春が過ぎて、昨年から仁義なき戦いが続いていたのら猫たちを頻繁に見かけなくなりました。

 

沖縄里帰りから戻り、二日目でしょうか。

勝手口のある台所に立っていたら、くぐもった小さな猫のものらしき声が聞こえてきます。

 

出どころは、敷地内のある一画。その奥の方から微かな鳴き声がしました。

 

これは、子猫だな。困ったことになった。

 

家人が様子を見ると、親猫が飛び出してさーっと消えてしまいました。どうやら出産して間もない様子。

 

とりあえず新聞紙を敷いた段ボールに、動かない一匹を含めて5匹の赤ちゃん猫を入れて日陰の隅に置き、親が連れていくのを待ちました。

 

うちでは保護できない。

飼ってくれそうな知り合いもいません。

 

時々様子を見に行くと、生きている4匹のうち3匹はいなくなっていました。残った子猫はそのまましばらく置かれ、夜を迎えます。

 

子猫は掌にすっぽり収まるくらいの大きさでしたが、しっかりした鳴き声が一晩続きました。

 

 

 

 

後で知りましたが、ご近所で野良猫の保護などもしている方たちで何処にいるんだろう、と話に出ていたようです。

 

夜が明けて昼になっても、まだ鳴いている子猫。どうやら親に見捨てられたようです。

 

オヤジに「どうする?飼う?」と聞いたりしましたが、難しいのは分かっている。あてもないのに、憐れみで迂闊なことはできない。

「それがあの子猫の運命だ。」と言われても、こころ穏やかなわけではないのだが。

 

ずっと家にいた私は、時おり静かになってはまた始まる鳴き声を聞き続け、「これはスロウデス。鳴き声が絶えたら見殺しにした私は死骸を片付けるのだ。」と考えていました。

 

以前沖縄で台所に巣を作った蟻の大量殺生を思い出す。

生きとし生けるものすべての幸せなんか、自分の都合の範囲内においてしか願えない。

 

そして午後になり、玄関に訪ねてきた人が。

何度か野良猫のことで話をしているご近所さんでした。

 

その方は毎週末ひとりで、野良猫の糞の片づけをしていました。何かできることは手伝いたいと思った私は、以前お声かけしたのです。

 

ご近所さんと野良猫闘争のくだりはこちらから↓

 

 

結論から言うと、最後の子猫はご近所さんが保護してくれました。

 

救える命ならと、かかりつけの獣医さんにその日に連れて行ってくれ、里親になる人も確保したうえでの保護でした。

 

それに対しての感謝はもちろんのこと、子猫の生命力にも心が動きます。

 

猫好きなご近所さんは、鳴き声からしてこんなに小さいとは思わなかったと言っていたので、生まれたての子猫ではないほど大きな声が周りに響き渡っていたのだと思います。

 

その猫は、自分で自分の命の継続を勝ち取った。その強さに深く感じるものがありました。

 

 

自分都合の心持ちを書いたエントリはこちらから↓

 

 

 

 

 

 

 

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