「みふのもちつき」
第一話 ボーイ ミーツ みふ 3
3
「大丈夫ですか、安江師長」
一番初めに看護師に駆け寄ったのは平良だった。手近にあった椅子を素早く持ってきて彼女を座らせた。
「彼女は安江法子看護師長だよ。上にいる看護師達のトップだ」
鶴ヶ丘が紹介してくれた。そしてボソリと付け加える。「今日で辞めるけどな」
拓真は何と答えて良いのか判らず「はあ」と間抜けな返事をした。
安江の顔色が少し戻ったのを見ると「どうかしましたか」と平良が尋ねた。
「面接中にすみません」
安江が弱々しい声で謝る。「緊急事態が起こりまして」
「何だ」
鶴ヶ丘が問うと、安江は窺うような視線を拓真に向けて口籠もった。
「ああ、彼なら大丈夫だ。うちの職員になった」
鶴ヶ丘のその言葉が心に重い。気づかれないように拓真は溜息を吐く。こんな筈じゃなかった。
「実は今日退院予定の石川淑子さんの所在が判らなくなっています」
「どういうことです」
平良は平静に話しているが口元が引き攣っているような気がする。チョビ髭がひん曲がって見える。
安江は貧血のせいか心労のせいか息切れしながら報告し始めた。
石川淑子は現在三階病棟の個室に入院している。軽い脳梗塞で左足の片麻痺があり、そのリハビリで入院していた。今日は特に変わった様子もなく退院に向けて機嫌良く過ごしていた。
十二時過ぎに淑子は昼食を食べ終え、退院に向けて着替えと荷物の準備を始めた。ここまでは看護助手が付き添って淑子の支度を手伝っている。
その後淑子は自分の使っていた個室で息子の迎えを待っているはずだったのだが、
「今さっき看護師が様子を見に行きましたら、病室には誰もいませんでした。みんなで探しているんですけれど、まだ見つかりません」
「トイレじゃないのか」
訝しげに鶴ヶ丘が問う。
「もう探しました」
「一人で居たのはどのくらいだ」
「十五分くらいです」
「石川淑子か」名前を呟きながら鶴ヶ丘は考えている。「初期の認知症じゃなかったか」
その問い掛けに安江は頷く。
「まずいな」
そこで漸く鶴ヶ丘の顔色が変わってきた。「何かあったら病院の管理責任だぞ」
「それに」
安江が言い淀む。
「どうしました」
平良が安江の顔を覗き込み先を促した。
「退院時に迎えに来る予定の息子さんは『取扱要注意キーパーソン』に指定されています」
「なんだって」
鶴ヶ丘が声を荒げて立ち上がる。
「確か、弁護士の先生でしたね」
「拙いじゃないか。居所が判らなくなっただけでも病院の不備なのに、もし石川淑子に何かあってみろ、確実に訴えられるぞ」
鶴ヶ丘は唸りながら会議室をグルグルと徘徊し始める。
「別フロアに移動したとは考えられんのか」
「エレベーターは呼び出しボタンにカバーを掛けて認知症の患者には操作できないようにしてありますから、病棟から抜け出てはいないと思うのですけど……」
「判らんだろ。直ぐに病院全体を調べるんだ」
「はい」
「息子の迎えは何時だ」
「あと三十分くらいです」
「もうすぐじゃないか。さっさと探せ」
「はい、はい」
ゆらゆらと幽霊のように安江は立ち上がり部屋を出ようとする。
「はあ、最終日までバタバタ……」
消え入りそうな声で安江は愚痴っている。
傍観していた拓真はちらりと安江を盗み見る。透けて見えそうなくらい存在感がなかった。
「もち野郎は関係していませんよね。はっはっは」
平良がさも面白い冗談でも言ったかのように笑ったが、その一言で部屋の空気が突如凍りついた。
平良は笑って口を開けたまま、安江はドアのノブに右手を伸ばしたまま、鶴ヶ丘は豆鉄砲を食った鳩の様な間抜けな顔で動きを止めた。
拓真が何が起きたのか判らずに戸惑っていると、不意に時間が動き三人が一斉に空笑いを始めた。
それから三人はこそこそと会議室の隅に集まりなにやら話し合いを始めた。
別に拓真に話が聞こえないよう配慮してる風もなく、普通に三人の言葉は耳に届いてくる。
誰が石川淑子のことを「もち野郎」に確認しに行くかで揉めている。お互いに押しつけ合っていて、いい大人がみっともない。
拓真は冷めた目で三人の姿を見つめていた。
「もち野郎」って何と質問したいが、そんな余裕のある雰囲気でもない。
話が纏まったのか三人の会話がピタリとやんだ。そして、勢い良く振り向くと三組の視線が拓真を射貫いた。
「えっ、俺」
思わず自分で自分を指差し問い返してしまった。急に振られたので「俺」なんて言葉を使ってしまう。
鶴ヶ丘が取り繕うようにコホンと一つわざとらしい咳払いをすると拓真の傍にやって来た。
「もちつき君も晴れてこの病院の職員だ。今日は栄えある初仕事をこれから行ってもらおうと思う」
さも鹿爪らしい声音で鶴ヶ丘が命じた。
(続く)
※当ブログを気に入って頂けましたら、フォローをお願いします!
☆以前の小説「みふのもちつき」はコチラ!