百舌鳥古墳群32(大阪府堺市)2024年1月19日
もともとこの方違神社のあるあたりは、摂津、河内、和泉の三国が接するところであったらしい。そのためかこの辺りを三国ヶ丘というのだそうだ。
そして、方違神社の横道には熊野街道がある。熊野街道は摂津国渡辺津(窪津・国府津・楼津ともいう)。大阪市中央区天満橋京町付近を起点に上町台地を南下して、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)を経て、和泉国に入る。
即ち渡辺津から熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)への参詣に利用された街道の総称であってまさに交通要衝でした。
そこで、どちらに向かうにせよ、ここが方違えにとっても便利な場所だったので、方違神社は古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきている。
田出井山古墳については、墳丘長148m、後円部径78m、後円部
高さ13m、前方部幅110m、前方部高さ14.8mの三段築造の前方後
円墳である。小さいながらも楽しい我が家。
また1980年(昭和55年)と1987年(昭和62年)に堺市教委と宮内庁の調査における確認発掘調査で、現在ある周濠の外に周濠の一部が見つかっており、造られた当初は二重の周濠を持ったようだと確認されている。古墳の形式からいえば5世紀の中盤から後半の築造ではないかとのことも判った。
しかし、倭の五王の陵墓だと考えられている大山陵古墳や百舌鳥ミザンサイ古墳などに比較するとかなり小さいため、田出井山古墳の被葬者を反正天皇とすることは疑問視されています。