百舌鳥古墳群11(大阪府堺市)2024年1月19日
仁徳天皇がこの「讃(さん)」王なら、永初2年(421年)に宋の
南朝に朝貢して安東将軍・倭国王に初めて任命され、邪馬台国の時(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復しし、それを主軸として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、「倭の五王」の讃の弟「珍(ちん)とする考えもあります。
その「讃」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に
活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位
年数は17年ないし25年前後です。
また、「珍」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉
20年(443年)には退位していて、同じく在位の年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは全く合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。
「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から502年頃の5世紀の前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を墳丘規模順に列挙すると、
仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となります。
これを時期の順に並び替えると、
仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。
しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の
五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、
履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。
ともあれ「倭の五王」の時代には日本列島から大陸に文物、特に
朝鮮半島に産する鉄を求めてさかんに海外進出していた時期です。
仁徳天皇もその時期に活躍した大王の一人なのかもしれません。