自分が自分でいられる場所を見つけたと思ったけれど、なんか心地悪い? | Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

前回、カナダに移住してからのお話を少しさせていただきましたが、今日は、移住した当初の頃からじわじわと感じたことについて書いてみたいと思います。

年齢的に若ければ若いほど、移住した先の社会的な状況や周りの環境、もちろん言葉や文化にもそんなに抵抗を感じることなく、すんなりと溶け込んで行けたり、違いを感じてもむしろそれを面白がれるくらいの柔軟性があるものですよね。

 

でも、それなりに年齢が上がってきていて、しかも母国での生活がしっかりとそれなりに建てられてからの移住だと、結構頻繁に抵抗やショックを感じる場面に遭遇しがちです。

抵抗やショックというのは、やはり自分のそれまで生活していた国や社会での通念とか常識や習慣が、年とともに、自分が思った以上に、知らず知らずのうちに自分の骨身にしみて身についていることからくると思います。それで人生や生活が回り、確立されてきているので、だんだんとその習慣や通念の周りに固まってきてしまって、柔軟性が薄くなる、という感じでしょうか。


日本にいる頃には、私は日本の社会は堅苦しいとか、人がどう自分を見るか、どう思うかを常に気にしていなければいけないようで、面倒くさいとか、窮屈だとか思っていました。

例えば、電車やバスなどの公共交通機関の中、ショッピングモールやデパートやお店の中でも、公共の場での振る舞いや行動は、ああしてくださいこうしてくださいと、絶えずアナウンスが流れています。
足を組んだり投げ出して座っていてはいけないとか、混んでいる電車の中ではバックパックでさえも後ろに背負っているのを前に抱える形にするよう促されるとか。
トイレなどでも後の人のことを考えて、自分がトイレや手を洗うシンクなどを使うときはきれいに使うよう色々と貼り紙が貼ってあったり。

日本ではこれらは当たり前のことで、だれもそれにいちいち反論するなんてことはないと思います。どこにいても普通の光景として存在することだと思います。

 

お願いされていることをちゃんと聞き入れたり守るかどうかは別として、誰かがそういう風に熱心に?せっせと?「こうしてください」と求めたとしても、特に公共の場ではかなりの度合いや頻度になっていても、やめて欲しいと声をあげて言う人はだれもいないと思います。

そして、このようにして他の人のことを絶えず気にして行動するよう、普段からこんなにも普通に当然のように促されるということで、この狭い日本の中でこんなに多くの人々が、変にぶつかり合うことなく生活するのを可能にしているのかなとも思います。

でも、同時に日本にずっといると、これがそのうち息苦しくなるくらいお互いを変に縛ってしまうような方向に陥ることもある、というのも、みなさんわかってくださるのではないかと思います。

私は年々それが縛られているように思えて、苦しくもなり、すごく嫌になっていました。


そんな気持ちを抱えつついた私が、海外に実際に移住したのが30代の半ばすぎでした。

移住する以前には、私は普通の日本で生活している一般的な人と比べると、比較的(というか、多分かなり)海外に渡航するチャンスも多く、知り合いも海外に多く、日本で日常に生活する中でも仕事でも英語を使う場面がそれなりにあったり、海外経験が多い友達もそれなりにいたと思っていたので、海外で生活しても結構すんなりと溶け込めるんだろうと、何も心配を感じていませんでした。今思えば、恥ずかしいほど楽観的だった、というのでしょうか。自分はまだまだ若いつもりでいたんだな、とも思います。。。
 

次回は、実際移住した後にどう感じたか、見えてきたことを、具体的な場面をもとにシェアしたいと思います。はっきり言って、かなりの抵抗とショックがありましたが、海外に出たからこそ見い出せた学びがそこにありました。