勢いのままに身をまかせ、深く潜った。


ほってった頭皮で水温を感じながら、しばし潜水を続ける。


太陽の光と戯れ、今にも焦げ付きそうだった髪の毛が、水との調和を楽しみ始めている。


人見知りという言葉など、知らないようだ。


我ながら、たくましく思う。まだ若いという証拠なのか?




水から顔を出し、排水溝に置いていたミラーゴーグルとキャップを付け、


ウォーミングアップの準備を始めた。


プールサイドを見渡すと、若干不機嫌そうな部員が多い。


夏休みと言えど、朝は早いし、起きた時点で汗かいてるし・・・、


なにせ、更衣室が半端じゃなく蒸し暑い。


イライラ要因の多い夏の朝なのです。



水着に着替え終わり、シャワーを浴びる前と後でのテンションの違いは、傍から見ていて面白い。


真夏といえど、シャワーの水はそれなりに冷たい。


コロッケに間違ってお醤油をかけてしまった時のような、妙に明るい女子のリアクションや、


確実に無理矢理テンションを上げているだろうと思われる男子の奇声が


こちらまで聞こえてくる。


先輩、後輩の関係がとりわけ緩いことで有名な我が水泳部の朝はこうして始まる。



全国大会が刻々と迫ってきていた。



総じてレベルの高いチームではあったが、練習の質に関する部分は


個人のモチベーションに大きく委ねられていた。


顧問はシーズンオフの陸上トレーニング中に大怪我をし、長期間


自宅療養が続いていたのだ。





私より一つ年下の2年に海という子がいる。


海と書いてマリーン。通称マリちゃんだ。大きなピアスが似合い、


音楽の香りがプンプンする子。日本人離れしたセンスの持ち主だ。


文庫本をポケットに突っ込んでいたり、たまにタバコの匂いがしたりする。


ルックスに似合わず男勝りで、危なっかしい一面をよく見かける。


ただ憎めないのは、この子の笑顔と甘え上手なところがあるからだろう。


同年代の中ではトップスイマーであることは間違いない。


水泳雑誌には幾度となく登場し、記録も塗り替えてきた実力派だ。



今、プールサイドの日陰に座り込み、ヘッドフォンを耳に当てて漫画を読んでいる。


まだ着替えも終わっていないし、今日は一応来たけど、練習に参加するかは未定の様子だ。


携帯に電話が掛かってくれば、今にも帰ってしまいそうな子である。


細い腰とふっくらしたお尻が特徴的である。


どんなにサボリ魔であってもストレッチだけは欠かさないだけあって、


体の柔軟性は群を抜いている。



今、コーチ室のドアをかっ開き、上半身裸で短パン1丁で椅子に座ってる男が同級生の淳。


クール過ぎて近寄りがたいが、スーパーモテ男である。


昨シーズンの終わり頃から水泳でも頭角を現し始めた華のある男だ。


当初、腰掛程度の部員だったが、最近の熱の入りようは半端ではない。


頭の切れる男でスマートだ。1コースでポカリを飲んでいる陽介と共に


半年ぐらい前までは暴力的なチームに入り浸り、警察のお世話になっていたようだが。


もちろん定かではない、ウワサでの話しだが、彼はチームからの独立に失敗し、


そのウサ晴らしに水泳にのめり込むようになったとか。


禁句とまでは言わないが、その辺の話を大々的に言うものは誰もいない。


問題児といえば、この2人ぐらいだろう。



残りはキャプテンの貴史や杏をはじめ、皆基本的には水泳が好きなメンバーばかりだ。














たった1ヶ月前のことだが、さかのぼれば、


あの頃は、とても平和な時間だった。


とにかく、毎日暑い日が続いていた。



15才になったばかりだった。


平凡な暮らしとは言えど、悩みは腐るほどあったし、


いちいち言われなくても、自分の汚れた部分だってとっくに知っていた。


表と裏。


色んな物事にコイツはつきまとうけど・・・、結局のところ、自分が損しない


スタイルってのを発見しないとな、と思っている今日この頃。


共存を受け入れる余裕はあるつもりだけど、


ほんと面倒くさい時が、かなりあるというのが本音です。



自分は水から生まれた気がする。水の中にいる時、ほんとに開放的になれるのです。


何もかも取っ払って、没頭できるのです。


あんなことになるなんて思ってもいなかった。


きつい練習だったけど、平和に明るく水泳に没頭している時期があった。




ひっかけた指でタイルを蹴った。


体は斜め前方へ浮き、


ワンテンポ遅れるようにして、両腕を後ろへ振った。


肘は折れ曲がり、背中のラインを越えた。


足の裏が全く嘘っ気のない真夏の太陽の光を感じ、無意識に膝も曲げてていた。


体が最高点に達した所で首を下へ曲げ、


2本の上腕で両耳の裏を挟んだ。


曲げていた足を真っ直ぐ後ろへ突き出すと、


勢いにまかせて頭から一気に突っ込んだ。


今日の水はひんやりしていて気持ちが良さそうだ。

『愛は勝つ?』


女子トイレの個室内で、便座に座った光恵がつぶやく。


『勝つと思います。』


『誰に何をしてるのか、アナタ分かってるわね?』


光恵は一転して吹っ切れた表情に変わった。


杏は答えなかった。




『どうしても?』


光恵の質問攻めが始まった。


質問の意図が良く分からなかったが、杏なりに考えた。


『どうしても・・・です。淳は私が、私が守ります。』


杏はそう言い終えると唇を噛んだ。


照明が行き届いていない端っこの薄暗い個室の中で


2人の会話は続いた。


2人とも小さな声だった。


光恵は相変わらず便座に座り、杏は個室の壁に寄りかかるようにして立っていた。


『愛さえあれば・・・か。』


光恵が独り言のように呟く。20歳の女は犬のような可愛い表情で目を細め、


少し眉間にしわを寄せた。




『はい。』


少し間をおいて杏が相槌をうった。


『愛さえあれば何なの?』


『えっ?・・・。』


『何なのよ?』


『鬼に金棒です。』


『ふーん。』


光恵は少し笑みを浮かべた。


愛想笑いのような形になったが、杏もつられて少し笑った。



『私も、これがあれば鬼に金棒なんだ。』


光恵が携帯を再び持ち、すぐにボタンを押し始めた。


実に携帯の似合う長く綺麗な指だ。


これ見よがしに携帯を耳にあてた。


同時にトイレのレバーが引かれ、杏の口元が動いた。


杏は水の音で電話を妨害したかった。


『野見山をよんでください。』


杏は口パクで連呼した。




水の音が激しくなろうが、光恵は携帯を離さない。


光恵の話はまだ核心に迫っていない。


何の連絡を誰にしているのかが分からない。


『野見山を呼んで下さい。』


再度口パクしたが、光恵はとりあわない。


『あっ、うん、全然大丈夫。』


光恵が電話相手に言ったその瞬間だった。


杏はトイレのレバーを足で踏んずけながらポケットをまさぐり


タオルをほどくと光恵にまたがるような体勢で拳銃を突きつけた。



光恵の声が止み、顔色が変わった。


杏は目を大きく開き、オデコに汗をかきながら銃を光恵の顔に接触させた。


『野見山呼べよ。』


杏は声に出してそう言った。


杏は再びレバーを足で踏んずけた。


水は再び、勢い良く流れた。


何万回と聞いてきたこの水音は相変わらずのリズムであり、


混乱している2人は、暗いトンネルの幾分先にある、良いか悪いかも分からぬ、未知の世界からの光を


互いに見つけていた。