百舌鳥古墳群9(大阪府堺市)2024年1月19日
仁徳天皇陵と大仙陵は同じ古墳なんですが、なぜそのように違う呼び方が存在するのでしょうか?
大仙陵古墳は、大仙古墳、大山古墳、大山陵古墳、大千陵、大川陵仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合がある。何れも地名か個人名かの違いですね。
実は仁徳天皇陵に仁徳天皇が埋葬されているのかどうかが明らかではないのです。大仙古墳は平安時代の延喜式という書物の中で、仁徳天皇の大きなお墓があるという記載がされており、これまでは仁徳天皇陵と呼ばれてきました。
しかし、大仙古墳の隣にある大きな古墳は履中天皇陵と呼ばれているのですが、調査の結果、こちらの方が古いということが明らかとなったのです。
つまり、父の墓よりも息子の墓の方が古いということ。
時系列が正しくないので、「大仙古墳」と呼びましょうとなったらしいです。教科書は10年ほど前に改訂されており、現在の若い人たちは大仙古墳と習っているはずです。
これだけの大古墳の被葬者ともされる仁徳天皇とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
『古事記』『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期
から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したと
して第17代天皇となっている場合があります。)ている。
諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)で、仁徳は
8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。
『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年
で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなった
と記されています。 記紀でもエライ違いますなあ。