
(1945/駒月雅子訳、創元推理文庫、2014.8.22)
ヘレン・マクロイといえば
『暗い鏡の中に』(1950)が
何といっても有名です。
女学校の美術教師が
鏡から抜け出したような
自分の分身に悩まされるという
幻想的な謎を扱った本格ミステリですが
一般的な本格ミステリからは
逸脱するような要素が見られ
そこがファンの支持を受けてきました。
今回取り上げる『逃げる幻』は
『暗い鏡の中に』以前に
発表された作品です。
結論からいうと本作品は
奇蹟のような傑作です。
以下、感想を書きますけど
やや詳しくふれていますので
まずは手にとって
読んでみることをお勧めします。
舞台はスコットランド。
時代は、「ドイツの降伏によって
ヨーロッパでの戦闘に幕が下り」て
「お役御免となった爆撃機が」
「旅客機に転用され」ているころ(p.9)で
「ヒースが咲く八月のいま」(p.64)とあり
途中、ある登場人物の心境について
「日独伊の枢軸国の敗北とともに
自分が大事に育ててきた概念が
砕け散るのを目の当たりにし、
自らも肉体と精神の両面が
ぼろぼろに崩れてしまった
というところだろう」(p.137)と
書かれていますから
1945年8月下旬ごろにあたるか
と思われます。
アメリカ人の予備役大尉で
非行少年に関する心理学の著書を持つ
精神科医が
休暇の名目で訪れた
スコットランドのハイランド地方で
同地の貴族の館を借りていた
イギリス人小説家一家の長男が
何度も家出を繰り返すという事件に
遭遇します。
あるときは、
探しにきた家庭教師が目撃している前で
ムア(荒れ地)の真ん中から
忽然と消失するという怪事すら
起こしていました。
少年の出自について
複雑な事情が明らかとなり
また近所の谷間には
戦前、ナチズムに傾斜した
思想書を書いたアメリカ人著作家が
隠遁生活を送っており
少年に悪い影響を与えていた疑いが
浮上してきます。
そんな中で、ついに
殺人事件が起きるのですが……
当初は
たびたび家出を繰り返す少年の謎が中心で
その少年を取り囲む環境が
丁寧に描かれていきます。
殺人事件は、実をいえば
200ページ近く読み進んで
ようやく起きます。
それが全体の3分の2で
全11章中の第9章の最後に至って
ようやく起きるわけです。
でも、それまでの記述が興味深いので
いつになったら殺人が起きるんだと
イライラさせられることはありません。
いや、自分はイライラしなかったのですが
オビの惹句に釣られて
本書を手に取った人の中には
あるいはイライラした人も
いたかもしれませんけどね(笑)
なぜイライラしなかったかというと
スコットランドの歴史や伝承、
イギリス人小説家の夫婦関係の興味、
ナチズムを肯定するような思想家と
同じアメリカ人である語り手との
思想的な会話などが
興味津々で読めたからです。
語り手はニューヨーク出身の
スコットランド系アメリカ人で、
作者のマクロイもニューヨーク生まれで
その姓が Mc で始まるので
スコットランド系アメリカ人かも
しれないのですが、
それゆえにというべきか
スコットランド文化に対する興味関心が
分析的に、あるいは、必要以上に詳しく
描かれている印象を受けます。
いってみれば
ニューヨーカー・イン・スコットランド
あるいは
ストレンジャー・イン・スコットランド
ないしは
異邦人から見たスコットランド風物詩
といった趣きのある作品に
なっているわけです。
何といっても印象的だったのは
古代スパルタの教育を信奉し
ナチズムの教育方法を肯定する
アメリカ人思想家(似非思想家)と
語り手との対話部分です。
その対話を通して
自国批判を展開している条り
(pp.146-147)には
びっくりしました。
フランスのソルボンヌ大学に入学し
ヨーロッパで文筆活動を続けてきたという
マクロイのキャリアだからこその文章
という感じでしょうか
法的に引っ掛からなければ告発されないし
もう一度、思想家として復活できる
と、うそぶいているのも興味深いというか
世間をあおっておきながら
責任を取ろうともしない
責任があるとも考えない
堕落した思想家のありようが
時代を超えて今でも通用するような
感じがされます。
性格は異なりますが
マッカーシズムの席巻を
予告しているかのようにも読めるのが
興味深いところ。
イギリス人小説家の家庭が出てくるため
文学談義もところどころに見られますが
そうした文学談義の中で
「われわれは
作品を人で判断することはしない。
作品で人を判断しようとする」(p.246)
という発言も出てきます。
これは、道徳的に頽落した内容の
小説や詩を書いた作者が
現実でも頽落しているか
という議論の中で出てくる発言です。
そこでは「知性」についての議論も
展開されていて
「知性の優越は
出自や富のように
一笑に付すわけにはいきません。
(略)
だから知識人は憎まれるのです」(p.245)
という発言も出てきます。
知性において優越に差が見られる
夫婦関係について語られる中で
出てくる発言ですが
翌年に、やはりアメリカのミステリ作家
ブレッド・ハリディと結婚して
1961年に離婚するという
マクロイの伝記的事実を知っていると
いろいろと想像させられて興味深い
ということもありました。
こんな風に引用を繰り返していたら
長くなるばかりなので
この程度でやめますが
こうした発言、
いってみれば知的な会話が
作品を彩っていて
だから飽きさせないのです。
作家論的な関心
というかゴシップ的興味にも
訴えかけてきますしね。
そうした会話は
時代の文脈をよく示していますけど
作品のプロット自体が
ドイツ降伏後のヨーロッパでなければ
成立しないというか
不即不離の密接な関係にあるところが
本書のミステリとしての完成度の高さに
大いに寄与しています。
そこが、ミステリとして
最も感心したところかな。
オビで謳われている
人間消失と密室の謎解きは
ぶっちゃけ、たいしたことありません。
オビの惹句で重要なのは
「そして」の、あとです。
「そして」のあとが
本書を本格ミステリとして
不世出の作品に仕上げていると
思うわけです。
1945年の時点で
このような作品が書けたマクロイは
実に端倪すべからざる才能の持ち主だと
感じます。
『暗い鏡の中に』は
マクロイでなくとも
才能のある作家であれば
書ける体の作品かもしれません。
といってしまうと
マクロイ・ファンから
怒られそうですけどね(苦笑)
『逃げる幻』の場合も
細かい伏線の照応などは
優等生の書いた本格ミステリ
いわゆる端正な本格ミステリ
という印象を感じさせるのですが
(もちろん、それだけでもすごいのですが)
テーマやプロットは
この時代の、マクロイという作家にしか
書けないのではないか
という切実さを感じさせます。
そうした切実さが
現代日本における状況の切実さと
照応しているようにも思われ
今だからこそ読みごろの
奇蹟のような秀作ではないか
とも感じた次第です。
