百舌鳥古墳群10(大阪府堺市)2024年1月19日
一説によると、仁徳天皇は、神功57年(257年)に誕生したと
いわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し仁徳87年(399年)
に崩御したので単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになり
ます。 です。
父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。
都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛
(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちのち履中・反正・允恭の歴代天皇をもうけます。それだけでも偉業ですね。
民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し、課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・ 茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。
このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。
同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」の動静が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃ちゃん」ではないかという考えがあります。
中国の史書では東夷について、「倭」だの「邪馬」だの「卑弥」だの蔑称しかあてないが、さすが「仁徳」ともなると賞賛の文字が
あてられたのでしょうか。