Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

大人や先生たちが言うことをそのまま素直に行い、褒められることで、そうすることが良いことなのだ、良い子とはそういうものだ、延いては、評価される者とはそういう者なのだ、社会から認められるとはそういうことなのだ、と学習しやすい環境、文化的、社会的な土壌があると思います。

時代によって、例えばよく聞く「昭和世代」のように、昭和時代のメンタリティーを受け継いで生まれ育った場合は、大人の言うことや社会のルールに、良くも悪くももっとずっと従順なイメージもあります。それが平成、令和を時を経る中で、もっと個人の意思を尊重する、個性を生かす、やりたいことをさせるという流れもあり、それもまた良くも悪くも緩くなってきているという現状もあります。

それでも、他の諸外国に比べると、いわゆる今時の日本の若い人たちですら、まだまだ周りの期待を気にして、それに合わせようとしたり、それを無意識のうちにも大事にしようという気持ちを、生活の細かい部分に至るまで、存分に持ち合わせているなと感じられます。

確かにそのように言われたことにきちんと従えるとか、言われたことをそのままちゃんとやり遂げられる、求められたものをきちんと形に仕上げて外に出せるというのは、素晴らしい一つのプレゼンテーションのスキルだと思います。

日本で作られるもの、もしくは少なくとも日本の企業が企画監修して作るものというのは、とても顧客目線をよく追っていて、使い勝手も良く、どこまでも気が利いていて、五感に心地よく馴染むようなところまで、とにかくソツがない、質の高い作りのものばかりです。

どんなものを外に出していくのか、周りを視野に入れた瞬間から、その期待の基準値は一気に上がります。お客様は神様です、と言われるような、海外では考えられないような表現が存在するのも、きっとそういう流れから出てきたものなのでしょう。

 

ただ、一人の個人として、自分自身の、唯一無二と言える、他ではなく自分にしか出せない要素を、その中にどれほど入れられるのでしょうか。

もちろん何かの製品の製造のプロセスや、何かのプロジェクトを推し進める中では、自分一人の個性をそこに100%そのまま反映するというのは、まったく的外れな、単に自分勝手とも取れる試みです。

ただ、相手や周りの求めるラインを損なわずにいつつも、自分の持っている独自のもの、自分にしかない価値ある知識や経験からくる示唆などを少しでも織り込めること、そして周りと共に作り出していく中で、作ろうとしているものの中身の質を、むしろ向上させることに貢献していくなんていうことは、できるのでしょうか。

自分がその場にいる意味、そこに加えられている意味を生かしきれるのでしょうか。

誰かが求めるものを限りなく忠実に、しかも精巧に実現して出していくことはできたとしても、それだけであったら、その枠内でどれだけ精密に、落ち度のない、磨き上げた結果を出すことにそれぞれが競争するだけだとしたら、一人一人の価値というのは、ただ二次元的に上か下かだけで決められるだけになってしまう気がします。

それが社会の中で、学校の中で、会社や色々な組織の中で、地域の中で、家族の中でのたった一つの物差しであったら、とってもオーガナイズされた、きちんとした、きれいな場にはなるのでしょうけれど、別の側面から言うと、それぞれの個人の存在する意味がまったく希薄なものとして終わってしまうのでは、と思えます。ある意味では、それは単に工場で同じ型の商品をできるだけ効率良く、落ち度のない形できれいにまとめあげて、出荷するのに邁進することと同じ感じすらします。

もちろんそういう忠実さや従順さの意味や価値を否定するわけでは全くありません。むしろものすごく価値ある、すばらしいものです。でもその二次元的な評価にばかりとらわれているなら、それで「自分はこんなに良く出来ていますよ!」と見せつけたり、忠実にきっちりと正しい結果を出せる度合いによって上か下か、可か不可かを判断するのだとしたら、その方法にはなにか説得力に欠けるように思えます。

人間の心やそこから出てくる人生というのは、そういう枠の中だけでは抱えきれない価値や意味があるのではないか、と感じるのです。

続きます。。。