三人は嶋村の先導で応接室を出た。通路の要所要所にも監視カメラが設置されている。居心地の悪いことこのうえない。
これもまた真黒社長流のパフォーマンスと受け取れなくもないが、毎日をここで過ごす従業員たちが気の毒になってきた。
頑丈そうなスチール製ドアの前に警備員が立哨していた。嶋村は警備員に挨拶し、懐(ふところ)から取り出したIDカードを壁のリーダーに通す。真紀たちが渡されたIDカードとは別種のものだ。カードの等級によって立ち入り可能な場所が区別されているらしい。カチャッと音がしてロックが解除された。
最初の部屋はロッカーの並ぶ更衣室だった。清潔に清掃され、薬品臭が鼻をつく。殺菌剤の匂いだ。
「ここでクリーン服に着替えてください」
嶋村から手渡されたクリーン服は最高級のものだった。化学繊維の生地は表面が特殊加工され、ミクロン単位の塵さえ出さない。
上着を脱いでクリーン服の上下を着込み、キャップをかぶってマスクをつけ靴を履き替える。最後に手袋をはめて準備完了だ。
太っちょの吉岡はLLサイズのクリーン服でもパンパンになる。息を吐いた状態でどうにか上着のチャックを引き上げた。
真紀は、どこかのタイヤメーカーのキャラクターにこんなのがいたなと連想して笑いをこらえた。
更衣室の次はエアシャワー室だ。自動ドアを抜けて二メートル四方の小部屋に入った。天井と左右の壁には無数のノズルが生え、床は金網状になっている。
真紀たちが入ると、ノズルから激しい勢いでクリーンエアが吹き出す。センサーにより自動的に作動する仕組みだ。こうして入室者の体表に付着した微細な塵が、エアの勢いで叩き落される。
床下では強力なファンが回転し、塵を含んだ空気を吸引していく。
真紀は小さくため息をついた。マスコミ取材用のエリアであれば、ここまで徹底する必要はないはずだ。これもまた真黒社長流の稚気あふれたパフォーマンスに過ぎないのだろう。
中小企業から一代で財をなした真黒社長の言動は、以前からどこまで本気なのか分からないところがある。山師的性格から脱却できていないのだ。
それ故、マスコミから中傷されることもしばしばだった。それでも本人はご満悦だという。話題の良し悪しに関わらず、注目さえ集めていれば気分が良いらしい。
ある意味大人物なのかもしれない。
「この先が実験棟です」
嶋村の声はマスクのためにくぐもっていた。
病院のような印象の通路。清潔感はあるが温もりを感じさせない。床も壁も淡いグリーンで統一され、両側にドアが並んでいた。
一行が通路に踏み出すと同時に、真紀は背中に悪寒が走るのを感じた。中央高速での感覚に似ているが、その激しさは先ほどの比ではない。急激に体力が萎え、気分が悪くなってきた。
自分自身に何が起こったのか分からない。頭の回転まで鈍ってきたようだ。仕事への使命感を支えに、何とか周囲に変調を気づかれないよう振る舞う。
「各部屋ごとに日照時間、温度、湿度が管理されています」言いながら嶋村は一番手前のドアを開けた。
天井に太陽灯が灯り、大型のエアコンが低い唸りをあげて温度湿度をコントロールしていた。巨大なプランター状の水槽に水が張られ、無数の薔薇の苗が生育している。
土が使われていないため、植わっているというより活けてあるという印象が強い。
「データをより完全なものとするため、土壌は使わず蒸留水に各栄養素を溶かし込んで植物を栽培しています」
真紀はわずかにむき出しになっている頬に風を感じた。見ると部屋の右奥で大型ファンが回り、人工のそよ風を送り出していた。
「あのファンが室内で植物を育てるには必要不可欠なのです。植物は二酸化炭素を吸収して光合成を行います。太陽灯の光線で栄養分を作り出し、その副産物として酸素が発生します」真紀の視線がファンに向けられたのに気づき、さっそく嶋村が説明を始めた。
「室内における栽培で空気が全く動かなければ、植物の周りには酸素がたまってしまいます。結果的に光合成に必要な二酸化炭素が不足して栄養を作り出せなくなり、植物の正常な発育が妨げられてしまいます。それを防止するため、室内の空気を人工的に循環させる必要があるのです」
「ところでこれが青い薔薇っすか」カメラを構えて吉岡が尋ねた。
「違う。これは青い薔薇じゃないわ」反射的に真紀が口走った。ほとんど無意識に言葉が出ていた。悪寒がいっそう激しくなり、頭がぼうっとしている。
「おや、よく分かりましたね」嶋村が目を丸くした。
たいていの客は勘違いする。ここを訪れる人間の脳裏には先入観として青い薔薇がインプットされている。そのため、薔薇の苗を見ると即それが青い薔薇だと思ってしまうのだ。
実は勘違いした訪問者に冷ややかな視線を送るのが、嶋村の秘かな楽しみだった。今日は目論見(もくろみ)が外れてしまったわけである。
本当に驚いたのは真紀の方だった。なぜ分かったのだろう。目の前にある苗が青い薔薇でないことを直感的に判断できた。
青い薔薇と自分の間に何か因縁じみたものが横たわっている気がした。この悪寒からすると、それは何か悪しき繋がりなのかもしれない。不快感と混乱が目眩(めまい)となって真紀を襲っていた。
次項「青い薔薇の血族 第一日 2.青い薔薇(5)」へ
「青い薔薇の血族」 目次
