっぱり不可能と言われるに決まってる。


ひたすらそう言い聞かせながらも、

電話なのに何度も先生に頭を下げてお礼を言いました。



●MRI撮影


2017年4月24日。

一泊入院の準備をして朝から病院へ。

そのまま絶飲食となり、

点滴のルートをとるのに大泣きしてから15時ごろ、MRIへ。


そしてそのまま、国がんで放射線をやるためのマスクの型取りも行いました。



この日、これまでの入院で度々出会った別の病気の子のお母さんや、

新生児の頃に入院して心身ともにボロボロだった頃声をかけてくれた、

同じく両眼性の患者で、親子間遺伝でお子さんが治療をしているお母さんに会えて、近況報告。


今でも、度々連絡を取っている人たちです。


病気も違ったり、同じRBでも予後は様々だったり。

同じ時期に、子供の治療が重なった、というだけで育って来た環境や価値観も全く違います。



それでも、同じ病棟で過ごした不思議な連帯感、

カーテン越しに聞こえる子供との会話、叱る声、時には押し殺した泣き声。

家族ではないから、踏み込めないことも多い一方、他人だから気安く深刻な話ができることもある。

誰かに聞いてほしい、愚痴をこぼしたいことはお互いにたくさんある。


この時の入院は特にかなり情緒不安定だった私。

話を聞いてもらえて

「陽子線、受けられたらいいね」と共感してもらえるだけで、救われた気持ちになりました。



鎮静からの覚醒後、特に問題がなく、外泊許可をもらって自宅へ。


陽子線ができるかどうかは、

翌日、電話でお知らせします。ということになりました。





絶望は、愚か者の答。



翌、4月25日。

この日の日記にはこう書かれていました。

(これを書くために読み返しても全く記憶がない自分が怖い)



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数週間前に、数十年ぶりに「ルドルフとイッパイアッテナ」を読んだ。


“絶望は、愚か者の答。知識に対する冒涜”


心に残っています。


陽子線治療が出来る方向で、

筑波に外来に行くことになりました。


諦めないでよかった

と、今は、思います。


(長男の名前)ちゃん、頑張ろうね。

私も頑張るね。

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小さい頃大好きだったイッパイアッテナ。



どんなに情報を求めても、世界中の知識を集めても、

叶わないこともある。


私の病気も、長男への遺伝も、

病院や自宅で病気と戦う子どもたちや、

余命を告げられて、生き方や死に方を模索する大人たちも、

地団駄を踏んでも、お金を積んでも、病をなかったことにはできない。


でも、少しでも暮らしやすく、少しでも前向きに過ごすために、

やはり、情報と知識は、最大の武器になると思います。




私は医者でも学者でもなければ、

普段は目の前の家事と子育てすら満足にこなせない、小さな人間だけれど。

情報を必要とする人には、情報を得る方法を教えてあげたい。繋いであげたい。



今の日本は、研究者や医療サイドからの発信ばかりで、

患者側の情報は、社会にも、医療従事者にも圧倒的に届いていないと思います。



治療中は、医師たちも患者側もそんな余裕すらなかなかない。

治療が終われば、日常生活の中で、良くも悪くも、闘病経験の記憶は薄れていきます。

素人が発信する情報はあまりにも不確実で、主観が入って捻じ曲げられていることも多い。

誰かを救った情報が、自分を救ってくれるという確証はない。



でも、患者が何を望むか、何を望んでいたか。

合理的ではなくても、最終的な治療や結果と合致しなくても、

それを知識として得ることは、医療の底上げに繋がるはずです。

その思いが、ブログの開設のきっかけになりました。




誰よりもこの病気と付き合って生きてきたうちの一人なのに、

まるで駄々をこねるように、

摘出は嫌だ、放射線は嫌だと主治医や関係者を振り回してしまったことを反省しています。

それを咎めずに、1つ1つのメリットやデメリットを説明し、複数の選択肢を与えてくれたこと、

本当に、感謝の言葉しかありません。



患者として、患者の親として、彼らがどういう思いでいたのか、なかなか聞く機会はないけれど。




当時は無我夢中で、自分が選び取ったその先が希望か絶望かも未知数でしたが、

今、結果的に、長男の「見える世界」は、

陽子線で温存できた右目が支えています。

(見えていた左目は、その後の再発治療の後遺症で視力をほぼ失っています)


 


この先のことはわかりません。

この道を選んだことを後悔するかもしれない。

たとえそうなったとしても、

あの時、長男のために出した答えは間違っていなかったと、

絶望にのまれずに前を向いてそう言えるように、

私もそうありたいと思います。