30分後、真紀は吉岡の運転する4WDで中央高速を下っていた。吉岡自慢の愛車だ。チューンナップは万全、ボディはピカピカに磨かれている。
渋滞もなくスムーズな流れの中を快調に飛ばしていく。
この調子で走れば、途中で昼食をとって午後イチに目的のマクロ植物研究所に入れる。アポ通りの時間だ。
マクロ研究所は、インターを降りて二十分ほど走った八ヶ岳の麓にある。
すでに市街地を抜け、前方に広がる高尾山は緑に覆われ生命の輝きに満ちていた。空の青さと見事なコントラストをなしている。
だが、真紀の瞳に、その風景は映っていない。いつしか心は別のところに飛んでいた。悪夢の感覚が甦ってきたのだ。
説明のつかない不安感が真紀を襲う。胃の中にタールを流し込まれたような重い感覚。嫌悪感は、車が西に進むにつれ強さを増していく。
何か良からぬことが起きる。体の深奥にいる何かが警告を発している気がした。
真紀は幼い頃に、ある種の霊感を持っていた。幸先が良いとか悪いとか、ふとした瞬間にイメージしてしまうのだ。
具体的な事象が見えるわけでもないし、意識して占うことはできなかった。しかし、その予感は不思議なほど良く当たった。
幼い真紀が予感の話をするとき、家族はニコニコと喜んで聞いてくれた記憶がある。遠い昔の懐かしい記憶。あるいは真紀自身が作り上げた幻の記憶なのかもしれない。
小学校に上がった真紀は、自分の超感覚が特殊なものであることを知った。うっかり話すと周囲から気味悪がられてしまうのだ。
真紀は予感について口を閉ざすようになり、感じる回数も次第に減っていった。
成人してからは、そんな力のあったことさえ忘れていた。その記憶が突然に甦ってきたのだ。忘れていた力が還ってきたのだろうか。
自分を悩ます悪夢は、何か予知夢のたぐいなのだろうか。この重い不安感は、自分の身に降りかかる災厄の前兆なのかもしれない。
「顔色が良くないすよ。気分でも悪いんすか」吉岡の声で、真紀は現実に引き戻された。真紀も今は慣れたが、吉岡は独特の口調を使う。
白昼夢を見ていた感覚。真紀は全身にうっすらと冷や汗をかいていた。
「大丈夫、ちょっと考え事をしてただけ」当たりさわりのない返事をした。
「彼氏と喧嘩でもしたしたんすか」吉岡は、からかうような調子だ。
真紀の恋人、加賀俊一(かが・しゅんいち)は編集部公認の存在だ。俊一は、心理学研究所で助手を務める学者の卵。真紀が俊一と知り合ったのは半年ほど前、取材を通じてだった。
「ブー、残念でした。今日もデートです」真紀は少しおどけて答えた。
嘘ではない。俊一とはうまくいっているし、今日のデートも本当だ。実のところ、俊一のことを考えたおかげで気分が少し治ったほどだ。
たかが夢のことで、はたから見て分かるほど動揺していたのか。真紀の心に冷気が走った。気分転換をしたほうがよさそうだ。今日の取材に頭を切り替えることにした。
品種を言い当てるほど詳しくはないが、薔薇は好きな花だった。いや、自分だけではない。薔薇の花束を贈られて嬉しくない女性は滅多にいないだろう。
しかも、これから取材するのはただの薔薇ではない。全世界が待ち焦がれた青い薔薇なのだ。
最先端の遺伝子工学が青い薔薇を生み出す。最初の報道に接したとき、真紀は思わず小躍りした。自分が科学情報を扱う仕事に就いたことも手伝い、まさの現代のロマンと感じたからだ。
早く青い薔薇が見たくて仕方がなかった。子供の頃に返ったような高揚感を感じていた。
真紀の脳裏に疑問が浮かぶ。いつの頃からか青い薔薇に対する関心が薄れていた。最初にニュースを聞いたときのときめきを、すっかり喪失している。
真紀は決して移り気な性格ではない。これほど短期間に一度興味を持った事柄から心が離れてしまうことは、これまでになかった。
特に記者になってからは、取材対象に積極的な好奇心を抱くよう努めている。その成果が今回にかぎって発揮されていない。何故なのか真紀には理解できなかった。
この心変わりは、いつの頃からだろう。考えて真紀ははっとした。悪夢にうなされ始めてからだ。悪夢は自分の性格にまで影響を及ぼしているのか。
真紀は、せっかく立ち直りかけた気分が再び沈んでいくのを感じた。
