海外でも、空気を読める、周りの気持ちを察することができるのは、すごいパワー | Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

今日は、前回お話ししたように、移住後のリアルな気持ちと、抵抗感やショックを覚えたことについてです。

 

カナダに移住すると、日本にいた頃にずっと感じていた、周りをいつも気にしていないといけないという縛りのようなものがすっかりとれて、自分が自分でいられることを感じて、やっと息ができる場所に来られたと感じていました。

当時カナダでの友人や知り合いから、「カナダに引っ越してきて、日本とカナダの一番大きい違いは何だと感じる?」とよく聞かれました。私が答えていたのは、「カナダだと自分が自分でいられて嬉しい。日本だと周りにいつも合わせる必要があって窮屈だった。」ということでした。

でも同時に、大部分が肯定的に感じられたカナダでしたが、実際の生活の中では、いろいろな場面で「え?」とか「は?」とか、いわゆるカルチャーショックが勃発し続けました。

小さいことで言えば、電車やバスの中で、足を思いっきり投げ出したまま自分の携帯電話を見続けていて、すっかり自分の世界に入ってしまっている人(まるで自宅のカウチに座っているかのよう・・・)が少なからず見受けられるのですが、だれもそれに文句を言うわけでもなく、注意をすることもなく、迷惑がっているオーラを放って気づかせようともせず、普通になんにも気にしない、放っている、という感じ。

スーパーマーケットの棚の前で、大きなカートをとめて棚の上の商品を見ている人がいるのだけれど、私はその脇を自分のカートと一緒に通りたいのだけれど、すっかりその人のカートでブロックされていて通れない、でもすぐ側に少し立っていても、その人は商品を見ることに集中していて、私の存在に気がついて自分のカートをどけるということもない。こちらが「すみません、通りたいんですけど」と声をかけると「あ!ごめんなさい!」と初めて私の存在に気づく、とか。

そういう種類のことは普通にいくらでも見ることができます。

これは若い頃長く日本で生活したことのある知り合いの話ですが、彼女が学校にいったものの、かなりの体調不良を抱えていたので、椅子にじっと座ったまま静かにしていたそうです。でもだれもその様子を見て「どうしたの?」「大丈夫?」「具合悪いの?」などと聞いてきてくれる人はいなかったとのこと。後日そこにいた友達に「あの時は具合がすごく悪かったの」と言ったら、「え!?本当!?あなたが言わないから、わからなかったよ!そういうのは言わないと!」と言われたそうです。彼女はカナダに戻りもう長く住んでいるのでカナダの感覚ももちろんわかりますが、「日本だったらすぐに”察して”くれるのに、そういう感覚がこちらにはないよね」と話していました。

カナダでは、私が好きなようにして、私が私でいても、確かにだれも文句は言いません。でもそれはつまり周りの人がそれぞれ自分のこと、自分の目線や枠組みの中でしか考えていないで進んでいるということでもあったのです。他の人のことをそもそも気にしていない、なので私のこともそもそも気にしていない、というのが現実だったわけです。

ある意味では自分で自分の道を決めたり、自分の意思でしっかり動ける、とも言えますが、また別の意味では周りにアンテナが伸びていかない、周りの様子を理解することに長けていないという感じでもあります。

誤解して欲しくないのですが、みんながみんなこういういわゆる空気が読めないとか行儀が悪い人ばかりということではありません。人によって程度の差や性格や表現仕方の差なども様々です。とてもきちんとしていたり、優しくて気配りができる人も少なくありません。

ただ、日本は国を挙げてものすごく周りに気を配ったり、空気を察したりするすることへの期待がものすごく高いのです。そしてそれをみんなそれなりに実行することが身についている。そしてそれで社会が回って、文化もできあがり、歴史も日々刻まれている。

そういうものが日本に長く住めば住んだだけ、その習慣が空気のように当たり前になって身に染み付いています。これが日本だけにいると息苦しくもなるのですが、私も30年以上日本で普通に日本の社会で生きたので、かなり染み込んでいたと思います。そしていざ海外に出た時に、その自分に層のようになって染み付いてきていて苦しいものだと否定的に意識しているものが、いきなり肯定的なものに変貌を遂げて、頭をもたげたかのように思えたのです。

 

その自分の気持ち、反応に驚きました。まるで全然違う方向から、今まで否定していたものに煌々と光が当てられた気がしたのです。

 

その常識、習慣、日々当たり前のように行われている、もう考えなくても自然とアンテナを伸ばして察することのできるスキルは、実は社会をスムーズに、互いに無理や必要以上の苦労を強いることなく円滑に動かしていくために、また互いを労ったり力づけたりしながら共に前に進んで行くために、とても大きな潤滑油のようになっていた、と。

そして実はすごく自分もその恩恵を受けていたこと、その価値の素晴らしさを色々な場面で、たくさん体感してきていたのも大きな事実だった、と。実は自分の中でその常識、習慣を肯定的に受け止めていた部分もたくさんあったのだ、と見えたのです。

そういう素地が社会の中でとても希薄であるときのバージョンというか、その具体的な様子をカナダであちこちで見つけた時に、いわゆるショックで、抵抗を感じている自分がいました。

 

「え?なんで?」というような。日本では当然なものが、ここではまったく当然ではない。そういうことへの理解もほとんど無い。

 

自分の中でずっと否定的に意識していた「周りの気持ちを察する」とか「周りの空気を読む」とかいうことを盾に、そのカナダでそれが十分になされていない様子に、抵抗感を感じたり、批判的にすらなっていた自分に気づきました。

なんという矛盾でしょう。

でも日本からカナダという他の国に完全に生活を移して移住して、そこで歩いて、人と関わり、生きていくことになったからこそ、自分の中でこういう気持ちの変化に直面したり(ものすごく自分の中ではショックでしたけれど)、日本の習慣の良さ、価値を洗い直せた、という気がします。

 

そして、「じゃあどうしてこの人たちはこういう風に考えるのか、行動するのか」ということを深く掘り下げざるをえなくなり、普段からすぐそばにいる人たちのことですから、なあなあには付き合いも続けられません。

こういうショックやと戸惑う気持ちはいつまでたっても大なり小なりあります。世界は広いし、人の心や人生は深い、ってつくづく思います。でも、面白いと思いますが、こうやって人を理解することにおいても、なんだかんだ言って「相手の気持ちを察する」という心の筋肉を使って、アンテナを伸ばしていっているわけです。

自分が日本にいる頃に、まるで孫悟空の頭の輪?のように思えたくらいの日本の習慣が、他の国で、他の民族、異文化、バックグラウンドが全然違う人たちを理解する助けになるのを感じたのです。

もし、海外でカルチャーショックに悩んでいたり、つまずいた気持ちになっている方がいらっしゃったら、その状況なり人なりを一歩引いてみつめてみて、どうしてこうなっているのかなあって考えてみると、なにか少しでもポジティブな光がみえるのではないかなと思います。

 

長くなりましたが、是非オススメします。