百舌鳥古墳群26(大阪府堺市)2024年1月19日
今回の調査結果、御廟山古墳の全長が、従来より約14m長い、
約200mになることが判明しました。
出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早い築造時期であると見られています。
測量図によれば、後円部と前方部の頂上に円錐状の円丘が認められますが、主軸線より北側へ偏することから、築造当初のものではない可能性が高いとされる。
現在は一重の濠が巡るが、築造時には二重周濠であったらしい。現在、外濠は埋没保存されている。
中央くびれ部には造出しが存在しており、そこから蓋、盾、冑、馬、鳥、家、囲型といった様々な埴輪やミニチュアの土師、須恵器の他、魚やちまき、ザルをかたどった土製品が確認されています。
これらから築造年代は5世紀前半と考えられているようです。
被葬者には、倭王珍による遣使の際、共に将軍位を賜った13名の
臣下の内の一人として『宋書 倭国伝』に記載のある倭隋(わずい
生没年不詳)を被葬者とする説がある。
倭隋は、5世紀前半(古墳時代中期)の倭の人物。倭王珍(倭の五王の1人)の臣。倭隋は主君と同じ倭姓を併記されている事や、珍の授けられた安東将軍の位とほとんど格差の無い平西将軍に叙されている事などから、王族内でも特に有力な将軍であったと見られる。
倭王と共通する「倭」姓であるため、ヤマト王権内では王族将軍が支持基盤であった様子が示唆されます。
このことは、当時の倭では邪馬台国の卑弥呼と男弟の関係のように王と同程度の人物が政権を補佐する統治構造であったとする説があります。
あるいは倭の五王の権力構造の様子を百舌鳥古墳群・古市古墳群と佐紀盾列古墳群の並立関係との対応をみる説もあります。