摂津巡礼18(伊丹市御願塚)2024年4月25日
御願塚古墳は帆立貝式と呼ばれる形をしており、ちょうど円墳と前方後円墳の間をとったようなものです。
帆立貝の後円部は、はじめに廻ったあの広場ではないかと詮索します。 せいさくのせんさく。
帆立の由来には「円墳に造り出しが付いたもの」と「前方後円墳の前方部が小さくなったもの」の両方がありますが、塚口古墳群の多くが前方後円墳であること、くびれ部分に造り出しがあることなどから御願塚古墳は後者であると考えられています。
昭和62(1987)年から平成7(1995)年に周濠外側一帯で相次いでおこなわれた調査では、幅4~5m深さ30㎝程度の小規模な濠が巡っていたことが明らかとなりました。
この小規模な外濠(そとぼり)の内部には、御願塚古墳と同様の埴輪が多数出土することから、二重周濠間の堤にも埴輪が立てられていたと推定されています。 細かくしたら重くなるものは何か?
また、平成10年の調査では墳丘北西側に埴輪列で囲まれた「造り出し」と呼ばれる祭祀遺構が検出されている。さらには平成12年の調査でも、墳丘の北側で埴輪列がみつかりました。
簡単に動かせるのに、自分では掴めないないのは何故なのか?
なかなか手の込んだ帆立貝古墳でしたが、ここまで地域に密着し愛される古墳も珍しい。至近にあった柏木古墳が墓地の山となって古墳の欠片もなかったのとは雲泥の差です。
なぜ1㎞足らずの二つの古墳の間にこれだけ地元のスタンスに違いが何故あるのか。伊丹市と尼崎市にどれほどの隔たりがあるのか。
柏木の10年後を見てみたいと断じたものですが、御願塚は100年後も御願塚のままであると確信します。