「英で児童・生徒数千人が気候変動デモ 学校は授業欠席容認」というニュースがAFP BB NEWSで流れた。

http://www.afpbb.com/articles/-/3211408?fbclid=IwAR1iV7djmUrQoIKttsQZT4TroHCqA_t0Piu-YDG5e1jvurbs42EyOWRS4lY

 

 教育基本法第 14 条第1項には「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上. 尊重されなければならない」と示されている。一方で教育及び教員の政治的中立性が議論され、さらに平成27年には「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」という通知で他の生徒の教育活動に支障があるような場合には集会などを制限するともいっている。では、抗議活動への参加についてはどういう方針なんだろう。日本の教育現場、特に主体的思考と主体的判断と自主独立をうたい、生徒児童の主体性と自由を尊重するリベラルな教育では、このような動きに対して、生徒児童たちとどのような対話をし、どういう方針で生徒児童に接するのだろう。「欠席容認」にもいろいろなレベル状態があろうし、「お国柄の違い」もあるだろうが、そういう論点のすり替えなしでこの事態について教育関係者はどう考えるのだろう。日本でも、特に90年代から対話型、参加・協働型の授業の実践を通して、最後の論点として残った環境と倫理とをテーマに「環境教育」を推進してきたのだから、環境問題に対する態度の表明はその結果であろう。「火事」であるか「再生」であるかはそれぞれの視点によって異なるだろうが、いずれにせよ「対岸の〇〇」として傍観するわけのはなるまい。

 昨年、スウェーデン ストックホルムの議会前で。1人の高校生が抗議・要求のハンストをおこなった。昨年末からFBPageもできているので下に紹介しておく。背景に政治的思惑が働いているのではないかといううがった見方をする前に、発端は何かということも知っておきたい。教育現場に限らず、集団的行動の背後に政治的思惑とか政治団体という「亡霊」を勝手に存在させて源流を濁らせたり、「事情通」の講釈に辟易することがあるが、まずは発端を知りたい。

 

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=783480268672150&id=567337650286414

Liveで試合観戦ができなかったので未明に放映された録画を見た。ライブ観戦ができなかったのは本当に残念で仕方がない。帰宅するまでの間、試合結果を見ないようにしようとしたが、スマホの速報通知や電車内でのニュース放映、乗客の話し声からそれは無理であることを思い知らされた。我慢していても仕方がないのでスマホでいろいろと見ていたが、やはりからだの底から湧き上がってくる期待や不安や言葉にならない感情や緊張は経験できなかった。録画観戦後内外のいろいろなメディアの反応を見た。海外のメディアと日本のメディアを対立する二項としてステロタイプに比較するわけではないが、両者の違いのようなものが感じられた。海外メディアでの取り扱いはファイナリストに対する敬意がはっきりと示されている。大坂の偉業を讃えるのはもちろんのこと、大坂と同等にクビトバの復活と努力、そしてファイナルでの健闘を心のそこから賞賛し、労う言葉に紙幅をきちんと割いている。ファイナリストへの敬意は相当のものである。大坂の偉業を讃えるとともに奇跡的な復活をとげ、試合後、ライトの消えたコートのベンチで涙したクビトバにも心の底から湧き上がってくる労いの気持ちと今後の活躍に声援を送りたい。

白人化という言葉も聞き慣れないがホワイトウォッシュというともっと聞き慣れないのが日本の日常のようだ。whitewashという英語の日本語化だ。「マンガだから髪の毛の色や肌の色、体型は創造のもので自由ではないか、マンガのキャラクターの肌の色を薄くしたくらいだから目くじらを立てて騒ぐことはない、マスコミも暇なんだな」という趣旨の話を隣に座った人が話していた。詳しくは聞いていないが、要するに「大げさに騒がなくてもいい、マンガなのだから」ということらしい。日清食品は批判を受けたアニメを取りやめたらしいが、会見の中で謝罪し、「意図的に白くした事実はない」「意図的ではない」「配慮が欠けていた。今後は多様性の問題に、より配慮したい」と述べた。「意図的ではない」という弁明はハリウッド映画の数々の名作が批判されるときにも聞く、謝罪の常套文句だが、メディアは日清食品の対応や大坂なおみの即妙な回答を取り上げるだけでなく、日本全体にwhitewashに対する意識がどの程度あるかどうかも取り上げる必要があろう。日本の漫画やアニメには無国籍の人物のようなキャラクターがよく登場し、そうでありながらもどこか西洋的であることへの憧れのようなものがあるという。そういえば昭和の三羽がらす(萩尾望都、里中満智子、池田理代子)の作品にもその傾向は色濃く出ている。「肌の色をこのように描くのはマンガの常套であり、日本の漫画の描き方でしかなく、そこに差別感覚などないのだからマンガのキャラクターのwhitewashを大げさに取り上げてニュースにするの騒ぎすぎだ」とするのは的がはずれている。このBLOGOSの記事の中にも「漫画での描かれ方をめぐる騒動で台無しにされた」という表現が使われているが、「明らかに私の肌は褐色だ。かなりはっきりしている」と発言し、「今度また私を描いたりすることがあれば、その時は私に相談すべきだと思う」と言った大坂なおみ本人の気持ちは、「台無しにされた」と言うものとは異なるだろう。「台無しにされた」という感覚の背後に「たいしたことではない」というようなアナクロな感覚があるように思う。その意味ではこの質問をされたときの大坂なおみの対応、「この会場には日本人の記者が多いけど、どう思うか」という逆質問はひいき目なしに素晴らしいと思う。