本ブログでは

これまで2冊ほど

ヘレン・マクロイの作品を

紹介してきましたけど

今年(2018年)に入って

そのマクロイの翻訳(本邦初訳)が

2冊も刊行されました。

 

そのうちの1冊がこちら。

 

『悪意の夜』

(1955/駒月雅子訳、創元推理文庫、2018.8.24)

 

ヘレン・マクロイが創造した

シリーズ・キャラクター

ベイジル・ウィリング博士ものの

最後に残った未訳長編であり

マクロイ・ファンはもちろん

ウィリング・ファンにとっても

待望の翻訳となります。

 

 

政府機関の職員だった外交官の夫が

崖からの転落事故で死んだあと

その妻が夫の机の

鍵のかかった引き出しから

「ミス・ラッシュ関連文書」

という封筒を見つけます。

 

そのすぐ後に

帰宅した息子が伴ってきた

美人の女性の名前が

クリスティーナ・ラッシュ。

 

とても偶然とは思えず

近所のコテージに住んでいる彼女は

亡くなった夫と

どういう関係にあったのか

残された妻が気になって

調べ始めるのですが……

というのが物語の出だしです。

 

 

全体は3部に分かれていて

第1部はミス・ラッシュの謎を

元外交官の妻が調べ始めると

不可解な事情が判明するというか

謎の不可解さが深まるうちに

轢き殺されそうになるまでが

描かれます。

 

第2部では

自分を轢き殺そうとした人物に対して

反撃を試みようとする経緯が

描かれるのですけど……

これ以上、書くと

ネタバレという非難を浴びるというか

ストーリー展開の興味を殺ぐ

と思う人もいるかも知れませんね。

 

でも、第2部の展開まで書かないと

本書の読みどころというのが

明確にならないと思うだけに

ここは難しいところです。

 

 

ところで巻末の解説の冒頭に

本書がシリーズの中で

最後まで未訳のままだったことには

「それなりの理由があるはずだ」

と書かれています。

 

その理由は

「本書の結末部分の内容にも触れるので、

 小説本篇を読了してから

 目をとおされたい」という

ゴチック文字の注意書きの

あとに書かれているのため

その理由の是非を考えようとすると

これまた初読の興味を殺ぐことにもなりかねず

やっぱり言及が難しい。

 

しょうがないので

ぼんやりとした書き方になりますけど

ある人物の「悪女ぶり」を

充分に描いていないから、というのが

その理由にあたるかと思います。

 

確かに今の感覚だと

ある人物の「悪女ぶり」が

存分に描かれることになるか

とは思います。

 

でもそれだと

謎解きミステリとしての

プロットの輪郭が

少々曖昧になってしまうような気も

しないでもありません。

 

 

解説冒頭の問いかけを

自分なりに考えてみたところ

謎解きミステリとしてのプロットが

古臭く思われたからではないか

という理由に思い至りました。

 

事件が起こった背景を

語る段になると

関係者の手記による

遠い遠い昔話に

なっていますのですね。

 

ちょうど

コナン・ドイルの

『緋色の研究』(1888)や

『恐怖の谷』(1914)が採用した

構成のようなものです。

 

海外ミステリ紹介の現場では

新しいものを求めがちな傾向があるので

さすがにドイル・スタイルは古いだろ

と思われたのではないかと。

 

 

ただし、だとしても本書は

解説中の言葉を借りれば

「見逃せない美点のある佳品」があり

それは(解説が示唆するように)

時代思潮に関わるものだけでなく

第2部になって語り手に到来する状況の

サスペンスとミステリ的な美しさ

(容疑者が一気に絞られる展開の見事さと

それに伴って主人公の葛藤が深まるあたり)にも

見られるものだと思います。

 

ストーリー展開割れになるので

詳しく書けないのが残念ですけど。

 

 

ちなみに

ある人物が夢遊病を発症するのも

古臭ささを感じさせるだけでなく

御都合主義だと思わせたのではないか

ということも考えられます。

 

解説にもある通り

これはマクロイの他の作品と

共通するような趣向でもあるので

美点と捉えることが

できないわけではありません。

 

でも、たぶん

本国での発表当時

日本に紹介されたとしたら

多くの日本の本格ミステリ読みに

古臭いと思われたんじゃないか

と想像しちゃうんですけどね。

 

 

あと、時代思潮に関することで

解説に触れられていないことを

ひとつ、あげておけば

本書の背景には

当時アメリカを席巻していた

マッカーシズムの状況が

横たわっていると思います。

 

大学の物理学教授が

亡くなった妻が1930年代に

「共産主義者のシンパだった」(p.100)

ことを理由に解雇される

という事態が描かれています。

 

大学が政府とともに

原子力開発に向けた研究を

行なうことになり

秘密保持の観点から

「忠誠委員会の聴聞会」(p.60)

が開かれます。

 

その席で

教授の死んだ妻の行状について

証言した人物が

「共産党に数ヶ月籍を置いた経験を足がかりに

華々しい転身を遂げた男」(p.101)

と書かれていますけど

モデルがあったのかどうか

寡聞にして知りません。

 

ちょっと気になるところなんですけど。

 

 

物語中の記述からは、マクロイが

そうした赤狩りの風潮に対して

単純に賛同していたわけではなく

ちょっと距離を置いていたような

気もされるのですけど

これは贔屓の引き倒しかも知れず

これから読まれる方、読んだ方

それぞれの判断次第でしょうけれども。

 

それはそれとして

解説で書かれている

原子力時代の東西冷戦に絡んで

マッカーシズムのただ中であったことも

ちょっと踏まえておきたい気が

するのでした。

 

 

解説では

上で書いたような状況を

ミスディレクションとして

利用していることを称賛していますが

その評価には自分も同感です。

 

これまでこちらで紹介した

『月明かりの男』(1940)や

『逃げる幻』(1945)が

そうであったのと同様

マクロイのミステリは

時代思潮と無関係ではなく

それをミステリのプロットに

上手く絡めています。

 

本書の場合、それによって

エスピオナージュ+本格+サスペンス

という具合に

さまざまなジャンルを

横断したプロットにも

なっているように思います。

 

そういうハイブリッドな構成は

当時、植草甚一が紹介した

一連の海外ミステリを指していう

クライム・クラブ系の作品とも

共通している要素だと

思われるわけでして。

 

 

そう考えると

今まで未訳だったのが

不思議な気もしますけど

仮に、ドイルとの表層的な類似から

古風だと思われた、あるいは

そう思われると見越されたのだとすると

ミステリの読み方、接し方の変遷に

思いを馳せざるを得ません。

 

個人的な感慨に過ぎませんけれども。

 

 

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