ニゴレ古墳(京丹後市弥栄町)2021年12月5日
黒部銚子山前の国道T字路を西に入り、竹野川を渡り網野町方面を目指します。
弥栄と網野の真ん中辺の山裾にニゴレ古墳があります。
付近には丹後王国のフルーツ園がある府道交差点の片隅に小さな丘があり、頂上部が古墳のようです。
墳丘には簡単に登ることができ、下からは円墳かと見えますが、赤茶けた斜面を登ってよく見ると円形ではなく前方後円墳の後円部かとも思いましたが前方部が確認できません。案内板を見ると「不整形墳」となっています。ただの丘の上のような感じもします。
不整形墳とは、形を特定できない場合に使うらしく、築造時期は古墳時代中期、5世紀中葉とされます。
案内板の説明には「離湖(網野町)と竹野川流域(弥栄町)を結ぶ交通路を見おろす丘陵部先端に位置します」とあり、丹後では弥生時代後期から古墳時代前期、中期と丘陵上に墓が築かれる習慣が続けられていたようです。
小さな古墳ながら珍宝が湧き出たユニークな古墳ですが、墳頂部は家庭菜園なのか大根や白菜などが植えられています。
調査では周囲には円筒埴輪が約1メートルの間隔をおいてめぐらされ、墳丘中央から木棺が出土しました。副葬品には鉄剣・鉄鏃・衝角付冑破片・短甲・頸甲の破片と多数の埴輪があります。形象埴輪は家・腰掛・楯・靫・冑・甲・舟など多種の器物をかたどっているとのことです。
舟型埴輪と鉄製甲冑はほぼ完全な形で出土しています。舟は外海を航行できる準構造船を模したものであることから、被葬者として日本海を舞台に交易活動をしていた、海洋族のリーダーがイメージされます。
また、この山の裏側には製鉄コンビナートである遠所遺跡があることから、同時にこのコンビナートを経営するリーダーでもあったのではないでしょうか。
したがって交易品は鉄製武器を中心とした様々な鉄製品であったと考えられ、このリーダーが亡くなった時、海洋族を象徴する舟型埴輪と、彼らの富の象徴である鉄製品の中でももっとも高価な甲冑を被葬者に捧げるために埋葬したのではないでしょうか。
舟型埴輪・甲冑とも、よく似たものが宮崎の西都原古墳から出土しています。古代の日向は海洋族である隼人とつながる一族が治める国であったとも考えられています。
ここで、安直に日向と丹後の繋がり考えてしまうのは浅はかなのでしょうか。それとも「いいね」でしょうか。